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四天王寺 天王寺舞楽 『聖徳太子は厩戸皇子を聖人化した呼称だった?』 


大阪市天王寺区 四天王寺
篝の舞楽・・・8月4日


※写真は2010年に撮影したものでストロボ撮影okでしたが、現在はストロボ撮影は禁止のようです。

四天王寺舞楽-振鉾 
振鉾

①空也は平将門の首を聖人化した呼称。聖徳太子は厩戸皇子を聖人化した呼称?


少し前、教科書から『聖徳太子』という表記をなくして『厩戸王(聖徳太子)』という表記にあらためるという報道がありました。
結局『聖徳太子』の表記はなくならなかったようですが。

その理由を一言でいえば「聖徳太子という呼称は厩戸皇子の死後しばらくたって、信仰上の理由からつけられた呼称である。」ということのようですね。

前回の記事で、空也とは平将門の首を聖人化したものではないかと書きました。
涌泉寺 松ヶ崎題目踊り 『盆踊りのルーツ・踊念仏の創始者は空也ではなく一遍だった?』 

空也は南無阿弥陀仏と称えながら踊る踊念仏の創始者だといわれていますが、
空也が刻んだと伝わる六波羅蜜寺の仏像は阿弥陀仏ではなく十一面観音で不自然です。
踊念仏の創始者はその後六波羅蜜寺にやってきて踊念仏を行った一遍だと考えたほうが自然だと思います。

将門の首は京の鴨川のほとりで晒されたのち、飛び上がって生まれ故郷の東国をめざしたという伝説があります。
空也忌は空也が亡くなった日ではなく空也が東国へ旅立った日とされていますが、それは空也が将門の首を聖人化したものであり、
「空也が東国へ旅立った」とは「鴨川のほとりで晒されていた将門の首が東国へ向かって旅だった」という意味だと考えるとつじつまが合うと思います。

これと同様、聖徳太子とは厩戸皇子を聖人化したものだということですね。

四天王寺舞楽-打毬楽 
打毬楽

②聖徳太子が厩戸皇子を聖人化したものだとする説の理由

ネットでぐぐってみたところ、次のような理由がでてきました。

a.厩戸皇子の生没年は574年~622年だが、聖徳太子という呼称がでてくるのは720年に編纂された日本書紀以降である。
b.聖徳太子が制定したと伝わる憲法十七条に『国司』という言葉がでてくるが、この時代に『国司』という言葉があったかどうか疑問。(この時代の文献に国司という言葉が使われていないということだと思います。)
c.憲法十七条の記述は日本書紀にしかない。
d.隋書によると俀(倭/日本のこと)は600年と607年に遣隋使を派遣してきたと記している。
このときの天皇は女帝の推古天皇(在位593~628年)で、593年より聖徳太子を摂政としていた。
しかし日本側の記録には600年の遣隋使の記録はない。
随書では俀王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌と記している。
e.三経義書は聖徳太子がまとめたとされるが、同じ内容のものが中国にある。また、後世の引用がある。
f.聖徳太子は推古天皇の摂政だったとされるが、聖徳太子の時代、摂政という役職はない。
g.冠位十二階は中国・朝鮮半島にも同様の制度がある。
当時の日本は積極的に中国・朝鮮半島より先進技術を取り入れていたので、中国・朝鮮の制度を導入したと考えるのが妥当。

聖徳太子には多くの伝説があります。

い.同時に10人の人が言うことを理解した。
ろ.南嶽慧思の生まれ変わりである.
は.飛ぶ馬に乗って富士山に行ったなど。

憲法十七条や冠位十二階・三経義書はこれら多くの聖徳太子伝説の中のひとつということでしょう。

い・ろ・はのような伝説はあまりに超人的で信じられないので、誰もが伝説だと認識していると思います。
しかし憲法十七条や冠位十二階・三経義書などは伝説っぽくないため、史実であると錯覚してしまったのだと思います。

四天王寺舞楽 
③自虐史観や反日ではない。

教科書から聖徳太子の表記をなくすということについては反対意見が多いですが、その理由は、これを自虐史観・反日であると考える人が多いからのようですね。

しかし、a~eの理由を読んでみると、厩戸皇子の死後しばらくしてから彼が聖人であるとの信仰が生じ、そこから憲法十七条や三経義書と聖徳太子が結び付けられたと考えるのは妥当なように思えます。

歴史は人文科学なので、妥当だと思われる考え方のほうを正しいとするべきで、愛国心とは切り離して考えるべきでしょう。

また信仰と史実はわけて考えるべきだと思いますので、『聖徳太子が憲法十七条や冠位十二階を作った』とはやはり言い難いように思えます。
単に『日本は憲法十七条をや冠位十二階を導入した』と書くのが、史実としては正しいように思えます。

聖徳太子が憲法十七条や冠位十二階を作ったのではなくても、日本がユニークで素晴らしい国であることは何も変わらないと思いますし
かえって厩戸皇子を聖徳太子と呼び、1000年以上たった今でも彼を偲び続けている日本人の精神に感動させられます。

四天王寺舞楽-蘇利古 

蘇利古(顔には紙に顔を描いた雑面をつける。聖徳太子のめざめを慰める供養舞とも伝わる。)


④天武天皇が自らの血筋の正当性を示すために厩戸王を聖人化した?

さて、なぜ厩戸皇子は信仰され、聖徳太子と呼ばれたのでしょうか。
https://toyokeizai.net/articles/-/118796?page=3
上記の記事には次のような内容が記されています。

厩戸王没後50年ほどたったとき、壬申の乱がおこって天武天皇が即位した。
天武天皇は天皇中心の中央集権律令国家をつくるため、厩戸王を聖人化した聖徳太子像をつくりあげた。
ライバルである有力豪族に対し、神代からつづく自らの血筋の正当性と日本の統治者であるという正当性を示そうとした。


うーん、私はこの意見には賛同できません。
なぜかというと、天武天皇は聖徳太子の親戚だとはいえますが、直接の血はひいていないからです。
天武天皇が自らの血筋の正当性を示すなら、父親の舒明天皇か、祖父の押坂彦人大兄皇子あたりを聖人化するべきではないでしょうか。

天武天皇と聖徳太子の系図を簡単に書くと次のようになります。

欽明天皇ー用明天皇ー聖徳太子
欽明天皇ー敏達天皇ー押坂彦人大兄皇子ー舒明天皇(母親は斉明天皇)ー天武天皇

四天王寺舞楽-蘇莫者 

蘇莫者 聖徳太子は飛鳥と天王寺の間を愛馬「甲斐の黒駒」に乗って往復していたが、あるとき大和川の亀の瀬で、太子が洞簫(どうしょう/中国古代の尺八)を吹いたところ、老猿(信貴の山神)が現れて笛の音に合わせて舞った。これを舞楽にしたものと伝わる。

⑤梅原猛さんの聖徳太子怨霊説

それよりも、梅原猛さんの聖徳太子怨霊説のほうが聖徳太子聖人化の理由としてはしっくりくると思います。

聖徳太子が建てたと伝わる法隆寺の夢殿は、開扉すると大地震がおこると伝えられ、長年あけられたことがありませんでした。
1908年フェノロサが夢殿の扉をあけたところ、聖徳太子等身大の像と伝わる救世観音がでてきたのですが、布でグルグル巻きにされフランケンシュタインのような状態でした。
また、光背が頭に直接釘で打ち付けられていました。(一般的には足元にたてた棒に光背をつける。)

これらは怨霊封じ込めの呪術であり、梅原さんは聖徳太子は怨霊であったと説かれました。


GUZE Kannon Horyuji

法隆寺 救世観音
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/GUZE_Kannon_Horyuji.JPG
作者 Tokyo Bijutsu Gakko [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で


怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていました。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員斑鳩寺(法隆寺)で首をくくって自殺しました。
つまり聖徳太子の血筋は絶えてしまったわけで、それで聖徳太子は怨霊になったのではないかと梅原さんはおっしゃっています。

井沢元彦さんは、「先祖の霊はその子孫が供養・慰霊するべきなのに、聖徳太子の子孫は絶えてしまったので怨霊になったのではないか」とおっしゃっています。

そして陰陽道では荒ぶる怨霊は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂になると考えていました。

そこで怨霊である聖徳太子を祀りあげ、和魂となったものを聖徳太子と呼んだのではないかというのです。

また聖徳太子の命日の法要である聖霊会で舞われる蘇莫者とは「蘇えること莫(な)き者」という意味で、舞を舞う山神は聖徳太子の怨霊ではないかとしておられます。


四天王寺-五重塔 



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