鎌倉時代、法然上人は道で捨て子を拾いました。
この捨て子は平敦盛の遺児でした。
若君(敦盛の子)は父を慕って出家し、賀茂明神に「父にあわせてほしい」と祈りました。
すると夢枕に賀茂明神があらわれて「生田の森へ行くように」と告げました。
さっそく若君は生田の森へ向かいました。
荒涼とした秋の野の中に人家があり『万物は生滅をくり返し、留まるところを知らない。それなのに、この肉体に執着してしまう、人の心の愚かしさよ。朽ちてゆく屍のもとには、魂がもの寂しげに飛び交うのだ』と声がしました。
声の主は敦盛の亡霊でした。
若君は父にすがりついて泣きました。
敦盛も泣きながら、若君にこう言いました。
「賀茂明神さまが閻魔王に取り次いで下さったおかげで、少しの間、この世に戻ることを許されたのだ。」
敦盛は平家一門の繁栄と没落を語り、親子の幸福な時間が流れます。
そこへ閻魔王が地獄の鬼を引き連れて現れます。
帰りが遅い敦盛を地獄へ連れ戻しにきたのでした。
生田の森は闇につつまれ、戦場となり、多くの敵が敦盛に襲い掛かってきました。敦盛は必死になって応戦します。
朝になると敦盛は「こんな姿を見せてしまうとは、なんと恥ずかしい」と言い、若君に別れを告げ消えていきました。
②敦盛には子がいなかった?
敦盛は平清盛の弟う・経盛の末子で、16歳の若さで一ノ谷合戦で戦死しました。
一ノ谷は兵庫県神戸市須磨区、山陽電鉄本線須磨浦駅付近のことで、生田神社の西南9kmほどのところにあります。
能「生田敦盛」には敦盛の遺児が登場しますが、『平家物語』や歴史史料には敦盛に子があったとは記されていません。
歴史史料に記載がないことは事実ではないなどとは言えませんし、16歳ならば子供をつくることも可能だったでしょう。
しかし、一般に敦盛に子供があったということは史実ではないと考えられていますし、私もそう思います。
その理由についてはおいおい説明していきます。
裂布。布を裂く音で魔を祓うのだそうです。布を裂くことで贖罪を意味するとも。
③敦盛殺害を後悔して法然の弟子となった熊谷直美
敦盛の死については、こちらの記事にも書きました。→ 光明寺 桜 『一枝を伐らば、一指を剪るべし』
熊谷直実は1184年の一の谷の戦いで平家の若武者の首をとろうとしましたが、顔を見ると自分の息子と同じくらいの年齢でした。
直実は若武者を逃がそうとしましたが、周囲には他の源氏の兵が大勢います。
「他の者に殺されるくらいなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」
こう言って直実は泣く泣く若武者の首を斬りました。
首実験したところこの若武者は平敦盛17歳とわかり、直実は出家して敦盛の供養をしました。
(平家物語 敦盛最後)
1193年ごろ、熊谷直実は法然の弟子となって出家しています。
それは自分が敦盛を殺したことを悔やんでも悔やみきれなかったためでしょう。
法然にすすめられて敦盛の七回忌の供養も行っています。
能「生田敦盛」では法然が敦盛の遺児を拾ったという設定になっていますが、それは、熊谷直美が敦盛供養のため法然に弟子入りしたということと関係がありそうです。
④修羅地獄に堕ちた敦盛
生田敦盛で、敦盛は若君に「こんな姿を見せてしまうとは、なんと恥ずかしい」と言っています。
なぜ敦盛は「恥ずかしい」と言ったのでしょうか。
仏教では衆生はその業の結果をうけて、6つの世界に輪廻転生すると考えていました。
天道 | 天人が住まう世界 | |
人間道 | 人間が住まう世界 | |
修羅道 | 阿修羅が住まう世界 戦いがたえない世界 | |
畜生道 | 畜生が住まう世界 | |
餓鬼道 | 餓鬼が住まう世界。食べ物を口に入れようとすると火となってしまい永遠に食べることができない。 | |
地獄道 | 灼熱地獄 | |
極寒地獄 | ||
叫喚地獄 | 熱湯が煮えたぎる大釜や猛火の鉄室に入れられる。 獄卒に弓で射られる。焼けた鉄の地面を走らされる。鉄の棒で打ち砕かれる。 | |
阿鼻地獄 | 剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間なく受ける。舌を抜かれる。 100本の釘を打たれる。毒や火を吐く虫や大蛇に責められる。熱鉄の山を上り下りさせられる |
生田の森は闇につつまれ、戦場となり、多くの敵が敦盛に襲い掛かってきました。敦盛は必死になって応戦します。
とあるのは、敦盛は修羅道に堕ちたということです。
天道や人間道に転生できなかったので、「恥ずかしい」と言ったのでしょう。
茅の輪くぐりをすることで、厄を落とすことができると考えられていました。
⑤秋はお盆の季節
荒涼とした秋の野の中に人家があり『万物は生滅をくり返し、留まるところを知らない。それなのに、この肉体に執着してしまう、人の心の愚かしさよ。朽ちてゆく屍のもとには、魂がもの寂しげに飛び交うのだ』と声がしました。
声の主は敦盛の亡霊でした。
とありますね。
旧暦では1月2月3月が春、4月5月6月が夏、7月8月9月が秋、10月11月12月が冬でした。
生田神社の夏越大祓式は現在では新暦7月15日に行われていますが、本来夏越祓は6月晦日に行われる行事でした。
つまり夏の最後の日に行う行事が夏越祓だったのですね。
翌日の7月1日は釜蓋朔日といって地獄の釜の蓋が開く人され、この日よりお盆が始まるとさえていました。
旧暦の秋は7月8月9月がありますが、たぶん生田敦盛の舞台は7月のお盆のころだと思います。
お盆にはお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊)が戻ってくると考えられていました。
お盆になって地獄の釜の蓋が開き、敦盛の霊も戻ってきたと考えるとつじつまが合うと思います。
⑥成仏の条件・・・子孫が供養すること
古来日本では先祖の霊はその子孫が慰霊または供養するべき、と考えられていたようです。
奈良県桜井市の大神神社の御祭神・大物主命も子のオオタタネコに祀られることで、祟らなくなったという記述が記紀にあります。
梅原猛さんは「聖徳太子は怨霊であった。」ととき、
それを受けて井沢元彦さんが「聖徳太子は全員斑鳩寺で首をくくって死んでいる。先祖の霊は子孫が供養するべきなのに聖徳太子には子孫がなかった。そのため聖徳太子は怨霊になったと畏れられたのではないか」と説かれました。
16歳で亡くなった敦盛にも子供がなく、それで敦盛は修羅道に落ちて怨霊になったと考えられていたのではないかと思います。
敦盛の子・若君は、そんな敦盛の怨霊を供養するために創作された架空の人物ではないかと思います。
また若君が出家した僧侶なのは、敦盛を供養するのに最も適した職業が僧侶だからではないかと思います。
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