奈良県高市郡明日香村 岡寺
2016年4月下旬撮影
①岡寺を創建した義淵を育てたのは天武天皇?天智天皇?
ウィキペディアにこんな記述があります。
『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%AF%BA より引用
(義淵は)『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%B7%B5 より引用
ところが岡寺のhpには次のようにあります。
開祖の義淵僧正とは伝説にみちた人で、生年不明(?~728)。ただ出生には伝説が残されています。
大和国高市郡に子供に恵まれない夫婦がおり、彼等は日々観音様に子が授かるよう祈りを捧げていました。
そんなある日の夜突然子供の泣き声がして、夫婦が表に出てみると柴垣の上に白い布に包まれた赤子がおり、驚き中に連れて入ると馥郁たる香りがたちまちに家の中に満ちました。
その後この夫婦に養育されていましたが、その噂を聞いた天智天皇は観音様の申し子だとしてこの子供を引き取られ、岡宮で草壁皇子(662~689)とともに育てられました。
この子供こそ後の義淵僧正その人である。というのが出生の伝説です。
後に義淵僧正は草壁皇子とともに育ったと言われる岡宮の地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。http://www.okadera3307.com/about/ より引用
ウィキペディアでは義淵は天武天皇に育てられたとなっていますが、
岡寺のhpには義淵は草壁皇子とともに天智天皇に育てられたとなっています。
いったいどちらが正しいんでしょうか?
②岡宮と岡本宮は別?また、草壁皇子が住んでいた岡宮とは岡本宮(雷丘のふもとにあり630年舒明天皇が遷宮した。その後656年に斉明天皇が新宮殿をたてた。)とは別の宮なんでしょうか?
岡宮でググってみてもでてきません。(調べたりないのかもですが~)
③即位せず亡くなった皇太子
草壁皇子は662年、大海人皇子(のちの天武天皇)、鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の間に生まれました。
672年、天智天皇が崩御したのち、大海人皇子(天智天皇弟)vs大友皇子(天智天皇皇子)間で皇位継承をめぐる戦争がおきます。(壬申の乱)
結果、大海人皇子が勝利して673年に即位(天武天皇)しました。
681年、天武天皇の皇子・草壁皇子が皇太子となりました。
686年、病を患った天武天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅。
鸕野讃良皇女と草壁皇子が政務を執るようになり、天武天皇は9月に崩御しました。
686年9月、川島皇子が「大津皇子が謀反を企てている」と密告、大津皇子は捕らえられ、自害してはてました。
しかしすぐに草壁皇子が即位することはありませんでした。
そして689年4月、草壁皇子は即位することなく亡くなり、 鸕野讃良が女帝として即位しました。(持統天皇)
④草壁皇子の死因は不明?https://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo/e/f9022a8776a57440f009b8ac0b953926上の記事によると、
日本書紀は草壁皇子の薨去を「亡くなった」と記すのみ。
「御病したまう」とか、病気平癒を願って何人得度させたなどの記述はない。
草壁皇子の娘の氷高皇女(元正天皇)が病気になった時、持統天皇は140人を出家させた。
明日香皇女(天智帝の娘/?~700)年)の病気の時にも104人を出家させている。
とあります。
実際に日本書紀の記述がどうなっているのか、知りたいと思いますが、探したりないせいか、見つかりませんでした。
⑤草壁皇子、死後岡宮御宇天皇と追尊される。
草壁皇子は即位しませんでしたが、死後,淳仁天皇即位後の758年に岡宮御宇天皇という称号が送られました。
たぶん淳仁天皇によって追尊されたのではないかと思います。
淳仁天皇は天武天皇の孫で、舎人親王の子です。
舎人親王の父親は天武天皇、母親は新田部皇女です。
草壁皇子は天武天皇と持統天皇の間に生まれた御子です。
つまり、草壁皇子は淳仁天皇の叔父にあたるわけです。
⑥淳仁天皇はなぜ叔父の草壁皇子に天皇の称号をおくったのか?同じように天皇にはなりませんでしたが、死後天皇の称号が送られた人物に志貴皇子がいます。
志貴皇子は子の光仁天皇によって春日宮御宇天皇と追尊されたのです。
天皇として即位した天皇が、父親に天皇の称号を送るのはありえそうに思えます。
しかし、淳仁天皇のように父親にではなく叔父に天皇の称号を贈るというのは不自然な感じがします。
私は草壁皇子は暗殺された可能性があると思います。
そして、その暗殺に淳仁天皇の父親・舎人親王が関わっており、
淳仁天皇は即位にあたり草壁皇子の慰霊したいと考え、天皇の称号をおくったのではないかと思ったりします。
草壁皇子が暗殺されていたとすれば草壁皇子は死後怨霊になったと信じられたことでしょう。
そして陰陽道では荒ぶる怨霊は神として祀りあげれば強力な守護神に転じるという信仰がありました。
また、祟らないでほしいという思いから天皇の称号を贈ったとも考えられます。
実際、怨霊を慰霊するために位や地位をおくるということが行われています。
たとえば怨霊で有名な菅原道真は死後の923年に従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位が贈られ、
993年には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣が贈られています。
死んでから称号や地位与えられても何にもならんけど。
⑦淳仁天皇の父・舎人親王は日本書紀を編纂した人物だった。草壁皇子が亡くなった689年、舎人親王(676-735)は13歳です。
13歳では暗殺の首謀者となるには幼すぎる感じもします。
舎人親王の母親・新田部皇女の父親は天智天皇、母親は阿倍内麻呂の娘・橘娘です。
阿倍内麻呂は大化の改新で左大臣となった人物です。
この阿倍内麻呂および阿倍氏が舎人親王を天皇にする目的で草壁皇子を暗殺したんだったりして?
で、舎人親王は日本書紀を編纂した人物です。
自分に都合の悪いことなので、草壁皇子が無くなったとだけ、さらっと書いてしまえる立場です。
と、このように書いてはみましたが、「淳仁天皇が叔父の草壁皇子に天皇の称号をおくっているのは不自然」「淳仁天皇の父・舎人親王は日本書紀を編纂した人物なので自分の都合のいいように日本書紀を書くことができた」
という以上の理由はないので、「こんな意見もあるんだ」くらいに考えてくださいw
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