京都市東山区 八坂神社
石見神楽奉納・・・8月16日
①大江山に住む鬼と土蜘蛛
石見神楽「大江山」は源頼光・渡辺綱・坂田金時らが大江山の鬼を退治すると
いう話です。
源頼光・渡辺綱・坂田金時らは大江山の鬼に八幡大菩薩より贈られた「神変奇特酒(人間が飲めば薬となり鬼が飲めば毒になる酒)を飲ませて酔っぱらわせ、眠ってしまったところを次々に斬って退治していきますが
巨大な蜘蛛がはく糸に絡まって動けなくなってしまいます。
しかし八幡大菩薩のご加護をうけ、無事鬼を退治することができました。
②おほえ山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立おほえ山 いく野の道の 遠ければ、まだふみも見ず 天の橋立/小式部内侍石見神楽「大江山」は百人一首にもとられている有名なこの歌から始まります。
この歌には次のような詞書がつけられています。
和泉式部、保昌に具して丹後国に侍りける頃、都に歌合侍りけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、定頼卿、局のかたに詣で来て、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん」など、たはぶれて立ちけるを、引き留めてよめる
小式部内侍の母・和泉式部はすごくモテる女性で、橘道貞と結婚して小式部内侍を産みましたが
その後、道貞と別れて、弾正宮為尊
(ためたか)親王(冷泉第三皇子)と関係を結びます。
しかし為尊親王は26歳で早世してしまい、次に為尊親王の弟の帥宮
(そちのみや)敦道親王と関係を結んでいます。
この敦道親王も27歳で早世してしまい、一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕します。
彰子の父・藤原道長のすすめで道長の家司藤原保昌と再婚し、丹後守となった保昌について任国に下りました。
和泉式部の娘である小式部内侍は都に残っていたのですが、歌合わせが予定されていました。
藤原定頼が小式部内侍のもとを訪れてこう言いました。
「歌合わせの歌はどうするんですか。丹後の母親の元へ使者
を送りましたか。まだ使者は来ませんか。さぞ心細いでしょうね」とからかいました。
「母親の和泉式部にかわりに歌を詠んでもらうのだろう」というような意味ですね。
それに対して小式部内侍が歌を詠んで返したのが、
おほえ山 いく野の道の 遠ければ、まだふみも見ず 天の橋立
だったのですね~。
意味はこんな感じです。
大江山へ行く道は、いくつもの野の道を超えていかなければならず、遠いです。
なのでまだ天橋立を踏んだこともありませんし、母の手紙を見ていません。「まだふみも見ず」に「まだ文も見ず」と「まだ踏みもみず」をかけてあるのですね。
私なんかだったらこんなこと言われたら「うるさい、ボケ」とか言いそうですが(笑)
歌を詠んでやりこめるとは、小式部内侍はなかなかやりますね。
天橋立③おほえ山は大江山?大枝山?おほえ山の所在については諸説あります。
a.大江山
b.京都市西京区の大枝山
c.大江山と大枝山をかけているとする説
私はbまたはcだと思います。
その理由は、大江山が和泉式部の夫・藤原保昌の任地である丹後(丹後半島の付け根)にあるからです。
④保昌は頼光の郎党ではなかった。石見神楽の『大江山』は、お伽草子の『酒呑童子』を元ネタとした演目だと思いますが、お伽草子の『酒呑童子』は石見神楽『大江山』とは登場人物が少し違っています。
石見神楽『大江山』で鬼退治に向かうのは源頼光・渡辺綱・坂田金時の3人ですが、
お伽草子の『酒呑童子』では一条天皇は源頼光、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時、藤原保昌らに鬼退治を命じ、6名で大江山の鬼退治に向かっています。
このうち、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時は頼光四天王と呼ばれており、保昌は頼光の郎党となっています。
しかし、実際には藤原保昌は頼光の郎党ではなく、道長につかえており源頼信・平維衡・平致頼らとともに道長四天王と呼ばれていました。
頼光四天王も道長四天王も武勇に秀でた人物なので混同されたのでしょうか。
『大江山絵詞』(大江山絵巻)では、「995年、一条天皇が源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた」となっています。
⑤頼光、道長にたびたび進物を贈る。源頼光は990年、43歳の時に藤原道長の側近となっています。
頼光はたいへんなお金持ちであったようで、道長にたびたび進物を贈っています。ワイロ?
⑥祇園祭 保昌山祇園祭の山鉾のひとつに保昌山がありますが、この保昌山のご神体が藤原保昌(平井保昌)です。
藤原保昌が和泉式部にせがまれて紫宸殿前の梅を一枝折ったところを武士に見つかり、矢を放たれるも逃げ帰ったというエピソードを題材とした山で、かつて保昌山は花盗人山と呼ばれていました。
花盗人とはあまり聞こえのよくない言葉です。
花とはモテモテだった和泉式部のことで、保昌が和泉式部を盗んだということを、比喩的に表現した物語のようにも思えます。
歴史の表には現れない、裏の歴史があったのではないかと勘ぐってしまいます。
祇園祭 山鉾巡行 保昌山⑦山鉾巡行は百鬼夜行を陽に転じたもの?
そもそも祇園祭の山鉾巡行とは百鬼夜行を陽に転じたようなものではないかと私は考えています。
聖徳太子山の聖徳太子、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊滋童、橋弁慶山の弁慶と牛若丸、役行者山の役行者などは怨霊ではないかと思われますし。
祇園祭 山鉾巡行 『山鉾巡行と百鬼夜行』 藤原保昌は和泉式部を妻としたことで失脚して、怨霊になったのかも?
そして保昌が失脚したことが物語に繁栄されて、源頼光の郎党扱いされるようになったんだったりして?

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[2018/07/24 18:06]
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