京都市左京区 大豊神社
①大豊神社に合祀された菅原道真大豊神社は、仁和3年(887年)に尚侍藤原淑子が勅命を受けて創建したとされます。
その目的は「宇多天皇の御悩平癒祈願」でした。
御祭神は少彦名命で、後に応神天皇と菅原道真が合祀されました。
なぜ菅原道真が合祀されたのでしょうか?
②道真、怨霊になる。菅原道真は宇多天皇の寵臣でした。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位しましたが、宇多天皇は醍醐天皇にも道真を重用するようにと申し付けていました。
ところが901年、藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている。」と讒言し、
醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に流刑としてしまいました。
903年、道真は大宰府で死亡しました。
道真の死後、都では疫病の流行・相次ぐ天変地異、清涼殿落雷事件などがあり、道真左遷にかかわった人々がバタバタと亡くなりました。
そしてそれらは道真の怨霊の仕業だと考えられたのです。
③道真の訴えを聞けなかった宇多上皇宇多天皇が創建した仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説があります。
道真は藤原時平の讒言により流罪となりました。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。
しかし宇多上皇は留守でした。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ流されていきました。
仁和寺 菅公腰掛石③宇多天皇は道真の怨霊を恐れた?菅公とは菅原道真のことです。
道真を左遷した醍醐天皇は930年の清涼殿落雷事件の3か月後の崩御されていますが、道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼになったのが死因だといわれています。
931年には宇多上皇が崩御されていますが、宇多天皇の死もやはり道真の怨霊の仕業だと考えられた可能性が高いと思います。
④菅公腰掛石は道真の怨霊を封じ込めた石?仁和寺の菅公腰掛石とは道真の怨霊を呪術的に封じ込めた石だと思います。
道真の怨霊を畏れた人々は、道真の怨霊を石に封じるだけでは十分ではないと考えたのでしょう。
それでその石の上に不動明王の石像をたたせて水掛不動尊と称し
毎日多くの参拝者が水をかけて怨霊に禊ぎをさせるようにしているのではないでしょうか。
宇多天皇は出かけていたとはいえ、道真の訴えを聞けず、そのまま道真は流罪となったのですから
宇多天皇ゆかりの大豊神社の関係者は道真の怨霊を恐れたことでしょう。
(史実ではないかもですが、人々がそう信じたということが重要です。)
そこで大豊神社の関係者はも道真を神として祀ることで、道真の怨霊を鎮めようとしたのではないでしょうか。

887年 | 宇多天皇即位 |
897年 | 宇多天皇は醍醐天皇に譲位 |
901年 | 菅原道真、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷される |
903年 | 菅原道真死亡 死後疫病が流行り道真の怨霊の仕業とされる。 |
930年 | 清涼殿落雷事件 道真左遷にかかわった人が大勢死亡。道真の怨霊の仕業とされる。 醍醐天皇、清涼殿落雷事件の3か月後に崩御。(道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼになったといわれる。) |
931年 | 宇多天皇崩御。 |
大豊神社は「宇多天皇の御悩平癒祈願」のため、887年に創建されたのでしたね。
887年、まだ道真は怨霊になっていないので、宇多天皇の御悩は道真の怨霊ではない可能性が高いです。
それでは887年当時の宇多天皇の「御悩」は何だったのか?
此方も気になりますが、またの機会に~。
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