①牛頭天皇を祀る神社須賀神社は1142年、に鳥羽上皇の后・美福門院(藤原得子/ふじわらのなりこ)が建てた歓喜光院の鎮守として創祀されました。
もともとは現在の平安神宮あたりにあり、岡崎の東天王社(岡崎神社(おかざきじんじゃ))に対して、西天王社(西天皇社)と呼ばれていました。
天王というのは牛頭天王のことだと思います。
牛頭天皇は祇園精舎の守護神で、スサノオと習合されています。
須賀神社の御祭神はスサノオと櫛稲田比売命ですね。
その後鎌倉時代末期・北条高時の反乱時に吉田神楽岡・吉田大元宮西下に移ったようです。
現在地には1924年に移転しました。
②角豆と隠元の違い角豆祭の角豆(ささげ)とは豆の一種です。
http://noupro.jp/sasage-ingen上のページに角豆(ささげ)と隠元(いんげん)の違いについて説明されています。
角豆は隠元に似ていますが、隠元よりもさやが細長いです。
隠元のように、若いさやを野菜として利用することもでき、乾燥した実は小豆の代わりとして赤飯に用いたりするようです。
隠元は京都宇治にある萬福寺を創建した中国の僧侶が来日の際、日本にもちこんだと言われています。
隠元という名前は、この僧侶の名前が隠元隆琦であるところからつけられました。
隠元が日本にやってきたのは江戸時代の1654年なので、隠元が日本で食べられるようになったのはこれ以降ということになりますね。
いっぽう、角豆が日本に伝わったのは9世紀ごろと考えられています。
角豆のツルにたくさんのさや豆が実るように、氏子地区の子孫繁栄を願うことから角豆祭と呼ばれているということです。
角豆祭の由来などはぐぐったりしてみましたが、わかりませんでした。
ですが、角豆が日本に伝わったのは9世紀ごろと言うことなので、角豆祭は須賀神社が創建された1142年まで遡ることができるかもしれません。
③近衛天皇(美福門院の子)、子を残さず16歳で崩御須賀神社を創建した美福門院(藤原得子/1117-1160)は藤原長実の娘で、藤原長実の死後の1134年に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになりました。
美福門院は鳥羽上皇との間に3女をもうけていますが、皇子は体仁親王だけでした。
1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇(父/鳥羽天皇 母/待賢門院・藤原璋子)に退位を迫り、体仁親王が即位しました。(近衛天皇)
美福門院は従兄弟・藤原伊通の娘・呈子を養女とし、さらに関白・藤原忠通の養女として近衛天皇に入内させました。
これは藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内したことに対抗する目的がありました。
呈子は近衛の子を身ごもったかに見えましたが、残念ながら創造妊娠でした。
その後近衛天皇は16歳で崩御してしまい、子供もありませんでした。
ここで美福門院の血は皇統から絶えてしまったわけです。
④美福門院、後白河天皇の子・守仁親王を養子としてかわいがる。美福門院は雅仁親王(父/鳥羽天皇、母待賢門院・ 藤原璋子)の子・守仁親王(のちの二条天皇)を養子として、我が子のように後見をしています。
守仁親王も父・雅仁よりも美福門院との関係のほうが親密であったようです。
そして美福門院は本来ならば守仁親王に即位させたかったのですが、将来守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、守仁親王の父・雅仁親王が即位しました(後白河天皇)。
後白河はとんでもない遊び人で、父・鳥羽上皇から「天皇の器でない」といわれるような人物であったようですが、実子の守仁親王が美福門院にかわいがられたことで天皇の地位につくことができたわけです。
| | | | 待賢門院(藤原璋子) | | | | |
| | | | | | ー | 近衛(16歳で崩御) | | |
白河 | ー | 堀河 | ー | 鳥羽 | | 崇徳(実は白河の子?) | | |
| | | | | | < | | | |
| | | | 美福門院(藤原得子) | | 後白河 | ー | 二条(美福門院の養子) |
③保元の乱1156年、鳥羽上皇が崩御すると、保元の乱がおきます。
崇徳上皇・藤原頼長らが、朝廷に対してクーデターを起こしたのです。
崇徳は鳥羽の子ということになっていますが、実は鳥羽の祖父・白河の子だといわれています。
鳥羽は美福門院より早く待賢門院(藤原璋子)を后としていましたが、待賢門院は白河とできており、崇徳はその子供だというのです。
鳥羽は崇徳を、叔父にして子、という意味で叔父子と呼んで嫌っていたといわれます。
また鳥羽は崇徳に退位をせまって美福門院との間にできた近衛を即位させたおりにも、崇徳に院政ができないように細工をしており(近衛は崇徳の養=皇太子として即位する予定だったが、近衛は崇徳の皇太弟となっていた。近衛が皇太弟では崇徳は院政ができない)、崇徳はストレスがたまっていたのでしょう。
また藤原頼長は近衛天皇が崩御したさい、美福門院らに「頼長が呪詛して近衛を殺した」と讒言されて失脚していて、頼長も相当腹立たしく思っていた野だと思います。
保元の乱は、朝廷側が勝利しました。

④平治の乱保元の乱の後、朝廷では信西(藤原 通憲)が権力を持ちました。
信西の妻が後白河の乳母であった関係で、信西は後白河の養父のような存在であったのです。
美福門院は信西と話し合いをして(仏と仏との評定/美福門院も真西も出家していたのでこう呼ばれている。)二条天皇を即位させました。
このことによって、朝廷は二条天皇親政派と後白河上皇院政派に分裂、対抗するようになります。
実の親子が別々の派閥に担ぎ上げられて対立したわけですね。
さらに後白河上皇院政派の中で、信西に不満を持つ派閥が分裂して3つの派閥が形成されます。
a.
二条天皇親政派(信西に不満)
b.
後白河上皇院政派で反信西派(信西に不満)
c.
後白河上皇院政派で親信西派そして、「b.後白河上皇院政派で反信西派」の藤原信頼は信西を襲撃するため、源義朝と手を結びます。
源義朝は保元の乱の際の恩賞が不満で朝廷に不満をもっていたとされます。
一方、信西は平家と手を結び、平家の武力を利用していました。
1159年12月9日の夜、平清盛が熊野へ行幸している隙をねらい、源義朝・藤原信頼は院御所・三条殿を襲いました。
源義朝らは、後白河上皇らを皇居内へ連れ込み、二条天皇と共に軟禁状態にしました。
信西は襲撃前に逃げていましたが、発見されて斬首されました。
a. 二条天皇親政派(信西に不満)は、反信西という点では藤原信頼と考えが共通していました。
しかし信西がなくなったので、藤原信頼に協力する理由がなく、むしろ二条天皇を人質にとる藤原信頼を敵対視していました。
そして二条天皇親政派(二条天皇の側近)の藤原惟方(これかた)・藤原経宗(つねむね)は平清盛に協力を要請、清盛もこれを受け入れます。
平清盛は、藤原信頼に従うと見せかけて油断させたところで、12月25日の夜、二条天皇を女装させて平清盛の邸宅のある六波羅へと避難させました。
後白河天皇も仁和寺へと脱出することに成功しています。
12月26日、二条天皇は藤原信頼・源義朝らへの追討宣旨を出しました。
平清盛軍は藤原信頼が占拠する内裏(皇居)を襲撃。藤原信頼・源義朝は死亡し、清盛軍が勝利しました。
⑤二条天皇親政派勝利なのに、後白河の皇統がつづく。
清盛軍が勝利したということは、二条天皇親政派が勝利したということです。
dすが皇位継承も二条天皇の系統が続いた・・・・とはなりませんでした。
二条天皇のあと、二条天皇の子である六条天皇が即位します。
しかし、その後は、高倉天皇(後白河天皇の子)→安徳天皇(高倉天皇の子)→後鳥羽天皇(高倉天皇の子)→土御門天皇(後鳥羽天皇の子)→順徳天皇(後鳥羽天皇の子)→仲恭天皇
と後白河天皇の血が続いています。
なんでこうなっちゃったのか?
こう書くとわかります。
二条天皇(父・後白河/母・源懿子)1158年即位
↓
六条天皇(父・二条天皇/母・伊岐致遠女)1165年即位
即位年齢 1歳 二条天皇死の間際に六条を強引に即位させ、23歳で崩御。
後白河が院政を行う。
↓
高倉天皇(父・後白河天皇/母・平滋子)1168年即位
↓
安徳天皇(父・高倉天皇/母・平徳子)1180年即位
↓
後鳥羽天皇(父・高倉天皇/母・藤原殖子)1183年即位
↓
土御門天皇(父・後鳥羽天皇/母・源在子)1198年即位
↓
順徳天皇(父・後鳥羽天皇/母・藤原重子)1210年即位
↓
仲恭天皇(父・順徳天皇/母・九条立子)1221年即位
↓
二条は23歳で崩御したのですが、死の間際に我が子・六条を即位させました。
しかし六条はこのときわずか1歳で親政を行うのはムリ、ということで後白河が院政をおこなったのです。
その後、後白河は平時信の娘・滋子(平清盛の妻・時子の異母妹)との間に高倉をもうけて即位させました。
高倉は平清盛の娘・徳子を妻として安徳をもうけ、安徳は高倉の譲位を受けて即位したというわけです。
後白河は長生き(65歳)したのと、平家の娘を妻にしたのが幸いした?
ともあれ、角豆のツルにたくさんのさや豆が実るように、氏子地区の子孫繁栄を願うことから角豆祭と呼ばれているということですが、
美福門院の子孫が皇統に続かなかったのは皮肉な感じがしますね。

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