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岡寺 石楠花  『草壁皇子は羽根を切られて龍になった?』 


 
 
奈良県高市郡明日香村 岡寺
2013年5月初旬 撮影


岡寺 本堂 石楠花

①草壁皇子が住んでいた宮は岡本宮?


草壁皇子は岡宮に住んでいたというのですが、岡宮でぐぐってみても、岡寺の創建説話しかでてきません。
調べたりないのかもしれませんが~。

またネットをググってみると「岡寺は草壁皇子の岡本宮として建立された」という記事がでてきます。
岡宮は別名を岡本宮といったのでしょうか?

舒明天皇や斉明天皇が営んだ宮も岡本宮といいました。
630年、舒明天皇は雷岡のふもとに遷宮し、岡本宮と名付けられました。
636年、岡本宮は火災で焼失、舒明天皇は田中宮に遷宮しています。
656年、斉明天皇が後飛鳥岡本宮に遷宮しました。その年のうちに火災にあっていますが。

草壁皇子の岡本宮は舒明天皇・斉明天皇の岡本宮と同じ敷地にあったのでしょうか?
しかし雷丘と岡寺は1.5kmほども離れています。

ちなみに藤原宮は東西925.4m、南北906.8m、面積は約84ha。
平城宮は東西1.3キロメートル、南北1キロメートル、面積120haというので、
舒明天皇・斉明天皇の岡本宮と、草壁皇子の岡本宮は同一敷地内にあったと考えられなくもないかも?

飛鳥時代の宮の広さがわかればいいんですがググってもでてきません。
よくわかっていないんでしょうか。

断言はできないですが、やはり1.5kmは離れすぎているように思えます。。

草壁皇子が住んでいた岡宮は別名を岡本宮ともいったのかもしれません。

ですが、1.5kmも離れているので、舒明天皇・斉明天皇の岡本宮とは別の宮だと考えたほうがいいように思えます。

岡寺 石楠花

②草壁皇子が住んでいたのは島の宮(嶋宮)?

万葉集にこんな歌があります。

或本の歌一首
島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に
かづかず/柿本人麻呂
(島の宮にあるまがりの池の放ち鳥は、人目を恋い慕って池に潜って餌をとろうともしない。)


この歌は草壁皇子の挽歌として詠まれた長歌につけられた短歌です。

島の宮・・・草壁皇子の住んでいた宮殿で、もと蘇我氏の邸宅でした。明日香の石舞台古墳あたりにあったとされます。
まがりの池・・・島の宮にあった池の名。
放ち鳥・・・ 羽を一部切って放し飼いにした鳥。
人目に恋ひて・・・宮の主が亡くなって寂しい。

草壁皇子は島の宮に住んでいたようですね。

島の宮は石舞台古墳あたりにあったということですが、石舞台古墳から岡寺までは615mほどです。

岡宮の岡とは小高い土地のことを意味します。
岡寺は小高い場所にあり石舞台古墳からは坂をのぼっていくことになります。

しかし陸と書いて「おか」とも読みますね。
島は陸ともいえるわけで、島の宮→陸の宮→岡宮となったのかな?

もちろん草壁皇子の宮が岡宮、島の宮など複数あったとも考えられます。

岡寺 石塔 石楠花  

③鳥は死者の霊をあらわす?

鳥は死者の霊をあらわしているのではないかと私は考えています。
ささきという鳥がいますが、御をつければみささぎ(陵/天皇・皇后などの墓所)となります。
また死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立ったという伝説もあります。
巨大な前方後円墳は下から見ても形がわかりません。
大空高く飛ぶ鳥の視線からであればその形ははっきりとわかるでしょう。
古の人は死んだ人の霊は鳥になって空へ向かうと考えたのではないでしょうか。

仁徳天皇陵

↑ 全長840メートルの仁徳天皇陵(木が生い茂って丘のように見える部分)は境市庁舎21階展望ロビーから見ても、ぜんぜん前方後円墳だとはわかりません。

ですが鳥が仁徳天皇陵の真上に飛び上がって見下ろしたとすると、前方後円墳の形がはっきりとわかりますね。

NintokuTomb

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で


③羽根を切られて飛ぶことができない放ち鳥

島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池にかづかず/柿本人麻呂

この歌の中に登場する放ち鳥とは「死んだ草壁皇子の霊」の象徴ではないでしょうか?

この鳥は放ち鳥で、翼が切られているので飛ぶことができません。

岡寺 ダリア 躑躅  『草壁皇子は暗殺された?』 
上の記事に、私は草壁皇子は舎人親王派の人間に暗殺されたのではないかと書きました。

日本書紀は草壁皇子の薨去を「亡くなった」と記すのみで不自然だし、
758年淳仁天皇即位後に岡宮御宇天皇と追尊されているのも不自然です。
たぶん追尊したのは淳仁天皇だと思いますが、草壁皇子は淳仁天皇の叔父です。
淳仁天皇は父親の舎人親王には崇道尽敬皇帝の称号をおくっています。
天皇でなく皇帝としているのは、このとき、役職名などに唐風の名前をつけるのが流行っていたためだと思います。
父親に皇帝の称号を贈るのはわかるのですが、なぜ叔父の草壁皇子に天皇の称号をおくったのでしょうか?
それは淳仁天皇の父・舎人親王が草壁皇子暗殺に関与していたためではないか?
そして日本書紀が草壁皇子の薨去をただ「亡くなった」と記しているだけなのは、日本書紀を編纂したのが舎人親王で、都合の悪いことなので具体的に記さなかったのではないか、と考えたのです。

死んだ草壁皇子の霊が翼を切られた放ち鳥だというのは、草壁皇子暗殺説を暗示しているかのように思えます。

岡寺 石仏 石楠花

④龍蓋池はまがり池?

飛鳥 光の回廊 岡寺 『龍を池に閉じ込める呪法』  
こちらの記事には、 岡寺境内に龍蓋池という池があり、次のような伝説があることをお話ししました。

飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた『龍』を義淵僧上が池に閉じ込め、大きな石で『蓋』をしました。
 
岡寺 龍蓋池 
池の中ほどにある注連縄をめぐらせた石が義淵僧上が蓋にした石ということなのでしょう。

「岡宮=島の宮」とすると、岡寺は岡宮があった場所とされているので、「岡寺の龍蓋池=島の宮のまがり池」ではないかと思ってしまいます。

そして「羽根を切られた放ち鳥は、羽根を失って龍になった」つまり、飛鳥の地を荒らしていた龍とは死んだ草壁皇子の霊ではないかと思えてきます。

万葉集にはこんな歌もあります。

皇子尊の宮の舎人等、悲しんで作った歌廿三首
島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒(あら)びな行きそ 君いまさずとも
(島の宮の上の池の放ち鳥よ、そんなにもすさんで行くな。皇子がいらっしゃらなくても)


皇子尊・・・日並皇子=草壁皇子
舎人(とねり)・・・皇子のそば近くで仕えた人。

この歌の中に「上の池」とありますが、この「上の池」と柿本人麻呂の挽歌にある「まがりの池」と同じものではないかと思えますね。

そして島の宮が石舞台付近であれば、岡寺のあたりは石舞台の上といえ、龍蓋池は上の池といえるんじゃないかと思ったりします。

 岡寺 説明板より

岡寺説明版より




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[2019/06/07 10:05] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

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