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山口護国神社 桜 『生野の変について、調べてみた』 

兵庫県朝来市 山口護国神社
2019年4月14日 撮影


山口護国神社 
山口護国神社

①天誅組の変


幕末、尊王攘夷派と公武合体派という異なる政治思想を持つ人々がおり、両者は対立していました。
尊王攘夷とは天皇を尊び、外敵を排斥するべきとする思想、
公武合体は朝廷( 公)と幕府及び諸藩(武)を合体させて幕藩体制を編強するべきという思想です。

文久3年(1863年)8月、尊王攘夷派によって天誅組と言う組織が作られました。
天誅とはもともとは、「神が悪い人間を討伐する」「天罰」などを意味する言葉でしたが、ここから転じて「日本のためにならない人を殺すこと」も「天誅」と言うようになりました。

その天誅組のメンバー・吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石らは、前侍従(天皇の側近)・中山忠光をリーダーに担ぎ上げて大和国へ入りました。

1863年8月17日、天誅組は幕府天領の大和国五條代官所を襲撃しました。
そして代官・鈴木正信〈源内)の首をはね、代官所に火を放ったのです。
天誅組は桜井寺に本陣を置き、五條を天朝直轄地にすると宣言、また自らを「御政府」「総裁所」と称しました。(五条御政府)

公卿・三条実美は尊王攘夷派ではありましたが、天誅組の行動は過激すぎると考えたのでしょう、天誅組の行動を制止するため、学習院に勤めていた平野国臣(もと福岡藩士だったが脱藩した。)を五条へ送りました。

五條新町 夕景

五條(五条)新町

②八月十八日の政変

翌8月18日、公武合体派の会津藩と薩摩藩は孝明天皇に働きかけ、大和行幸延期と長州藩の御門警護の解任を行いました。
(前年の1862年、尊王攘夷派(長州藩・激派浪士ら)は公家と手を結んで攘夷実行を幕府に迫っていました。
そして、攘夷祈願のため、1863年8月の孝明天皇の大和行幸を計画していました。
孝明天皇は大和行幸には乗り気ではなかったようです。
孝明天皇は攘夷は望んでいましたが、過激な討幕運動には反対で、妹・和宮を幕府の将軍・家茂に嫁がせるなど公武合体派よりであったようです。)

尊王攘夷派の長州藩は京都を退き、三条実美ら攘夷派公卿7人も京都を追放されました(七卿落ち)。

翌8月19日、三条実美に天誅組の制止を命じられた平野国臣は天誅組のいる五條に到着しましたが、八月十八日の政変を知り、京へ引き戻します。
しかし、すでに京の尊王攘夷派は壊滅状態となっていました。

京都御所 しだれ桜

京都御苑

③平野国臣、生野天領での挙兵を計画。


平野国臣は天誅組と呼応しようと、故郷・福岡藩の筑前勤王党の月形洗蔵・鷹取義巴を訪ねて活動参加を要請しました。
しかし、断られてしまいます。

その後、但馬国の志士・北垣晋太郎と組んで、生野天領での挙兵を計画しました。
北垣晋太郎は農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱えていた人物です。

④天誅組壊滅

十津川郷士が天誅組に参加しました。、天誅組の兵力は1000人余となっていました。

十津川郷士とは南大和・十津川郷の郷士在住していた郷士(江戸時代の武士階級の下層に属する人々)のことをいいます。

十津川郷士は古より朝廷に仕え、壬申の乱、平治の乱にも出兵して税減免措置を受けています。
南北朝時代には南朝に仕えていました。
このようなことから、十津川郷士は勤皇の伝統をもっていたようですが、倒幕の意志は薄かったと考えられているとのことです。

十津川郷士が天誅組に参加したことで、天誅組の兵力は1000人余となっていました。
ですが、武器などの装備が十分ではなかったようで、高取城攻略で失敗。
周辺諸藩からの討伐を受けて9月27日に壊滅しました。

9月28日、生野天領での挙兵を計画していた平野国臣と北垣晋太郎は周防国三田尻へ行き、長州藩に庇護されていた七卿落ちの一人、公卿・澤宣嘉(さわ のぶよし)を主将に迎えます。
彼らは長州藩としての挙兵の参加も求めましたが、これは同意をもらえませんでした。

10月2日、平野国臣と北垣晋太郎は澤宣嘉とともに三田尻を出立。
播磨に向かう為の船を用意します。
これに、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士らが加わった37人が出港しました。

10月8日、一行は播磨国に上陸し、生野へ向かいます。
10月11日、一行は生野の手前の延応寺に本陣を置きました。

天誅組壊滅を知った平野国臣・北垣晋太郎らは、「挙兵を自重し再度の時期到来を待つべき」と主張。
しかし、河上弥市らは「計画通り挙兵するべき」と主張。これが通って挙兵が決行されることになりました。

生野銀山 露天掘跡 

生野銀山 露天掘跡

⑤生野の変

10月12日、生野代官所は無抵出平野国臣らに降服しました。

平野國臣らは農民に募兵を呼びかけたところ、2,000人が集まりました。
これは北垣晋太郎が唱える「農兵論」の影響もあったでしょう。
またこのころ幕府天領・生野銀山などの産出量が減って、住民が生活に困窮していたということもあるでしょう。

10月13日、幕府は周辺諸藩に兵を出動させました。
これに対して「解散するべき」との声があがり、13日夜には主将の澤宣嘉が和歌を机の上に残して逃げ出してしまいました。
頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にて ありぬる

「頼りにもしていた 恨みもしていた 日暮れ時の 現実は 今朝の 夢であったよ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

澤宣嘉は四国伊予小松藩周辺に潜伏したのち、長州へのがれました。

河上弥市ら13人の浪士は「騙された」と怒った農民らに襲い掛かられ、妙見山麓山口村(山口護国神社)で自刃して果てました。
河上弥市は享年21歳。

河上弥市の辞世の句。
議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を 余所に見る馬鹿

「議論するより実行せよ、なまけ武士どもめ、国の大事を、他人事のように見ているバカ」みたいな意味かな?(自信なし・・・汗)

山口護国神社 忠魂碑 
山口護国神社(河上弥市ら幕末志士と明治維新から昭和にいたるまでの地元戦没者を祀っています。)


美玉三平と中島太郎兵衛は農民たちに射殺されました。

平野国臣は兵を解散させて鳥取へ向かいましたが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られました。
1864年の禁門の変によっておこった火災が六角獄舎にもおよび、囚人脱走を恐れた役人らは囚人を処刑しました。
このとき、平野国臣も処刑されました。享年37歳。

羽淵鋳鉄橋

山口護国神社は羽淵鋳鉄橋の道路向かいにあります。

車窓より 
これは車窓から撮影した風景。



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[2019/04/19 14:22] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

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