fc2ブログ














柏原八幡宮 織田神社 西楽寺 新緑 栗の花 『丹波栢原織田家と織田信成さんの関係』 


兵庫県丹波市柏原町 柏原八幡宮 織田神社 西楽寺

2019年5月8日 撮影

栢原八幡宮3 
栢原八幡宮 栗の花

柏原の町には陣屋跡、太鼓やぐら、織田家廟所などもあるそうですが、今回は時間がないため行けず。
次回はゆっくりと町の隅から隅まで歩いて見学できたらいいなと思います。

①丹波柏原織田家

栢原藩の藩主は代々織田家が努めてきました。
初代栢原藩主は織田信包という人です。
この人は織田信長の弟ですね。1598年、豊臣秀吉より栢原3万6000石を与えられました。

その後、2代目は信包の子の信則、3代目は信則の子の信勝と続きます。

信勝は1650年に28歳の若さで亡くなってしまいました。
信勝の母(岡部長盛娘)は信勝を織田権現として織田神社に祀りました。

織田神社 
織田神社

信勝には三女ありましたが、男子がありませんでした。
そのため、叔父の信当が4代目栢原藩主となりました。 

信忠②信朝
信長信雄高長長頼信武信休①④信憑信守⑦信貞⑧信啓⑨信民⑩信親
織田信秀信孝③信旧
①信包②信則③信勝信応⑥信古鶴姫

ピンクの文字ブルーの文字は藩主。数字は代。

系図がうまく書けなくてすいません~。

栢原八幡宮2 
栢原八幡宮 

信長は1582年の本能寺の変で明智光秀軍に攻められ、自害しました。
信長の子・信忠も本能寺の変で自害しました。

けれど、信長の子・信雄の血は続き、信休以降、栢原藩主となっていたのですね。

丹波柏原織田家は現在も存続しています。
19代織田家当主は織田信孝さんとおっしゃる方で、織田孝一というペンネームでフリージャーナリストをされています。
信長の七男も信孝で同名です。
ややこしくなるので、以後、19代織田家当主・織田信孝さんではなく、ペンネームの孝一さんの方を使わせていただきます。

栢原八幡宮  
栢原八幡宮

②丹波栢原織田家と織田信成さんの家系は無関係?

フィギュアスケートファンの私としては、織田信長の子孫というと織田信成さんを思い浮かべてしまいますが、
織田孝一さんは織田信成さんについて、次のように発言されているようです。

「結論から言うと、私の家と彼の家はまったく関係がないし、私は彼についてまったく知らなかった」
「(信成さんが主張する信長7男の末えいで江戸時代は旗本高家だったとのことについて)途中の何代かが不明だとも聞いたが、私にはその真偽を判断することはできない」

https://bushoojapan.com/scandal/2015/09/02/58136

木の根橋  
木の根橋

③織田信長の長男・織田信忠の息子、秀信・秀則は岐阜城の戦いで敗北・改易。


上に書いた織田家の家系図をみてください。
信長の子として信忠・信雄・信孝とあります。

信忠は信長の長男で織田家の家督をつぎましたが、すでに述べたように本能寺の変で自刃しています。
享年25歳~27歳くらいであったと考えられています。

信忠には秀信・秀則という息子がありました。
信忠が本能寺の変で没したあと、秀信は織田家の家督代行・織田信雄の後見を受けています。
織田信雄さんは丹波栢原織田家の先祖ともいえる人ですね。

秀信は1593年、豊臣秀吉から美濃国13万石と岐阜城を与えられています。
しかし、豊臣秀吉の死後の1600年、徳川家康(東軍)vs石田三成(西軍)の争いがおき、織田秀信は石田三成方につきました。
織田秀信の配下だった竹ヶ鼻城主・杉浦重勝も石田三成方につきました。
結果、竹ヶ鼻城に籠城した杉浦重勝は城に火をつけて自刃。(竹ヶ鼻城の戦い)
織田秀信は岐阜城に籠城し、弟の秀則と共に字刃しようとしましたが、東軍の池田輝政に説得されて降伏開城しました。 (岐阜城の戦い)
織田秀信は出家して、関ヶ原の戦い終結後に高野山に入りました。
弟の織田秀則は豊臣家を頼って大坂城下に移り住みますが、豊臣家が滅亡すると京都に移り住みました。
出家して宗爾と称したということです。

織田信秀には正室・和田孫太郎の娘との間に男子がなく、織田信広の外孫で・八幡山秀綱を養子としています。
しかし秀綱は1601年に死亡しており、秀信が関ヶ原の戦いの前哨戦・岐阜城の戦いで敗北・改易されたこともあって、織田宗家の家督を相続しませんでした。

西楽寺2  
西楽寺

④織田信成さんは織田信高の系統で織田信長次男・織田信雄の子孫?

フィギュアスケーターの織田信成さんは織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)であると称しているようです。

織田信長には大勢の息子がありました。
長男・嫡男織田信忠本能寺の変で自害。
次男北畠信雄北畠具房養子丹波柏原織田家
三男神戸信孝神戸具盛養子
四男羽柴秀勝羽柴秀吉養子
五男津田信房遠山景任・武田信玄養子のち離縁
六男織田信秀祖父と同名
七男織田信高織田信成さんの系統?
八男織田信吉
九男織田信貞
十男織田信吉
十一男織田長次
庶長子織田信正庶長子は正室ではない女性から生まれた子供



①信長→②信高→③高重→④一之→⑤信門→⑥信倉(能勢
頼寛の子)→⑦信直(織田信義の子)→⑧長襦→⑨長裕・・・・⑭重治→⑮信義ー⑯信治(長男)・⑰信成(次男)                                                            

6代目の信倉は能勢頼寛の子で、織田信門の養子となっています。

つづく7代目の信直は織田信義の次男で、6代目織田信倉の養子となっています。

織田信直は織田信長の子孫です。
信長→信雄→高長→長政→ 長喬→信義→信直(6代目織田信倉の養子)

ですから、いったん信倉が6代目となって信長の血は途切れたように見えますが、7代目が信直となったことで、信長の血はつながっているわけです。

また織田信雄は丹波栢原織田家の先祖ですから、19代丹波栢原織田家織田孝一さんと織田信成さんは同じ先祖をもっているということになりますね。

 西楽寺

西楽寺

⑤織田重治さん、ご自身の親の名前を明らかにできない。

ところが、自称歴史研究家である織田信成さんの祖父・織田重治さんが、ご自身の親の名前を明らかにできないということで、信成さんちの家系図の信憑性は「わからない」というしかないです・・・・。

9代目長裕は子の信真に家督を譲っています。
するとこの信真が10代目なのかなと思えますが、信真に子があったのかどうか?
ウィキペディアを読んだ限りでは記述がなく不明です。

ですが、いうまでもないことですが、織田信成さんの価値は彼のスケートにあります。
現役のころ、いろいろやらかしたことは確かですし、おいしいところをほとんど全部高橋大輔さんにもっていかれた感はありますがw、
織田信成さんには高橋大輔さんとはまた違う魅力がありました。

柔らかいジャンプの着氷はぬこジャンプ(猫ジャンプ)といわれ、確か田村岳斗さんだったと思いますが、解説で「世界一のコンビネーションジャンプですね」とおっしゃっていました。

現役を退き、現在はプロとして活躍されていますが、
2018年ジャパンオープンでは四回転トウループー3回転トウループのコンビネーションジャンプを決めるなどノーミスの演技!

宇野昌磨さんにつぐ第2位というすばらしいパフォーマンスでした。

個人的には現在でも日本男子では3番目くらいの実力があるのではないかと思います。
(個人的に1位は羽生弓弦さん、2位は宇野昌磨さん。
現役に復帰した高橋大輔さんが四回転ジャンプの成功率をあげてくればまた変わってくると思いますが。
四人とも大好きです❤)






まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。






にほんブログ村





関連記事

[2019/05/15 11:30] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kntryk.blog.fc2.com/tb.php/1468-f128cbba