Author:佳音
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万葉集にこんな歌があります。或本の歌一首島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かづかず/柿本人麻呂(島の宮にあるまがりの池の放ち鳥は、人目を恋い慕って池に潜って餌をとろうともしない。)この歌は草壁皇子の挽歌として詠まれた長歌につけられた短歌です。
島の宮・・・草壁皇子の住んでいた宮殿で、もと蘇我氏の邸宅でした。明日香の石舞台古墳あたりにあったとされます。まがりの池・・・島の宮にあった池の名。放ち鳥・・・ 羽を一部切って放し飼いにした鳥。人目に恋ひて・・・宮の主が亡くなって寂しい。草壁皇子は島の宮に住んでいたようですね。島の宮は石舞台古墳あたりにあったということですが、石舞台古墳から岡寺までは615mほどです。岡宮の岡とは小高い土地のことを意味します。岡寺は小高い場所にあり石舞台古墳からは坂をのぼっていくことになります。しかし陸と書いて「おか」とも読みますね。島は陸ともいえるわけで、島の宮→陸の宮→岡宮となったのかな?もちろん草壁皇子の宮が岡宮、島の宮など複数あったとも考えられます。 ③鳥は死者の霊をあらわす?鳥は死者の霊をあらわしているのではないかと私は考えています。ささきという鳥がいますが、御をつければみささぎ(陵/天皇・皇后などの墓所)となります。また死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立ったという伝説もあります。巨大な前方後円墳は下から見ても形がわかりません。大空高く飛ぶ鳥の視線からであればその形ははっきりとわかるでしょう。古の人は死んだ人の霊は鳥になって空へ向かうと考えたのではないでしょうか。 ↑ 全長840メートルの仁徳天皇陵(木が生い茂って丘のように見える部分)は境市庁舎21階展望ロビーから見ても、ぜんぜん前方後円墳だとはわかりません。ですが鳥が仁徳天皇陵の真上に飛び上がって見下ろしたとすると、前方後円墳の形がはっきりとわかりますね。https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ANintokuTomb.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/NintokuTomb.jpg よりお借りしました。Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省 [Attribution], ウィキメディア・コモンズ経由で③羽根を切られて飛ぶことができない放ち鳥島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かづかず/柿本人麻呂この歌の中に登場する放ち鳥とは「死んだ草壁皇子の霊」の象徴ではないでしょうか?この鳥は放ち鳥で、翼が切られているので飛ぶことができません。岡寺 ダリア 躑躅 『草壁皇子は暗殺された?』 上の記事に、私は草壁皇子は舎人親王派の人間に暗殺されたのではないかと書きました。日本書紀は草壁皇子の薨去を「亡くなった」と記すのみで不自然だし、758年淳仁天皇即位後に岡宮御宇天皇と追尊されているのも不自然です。たぶん追尊したのは淳仁天皇だと思いますが、草壁皇子は淳仁天皇の叔父です。淳仁天皇は父親の舎人親王には崇道尽敬皇帝の称号をおくっています。天皇でなく皇帝としているのは、このとき、役職名などに唐風の名前をつけるのが流行っていたためだと思います。父親に皇帝の称号を贈るのはわかるのですが、なぜ叔父の草壁皇子に天皇の称号をおくったのでしょうか?それは淳仁天皇の父・舎人親王が草壁皇子暗殺に関与していたためではないか?そして日本書紀が草壁皇子の薨去をただ「亡くなった」と記しているだけなのは、日本書紀を編纂したのが舎人親王で、都合の悪いことなので具体的に記さなかったのではないか、と考えたのです。死んだ草壁皇子の霊が翼を切られた放ち鳥だというのは、草壁皇子暗殺説を暗示しているかのように思えます。 ④龍蓋池はまがり池?飛鳥 光の回廊 岡寺 『龍を池に閉じ込める呪法』 こちらの記事には、 岡寺境内に龍蓋池という池があり、次のような伝説があることをお話ししました。飛鳥の地を荒らし農民を苦しめていた『龍』を義淵僧上が池に閉じ込め、大きな石で『蓋』をしました。 池の中ほどにある注連縄をめぐらせた石が義淵僧上が蓋にした石ということなのでしょう。「岡宮=島の宮」とすると、岡寺は岡宮があった場所とされているので、「岡寺の龍蓋池=島の宮のまがり池」ではないかと思ってしまいます。そして「羽根を切られた放ち鳥は、羽根を失って龍になった」つまり、飛鳥の地を荒らしていた龍とは死んだ草壁皇子の霊ではないかと思えてきます。万葉集にはこんな歌もあります。皇子尊の宮の舎人等、悲しんで作った歌廿三首島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒(あら)びな行きそ 君いまさずとも(島の宮の上の池の放ち鳥よ、そんなにもすさんで行くな。皇子がいらっしゃらなくても)皇子尊・・・日並皇子=草壁皇子舎人(とねり)・・・皇子のそば近くで仕えた人。この歌の中に「上の池」とありますが、この「上の池」と柿本人麻呂の挽歌にある「まがりの池」と同じものではないかと思えますね。そして島の宮が石舞台付近であれば、岡寺のあたりは石舞台の上といえ、龍蓋池は上の池といえるんじゃないかと思ったりします。 岡寺説明版よりまとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
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