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五條新町 百日紅 吉野川夕景 夜景 『キリシタン弾圧と島原の乱』 

五條新町 百日紅 
城下町五條新町。
涼しい風が通りを吹き抜け、ちりりんちりりんと風鈴の音が聞こえます。

この地区の建造物330棟のうち143棟が伝統的建築物に指定されていますよ!
これはもう、町全体がアンティークだと言っても過言ではない!

吉野川より五條新町を望む 
吉野川より五條新町を望む

①五條新町を作った松倉重政

五條新町のもとを作ったのは松倉重政という人物です。
1600年、27歳の松倉重政は関ケ原の戦いで東軍の井伊直政隊に参加しました。
1603年、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。
1608年、35歳の松倉重政は関ケ原の戦いでの戦功が評価され、十市、高市、宇智郡で一万石余を拝領して大名となり、二見城(五條市二見)の城主となります。

二見城の城主となった松倉重政は吉野川沿いに新町筋を作り、この通りに面して100件弱の商家を各地から誘致しました。

誘致に際し、「諸役免許のこと」を条件としたため、多くの商家が集まり、あっという間に城下町が形成されたようです。
このとき松倉重政の誘致によって新しくできた町なので新町とよばれました。

1610年に「松倉豊後守様御免許状御墨付」なるものが新町に交付されており、「新町諸役萬是迄のことくめんきよの事」と記されているので、このときすでに新町がほぼできあがっていたことがわかります。

「松倉豊後守」とありますが、「守(カミ)」とは国司のことです。
しかし、守は名目にすぎず、実際の領地とは関係がないことが多いとのことです。

松倉重政も松倉豊後守という役職ではありますが、豊後(大分県あたり)とは関係がなく、十市、高市、宇智郡をおさめていたのでしょう。

その後松倉重政は1614年の「大坂冬の陣」・1615年の「大坂夏の陣」で戦功をあげ、
1616年、43歳の松倉重政は、島原4万3千石の城主になります。新町は天領(江戸幕府の直轄地)となりました。

五條新町 御霊神社 
御霊神社

②島原城築城と過酷な税のとりたて

島原には日野江城や原城がありましたが、重政は、これを廃して島原城を築城しました。(1618年築城開始。1624年完成)
また、周辺に商工業者を誘致して城下町を建設しました。
城下町の町家は1,000軒に及んだといわれます。
五條新町の商家は100件程度だったので、新町の10倍もの規模の城下町だったということになりますね。

しかし、石高に対して城の規模が大きすぎ、家臣団も10万石に匹敵するものであったといいます。

江戸城馬場先門の石垣普請を命ぜられたおりも、十万石の課役を申しでて許可されています。

これらの費用の出どころはもちろん税でした。
検地を行って、領内石高を実際の倍に見積もり、非常に過酷な税をとりたてたんだそうです。

五條新町は免税にしたのに、なんで島原は重税にしたんでしょうか?

当時、大名たちの間にライバル心があったようで、そういう意識から、石高を多く見積もったり、大きな城をたてたり、無理な公儀普請役をひきうけたりということがあったといいます。

例えば、土佐山内家は10万8千石の石高なのに、20万石として幕府に申請しています。
隣の徳島蜂須賀家が淡路を加増されて25万石余になると、これに対抗して24万石と申請しましたが、
さずがに過大であるとして幕府に認められませんでした。

五條新町 餅商一ツ橋さん

③キリシタン弾圧

日本にキリスト教が伝来したのは1549年、フランシスコ・ザビエルによってとされます。
キリスト教の布教は南蛮貿易と密接な関係があったといわれます。
キリスト教の宣教師派遣の際には商人たちが同行するのが常で、その利益のうちいくらかは教会に還元されるシステムになっていたのだとか。
九州の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信氏らがキリシタン大名となったのも、純粋な信仰心からというよりは、南蛮貿易によってもうけようというスケベ心からだったのではないでしょうか。
キリシタン大名はキリスト教を保護し、教会を建てたりしたため、民衆の間にも信者が増えていきました。

1586年、豊臣秀吉は九州に出兵し、住民の強制的なキリスト教への改宗・神社仏閣の破壊・ポルトガル人が日本人を奴隷として売買しているという事実を知ります。
このとき長崎はイエズス会の所領になっていたともいいます。
このため秀吉はバテレン追放令を出しました。

五條 新町通り

1612年、江戸幕府は禁教令を出しました。カトリック教国の植民地政策を排除するのが目的でした。

1617年、家康の死後、将軍秀忠は、禁教令をさらに徹底します。
また、イギリス船とオランダ船の着岸を平戸に、ポルトガル船を長崎に制限しました。

1622年、元和の大殉教で、幕府はイエズス会司祭や日本人信者など55名を処刑しています。

島原城主の松倉重政は長崎で唐物類を購入したり、数度にわたって朱印船を出したり、1621年平戸のイギリス商館に重臣を遣わしたりしています。
そのためキリシタンについては寛容であったようですが
三代将軍徳川家光に呼び出され、「キリシタンの対応が甘ーい!」と注意を受けました。
そのため松倉重政は改宗しないキリシタンに拷問を行うようになりました。

顔に「吉利支丹」という文字の焼き籠ごてを押したり、指を切り落としたり、雲仙地獄で熱湯をかけたり、1mほどの穴の中に逆さに吊るし、穴の中には汚物を入れる・・・。
http://martyr-hall.com/jyunkyo.html

また税金を払えない者に対しても両手を後ろ手に縛って蓑で覆い、火をつける拷問(蓑踊り)などを行ったそうです。

五條新町 宝満寺 
宝満寺

④ルソン島出兵計画、そして急死、

1630年、松倉重政は長崎奉行の竹中重義とともにキリシタンの本拠地・フィリピンのルソン島(イスパニアn植民地。イスパニアはスペイン)に出兵する計画もたて、幕府に許可をえて視察のため、船をルソンに向けて出港させています。
そのあと重政は小浜温泉に立ち寄り入浴中で急死してしまいました。享年57歳。

竹中重義が刺客を放って暗殺したのではないか、という説もあります。
結局ルソン島出兵は行われなかったようです。

五條新町 酒蔵

⑤島原の乱

その後、松倉重政の長男・松倉勝家が島原城城主となり、さらにキリシタン弾圧をすすめ、領民には重税を課しました。
1634年ごろより凶作となりましたが島原藩は救済策をとりませんでした。

1637年、ついに島原の乱がおこります。
松原勝家が江戸へ行って留守のすきを狙い、数名の代官が一揆宗に殺害されました。
一揆勢は島原城を攻めますが、落とすことはできず、原城の跡に立て籠もります。

幕府は一揆討伐軍を派遣、一揆勢は総大将の天草四郎ほか、ほとんど全員が戦死して島原の乱は終結しました。
松倉勝家は大乱を招いた責任を問われ、切腹も許されず、絞首刑となって没しました。

五條新町 渡り廊下のある建物

⑤キリスト教弾圧・鎖国政策は日本の植民地化を防ぐためだった?

幕府は1633年に第1次鎖国令、1634年に第2次鎖国令、1635年に第3次鎖国令、1636年に第4次鎖国令を出していましたが、
島原の乱後の1639年にさらに第5次鎖国令を出して諸外国とのかかわりをほとんど絶っています。

それは当時西欧諸国が各地に植民地を作っており、秀吉は江戸幕府は日本が先進技術にすぐれた西欧諸国の植民地になることを防ごうとしたのだとする説があります。
おそらくそうだと思いますし、妥当な対応であったと思います。

ときどき西欧諸国の植民地支配をもって「西欧人は残酷で、日本人は残酷ではない」と論じる人がいますが、
松倉重政・勝家らが行った拷問を考えると、「日本人は残酷ではない」とは言い難いと思います。

またキリスト教が西欧諸国の植民地拡大政策の道具とされていたことも確かで、こういう事実をみると、宗教がいいものであるとはどうしても私には思えません。(無宗教です。)

1853年にペリーが率いる黒船が来往して、日本は開国に向けて動き出しますが、このとき尊王攘夷論がおこったのは、植民地化されたくないという思いのあらわれだったのかも?

1890年の大日本帝国憲法では宗教の自由を謳いながらも、政府は「神道は宗教ではない」という理由をつけて、神道・神社を他宗派の上位に位置づけましたが、
江戸時代初期の西欧諸国のキリスト教布教と植民地拡大政策を考えると、これも無理からぬことだったのかなあと思ったりします。

ですが「神道は宗教ではない」という理屈はどう考えてもこじつけた感が強く、二枚舌だという印象です。

五條新町 新町橋付近  



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[2018/08/27 00:08] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)