奈良市雑司町 東大寺
2019年3月11日 撮影
東大寺境内 大仏池①奈良と京都の大仏殿の柱に穴東大寺大仏殿の柱には一か所穴があいているところがあります。
東大寺 大仏殿 柱の穴東海道中膝栗毛で、喜多さんが大仏殿の柱の穴くぐりをしたが、穴から抜けられなくなったという話は有名ですね。
あれは東大寺大仏殿ではなく、京都の方広寺大仏殿での話なんですね。
方広寺現在の方広寺は小さなお寺で、大仏殿も現存していません。
大仏殿緑地内に小さな石碑が当時の面影をしのばせるのみです。
ここにかつて大仏殿があり、その柱に東大寺と同様の穴があいていたというのです。
https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201702230000/↑ こちらのブログに法広寺大仏殿柱の絵が描かれています。
これを見ると、穴の縦の大きさは1mほどありそうです。
東大寺の柱の穴は縦37cm、横30cmということです。
小学生のときに姉と一緒に母に連れていってもらい、柱の穴くぐりをした記憶があります。
そのときはくぐれましたが、最近は喜多さんと同じく体が抜けなくなってしまいそうで、やっていません(笑)。
東大寺境内②大仏殿柱の穴は鬼門と関係がある?こんな穴がなんであいてるのかと疑問に思っていましたが、どうも鬼門と関係があるようですね。
穴があいている柱は大仏殿の東北の位置にあります。
そして東北は鬼門、鬼が出入りする方角であるとして古来忌まれていました。
③鬼門除け京都御所の塀の東北部は鬼門の角を作らないように内側にへこませてあります。
さらに、「去る」にかけてあるのか、塀の屋根の下に猿の像が置かれてあり、「猿が辻」と呼ばれています。
猿が辻↓↑
また、石清水八幡宮では東北の角をつくらないように、建物の土台の石組み部分を斜めにしています。
石清水八幡宮ですが、大仏殿の柱の穴は上のふたつの例とはちがい、鬼門からやってくる鬼を除ける呪術的仕掛けのようには見えません。
上の二つの例は、建物の外側の呪術的しかけですが、大仏殿は建物の内側ですしね。
大仏殿の柱の穴は鬼門と関係のある呪術的しかけだと思いますが、どんな意味を持っているのかについてはよくわかりません。
もう少し考えてみます。
東大寺 二月堂
⑤大仏前の花瓶には八本脚の蝶がいる。また大仏様の前の花瓶には巨大な八本足の蝶が止まっているそうです。
大仏殿には何回も行ったことがあるのですが、全然気がつきませんでした~。(恥)
↓ こちらのサイトに写真があります。
東大寺-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%80%80%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%83%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%EF%BC%9F%E4%B8%89%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%83%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%EF%BC%9F%E5%9B%9B%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0/.htmlこれは蝶の姿をした土蜘蛛ではないでしょうか。
蝶(ちょう)は大和言葉では「かわひらこ」と言うそうです。
しかし、いつのまにか「かわひらこ」という古名は忘れられ、「ちょう」と呼ばれるようになったとされます。
その理由については諸説あるようですが、蝶は死者の霊であると考えられ、そのため忌まれて「かわひらこ」という言葉が使われなくなり、しだいに「かわひらこ」という言葉が忘れられてしまったと聞いたことがあります。
土蜘蛛とは記紀や風土記に登場するまつろわぬ民のことです。
蜘蛛は八本足ですね。
蜘蛛なぜまつろわぬ民のことを土蜘蛛と呼ぶのか。
これについては、こちらの↓ 別ブログ、旅free styleの「土蜘蛛の謎」シリーズをお読みいただけたら、と思います。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-9.html
二月堂 籠松明
⑥東大寺大仏は長屋王の怨霊封じ込めの像?東大寺の大仏は、長屋王の怨霊封じ込めの像であるとする説があります。
720年、右大臣・藤原不比等が薨去したのち、721年に長屋王(祖父/天武天皇 父/高市皇子)が右大臣となって政権を握りました。
724年に聖武天皇が即位すると長屋王は左大臣となりました。
729年、漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王はこっそりと左道を学んで国家を傾けようとしている!」と密告しました。
厳しい取り調べに耐え切れず、長屋王は自殺してしまいました。
これを長屋王の変といいます。
東大寺 二月堂
長屋王が国家を傾けようとしている、というのは事実ではなく、藤原氏の陰謀だと考えられています。
のちの738年には長屋王に仕えていた大伴子虫が、「中臣宮処東人がありもしないことをでっちあげて長屋王を自殺に追い込んだ」として
中臣宮処東人を殺す事件もおきています。
ところが政権を手中にした藤原四兄弟が737年に天然痘の流行で次々に死んでしまったので「長屋王の祟りじゃ~!」と騒がれたのです。

東大寺 大仏藤原四兄弟の妹・光明皇后は深く仏教に帰依したと言われますが、それは兄たちが四人とも長屋王の祟りで死んでしまったので
次は自分が長屋王に祟られる番だ、と恐れたためではないかという説もあります。
その後743年に聖武天皇(光明皇后の夫)は大仏造像を発願し、745年より造像が開始され、752年に開眼供養会が行われています。
聖武天皇の母親は藤原不比等の長女の藤原宮子、聖武天皇の皇后は藤原不比等の三女・藤原光明子(藤原宮子の異母妹)であり
聖武天皇自身が藤原氏と関係の深い人物だったので、聖武天皇も長屋王の怨霊を恐れたことと思われます。
そこで聖武天皇は長屋王の怨霊封じ込めの像として大仏を造らせたのではないか、というのです。
聖武天皇は、まつろわぬ民・土蜘蛛であり、死者の霊でもあると言えると思います。
東大寺 中門 大仏殿
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村
- 関連記事
-