Author:佳音
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京都市左京区 涌泉寺松ヶ崎題目踊り・・・8月15日 16日 ①妙法送り火と題目踊り8月16日の送り火では、松ヶ崎は妙法の文字を点火します。日蓮宗のお題目、南無妙法蓮華経の妙法ですね。なぜ妙法の文字を点火するのかというと、このあたりに住んでいる人々はみな日蓮宗信者なのだそうです。そして妙法の文字を点火したのち、題目踊りが行われます。松ヶ崎の人々が輪をつくるように並び、膝の前で扇子をぱたぱたと動かし「南無妙法蓮華経」と唱えながら手進みます。伝説によれば、鎌倉時代に日像が松ヶ崎に日蓮宗を伝え、村民すべてが日蓮宗に改宗したことから題目踊りが始まったとされます。盆踊りの一種と考えることができると思いますが、華やかな徳島の盆踊りとは対照的で、地味で素朴な踊りです。ですが、味わいのある踊りに惹かれて大勢の方が見にこられていましたよ。 ②南無阿弥陀仏から南無妙法蓮華経へ?盆踊りのルーツは平安時代に空也上人(903~972年)始めた踊念仏だと言われています。念仏とは仏教の行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号(仏や菩薩の名前)を称えることをいいますが日本では称名念仏(仏の名前を称えること)、特に浄土教で「南無阿弥陀仏」と唱えることをさすことが多いです。南無とはサンスクリット語(古代インドなどで用いられていた言語)を漢語へ音写したもので「私は帰依します」という意味で南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏に帰依します」という意味になります。一方、南無妙法蓮華経とは「法華経の教えに帰依します」という意味で、日蓮宗などで称えられます。平安時代の空也が始めた踊念仏が「南無阿弥陀仏」と唱えながら踊るものだったので、日蓮宗を信仰する松ヶ崎の人々は「南無妙法蓮華経」と唱えるようになったのかも?しかし私は空也が南無阿弥陀仏と唱えながら踊る踊念仏の創始者だというのは怪しいと考えています。踊念仏の創始者は鎌倉時代の一遍上人(1239~1289年)じゃないかなあ?一遍上人は日蓮宗の創始者の日蓮(1222~1282年)とほぼ同時代の人物です。その理由は・・・ ③怨霊・菅原道真は人々に祟るのをやめ、人々にご利益を与える十一面観音になることを望んだ?951年、京で疫病が流行り鴨川は死体であふれかえるほどの惨状となったとき、空也はに自ら十一面観音を刻み、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら車に乗せてひきまわしたという伝説があります。北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑があります。天満宮とは菅原道真のことでしょう。本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うため仮にこの世に姿を現したものである」とする考え方で、日本の神仏習合の信仰のベースとなっていました。そして仏教の神々のことを本地仏、日本の神々のことを権現と言いました。つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「菅原道真の本地仏である十一面観音をお祀りしています。」とか「菅原道真は十一面観音の生まれ変わりです」のような意味です。その東向観音寺の十一面観音は菅原道真自身が刻んだと伝わっています。菅原道真が刻んだという十一面観音は大阪の道明寺にもあり、拝観したことがありますが、政治家が片手間に刻んだものとは思えないほど素晴らしいものでした。道明寺天満宮 十一面観音 菅原道真作https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/ElevenFaced_Kannon_Domyoji.jpg よりお借りしました。作者 OGAWA SEIYOU(1894-1960) a famous photographer in Japan [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で東向観音寺の十一面観音は秘仏で、期間限定で公開されているようですので、ぜひ一度拝観して道明寺の十一面観音と作風を見比べてみたいと考えています。私は道明寺や東向観音寺の十一面観音は道真ではなく一流の仏師が刻んだものだと考えるのが妥当だと思います。菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり失意のうちに亡くなりました。その後都では疫病の流行や天変地異があり、それらは道真の怨霊のしわざであると考えられました。陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に祀りあげるとご利益を与えてくださる和魂になると考えていたそうです。また古の日本では怨霊と神は同義語であったと言われますが、それはそういった陰陽道の考え方によるものでしょう。さらに本地垂迹説によって菅原道真は十一面観音の生まれ変わりだと考えられたのです。「菅原道真が自ら十一面観音を刻んだ」というのは「菅原道真が自ら望んで怨霊となって人々に祟るのをやめ、人々にご利益をもたらす十一面観音になった」という意味ではないでしょうか。もちろん「菅原道真の怨霊が十一面観音になった」というのは事実であるとは考えられません。「菅原道真の怨霊が十一面観音になった」というのは、道真の怨霊を恐れる人々の願いであったというべきでしょう。すると「空也が自ら十一面観音を刻んだ」というのも、「怨霊の空也が成仏して十一面観音になってほしい」という人々の願いではないかと考えられます。951年の疫病の流行は空也の怨霊の祟りだと考えられたのではないでしょうか。空也の生没年は903~972年とされていますが、これは真実ではなく、951年当時空也はすでに亡くなっていたのではないかということです。 ④空也は南無阿弥陀仏と唱えるのに、なぜ阿弥陀仏を刻まなかったのか?951年京で疫病が流行ったとき、空也は自ら十一面観音を刻んで「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら車に乗せてひきまわしたといいますが「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰依します」という意味です。「阿弥陀仏に帰依します」と称えるのであれば、空也が刻んだ仏像は阿弥陀仏であって然るべきではないでしょうか。それなのになぜ空也が十一面観音を刻んだなどという伝説が生じたのでしょうか?空也が刻んだと伝わる十一面観音は京都の六波羅蜜寺にあります。951年当時の人々は空也は十一面観音の生まれ変わりだとして、六波羅蜜寺の十一面観音を作らせたのでしょう。そして空也が南無阿弥陀仏と唱えたというのは、事実ではなく、もう少し後の時代に阿弥陀仏信仰が盛んになってから創作されたのではないかと考えます。空也は踊念仏の創始者と伝わりますが、鎌倉時代に時宗の一遍上人が全国で踊念仏を行っています。一遍上人は1284年に六波羅蜜寺にもやってきて空也上人の遺跡市屋で踊念仏を行ったようです。http://ureshikika.com/%E7%9C%9F%E6%95%99%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AF/%E5%AE%97%E7%A5%96%E4%B8%80%E9%81%8D%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/踊念仏の本当の創始者は一遍上人で、当時流行していた浄土教の本尊である阿弥陀仏に空也の怨霊を帰依させるため、六波羅蜜寺にやってきて踊念仏を行ったのではないでしょうか。 題目踊りのあと、さし踊りが行われます。⑤空也の正体は平将門だった?私は空也の正体とは平将門(903~940年)だと思います。平将門の生年は903年で空也の生年と同じです。また没年は940年で、京の町に疫病が流行ったのは951で、このときすでに平将門は死んで怨霊になったと考えられていたはずです。ちなみに平将門といえば菅原道真とともに怨霊として有名です。東京に将門の首塚がありますが、1923年、首塚を取り壊して大蔵省庁舎を建立したところ、大蔵大臣はじめ幹部14人が相次いで死亡。また1940年には大蔵省庁舎に落雷があり、そこから火事となって庁舎が全焼しています。そしてそれらは平将門の怨霊の仕業であるとされたのです。平将門は東国に独立国をつくって新皇を名乗りましたが、940年、朝廷が派遣した藤原秀郷・平貞盛らの軍と戦い、流れ矢にあたって死亡した人物です。将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりで晒されました。空也は平将門の霊を弔うために念仏道場を作ったという伝説もありますし空也が創建したと伝わる六波羅蜜寺は鴨川のほとりにありますが、そこは平将門の首が晒された場所に近いのです。また六波羅蜜寺に近い祇園界隈では1年中「笑門」という文字を書いた注連縄を飾る習慣がありますが「笑門」とは『蘇民将来子孫家門』を略すと『将門』となり、逆賊とされる平将門に通じるので、『笑門』になったとする説がります。(六波羅蜜寺に近い八坂神社では蘇民将来子孫也と書いた札を授与しています。)六波羅蜜寺があるあたりは将門の首が晒された場所に近いので、将門信仰があり、そのため『笑門』の注連縄を飾る習慣が生じたのではないかと思われます。祇園の注連縄そして六波羅蜜寺からほど近い場所に西方寺という寺があり、そこに空也塔があります。 空也搭空也塔の傘の部分は蓮の葉を模したデザインとなっていますが、蓮阿弥陀仏とは時宗の僧・他阿真教が1307年に平将門に送った法名です。 将門の首塚(東京都) 「平将門 蓮阿弥陀佛」と記されている。そして空也塔は首桶にとてもよく似ています。https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E9%98%BF%E5%BC%96%E6%B5%81%E7%82%BA+%E9%A6%96%E6%A1%B6#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0↑ 上記の写真は阿弖流為の首桶と説明されていますが、円筒形の周囲に四本の柱をたてたデザインは空也搭によくにています。なぜこの首桶のように見えるものが空也塔とされているのでしょうか。それは空也とは将門の首を聖人化した架空の人物だからではないでしょうか?空也堂では毎年空也忌を行っていますが、空也忌は空也の死亡した日ではありません。空也が東国に向かって旅だったという11月13日が空也忌なのです。13日は虚空蔵菩薩の縁日なので、虚空蔵菩薩の縁日を空也忌としたのでしょう。実際に空也が東国に旅立ったのが11月13日というわけではないと思いますがそれはさておき、平将門の首は鴨川のほとりで晒されたのち、故郷の東国へ向かって飛び、現在の東京にある将門の首塚付近に落ちたといわれます。空也が東国へ旅立った日とは、将門の首が鴨川のほとりから東国へ向かって飛び立った日ではないでしょうか?
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