滋賀県彦根市 彦根城
2018年12月30日 撮影
雪景色を見たくて電車に飛び乗りました。
車窓から雪景色が見えてきましたよ❤❤
彦根駅で下車すると伊井直正が出迎えてくれました。
①人柱になった菊彦根城に次のような伝説があります。
1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となりました。
関ヶ原の合戦で功のあった井伊直政の息子・直継(直勝)が彦根の地を賜り、彦根城を築城することとなりました。
しかし工事ははかどらず、直継は「人柱をたてよ」と命じました。
ある藩士の娘・菊が「自分が人柱になる」と名乗り出、菊は生き埋めになりました。
その後、工事は順調に進みましたが、それ以来、彦根城に菊の花を植えてもすぐに枯れてしまうようになりました。

彦根城はかなり雪が溶けてしまっていました~。
②菊はBLのシンボル❤変態BL好きの私なんかは菊といえば男色を思い出してしまいます。
井伊直政は徳川家康と菊の契りをかわしていたとする説があるんですよね~(きゃーっ❤)
井伊直政は徳川家康の小姓で万千代と名乗っていましたが、小姓は男色の相手とされることが多かったのです。
また、『甲陽軍鑑』には「万千代、近年家康の御座を直す」と記されています。
「御座を直す」というのは菊の契りをかわすという意味ではないかというのです。
③直正、家康の小姓になって運命が急上昇。幼いころの直政は恵まれた環境で育ったとはいえません。
父・井伊直親は直政が2歳のときに謀反の嫌いをかけられて今川氏真に殺されました。
そこで直親の従妹の井伊直虎という女性が中継ぎとして井伊氏の当主となりましたが、所領を失ってしまいます。
直政の運命が変わりだしたのは彼が家康の小姓になって以降です。
直政は井伊氏の旧領を与えられ、井伊家は復活を遂げるのです。
直政は武田氏との戦いで戦功をあげ、旗本先手役となります。
本能寺の変では、家康の伊賀越えに従いました。
その後、井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となっています。
ひこにゃんが被っている兜は井伊直政が用いていたもので、鬼の角のような前立物から「井伊の赤鬼」と称されました。
遠くに伊吹山が見えました。直政は関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し数々の手柄をあげますが、銃弾を右腕(または右肩)に受けて大けがをしてしまいました。
戦後も精力的に戦後処理などに尽力しましたが、鉄砲傷に破傷風を生じ、1602年に死亡しました。享年41歳でした。
その後、直政の息子・直継が彦根城の築城し、彦根藩(35万石)が置かれました。
彦根藩は明治まで井伊氏の藩として栄えることになるのですが、それは直政の功績と、直政が家康より寵愛を受けたことによるところが大きいと思います。
恐るべし、直政のゲイパワー!
④菊は直正を女性に見立てた想像の人物?人柱になった娘・菊とは直政を女性に見立てて創作された物語なのではないでしょうか。
直政は関ヶ原の戦いで功労があったにもかかわらず、そのとき受けた怪我がもとで亡くなってしまったことを「人柱」と表現しているのだと思います。
菊という名前にしたのは、直政が家康と菊の契りを結んでいたためではないでしょうか。

槻御殿
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