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興福寺 八重桜 藤 夕景 『八部衆は八所御霊?』 

奈良市登大路町 興福寺
2019年4月21日 撮影


興福寺 五重塔3 

名残の春を求めて奈良へ!

①興福寺の阿修羅は蜘蛛を神格化した神だった?

興福寺といえば八部衆像が有名ですね。 (八部衆の写真はこちら→http://www.kohfukuji.com/property/cultural/015.html

八部衆のうち5体のみほとけに動物のイメージがあります。

五部浄像(ごぶじょうぞう)は像の冠をかぶっています。
沙羯羅像(さからぞう)は頭に蛇を巻いています。
乾闥婆像(けんだつばぞう)は獅子の冠をかぶっています。
迦楼羅像(かるらぞう)は頭が鳥で体が人間です。
畢婆迦羅像(ひばからぞう)はニシキヘビを神格化した神です。
 
興福寺の八部衆の中でもっとも有名なのはなんといっても阿修羅像です。
阿修羅は戦闘の神とされ、恐ろしい形相をした像が多いのですが、興福寺の阿修羅は少年か少女のような美しい顔立ちで、ちょっと憂いを秘めたような表情をしています。


File:ASURA Kohfukuji.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/ASURA_Kohfukuji.jpg よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘 English: OGAWA SEIYOU [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


その美しい顔立ちにうっとりしてしまって、つい見過ごしがちなのですが、もっと特徴的なのはその長い腕ではないでしょうか。
腕は長いだけでなく、筋肉がまったくついておらず、「これが戦闘の神なのか?」と疑ってしまうほどです。
いや、筋肉だけでなく脂肪もついていません。
この直線的な腕は人間のものとは思えません。むしろ昆虫的だと感じます。

八部衆の5体に動物のイメージがありますが、阿修羅もまた動物のイメージを重ねたものではないでしょうか。

私は阿修羅の腕は蜘蛛の脚に似ていると思います。

蜘蛛の体 

現在の阿修羅は合掌していますが、もともとは合掌していなかったそうです。
阿修羅の合掌する腕の肘から下を外側にむければますます蜘蛛にそっくりです。
蜘蛛の脚は8本です。
阿修羅の腕は6本で2本足りませんが、脚の2本を足すと蜘蛛と同じ8本になります。

②土蜘蛛

古事記・日本書紀・風土記などに『土蜘蛛』と呼ばれる人々についての記述があります。
土蜘蛛とは朝廷にまつろわぬ民のことで、穴の中に住み、身体的特徴として『背が低くて手足が長い』と記されています。
阿修羅は足はそうでもないですが、手はたいへん長いです。

興福寺の阿修羅像はまつろわぬ民・土蜘蛛をイメージして作られたのではないでしょうか。

File:ASURA detail Kohfukuji.JPG

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG?uselang=ja よりお借りしました。
作者 日本語: 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) English: Ogawa Seiyou (1894-1960), a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


③阿修羅は隻眼(片目)だった。

↑ 阿修羅の顔のアップをよく見てください。
左目に白でキャッチライトをいれたあと、墨で塗りつぶしたあとがあります。

阿修羅の左目は潰されているのです。

これは阿修羅が土蜘蛛=まつろわぬ民であり、左目をつぶすことで、土蜘蛛の霊が暴れるのを封じようとしたもののようにも思えます。

興福寺 中金堂 

④阿修羅は阿部内親王16歳像?


阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂(現存せず)に安置されていました。 
西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇/重祚して称徳天皇)は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説があります。

阿部内親王は女性として初めて皇太子に立てられた人物で、749年に即位して孝謙天皇となり、758年には淳仁天皇に譲位しましたが、764年に重祚し、称徳天皇となっています。

僧・道鏡を寵愛したというスキャンダルが有名なんですが、淳仁天皇から皇位を取り上げると宣言して重祚したり、藤原仲麻呂の乱を平定したりとなかなかの女傑だったのではないかと思います。

興福寺 南円堂

⑤称徳天皇暗殺説

諡号に『徳』の字を持つ天皇は不幸な死を迎えた天皇であると言われますが、称徳天皇は暗殺されたのではないか、という説があります。

称徳天皇は道鏡の故郷・河内国に由義宮を造営し、そこへ行幸したのち病を患い、100日あまり後に崩御しています。

このとき、看病にあたったのは女官の吉備由利(吉備真備の娘または妹といわれます。)だけで、病気回復を願う祈祷も行われていないのは不自然だというのです。

⑥称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身?

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であると記されています。

当時、日本の東国には蝦夷と呼ばれるまつろわぬ民が住んでおり、朝廷はたびたび蝦夷征伐の軍を送っていましたが、あるとき、朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたというのです。

また東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、彼女の縁で奥州から送られた、とも記されています。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』は後世の偽書とされており、偽った内容を書いてある可能性があります。
ですが、安倍は阿倍と記されることもあり、すると、阿部内親王という名前が気になります。

私は安倍内親王の本当の父親は安倍仲麻呂ではないかと考えています。
これについては長くなるので、次の記事をお読みください。
私流 トンデモ百人一首7番 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 『阿部仲麻呂と光明皇后のスキャンダル?』 

興福寺 五重塔 
⑦八部衆は八所御霊?

阿修羅が阿倍内親王=称徳天皇=土蜘蛛(まつろわぬ民)だとすれば、阿修羅は怨霊ということになります。

すると、八部衆の他の神々も、実在した人物で怨霊(政治的陰謀により不幸な死を迎えた人物)をあらわした像ではないかと思えます。

また京都の御霊神社などに八所御霊が祀られています。
御霊とは怨霊が祟らないように慰霊したもののことをいいます。

八所御霊

1早良親王785年、原種継暗殺事件に関与したとして廃太子となり、無実を訴えてハンガーストライキを行った.。
流刑となって淡路に向かう船上で憤死。
2伊予親王807年、謀反を企てたとして母親の藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、服毒自殺。死後無実であることが判明(伊予親王の変)
3藤原吉子伊予親王の母親。伊予親王とともに川原寺に幽閉され服毒自殺。(伊予親王の変)
4橘逸勢842年、謀反を企てたとして伴健岑とともに捕えられ拷問をうけた。流罪となって伊豆へ向かう途中死亡(承和の変)
5文室宮田麻呂843年、唐よりの物産を勝手に没収しようとしたとして伊豆に流罪となった。のち、無罪が判明。
6藤原仲成810年、平城上皇を担ぎ上げて謀反をおこしたことにより斬殺された(薬子の変)
6または藤原広嗣740年、九州で反乱をおこし斬殺された。(藤原広嗣の乱)
7

吉備真備770年、称徳天皇崩御後、次期天皇に分屋浄三を推すが敗れ、右大臣を辞任する。
8

火雷神
(菅原道真)
901年、藤原時平の讒言により大宰府に流罪となって数年後に死亡した。のちに火雷神と同一視される。


沙羯羅像は道鏡?

Statues of Tianlong babu

左・畢婆迦羅像、右・沙羯羅像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Statues_of_Tianlong_babu.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Statues_of_Tianlong_babu.jpg よりお借りしました。
撮影・工藤利三(「社寺建築写真帖3」) [Public domain]


称徳天皇は生涯独身でした。(独身で即位した女性天皇は結婚が禁じられていたようです。)
そして称徳天皇は寵愛していた僧の道教を次期天皇にしようと考えていました。
(私は道鏡は志貴皇子の子で正当な皇位継承権があったと考えています。
これについては、次の記事を参照してください。陰陽 黒と白⑮ 奈良豆比古神社 翁舞 

しかし、⑤で述べたように称徳天皇は急死してしまい、道鏡は失脚してしまうのです。

道鏡は弓削氏の出でした。弓削氏は物部氏の傍系といわれます。

そして、大神神社の御祭神・大物主は物部氏の神ではないかと私は考えています。
というのは、物部氏の祖神・ニギハヤヒを祀る大阪交野市の磐船神社は神殿がなく拝殿より直接ご神体の天磐船を拝する祭祀スタイルで、ほかにも交野市付近には神殿のない神社が多いです。
そして交野市付近は肩野物部氏の本拠地だったとされています。
大神神社にも神殿がなく拝殿よりご神体の三輪山を拝します。
神殿をもたないのは物部氏の祭祀スタイルであり、大神神社の御祭神・大物主は物部氏の神ではないかと思えます。
大物主の物は物部氏の物ではないでしょうか。
大物主は蛇神として信仰されています。

道鏡はこの大物主と同一視され、さらに頭に蛇を巻いた沙羯羅(さがら)と同一視されたのではないでしょうか。

参照/元興寺 ハルシャ菊  『頭に蛇を巻いた童子と沙羯羅』 

興福寺 五重塔2 

⑨五部浄は広嗣の怨霊に体をバラバラにされた玄昉?


五部浄(ごぶじょうぞう)は胸から下を失っており象の冠をかぶっています。
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/030.html(五部浄写真)
私的にこの像は玄昉のイメージです。

奈良時代の権力者といえば藤原氏ですが、藤原不比等の四人の息子(藤原四兄弟)が相次いで天然痘にかかって死亡してしまいました。
そのため、一時的に藤原氏の勢力は衰えて、738年に橘諸兄が右大臣となったのですね。
橘諸兄は吉備真備・玄昉を重用し、藤原宇合の長男・藤原広嗣(式家)は大宰府に左遷されてしまいました。
740年、藤原広嗣は「天地による災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉であるので、二人を処分するべきである。」という上奏文を朝廷におくりました。
しかし訴えは聞き入れられず、藤原広嗣は大宰府で挙兵しますが破れて、処刑されました。 (藤原広嗣の乱)
745年、藤原仲麻呂が権力をもつようになり、玄昉は筑紫の観世音寺に左遷されました。
746年、玄昉は筑紫で亡くなりました。

玄昉の死は藤原広嗣の怨霊の仕業であると考えられたようです。
『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちていたが、これは藤原広嗣の怨霊の仕業であるとの旨が記されています。

胸から下を失った五部浄像は広嗣の怨霊に体をバラバラにされた玄昉だったりして?
玄昉ゆかりの寺・福地院のマカラ宝院はマカラという聖獣()を形どったものですが、マカラとは鰐・象・竜が合体し、巨大な渦を胴とする聖獣です。
これは五部浄の象の冠のイメージと重なります。

http://fukuchiin-nanto.com/fuku.html(写真)

興福寺 北円堂

⑩眼をつぶる乾闥婆は鑑真?

鑑真は日本に戒律を伝えるため、5度の渡航の失敗、失明を乗り越え、754年に日本にやってきました。
称徳天皇や聖武上皇も鑑真より戒律を受けました。

しかし日本での鑑真は幸福だったかどうか?
唐招提寺の鑑真像、なんかつらそうな顔してますよね。
これについては、もう少し調べて考えてみます。

乾闥婆は目を閉じていて、鑑真のイメージと重なります。

http://www.kohfukuji.com/property/cultural/023.html (写真)

⑪年老いた風貌の畢婆迦羅(ひばから)は吉備真備?

※写真は⑧のものをご覧ください。畢婆迦羅はニシキヘビを神格化した神ともいわれます。音楽をつかさどる神で、横笛を吹いて、諸神を供養するとされます。
他の像に比べてやや年老いた容貌をしており、口や顎に髭をたくわえています。

年老いた、といえば吉備真備です。
⑦のところでもご説明しましたが、彼は八所御霊の一でもあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kibi-no-Makibi_statue.jpg

↑ リンク先の写真は倉敷市真備支所に置かれている吉備真備像ですが、立派な髭が畢婆迦羅像に似ているような気がします
もっとも、この時代、髭を蓄えるのは珍しくなく、髭をもってして畢婆迦羅は吉備真備だ、とは言えないんですがw。


それよりもこの像が他の像に比べて老いた姿をしている、という点がポイントです。
彼はこの時代には珍しく83歳という長寿を生きた人物でした

また、吉備真備は2度遣唐使となって入唐していますが、天文学・兵学とともに音楽も学び、音楽書も持ち帰っています。
音楽を司る神・畢婆迦羅に吉備真備はぴったりだと思いますがどうでしょう?

716年、遣唐使として安倍仲麻呂玄昉らとともに唐へ向かい、735年に帰国しています。
738年に橘諸兄政権が成立すると吉備真備は玄昉とともに重用されるようになりました。
740年、藤原広嗣が吉備真備・玄昉を失脚させるため大宰府で反乱おこしますが(藤原広嗣の乱)平定されます。
741年には吉備真備は皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)の教師役を務めています。
750年、孝謙天皇政権下で藤原仲麻呂が政権を握ると、筑前守・肥後守に左遷されました。
751年、二度目の遣唐使として唐へ向かい、唐に残っていた安倍仲麻呂に再会しています。
753年、鑑真を伴って帰国。(同時に別の船で日本に向かった安倍仲麻呂はベトナムに漂着して帰国できず)
754年、大宰大弐。
756年、新羅より防衛のため怡土城(いとじょう)を築きました。
 764年、造東大寺長官として70歳で帰京。藤原仲麻呂の乱鎮圧に功績をあげる。
766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で右大臣となる。左大臣は藤原永手。
770年、称徳天皇崩御。天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが敗れ、藤原永手・百川らが推す白壁王が即位して光仁天皇となる。老齢を理由に
辞職。
775年薨去。

興福寺 藤 

↑ これは過去に撮影したものです。藤はまだあまり咲いていませんでした。

残る畢婆迦羅(ひばから)迦楼羅(かるら)鳩槃荼像(くはんだ)については、もう少し考えてみますw。

興福寺 夕景
 
 
⑫八部衆はいつつくられたのか?

④に次のような内容を書きました。

a.阿修羅をはじめとする八部衆像はもともとは西金堂(現存せず)に安置されていた。
b.西金堂が建立された734年、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇/重祚して称徳天皇)は16歳であり、阿修羅像は阿部内親王16歳の姿をうつした像ではないか、という説がある。

道鏡が孝謙天皇(安倍内親王)に寵愛されるのは761年以降。
玄昉が大宰府で亡くなったのは746年。
鑑真が日本にやってきたのは753年。
吉備真備が83歳で薨去したのは775年。
安倍仲麻呂が唐で吉備真備にあったのは752年。

八部衆が作られたのが、西金堂建立の734年だとしたら、ここまで述べてきた仮説はまったくの間違いということになるかもしれません。(汗)

八部衆

1阿修羅阿倍内親王(称徳天皇/孝謙天皇)阿修羅像の長い手は蜘蛛の脚を思わせ、また左目が潰されている。
阿倍内親王は蝦夷の安倍氏との説があり、土蜘蛛(末路わぬ民)といえる。
2沙羯羅道鏡沙羯羅像は頭に蛇を巻いている。
物部氏の傍流・弓削氏。大神神社の御祭神・大物主は物部氏の神ではないかと思うが
この大物主は蛇神とされる。
3五部浄玄昉五部浄像は胸から下を失っている。
玄昉は藤原広嗣の怨霊に体をバラバラにされたという伝説がある。
4乾闥婆鑑真乾闥婆は眼をつぶっている。
鑑真は両目を失明している。
5畢婆迦羅吉備真備畢婆迦羅像は年老いた風貌である。音楽神。
吉備真備は83歳という長寿であった。唐より音楽書を持ち帰っている。
6鳩槃荼鳩槃荼像は死者の魂を吸う悪鬼。
7緊那羅財宝神・毘沙門天の家来、帝釈天宮の音楽神。半神。
一本の角、三目。
8迦楼羅迦楼羅像は金翅鳥。






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[2019/04/23 15:07] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

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