京都市南区 吉祥院天満宮
吉祥院六斎奉納 8月25日
世間ではボンジョヴィ音頭が流行っているようですが、吉祥院天満宮では吉祥院音頭です。さあさ、みんなで吉祥院音頭~♪①菅原氏ゆかりの土地吉祥院天満宮は平安遷都の際、菅原道真の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が天皇の伴として京都にやってきて、
土地を賜って邸宅を建てた場所と伝わります。
道真の祖父・菅原清公は土師をあらためて菅原姓を名乗るようになりました。
菅原清公は802年、最澄・空海とともに遣唐使として唐にむかいましたが、その途中で嵐に遭遇しましたが、吉祥天女の霊験が菅原清公らを救ったといいます。
菅原清公は805年に帰国しました。
吉祥院六斎が始まったよ!その後、菅原清公または道真の父の菅原是善がここに吉祥天女を祭りました。
菅原道真は845年にここで生まれ、18歳までここで過ごしたと伝わります。
でも、道真生誕の地と言うのは各地にありまして~(笑)
菅原天満宮(奈良)付近、菅大臣神社(京都)付近、菅生天満宮付近(堺市)菅生寺付近(奈良𠮷野)など・・・・
菅原道真は一体何人いたんだって感じですね~(笑)
激しいビートはまるでヘビメタ。②朱雀天皇はなぜ吉祥院天満宮を創祀したのか?菅原氏は身分が低く、身分が低いと政治家にはなれなかった時代において、菅原道真は右大臣にまでのぼりつめています。
菅原道真はよほど才能があったんでしょうね。
ところがこれに左大臣の藤原時平が嫉妬。
時平は醍醐天皇に「道真は謀反を企てている」と讒言し、道真は大宰府に左遷となって数年後の903年に亡くなってしまいました。
その後、都では疫病の流行や天災などが相次ぎ、それらは道真の怨霊の仕業であると考えられました。
道真は怨霊だったのですね~。
陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂、神に転じると考えるそうです。
そういうわけで道真は学問の神として各地の天満宮で祀られているのですね。
ノリノリですね。ここ吉祥院天満宮は朱雀天皇の勅願によって934年に創祀されたと伝わります。
朱雀天皇は道真を大宰府に左遷した醍醐天皇の皇子です。
930年、清涼殿に落雷があって、道真左遷にかかわった多くの人物が死傷しました。
醍醐天皇は道真の怨霊を恐れてノイローゼとなり、その3か月後に崩御されたとも伝わります。
そして940年には平将門の乱・藤原純友の乱がおこり、これらも道真の怨霊のしわざであると考えられました。
「道真の怨霊は醍醐天皇の皇子である私を恨んでいる!」
醍醐天皇の皇子である朱雀天皇はそう考え、道真を慰霊するため吉祥院天満宮を創祀したのではないでしょうか?
③六斎念仏の創始者は空也ではなく一遍上人?吉祥院天満宮の境内には立派な舞楽殿があり、古くからここで六斎念仏が行われていたことがうかがえました。
六斎念仏のルーツは平安時代の僧・空也の踊念仏だといわます。
951年、京で疫病が流行り鴨川は死体であふれかえるほどの惨状となったとき、空也はに自ら十一面観音を刻み、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら車に乗せてひきまわしたという伝説があります。
だけど、「南無阿弥陀仏」と称えるのに、空也はなぜ阿弥陀仏ではなく十一面観音を刻んだのでしょうね。
私は六斎念仏の創始者は平安時代の空也ではなく、鎌倉時代の一遍上人ではないかと考えています。
また空也とは平将門の首を聖人化したものだと思います。
詳しくは別ブログのこちらの記事をお読みください→
土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち
一遍聖絵 四条釈迦堂で踊念仏をする僧たち。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Ippen_Biography_3.jpg よりお借りしました。
作者 En'i (円伊) (Tokyo National Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
④光秀軍戦死者慰霊のための六斎念仏吉祥院天満宮の六斎念仏のおこりは、戦国時代、山崎の戦い(豊臣秀吉vs明智光秀)で光秀軍の残党がここ吉祥院で多数戦死し、その霊を弔うために始まったと言われます。
明智光秀は織田信長に仕えていましたが、上司の信長から随分とパワハラを受けていたらしい?
それで明智光秀は部ちぎれて本能寺の変で、信長を自害に追いやったとされます。
このときやはり信長に仕えていた秀吉は備中に出兵していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて引き返し光秀軍と闘ったのです。(山崎の戦い)
光秀は敗走する途中、落ち武者狩にあって亡くなったとも、自害したとも伝えられます。
亀岡光秀まつり 『愛宕百韻は光秀の信長打倒の意思表明?』
四つ太鼓⑤岩見重太郎の狒々退治京都にはたくさんの六斎会がありますが、異なる演目があったり、同じ演目であっても少しづつ演じ方がちがうのがオモシロイです。
吉祥院六斎保存会では「岩見重太郎の狒々退治」をテーマとした演目がありました。
おー、岩見重太郎!
吉祥院天満宮の旅は、かつての野里住吉神社の旅、へとつながっていきます!
野里住吉神社 一夜官女祭 『岩見重太郎の狒狒退治伝説』
岩見重太郎の狒々退治野里住吉神社の伝説にも岩見重太郎(薄田隼人正兼相)が登場していました。
岩見重太郎は小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男ですが、叔父の薄田七左衛門の養子となって薄田隼人と名乗るようになりました。
小早川隆景の死後浪人となり、のちに豊臣氏に仕官しました。
大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて陣頭指揮を取りましたが戦死しています。
岩見重太郎が狒々退治をしたという話は野里住吉神社だけでなく、各地に伝わっています。
狒々とは大きな猿のような姿をした妖怪で、人間の女性を襲うとされています。
四つ太鼓 p秀吉はその容貌から「猿」と呼ばれていましたし、たいへん女好きでした。
狒々とは大きな猿の姿をした妖怪で、人間の女性を襲うのでしたね。
狒々とは秀吉のことなのかも?と私は考えました。
思い出してください。
吉祥院は秀吉軍とたたかった光秀軍の残党が大勢戦死した場所でしたね。
そしてこれらの戦死者を弔うために始まったのが、吉祥院六斎でした。
その吉祥院六斎において、岩見重太郎の狒々退治が行われるのはなぜなんでしょうか?
野里住吉神社で考察したとおり、やはり狒々とは秀吉のことで、秀吉軍に敗れて死んだ者たちのため、狒々を退治しているのではないでしょうか?
獅子 p
土蜘蛛と獅子 p
何回撮っても難しいです~。またチャレンジします。※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2018/08/29 21:59]
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