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般若寺 紫陽花 コスモス 『藤原頼長はなぜ熱心にBLをたしなんだのか?』 


奈良市般若寺町 般若寺
2018年6月17日撮影


般若寺 楼門 紫陽花 

①頼長♂が愛した男たち

おお!

日本のBL史に燦然と光り輝く藤原頼長さまの供養塔ではありませんか!

般若寺 藤原頼長 供養塔 

NHK大河ドラマ「平清盛」をほんの少しだけ見ましたが、山本耕史さんの頼長すてきですね~❤
実際の頼長もなかなかの美形であったと伝わります。
そしてその妖艶な魅力で周囲の男たちを次々に落としていったのですね~。

頼長が関係を結んだ男性をあげてみます。

●秦公春(はたのきみはる)

隋身(護衛官)左近衛府生(下級武官)
愚管抄に「無ににあいし寵しける随身公春」とあります。
頼長は召使国貞殺害犯人が赦免されたことに激怒し、公春に命じて犯人を密かに殺害させたりもしています。
つまり、秦公春は単に頼長の恋人であるというだけでなく、忠実な僕でもあったわけですね。
頼長は公春の糖尿病平癒のためにたびたび仏事を行っていますが、そのかいなく公春はなくなってしまいました。
それがよほどショックだったのか、頼長は3ヶ月も公事を休んでいます。
そして神仏への恨みをつらつらと日記に書き連ねています。

般若寺 鐘楼 紫陽花 
●源義賢(みなもとのよしかた)

武将。 源為義の次男で源義朝の異母弟。木曽義仲の父。
頼長の日記・台記には次のように記されています。
「今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも景味あり。」
今夜、義賢を臥内(ねや)に入れた。義賢は無礼に及んだが感じちゃった、みたいな意味ですかね。
あ、無礼というのは義賢が責めで、頼長が受けということです♡

●藤原公能(ふじわらのきんよし)
 

公卿。頼長の妻・藤原幸子の弟。
頼長さまったら、奥様の弟とまで関係を持っていたのですね。 

般若寺 紫陽花 薬師如来 石仏 

 ●藤原隆季(ふじわらのたかすえ)

公卿。 たいへんな美形で、頼長は何通ものラブレターを書いたそうです。
でもノーマルの
隆季から返信はありませんでした。
そこで頼長はまず、
隆季の従兄弟で義理の兄弟でもある藤原忠雅とBLの関係に。
そして陰陽師の安倍泰親より授かった祈祷符に恋愛成就を祈願しました。 頼長さま、乙女みたいだな。
さらに頼長・藤原忠雅・藤原隆季の三人で会おうといって、隆季を呼び出すことに成功。
そして途中で忠雅に席を外させ、二人っきりに。こうしてついに頼長は思いを遂げるのです。
それほどまでにして落としたのに、隆季が昇格をねだってくると、ばっさり関係を切ってしまったらしい?
(その後、頼長の日記『台記』に隆季の名前はでてきません。)

●源成雅(みなもとのなりまさ)

貴族。頼長の父・藤原忠実の恋人。
頼長さま、御父上の恋人を寝取ってしまったのですね。いやー、この時代の乱れようって半端ないっすね。

般若寺  コスモス 阿弥陀如来 石仏

②部下を性的にも支配する?

頼長は摂政関白太政大臣の藤原忠実の子で、自らは左大臣・太政大臣となっています。
いわば朝廷のエリート中のエリートなわけで、BLのお相手は当然自分よりも下の身分の者たちばかりです。
平安時代は陰謀渦巻く世界で、下手に心を許すと命とりになるなんてこともあったでしょう。
また武士が力をつけて政治の表舞台にも登場しつつあった時代ですから、部下には絶対服従を誓わせる必要があったのかも。
それで権力で部下を支配するだけでなく、性的にも支配するというような目的があったのかもしれませんね?
ちなみにこの時代、頼長だけでなく、BLは一般的なことであり、またたしなみでもあったようです。

般若寺 釈迦如来の石仏 紫陽花


③BLがたしなみであったのは陰陽道の影響?

そのほか、この時代にBLがたしなみであった理由としては、陰陽道の影響があるのではないかと思ったりします。

陰陽道では万物には陽と陰の側面があるとし、次の表のように陰陽を分けます。

性別天体光度天気動き大小感情生死
緩慢偶数抑制
太陽敏速奇数興奮

数字では奇数が陽で、偶数が陰です。
そして月と日が同じ数字で重なる日は節句としてお祝いされていました。
ただし、1月1日は元旦なので、1月7日を節句とします。
あとは、3月3日・5月5日・7月7日・9月9日が節句です。
9は一けたの数字では最も大きな数字なので9月9日は特別おめでたい節句とされ、「重陽の節句」「菊の節句」と呼ばれていました。
そしてこの日に菊酒を飲むと不老長寿になるなどといわれていたのです。

「重陽」とは「陽が重なる」という意味だと思います。
そして性別では女が陰で男は陽ですから、男と男が重なることはまさしく重陽であり、BLは不老長寿を得るための呪術であったのではないかと思うのです。

「菊の節句」というのも菊門を思い出させてイミシンですよね(きゃーっ)。

で頼長はたいへんな学問好きだったと伝わりますが、この時代の陰陽道とは学問であり科学でありました。

先ほど、頼長が藤原隆季をおとすために陰陽師の安倍泰親より授かった祈祷符に恋愛成就を祈願したと書きましたが、
このほかにも頼長は、保元の乱の際、先制攻撃すべしとの意見を陰陽道の卦が悪いとして退けています。


頼長は酒が弱かったせいか、重陽の節句の菊酒を飲まず、「不老長寿など望まないよーん」と日記に書いていますが
菊酒のかわりにBLをばんばんやっていますので、本当は不老長寿を望んでいたのだと思います。

般若寺 紫陽花 五輪塔 



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[2018/06/22 22:07] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)