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長弓寺 紫陽花 『息子に射られて亡くなった真弓長弓の正体とは?』 

奈良県生駒市 長弓寺
2018年6月17日 撮影

長弓寺 門 紫陽花 

①息子に射られて死んだ真弓長弓

728年、聖武天皇は鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)と長弓の息子・長真呂を伴って狩に出かけました。
長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放つと、矢は長弓にあたって死んでしまいました。
聖武天皇はこれを憐れんで行基に命じて寺を作らせました。
行基は十一面観音を刻み、この像の頭頂に聖武の弓で刻んだ仏面を乗せて、本尊としました。
これが長弓寺であると伝わります。(長弓寺縁起)

長弓寺 紫陽花2  

②鳥見郷と登美毘古

鳥見(登美)郷は長弓寺がある生駒山東麓を指す古い地名です。

記紀にはナガスネヒコという人物が登場しますね。ナガスネヒコは別名を登美毘古(トミヒコ)ともいい、生駒付近に住んでいた豪族だと考えられています。

鳥見(登美)郷と登美毘古ってなにか関係ありそうですよね。

長弓寺 額紫陽花  

③神武以前、畿内には物部王朝があった?

記紀には次のように記されています。

神武天皇は日向に住んでいましたが、あまりに国の端なので東征の旅にでました。
出立にあたり塩槌のオジが「東にはすでにニギハヤヒが天の磐船を操って天下っている」と発言しています。
神武が畿内入りする際、ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコ(トミヒコ)に撃退されました。
そこで神武は南へ迂回して畿内入りし、再びナガスネヒコと対決しました。
金鵄が神武天皇の弓先に止まり、激しく輝くとナガスネヒコは戦意が失われてしまいました。
ナガスネヒコは「私はニギハヤヒを神と奉じ、妹のミカシキヤヒメはニギハヤヒと結婚してウマシマジノミコトという神も生まれた。あなたは天孫だというが、天孫はふたりもいるのか。あなたは私をだまそうとしているのではないか」といい、
ニギハヤヒが天孫であることを示す天の羽羽矢と歩靱をみせました。
すると神武も同じ天の羽羽矢と歩靱をみせました。
それでも長髄彦は考えを変えなかったので、ニギハヤヒは長髄彦を殺しました。


ニギハヤヒやウマシマジノミコトは物部氏の祖神とされています。
この物部氏の祖であるニギハヤヒが神武天皇より早く畿内に天下ったとあるところから、神武以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社(大阪府交野市) 天の磐船 ニギハヤヒが天下った場所と言われています。

④迹見赤檮は弓を神格化したもの?

時代が下って飛鳥時代、仏教が日本に伝わると、587年に排仏派の物部守屋vs崇仏派の蘇我馬子の戦いがおきました。
物部守屋は榎の樹の上から弓を射ていましたが、蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)が守屋を弓で射て守屋は戦死したと伝わります。

この戦いには14歳の厩戸皇子(聖徳太子)も参加していました。
この厩戸皇子には次のような伝説があります。

587年の物部守屋vs蘇我馬子の戦いのとき、厩戸皇子は弓矢で射られそうになりましたが、椋の木の中に隠れて難を逃れました。

大聖将軍寺 神妙椋樹 

大聖勝軍寺(大阪府八尾市) 

椋の木は幹が太く、洞ができやすいところから、その洞の中に厩戸皇子が隠れたなどという伝説が創作されたのでしょう。

一方榎は根元から数本に割れることもあり、幹の中に洞ができにくいようです。
昔の人が実によく自然を観察して伝説を創作したかがわかりますね。

さて、守屋を射たのは迹見赤檮(とみのいちい)という人物でしたが、私は迹見赤檮とは実在しない創作上の人物ではないかと思います。
というのはイチイという木があって、木質が弾力性に富むため、アイヌではイチイを用いて弓をつくっていたのです。
迹見赤檮とは守屋を射た弓を神格化したものではないでしょうか。

長弓寺 法華院 紫陽花

⑤迹見首は鳥見物部?

さらに迹見赤檮(とみのいちい)という名前に「とみ」とあるのが気になります。
迹見氏は迹見のほか、登美・止美とも記すようです。
登美という言葉は鳥見(登美)郷や登美毘古を思い出させますね。

迹見氏の出自については諸説あります。

a.毛野氏族に属する皇別氏族(新撰姓氏禄)
b.渡来系氏族
c.赤檮の出自である迹見首は毛野氏族の登美首・止美首とは別系統で,物部氏の一族で鳥美物部の伴造氏族。

迹見氏の出自がcの物部氏の一族だとすると、物部守屋は一族の迹見赤檮に弓で射られたということになります。

ここで、長弓寺の伝説を思い出してください。

鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)は息子の長真呂に射られて死んでしまったのでしたね。

小野真弓長弓は物部守屋、息子の長真呂とは迹見赤檮の琴のように思えるんですが、どうでしょう?

「なんで小野なんだ?物部じゃなかったのかよ?」と言われそうですね。

小野氏って不思議なんですよね。

小野小町は小野氏ではなく、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと思うし
髄心院 桜 『わが御代に降るながめせしまに』 
霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあるんですが、
672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金で、中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があって
鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物のように思えるんですよね。
霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 

小野という言葉には、小野=オノ=オン=オニという意味が込められているのかもしれない、と思ったり。
もう少し考えてみます。

長弓寺 宝光院 紫陽花 

⑥基王がなくなったのは守屋の怨霊の仕業?

長弓寺が創建された728年、聖武天皇の子の基王がなくなっています。

聖武天皇はこれを物部守屋の怨霊の仕業であると考え、そのため守屋を慰霊する寺つぃて長弓寺を建てたのではないでしょうか。



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[2018/06/20 09:41] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)