むかし、二条の后のまだ春宮のみやすん所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよ りたまはりて、よみたてまつりける。
(昔、二条の后が、まだ東宮の御息所と申しあげていた時、藤原氏の氏神である大原野神社に参詣されましたが、この近衛府に勤めていた翁が、お供の人々が禄を賜る機会に、御息所の御車から賜って、詠み奉った歌。
大原の 小塩の山も 今日はまさに 神代のことを 思い出していることでしょう。)
②中宮になった藤原高子
「二条の后」とは人臣初の摂政となった藤原良房の養女で藤原基経の妹の藤原高子のことです。
藤原高子は866年、25歳で8歳年下の当時17歳の清和天皇に入内しました。
「春宮の御息所と申しける時」というのは、「藤原高子(二条の后)が『春宮の御息所』と呼ばれていたとき」という意味です。
高子は868年に清和天皇の皇子・貞明親王(のちの陽成天皇)を産みました。
貞明親王は生後3か月で皇太子となり、876年に即位しています。(陽成天皇)
高子が『春宮の御息所』と呼ばれていたのは、陽成天皇が皇太子であった869年から876年です。
高子は877年に皇太夫人・中宮となっています。
③皇后・中宮になりたいという望みをかなえてくれる大原野神社
「氏神」は藤原氏の氏神をまつる神社のこと。
藤原氏の氏神を祀る神社は奈良の春日大社などいくつかありますが、ここでは大原野神社をさします。
大原野神社は皇后・中宮になれますようにと祈願する神社で、祈願がかなえられると行列を作ってお礼まいりをする習慣がありました。
藤原高子は自分が中宮になれる可能性が決定的になったことで、大原野神社に参拝をしたのでしょう。
④高子と業平のスキャンダル
近衛づかさにさぶらひける翁とは、877年に右近衛権中将になった在原業平のことだと考えられています。
高子が大原野神社を参拝したのは、876年~877年ごろのことでしょうか。
さきほど「高子は25歳で清和天皇に入内した」と書きました。
25歳というのは当時としては晩婚です。
その理由としては高子と在原業平のスキャンダルが関係しているともいわれます。
「伊勢物語 芥川」では、業平と高子が駆け落ちをする様子が記されているのです。
「駆け落ちの途中、高子は鬼に食われてしまった」と記されていますが、実は高子は兄の藤原基経に連れ戻されたのです。
これを業平は地団太をふみ、泣いてくやしがったとあります。
⑤業平は高子の清和天皇入内を阻むため駆け落ちをした?
情熱的な恋の物語?
私はそうではないと思います。
高子は業平のことを愛していたと思いますが、業平はそうでもなかったのではないかと思います。
その理由は古今和歌集の詞書に次のようにあるからです。
五条の后の宮の西の対にすみける人に、本意にはあらで物言ひわたりけるを、
これは「五条の后(仁明天皇の后、藤原順子)の宮の西側の建物に住んでいる人(藤原高子のことだと考えられています。)に、業平は本気ではなかったのだが通っていたが」という意味になります。
業平はなぜその気もないのに高子のもとへ通い、駆け落ちまでしたのでしょうか?
⑥業平は自分の子供を産ませるのが目的で、高子に近づいた?
業平と高子は駆け落ちをしているところから、高子が産んだ貞明親王(のちの陽成天皇)は業平の子ではないかとする説があります。
そして百人一首の絵札の、弓矢を背負う業平の姿は陽成天皇を守る姿であるという話を聞いたこともあります。
業平がその気もないのに高子のもとへ通っていたのは、清和天皇に入内する予定の高子を妊娠させるのが目的だったのでは?
高子が産んだ子は清和天皇の皇子とされるはずです。
そしてその皇子は将来皇太子となり、天皇となる可能性がきわめて高いです。

これはうちにある古い百人一首かるた。私の年より古いです。
子供のころ、お正月によく百人一首かるたをしたり、坊主めくりをしたりして遊びました。⑦天皇の孫なのに、臣籍降下した在原業平
在原業平の祖父は平城上皇、父親は阿保親王でした。
ところが平城上皇は嵯峨天皇と対立して挙兵し、敗れてしまいました。(薬子の変)
このため、平城上皇は出家し、阿保親王は連座したとして大宰府に流罪となります。
10年以上たち、ようやく阿保親王は許されて京に戻りました。
そして阿保親王は自分の子供(在原行平・業平ら)の臣籍降下を願い出て許されています。
阿保親王は自分の子供たちを臣籍降下させることによって、反逆する気持ちがないことを示そうとしたのではないでしょうか。
⑨業平は平城上皇の竜田川の歌をふまえて「ちはやぶる・・・」の歌を詠んだ?百人一首にもある在原業平の有名な歌といえば
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平)
ですが
龍田川の紅葉については、業平の祖父・平城上皇も歌に詠んでいます。
龍田河 もみぢみだれて 流るめり 渡らば錦 なかや絶えなむ(平城上皇)(龍田川の上を紅葉が乱れて流れている。私が渡ると紅葉の錦がちぎれてしまうだろう。)
祖父(平城上皇)と孫(在原業平)がどちらも龍田川の歌を詠んでいるのは、偶然なのでしょうか。
そうではないと私は思います。
業平は平城上皇の龍田川の歌を受けて、自分も龍田川の歌を詠んだのだと思います。
平城上皇は竜田川を皇位継承の血筋に喩えているのではないでしょうか。
そして自分が薬子の変をおこしたため、私の子孫は皇位につくことができないということを「錦 なかや絶えなむ」と呼んだのだと思います。
業平の
「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌は平城上皇の歌を受けて詠まれたものだと思います。
「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」と業平は詠んだのだと思います。

竜田川
⑩「神代のこと」とは政権交代を意味している?大原や をしほの山も けふこそは 神世のことも 思ひいづらめ/在原業平
この歌は「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」と関連付けて鑑賞するべきだと思います。
先ほど私は「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌の意味は
「平城上皇が薬子の変を起こしてちぎれてしまった皇位継承の血筋が、貞明親王(のちの陽成天皇)が皇太子になったことによって括られた。こんなことは神代にもなかったことだ」という意味ではないか、と書きました。
「神代にもなかった(神代も聞かず)」なのか、はたまた「神代のことも思ひいづらめ」ということは「神代にあった」のか、どっちなんだという感じですが
謀反人となった人がその後皇位についたとか、神の最上位についたという話はないと思います。(間違ってたら教えてね~)
でも、政権交代はあったと思います。
天皇家は万世一系といいますが、実は万世一系ではないと私は考えています。
初代神武天皇が日向から東征して畿内入りするより早く、物部氏の祖神・ニギハヤヒが畿内には天下っていたと記紀には記されています。
ここから、畿内には神武以前、物部王朝があったとする説があります。
ニギハヤヒは別名を天照国照彦火明櫛玉饒速日命といい、本当の天照大神とはニギハヤヒではないかとする説があります。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
上記、アンサイクロペディアは初代天皇を天照国照彦天火明櫛玉饒速日としています。
アンサイクロペディアってすばらしい!
それはさておき、奈良・大神神社の御祭神・大物主神は別名を倭大物主櫛甕魂命といいます。
天照国照彦火明櫛玉饒速日命と倭大物主櫛甕魂命は櫛と玉(魂)が同じなので、同一神だとする説があり、私はこれを支持しています。
三輪山
肩野物部氏の本拠地である大阪府交野市・枚方市あたりには神殿のない神社がいくつかあります。(星田妙見宮・磐船神社・片埜神社の境外社・瘡神社など)
そして大神神社にも神殿はなく、拝殿から直接ご神体の三輪山を拝するという祭祀スタイルです。
神殿を持たない祭祀スタイルは物部氏の祭祀スタイルではないかと思うのです。
で、初代神武天皇の皇后が大物主の娘のヒメタタライスケヨリヒメです。
神武天皇は物部王朝の入り婿になることで、物部氏より政権を奪ったのではないでしょうか。
古代エジプトでも、王家の女性と結婚した男が王になったケースがあったといいますが、これと同様のことが古の日本でもあったのではないかと思えます。
神武天皇以前の神代にも、同様のことがありました。
天照大神の孫のニニギが葦原中国に天下り、芦原中国のオオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメと結婚しています。
ニニギは高天原から葦原中国へやってきてコノハナサクヤヒメと結婚したのですから、ニニギも入り婿になったということでしょう。
さらにその後、ニニギの子の山幸彦は竜宮に行き、海神の娘の豊玉姫と結婚しています。やはり入り婿ですね。
ニニギや山幸彦の話は別国にいって、別国の王国の入り婿となって、政権を奪うという話ではないでしょうか。
そしてそれらの神話は、神武が物部王朝の入り婿となって政権を奪ったことを、神代に投影した物語のように思えます。
そして業平が詠った「神世のこと」とは、ニニギまたは山幸彦の「入り婿になって政権交代しよう作戦」のことではないかと思えます。
業平は入り婿になったわけではありませんが、高子に自分の子供を産ませることによって、自分の子孫が皇位につく。
これは政権交代といってもいいでしょう。
磐船神社 拝殿より直接御神体の天の磐船を拝します。
●陽成天皇の父親が在原業平であることがばれた?皇太子となった貞明親王は9歳で即位して陽成天皇となります。
そして高子の兄の藤原基経が摂政となりました。
ところがどうも陽成天皇の父親が業平であることが基経にばれたみたいですね。
私がこう思うのは、陽成天皇が源益を殴殺したといて退位させられているからです。
基経は陽成天皇の叔父です。
仮に陽成天皇が源益を殺したというのが本当でも、甥が天皇であるということは基経にとってメリットが大きいはずなので
普通なら事件をもみ消すんじゃないでしょうか。
さらに基経と高子は実の兄妹でありながら大変仲が悪かったとされます。
これらは陽成天皇の父親が業平であることが、高子の兄・藤原基経にばれたのだと考えると辻褄があうように思えます。
また、高子は東光寺の座主善祐と密通したという疑いをかけられて、皇太后を廃されていますが、これも兄基経に事の次第がばれた結果、ありもしない疑いをかけられた可能性が大だと思います。
そしてその後、陽成天皇の子孫が皇位につくことはありませんでした。
こうして業平の計画は失敗に終わってしまったのです。
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