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不退寺 黄菖蒲 今井町 カキツバタ 黄しょうぶ  『不退寺には黄しょうぶよりもカキツバタが似合う』 

 
奈良市法蓮東垣内町 不退寺
撮影 2009年5月初旬

不退寺 多宝塔 黄しょうぶ 


不退寺

①上層部を失った多宝塔

上の写真の建物は何だと思いますか?
答えは『多宝塔』です。

多宝塔って↓ こんな形をしていますね。

愛染堂 夕景 
愛染堂 〈大阪市)

もう一度、1枚目の写真を見てください。
全然、形が違うやーん。

実は不退寺の多宝塔は上層部を失って下軸部のみなのです。
明治の廃仏毀釈によって取り払われた結果、このような姿になってしまったみたいです。
廃仏毀釈がなければ日本にはもっと多くのすばらしい文化遺産が残されていたでしょうね。
残念です~~。
 
不退寺 門 黄しょうぶ  

不退寺

②不退寺には黄菖蒲よりもカキツバタが似合う。

多宝塔前の池の黄しょうぶが満開でした。
でも不退寺には同じアヤメ科アヤメ属のカキツバタの方が似合うと思うなあ~。

不退寺は第51代平城天皇が809年に同母弟の嵯峨天皇に譲位したのち、『萱の御所』と呼ばれた萱葺きの御殿を造営した場所だといいます。
伊勢物語で知られる在原業平はこの平城天皇の孫で、平城上皇崩御後ここに住んだと伝わっています。

在原業平は六歌仙の一で、数多くの和歌を詠んでいますが、その中に次のような歌があります。

らごろも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ
(衣を長く着ていると褄がなれてしまうように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるこんなに遠くまでやってきたんだなあ、という思いがこみあげてきます。)


この歌の五七五七七の最初の音をつなぐと『かきつばた』となります。

③もともとはカキツバタが咲いていたのでは?

この池には数本、カキツバタの花も咲いていました。
それで「この池はもともとはカキツバタが咲いていたんじゃないかなあ?」と思ったりしました。

奈良県橿原市の今井町に今西家住宅があり、その前の環濠でカキツバタが咲いていたんですよ。

今井町 今西家住宅と環濠 杜若 

今西家住宅 カキツバタ

ところが数年して行ってみたら、カキツバタはなくなって黄しょうぶに変わっていました!

今井町 今西家住宅と環濠  
今西家住宅 黄しょうぶ


カキツバタは絶滅危惧種で、繁殖力の弱い植物です。
そこに何らかの理由で、繁殖力の強い黄菖蒲が繁殖するようになって、カキツバタはなくなってしまったのかも?

④薬子の変

①で不退寺はが809年に同母弟の嵯峨天皇に譲位したのち、『萱の御所』と呼ばれた萱葺きの御殿を造営した場所だと書きました。

810年、平城上皇は平城京遷都の詔を出すなどして嵯峨天皇と対立するようになり、ついに挙兵に至っています。

平城上皇のこのような行動の背景には藤原仲成・薬子兄妹の存在がありました。
平城天皇は自分の妻の母親である藤原薬子を寵愛していました。(親子どんぶり~)
薬子と兄の仲成はしだいに政治に口出しするようになっていったのです。

しかし、平城上皇は薬子と共に東国に入ろうとしたところを坂上田村麻呂らに遮られ、あっけなく挙兵は失敗に終わりました。
これを『薬子の変』といいます。

不退寺 石橋 黄しょうぶ 
不退寺

●平城天皇の孫なのに在原姓なのはなぜ?

平城上皇の皇子・安保親王は、薬子の変に連座したとして大宰権帥に左遷されました。
824年、平城上皇が崩御したのちようやく帰京を許され、14年ぶりにようやく都へ戻りました。
帰京した安保親王は伊都内親王を妻とし、伊都内親王は子供を産みました。
これが在原業平です。

伊都内親王は桓武天皇の第8皇女で、母親は中納言藤原乙叡女の藤原平子でした。
業平は高貴な生まれで、祖父が薬子の変をおこさなければ天皇になる可能性もあったのです。

阿保親王の子供であるのに、業平はなぜ在原姓なのでしょうか。
それは業平の父の安保親王が826年に自らの子供の臣籍降下を願い出て在原姓を賜ったからです。

安保親王は自分の子供の臣籍降下を願い出ることで、自分には謀反を起こそうという気持ちなどないということをアピールしようとしたのでしょう。

●陽成天皇は業平の子?

不退寺の内陣と外陣の境には吹寄菱欄間と木連格子が入れられています。
この菱形の吹寄菱欄間は業平格子とも呼ばれています。
菱形は業平が好んだ柄だそうで、百人一首の絵札に描かれた業平像も業平格子の着物を着て、弓矢を背負っています。
百人一首に描かれた業平像は、業平が陽成天皇にお仕えする姿だと言われています。

百人一首かるた

陽成天皇の父親は清和天皇、母親は藤原高子です。
でも、私は実は陽成天皇は業平の子ではないか、と考えています。

業平と藤原高子がかけおちをするようすが伊勢物語に描かれているからです。
詳しくはこちらの記事をお読み下さいね。→ 龍田川 紅葉 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 

陽成天皇は源益(みなもとのすすむ)を殴殺するという事件をおこし、摂政・藤原基経によって退位させられていることからして変です。
藤原基経は陽成天皇の母親・高子の同母兄です。
陽成天皇が皇位にあれば基経は外戚として権力を振るうことが可能なのに、なぜ基経は陽成天皇を退位させたのでしょうか?

陽成天皇には凶暴性があったとされますが、本当でしょうか?
人は自分が憎む者を高く評価しないものです。

さらに清和天皇退位後、基経・高子兄弟は関係が悪化したとされます。
基経と高子の関係が悪化したのは、陽成天皇が業平の子であるということが基経に発覚したからなのだろうか、などとつい勘ぐってしまいます。 



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[2017/05/14 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)