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川原寺 彼岸花 飛鳥光の回廊2018 『飛鳥に置き去りにされた寺』 

 
川原寺 彼岸花 

川原寺 彼岸花

①川原寺の謎

棚田と道路を挟んで橘寺の北側に川原寺があります。

この寺は謎の多い寺で「謎の大寺」と呼ばれています。その謎とは・・・

a.日本書紀に創建の記述がない。
b.川原寺は、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ飛鳥の四大寺とされる。
 平城京遷都の際、ほかの三寺は移転したが、川原寺のみ飛鳥にとどまった。
c.伽藍配置は一塔二金堂式の特異なもの(中金堂の手前右(東)に五重塔、西に西金堂が建つ。)
d.中金堂の礎石には大理石の礎石が使用されている。(寺伝は瑪瑙と記している。)
e.川原寺の裏山の板蓋神社から、千数百点におよぶ塑像の断片や塼仏が発掘された。
 川原寺裏山からは、20cm×20㎝ほどの板状の塼に三尊仏を浮き彫りにした三尊塼仏が大量に発掘されている。
 このような例はほかにない。
 仏堂の壁面を塼仏で埋め尽していたという説が有力。

 川原寺 夕景 
川原寺 夕景

②平城遷都後、興福寺が弘福寺にとってかわった?

昔、梅原猛さんの「隠された十字架」の中で川原寺について述べられていたと思いますが、内容を忘れてしまいました・・・。
本は誰かに貸して戻ってこず、手元にないので、近々図書館で借りて読み直そうと思います。

ですが、インターネットをぐぐってみると、次のような内容がでてきました。

平城京移転にともない、飛鳥の三寺院(薬師寺・法興寺・大官大寺)も移転した。
薬師寺はそのまま薬師寺と称したが、大官大寺は大安寺、法興寺は元興寺と改称された。

本薬師寺跡 

本薬師寺跡 布袋葵

薬師寺 日の出 

薬師寺 日の出

方興寺は「法が興った寺」という意味だろうが、改称された元興寺というネーミングは「元興った寺=古びた寺」という印象で屈辱的である。

元興寺 萩 
元興寺 萩


飛鳥の四大寺のうち、川原寺は移転せず、かわりに山階寺が移転して興福寺と称した。
川原寺は別名を弘福寺という。広福寺は「ぐふくじ」とよむが、「こうふくじ」とも読め、興福寺が弘福寺にとってかわったようにも思える。


興福寺 夕景 
興福寺 夕景

「隠された十字架」にこのような内容が書かれていたように思いますので、それを参考に記されたものだと思います。

加藤優さんの「興福寺と伝戒師招請」関晃先生古希記念会編『律令国家の構造』、吉川弘文館、1989年 には次のような内容が記されているそうです。

唐で「弘福寺」が「興福寺」と改名された事例がある。奈良の興福寺は飛鳥に留まった川原寺(弘福寺)を移転・継承する意図も含まれていたのではないか。

③二金堂を三金堂にグレードアップ?

川原寺の伽藍配置は一塔二金堂式、2つの金堂がありました。

金堂とはご本尊を安置する建物で、一つの寺に一つの金堂が置かれるのが一般的です。
川原寺のように金堂が二つあるというのは珍しいのです。
あと珍しいケースとしては興福寺があります。
興福寺にはかつて中金堂・東金堂・西金堂の3つの金堂がありました。
川原寺(弘福寺)のかわりに奈良に移転されたのが興福寺でしたね。
川原寺(弘福寺)の二金堂をグレードアップして、興福寺は三金堂にしたのかも?

川原寺 飛鳥光の回廊2018 
川原寺 飛鳥光の回廊2018

④川原寺は橘寺と関係がある?


上の地図を見ていただくとおわかりいただけるように、川原寺は橘寺と対面するように建てられています。

橘寺は聖徳太子が創建したと伝わりますが、発掘調査結果などから、天智天皇代創建の可能性が高いとされています。
そして橘寺は川原寺と対を成す尼寺として建立されたのではないかとする説が有力です。

橘寺のご本尊は聖徳太子です。

ということは、川原寺もまた聖徳太子信仰の寺であったと考えられるのではないでしょうか。

川原寺の現在の本尊は十一面観音です。この十一面観音は聖徳太子と同一視されていたのではないかと思ったりします。
(かつての川原寺の本尊は十一面観音でなかった可能性もありますが)

橘寺 彼岸花 
橘寺 彼岸花

そう考えるのは、かつて京都北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺に次のように記した石碑が建てられているからです。
「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」
天満宮とは北野天満宮の御祭神・菅原道真のことだと思います。
本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。
本地垂迹説とは日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものであるとする考え方です。
そして仏教の神が仮にこの世に姿をあらわした日本古来の神々のことを「権現」、
日本古来の神々のもともとの姿である仏教の神々のことを「本地仏」といいました。
つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味になると思います。

東向観音寺 

東向観音寺


これと同じで、聖徳太子も十一面観音の生まれ変わりであるとの信仰があったのではないでしょうか。

⑤天武天皇、川原寺を重用する。

川原寺の創建については日本書紀は何も記さないのですが、天武天皇の代に川原寺が重用されたことについては記しています。

天武天皇(673年)二年 書生を集めて川原寺で一切経の書写を始めた。
朱鳥元年(686年)四月 新羅の客人を饗応するために川原寺の伎楽(舞人、楽人、衣裳)を筑紫に運んだ
朱鳥元年(686年)五月 天皇は病平癒のため、川原寺で薬師経を説かせた。
朱鳥元年(686年)六月 百官の人々を川原寺に遣わして燃灯供養を行い、盛大な斎会を設けて悔過を行った
朱鳥元年(686年)九月 親王、諸臣、川原寺に集い、天皇の御病平癒のために祈願した。

⑥天武天皇の崩御日は本当に9月9日?

天武天皇は朱鳥元年9月9日(686年10月1日)に崩御されたと記録されていますが、崩御日が朱鳥元年9月9日というのはちょっと怪しいと思います。

9月9日は重陽の節句です。
唐で624年に記された芸文類聚には、「魏の文帝が鍾馗へ菊花を贈った」という記事があるそうです。
当時の日本は大陸から大勢の人がやってきていますし、遣唐使も派遣していますから、9月9日が重陽の節句であることを知っている人がいたのではないでしょうか。

重陽の節句に関係するものとして、菊滋童の伝説が伝えられています。
菊滋童とは菊の葉についたしずくを飲んで、不老長寿を得た童のことです。
天武天皇は崩御されましたが、天武天皇の魂は永遠に生き続けますようにという願いをこめて、この日を崩御日としたのではないかと思ってしまいます。

法輪寺 菊滋童の像 
法輪寺 菊滋童の像

⑦天武天皇の病の原因は聖徳太子の怨霊の祟り?

それはともかく、朱鳥元年に川原寺で行われた数々の行事は、天武天皇の病回復を祈るものだと考えられます。
ということは、天武天皇の病回復を聖徳太子に祈ったということになるのではないでしょうか。

また、これが正しいとすると、なぜ天武天皇の病回復を聖徳太子に祈ったのでしょうか?
④に「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」というような意味だと書きましたが
菅原道真は怨霊として有名です。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていました。
そこで怨霊が祟らないように神として祀られました。
このような例はほかにも井上内親王、早良親王など多数あります。
すると聖徳太子もまた怨霊である可能性が濃厚です。
梅原猛さんは「聖徳太子の子孫は全員蘇我入鹿に攻められて斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって死んでいる。そのため聖徳太子は怨霊として畏れられた」との旨を語っておられました。

もしかして、天武天皇の病は聖徳太子の怨霊のしわざであると考えられ、それで川原寺(聖徳太子の本地仏を祀っていた?)を重用したのかも?

「聖徳太子よ、あなたを神としてたたえます。なのでどうぞ、お許しください!」

大聖将軍寺 神妙椋樹  

大聖将軍寺 神妙椋樹

⑧天武天皇即位は聖徳太子の血筋が絶えることによって実現した?

 
(27)安閑天皇
 
 
石姫皇女
(欽明天皇后)
 
 
 
 
 
 
(28)宣化天皇
 
 
上殖葉皇子
 
十市王
 
多治比古王
 
多治比)
 
 
 
 
 
 
 
(29)欽明天皇
 
(30)敏達天皇
 
押坂彦人
大兄皇子
 
(34)舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日皇子
 
 
茅渟王
 
(35)皇極天皇
(37)斉明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大派皇子
 
 
 
 
 
 
(36)孝徳天皇
 
有間皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
難波皇子
 
大俣王
 
栗隈王
 
美努王
 
諸兄
橘氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(31)用明天皇
 
厩戸皇子
聖徳太子
 
山背大兄王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(33)推古天皇
 
 
来目皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(32)崇峻天皇
 
 
当麻皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穴穂部間人皇女
 
 
殖栗皇子
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87より引用


聖徳太子は31代用明天皇の第二皇子で、母親は29代欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女でした。
しかし用明天皇崩御後、用明天皇の異母弟の32代崇峻天皇が即位、崇峻天皇崩御(蘇我馬子に殺害されました。)後は用明の同母妹の33代推古天皇が女帝となり、聖徳太子は推古天皇の摂政となりました。

推古天皇崩御後、聖徳太子の第一皇子である山背大兄王か、田村皇子(舒明天皇)のいずれに皇位継承させるかでもめましたが、田村皇子が即位して34代舒明天皇となりました。

のち、山背大兄王は蘇我蝦夷蘇我入鹿に攻められ、一族とともに法隆寺(斑鳩寺)で首をくくって死んでしまいました。
こうして聖徳太子の血筋は絶えてしまいました。

法隆寺 スーパームーン 

法隆寺 月

舒明天皇崩御後は舒明天皇の皇后で敏達天皇の弟・茅渟王の娘の35代皇極天皇(斉明天皇は同一人物)が即位しています。

言葉で説明するとややこしいですが、ウィキペディアの表を見ると、皇位継承の系統において、用明天皇―聖徳太子ー山背大兄王の流れが不幸な形で途切れ、
その結果、それまでは日の目をみることがなかった舒明天皇の流れへ移行したように見えます。

35代皇極天皇は36代孝徳天皇(皇極天皇同母弟)崩御後、再び皇位について37代斉明天皇となります。

斉明天皇には舒明天皇との間に、中大兄皇子と大海人皇子があり、中大兄皇子が38代天智天皇、大海人皇子が39代天武天皇となって舒明天皇の流れでの皇位継承が続いていきます。

そういうわけで天武天皇は血筋の絶えてしまった用明天皇ー聖徳太子―山背大兄皇子らの祟りを恐れていたんだったりして?

川原寺 飛鳥光の回廊2018 



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