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黒川ダリヤ園 『黒川の菊炭はなぜ茶の湯に用いられたのか?』 

兵庫県川西市 黒川ダリヤ園
2018年 10月下旬 撮影

黒川ダリヤ園5

①炭焼き

黒川では室町時代よりクヌギを利用して、炭焼きが行われていました。
最盛期には40件の炭焼き農家があったそうですが、現在ではたった一件だそうです。

生物は骨などをのぞき、主に有機物からできています。
ほとんどの有機物は炭素・水素・酸素・窒素(硫黄・リン)から構成されています。
生物を通常の状態で燃やすと、有機物の炭素・水素・酸素・窒素は空気中の酸素と結合し、二酸化炭素・水蒸気などの気体となります。
しかし、体内には微量の無機物(金属元素/カリウム・カルシウム・マグネシウムなど)があり、これらは燃やしても気体にならず個体として残ります。
これが灰です。

生物を酸素のない状態で燃やすと、炭素化合物は分解し、揮発性の低い個体の炭素分が残ります。これを炭化といいます。

炭は木を炭化させたもので、平安時代ごろより石油・ガスが普及するまで燃料として用いられてきました。

現在でもバーベキューなどの際に用いますね。

黒川ダリヤ園4

②茶の湯に用いられた黒川の菊炭(池田炭)

黒川で作られている炭はクヌギを原料としたもので、菊炭といい、炭の断面に美しい菊のような模様があります。

菊炭は黒川のほか、能勢町・豊能町の各地で生産され、池田から全国へ出荷されたため、「池田炭」と呼ばれました。

黒川ダリヤ園2

③菊の節句と不老長寿


菊炭は室町時代から茶の湯に用いられました。
なぜ、菊炭は茶の湯に用いられたのでしょうか?

火つきがよく、火力が強く、香りもいい。燃えた後の灰も真っ白で美しいからという理由のほかに、「見た目の縁起のよさ」というのもあるんじゃないかなと思いました。
そう、炭の断面に菊のような模様があるのでしたね。

黒川ダリヤ園

陰陽道では偶数を陰、奇数を陽とします。
そして1月をのぞき、月と日が同じ奇数の日、3月3日・5月5日・7月7日・9月9日は節句とされてお祝いをする習慣がありました。
1月1日は元旦なので、1月のみ1月7日が節句とされました。

1月7日 七草の節句 人日の節句
3月3日 桃の節句  上巳の節句
5月5日 菖蒲の節句 端午の節句
7月7日 笹の節句  七夕の節句
9月9日 菊の節句  重陽の節句


9月9日を重陽の節句というのは、9という陽の数字(奇数)が重なっているためでしょう。
3月3日、5月5日、7月7日も陽の数字(奇数)が重なっているじゃないか、といわれるかもしれませんが
9は一けたの奇数では最も大きい数字なので、奇数を代表する数字であるとして、重陽といっているのではないかと思います。

もちろんこの9月9日というのは陰暦ですから、太陽歴に換算すると10月から11月ごろとなります。
ちょうど菊が見ごろを迎えるころですね。
そういえばダリアってキク科の植物なんですよね。
それを思い出した私は、ダリアの花をめでつつ、重陽の節句を祝っている気分に浸ったのでありました~。

重陽の日(太陽暦9月9日)、京都法輪寺では重陽神事が行われ、菊滋童の舞が奉納されます。

法輪寺 重陽神事2

法輪寺 重陽神事

菊滋童の舞は次のような中国の伝説に基づくものです。

の穆王が寵愛していた少年菊滋童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。


重陽の節句の前夜、菊の花に綿をかぶせ、翌朝、綿についた雫で体を撫でると長寿になると言われていました。
これを「菊の被綿(きせわた)」といいます。

このように菊は不老長寿と関係が深いものであったのです。

法輪寺 菊の被綿 

菊の被綿(法輪寺)

④お茶と喜撰法師


さらに、私はお茶と不老長寿も関係が深いのではないかと考えています。
その理由を説明します。

泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず
という有名な狂歌がありますね。
1853年のペリー来航を詠んだ歌です。

宇治茶に喜撰という銘柄があり、上等なお茶であることから上喜撰といっているのだと思います。
その上喜撰に蒸気船をかけてあるのですね。
さらにお茶の成分であるカフェインには眠気をさます効果があって眠れないことと
蒸気船が四隻(実際には2隻だともいう。)やってきただけで、不安で眠れないことをかけています。

宇治茶の銘柄を喜撰というのは、喜撰法師の次の歌にちなむものだと思います。

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人はいふなり
(私の庵は都の辰巳にあってこうやって住んでいる。世を憂しとして山に入った。宇治山であると人は言っているそうだ。)


またお茶のことを隠語で喜撰といいます。

どうやらお茶と喜撰は関係が深そうです。

市比売神社 抹茶とお菓子

③喜撰法師、喜撰洞に入定する?

高田祟史さんは「わが庵は都の辰」できれ、「巳(み)しかぞ住む」→「みろく(弥勒 ※鹿はろくとよむ)ぞ住む」という意味が隠されているともおっしゃっていました。

宇治には萬福寺という寺があり、天王殿に黄金に輝く布袋像が祀られています。
布袋は弥勒菩薩の化身とされています。

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋像

萬福寺は1661年に創建されたお寺ですが、宇治に弥勒菩薩というイメージがあったため、ここに弥勒菩薩の化身である布袋像が置かれているのかもしれません。

弥勒菩薩とは56億7000万年後に現れるというみほとけです。
そして、かつて即身仏を志した人の目的は56億7000万年後の弥勒菩薩の聖業に参加するためだと聞いたことがあります。

そして宇治には喜撰洞があり、洞内に喜撰法師像が祀られています。
喜撰洞は喜撰法師の棲んだ庵のあとであり、喜撰法師は即身仏となるべく、喜撰洞に入定したのではないでしょうか?

黒川ダリヤ園 すすき

④六歌仙は藤原氏と敵対していた?

古今和歌集仮名序において、名前をあげられた6人の歌人(遍照・在原業平・文屋康秀・小野小町・喜撰法師・大友黒主)は、六歌仙と呼ばれています。

六歌仙は全員、藤原氏と敵対関係にあった人物です。

大友黒主は大伴黒主と記されることもあり、また大友家持とほとんど同じ歌を詠んでいることなどから、大伴家持のことだと思われます。
大伴家持は藤原種次暗殺事件に関与したとして、当時すでに亡くなって埋葬されていたのだが、死体を掘り出されて流罪とされています。
陰陽 黒と白⑩ 大友黒主の正体は大伴家持だった? 

小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと私は考えています。理由を話すと長くなるので、次の記事を読んでください。
陰陽 黒と白⑫ 小野小町は白い神 

遍照・在原業平・紀有常(惟喬親王の叔父)は惟喬親王の歌会のメンバーです。
そして喜撰法師とはこの紀有常またはその父親の紀名虎ではないかとする説があります。

惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で母親は紀静子でした。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えていたのですが、当時の権力者・藤原良房を憚った源信にいさめられ、藤原良房の娘・明子との間にできた惟仁親王(のちの清和天皇)が皇太子となりました。

世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は頻繁に歌会を開いていますが、この歌会のメンバー・遍照・在原業平・紀有常らは歌会と称して惟喬親王を担ぎ上げてのクーデターを計画していたのではないかとする説があります。

文屋康秀は小野小町を「三河に行きませんか」と誘っています。
小野小町=惟喬親王だと考えられるので、文屋康秀もまたクーデター計画にかかわっていた可能性があります。

小野小町像 
髄心院 小野小町像

⑤喜撰法師=紀仙法師=惟喬親王?

④で喜撰法師は紀仙法師で紀名虎または紀有常のことではないかとする説があると書きました。

私も最近までそう考えていましたが、しだいに喜撰法師(紀仙法師)とは惟喬親王のことではないかと考えるようになりました。
つまり、小野小町も喜撰法師もその正体は惟喬親王ではないか、ということです。

惟喬親王の母親は紀静子で、惟喬親王は紀氏の血の濃い親王でした。
当時、藤原氏の血をひく天皇がほとんどで、惟喬親王は紀氏の希望の星だったのです。
ですから、惟喬親王を紀仙法師と呼んでもおかしくはないと思います。

惟喬親王像 

筒井峠 惟喬親王御陵 惟喬親王像

⑨惟喬親王と漆の関係

惟喬親王は京都嵐山の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説があります。
ちなみに、上でお話しした重陽神事も同じ法輪寺です。


法輪寺 ライトアップ

法輪寺

私は先ほど次のようなことを述べました。

・喜撰法師の歌に「みろく(弥勒)」が読み込まれている。
・即身仏になるべく入定した人の目的は56億7000万年後に現れるとされる弥勒菩薩の聖業に参加することだった。
・喜撰洞は喜撰法師が即身仏となるべく入定した洞窟なのではないか。

即身仏になる際には、まず木食といって五穀をたち、木の実や皮を食べる修行をします。
こうすることによって体の脂肪が減ります。
さらに入定する前に漆を飲みます。
漆を飲むことで、食物を吐き出し、胃の中を空っぽにするのです。
また漆には防腐作用があるため、死後腐りにくい体になるといわれています。

惟喬親王が法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩から漆の製法を授かったという伝説は、彼が入定して即身仏になったところから創作されたのではないでしょうか?

即身仏になるため入定する際、漆を飲みますが、これを「漆のお茶を飲む」と記されたサイトがありました。
漆の木に傷をつけると乳白色の樹液がでてきます。
しかし、すぐに酸化して茶色くなります。その色はほうじ茶のような色です。

戦国武将たちは茶の湯をたしなみましたが、それは茶の湯に入定する際に飲む漆のイメージがあったのではないでしょうか。
つまり、茶の湯は漆を飲んで不老長寿になるというおまじないであったのではないかと思うのです。

 

黒川ダリヤ園3


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[2018/10/31 19:12] 兵庫県 | トラックバック(-) | コメント(-)