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銀の馬車道 神子畑選鉱所 紅葉  

兵庫県神崎郡神河町 銀の馬車道・神河
兵庫県朝来市佐嚢  神子畑選鉱所跡

銀の馬車道 
銀の馬車道 脚が太い輓馬(ばんば)が馬車をひきます。

道の駅 銀の馬車道・神河 
道の駅 銀の馬車道・神河

①銀の馬車道

銀の馬車道は明治時代に日本で初めて作られた、生野から飾磨津間を結ぶ約49kmの高速産業道路です。
馬車が通りやすいように舗装が施されていました。
昭和30年代でも舗装された道は少なかったといいますから、最先端の道路だったのですね。

この付近には生野鉱山などの鉱山があり鉱物が採掘されていました。
生野鉱山では銀が多く産出されており、その銀を馬車で運んでいたため、銀の馬車道とネーミングされたのではないでしょうか?

生野銀山 露天掘跡 

生野銀山 露天掘り跡

ジブリのアニメ「風立ちぬ」では零戦を牛がひく、というシーンがあってとても興味深かったです。
牛が零戦をひいたのは、悪路が多く、機体を傷めないようにするためだったそうですが
明治時代には馬車が鉱物をひいていたのですね。

道の駅「銀の馬車道 神河」でうろうろしていると、係の方に「馬車が出るので写真を撮るといいよ」と教えていただきました。
(ありがとうございました!)
うーん、ついてるなあ~。

神子畑川

神子畑川

 ②神子畑選鉱所

道の駅「銀の馬車道 神河」から神子畑鉱山跡へ。

戦国時代は鉱山開発合戦であったと聞いたことがありますが、神子畑鉱山も戦国時代に開発されたとされます。
ところが近所にある生野鉱山が繁栄したため、神子畑鉱山は長らく廃れていました。

明治時代、そんな神子畑鉱山に目をつけたのが鉱山王・五代友厚でした。
彼は放置された鉱山から銀、銅などを採り出す製錬技術を海外から導入し、福島県の半田銀山などを再開発していました。
そしてどうやらこの神子畑鉱山にも目をつけていたらしいのですね。
というのは、地元の郷土史家の山内順治(1881-1969)の手記には次のような内容が記されているのです。
「五大友厚は神子畑に採鉱跡があるのを知り、部下の加藤正矩に探鉱を命じた。」

IMG_2266.jpg 
神子畑選鉱所 説明板

1878年(明治11年)、明治政府によって神子畑の銀鉱脈が発見され、1879年から再び採鉱が始まりました。
1872年(明治5年)、明延・神子畑・中瀬などの但馬の鉱山は、生野鉱山を本部とする明治政府の直営鉱山となりました。
1889年(明治22年)、宮内省御料局の所管となりました。
1896年(明治29年)、三菱合資会社に経営が移りました。
1909年(明治42年)、明延鉱山で錫の鉱脈が発見され、三菱によって近代鉱山としての開発が始まりました。
1909年(大正8年)、神子畑鉱山は閉山しました。
1912年、明延 - 神子畑間に索道(ロープウェイ)が設置されました。
1919年、明延鉱山の選鉱場として「神子畑選鉱所」が建設されました。
最盛期には約3000人もの人がここで働いていたそうですが、明延鉱山は円高によって競争力を失ってに閉山されました。
1987年、神子畑選鉱所も閉鎖しました。

2004年、神子畑選鉱所の建物はに撤去・解体されましたが、現在も22段構成となっていた鉄筋コンクリートの基礎構造物・インクライン、シックナーの跡などが残り、廃墟として人気が高まっています。

神子畑選鉱場 シックナー

神子畑選鉱所 シックナーのしくみ

神子畑選鉱場 インクライン跡

神子畑選鉱所 インクライン

神子畑選鉱所,明延鉱業全景 037

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%A5%9E%E5%AD%90%E7%95%91%E9%81%B8%E9%89%B1%E6%89%80,%E6%98%8E%E5%BB%B6%E9%89%B1%E6%A5%AD%E5%85%A8%E6%99%AF_037.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fa/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E7%95%91%E9%81%B8%E9%89%B1%E6%89%80%2C%E6%98%8E%E5%BB%B6%E9%89%B1%E6%A5%AD%E5%85%A8%E6%99%AF_037.jpg
よりお借りしました。
オータムスネイク [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


創業時の神子畑選鉱所(明延鉱業)全景(2004年に撤去解体)

神子畑選鉱所 しくみ


③一円電車


1896年(明治29年)、三菱合資会社は、生野・神子畑・明延・中瀬の鉱山経営を開始。
1909年(明治42年)、明延鉱山錫鉱脈が発見され、開発がすすめられましたが、神子畑鉱山では銀を産出しなくなったため選鉱場となりました。
明延鉱山から神子畑選鉱場へ鉱石を運搬するのに、初めは牛車が用いられていたそうです。
1912年(大正元年)、全長5,750mの架空策動(ロープウェイ)が建設され、運搬に用いられるようになりました。
1929年(昭和4年)、明神隧道(トンネル)3,937mが完成し、鉄道で鉱石を運搬するようになりました。
1945年(昭和20年)より人車も運行されるようになりました。
当初の運賃は無料でしたが、1949年(昭和24年)から50銭、1952年(昭和27年)から1円になりました。
その後、1985年(昭和60年)10月の人員輸送廃止まで運賃はずっと一円だったので、「一円電車」と呼ばれました。

ですが、部外者の乗車が増えて業務に支障が出たことなどから、関係者以外の乗車は禁じられてしまったようです。
明延鉱山が1987年(昭和62年)に閉山となったことに伴い、明神電車も廃線となりました。

2010年(平成22年)10月、明延振興館前に一円電車の線路「一円電車明延線」70mが完成し、一円電車が復活しました
牽引する蓄電池機関車・客車くろがね号は明延鉱山で穂使われていたものなのだとか。
時間がなかったので「一円電車明延線」は見にいけませんでしたが、神子畑選鉱所跡に一円電車が展示されていましたので写真を載せておきます。

神子畑選鉱場 一円電車

神子畑選鉱所横に展示されている一円電車

神子畑選鉱場 鉱石の橋

 一円電車がデザインされた『鉱石の橋』

神子畑選鉱場 一円電車-線路

神子畑選鉱所横に展示されている一円電車のレール

ムーセ旧居 
 ムーセ旧居 フランス人技師ムーセの住居で生野鉱山近くにあったものを、神子畑に移築して事務所兼診療所として利用された。


神子畑公民館の仏像 
神子畑公民館に祀られていた仏像



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[2018/12/03 22:34] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)