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水間寺 千本つき 『千人の男と会う相を持つ娘』 


大阪府貝塚市 水間寺
千本つき餅・・・1月2日、3日


 水間寺 千本つき

水間寺 千本つき2

①聖武天皇の病を回復させた観音さま

水間寺にはこんな創建説話がありますよ。

聖武天皇が病気になられた時、夢に観音様が現れました。
天皇が行基に夢にあらわれた場所へ行かせると、観音の化身である16人の童子が現れました。
行基が童子に誘われて滝へ行くと、滝の中に一寸八分(約6cm)の観音像がありました。
白髪の仙人が現れてこの観音像を行基に下さいました。するとまもなく天皇の病は回復しましたた。
天平16年(744年)、天皇は行基に滝の側に堂をつくるように命じました。
行基は16人の童子とともに生活しながらお堂を完成させました。


この伝説はつまり、水間寺の観音様が聖武天皇の病を回復させたと言いたいのだと思います。

この伝説によれば、水間寺の創建は744年ですが、このほかに和銅元年(708年)に創建されたという説もあります。

滝の中におられた一寸八分の観音様は絶対秘仏で、残念ながら拝観することはできません。

水間寺 三重塔

②水間寺創建年(744年)に安積親王薨去。

水間寺の創建年は744年もしくは708年とされています。
これは実際に創建された年ではなく、この年におこったなんらかの事件と水間寺の創建に関わりがあって、その年を創建年としているのだとも考えられます。

調べてみたところ、744年には安積親王(あさかしんのう/728-744)が薨去しています。

安積親王は聖武天皇の第2皇子で、母親は県犬養広刀自です。
安積親王が生まれてすぐに、聖武天皇の第1皇子で皇太子だった基皇子が夭逝しました。
安積親王が皇太子となってもよさそうなものですが、738年、聖武天皇の皇女である阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子しました。
女性天皇はいますが、女性で皇太子になったのは阿部内親王だけだと思います。

阿倍内親王の母親は藤原光明子、光明皇后でした。
もちろん阿倍内親王の異例の立太子は藤原氏のおもわくによるものだと考えられるでしょう。
藤原氏としては非藤原系の安積親王を皇太子にするくらいなら、藤原氏の血をひく安倍内親王を皇太子にするほうがいいと考えたのだと思います。

その後、安積親王は744年に脚気になってその2日後に急死しました。17歳でした。
安積親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説もあります。

水間寺 三重塔2

③藤原仲麻呂の乱

749年、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位して孝謙天皇(女帝)となりました。
光明皇太后のために紫微中台が設けられ、藤原仲麻呂が長官となりました。
仲麻呂は皇太后の信任を得てますます権力を強めていきます。

758年、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇(大炊王/天武天皇のの皇子・舎人親王の七男。母は当麻老の娘・当麻山背。)が即位しました。
淳仁天皇の即位は藤原仲麻呂の推挙をうけたものでした。
同年、仲麻呂は右大臣となり、恵美押勝の名を与えられています。

760年、藤原仲麻呂は人臣初の太政大臣となりますが、同年、光明皇太后が逝去し、仲麻呂は後ろ盾を失ってしまいます。

762年、弓削道鏡が孝謙上皇の寵愛を受けるようになります。
藤原仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を絶つようにと進言させました。
しかし孝謙上皇はこの進言にキレて、出家して尼となり、道鏡と男女の関係ではないことをアピールしました。
また、孝謙上皇は『今の天皇は小事を行え。大事と賞罰は自分が行う』と宣言し、天皇から政権を取り上げたのです。 

764年、藤原仲麻呂は反乱を計画しましたが、密告により発覚して処刑されました。(藤原仲麻呂の乱)

766年、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となりました。
吉備真備が右大臣、藤原永手が左大臣になりました。  

水間寺 布袋

藤原南家は安積親王の怨霊をおそれた?

②に書いたように、水間寺が創建された744年には安積親王が薨去しています。
水間寺とは安積親王の怨霊を祀る寺で、聖武天皇の病気は安積親王の怨霊の仕業だと考えられたのではないでしょうか。

③で安積親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説があると書きました。
藤原仲麻呂は藤原不比等の孫で、藤原四兄弟の藤原 武智麻呂の子でした。
藤原 武智麻呂は藤原南家の祖です。

これが事実だとすれば安積親王の怨霊をもっとも畏れたのは藤原南家だと考えられますね。

水間寺は江戸時代には岸和田藩主岡部氏の帰依を受けました。
岡部氏は藤原南家の出です。

岡部氏が水間寺に帰依したのは、自分たちが藤原仲麻呂の血を引いているからではないでしょうか。

水間寺 千本つき

⑤餅をつく16人の若者は創建説話に登場する16人の童子にちなむ?

本堂横の渡り廊下には二つの臼がおかれてあって、それぞれ8人、合計16人の若者がお餅をついていました。

この行事は『千本撞き餅』といい、「行基がこの地にやってきて、白髪の仙人より本尊・聖観世音の尊像をいただいたとき、童子らがこれを祝福してお餅をついたのが始まり」だとされています。

16人の若者が餅をつくのは、水間寺の創建説話に登場する16人の童子にちなんだものであったと考えられますね。

⑥16人の童子は16柱の怨霊?


八卦では童子は艮(丑寅)の符です。
丑寅は方角では鬼が出入りする方角、鬼門の東北をあらわします。
したがって童子とは鬼(怨霊)を意味するものであるともいわれます。
茨木童子、酒呑童子などのように鬼が童子と呼ばれているのはそのためであるというのです。

干支 方角 月 

石清水八幡宮 鬼やらい神事-豆まき 
石清水八幡宮 追儺式

節分の鬼が虎皮のパンツをはき、牛の角を生やしているのは丑寅をあらわすともいわれます。
もともと追儺式とは大みそかに行われる行事であり、丑=12月、寅=1月で、追儺式の鬼は年の変わり目=丑寅を表しているのだと思います。

行基の前に現れた16人の童子も怨霊ではないでしょうか。

16柱の怨霊は聖観世音の尊像をいただいたお祝いにお餅をついたといいますが、本当は憎き藤原仲麻呂を懲らしめようとお餅をついたのだったりして?

正月の餅つきの臼は女性、杵は男性をイメージしたものであり、餅つきとは男女和合を意味していると言われますね。

そして鎌倉初期に成立した『水鏡』に次のような話が記されています。

藤原仲麻呂には東子という美しい娘がいた。
鑑真が『東子は千人の男と会う相を持っている』と予言した。
父親の藤原仲麻呂がクーデターに失敗したとき、鑑真の予言は実現し、東子は千人の男にレイプされた。


失明していた鑑真がどうやって相を見たのかという疑問もあり、これが史実かどうかわかりません。
ですが、このような話が流布していたことは事実でしょう。

『千本撞き餅』はこの水鏡の話を再現したものなのではないかと思いました。
つまり、臼は仲麻呂の娘・東子で、餅をつく杵は東子と会った千人の男性なのでは、と思うわけです。

16柱とあるのは、藤原氏は他氏排斥で有名なので、安積親王以外にも多くの怨霊を生み出していたことを表していると思います。
たとえば長屋王も藤原氏の陰謀で自殺に追いやられたと考えられています。

長屋王の話は長くなるので、次の記事をお読みください。岩船寺 紅葉 『長屋王、皇位継承の神となる?』 

水間寺 不動堂 


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