京都市東山区 新日吉神宮
神幸祭 5月第2日曜日
お神輿の前で僧侶がお経をあげるのは神仏習合だったころ(江戸時代まで)の名残なんでしょうね。
各地の祭礼でこういう風景を見かけます。
①豊臣秀吉、善光寺如来の祟りで死亡。豊国神社の御祭神となる。1567年、東大寺大仏殿の戦いで東大寺大仏殿は戦火によって消失し、大仏の首も落ちてしまいました。
1591年、豊臣秀吉は方広寺を創建し、1595年には全長19mもある大仏が方広寺大仏殿に安置されました。
当時の方広寺の敷地は、妙法院・現在の豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂の敷地を含む広大なものでした。
ところが1596年、慶弔伏見地震によってこの大仏は倒壊してしまいました。
そこで1597年、秀吉は善光寺如来(善光寺の御本尊ですが、当時は甲斐にありました。)を大仏殿に移して本尊としました。
1598年 秀吉は病を患い、善光寺如来の祟りではないかということで、善光寺如来は信濃の善光寺へ戻されました。
しかし1599年に秀吉は死亡してしまいます。
1599年、遺命に従い、秀吉の遺体は方広寺東にある阿弥陀ヶ峯山頂に埋葬されました。
そして阿弥陀ヶ峯の山ろくに廟所が建立されました。
秀吉は奈良東大寺大仏殿の鎮守・手向山八幡宮にならって自分を「新八幡」として祀るように遺言していました。
しかし、朝廷は「新八幡」ではなく「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」の神号を与え、廟所は豊国神社と命名されました。
毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭と呼ばれる盛大な祭りが行われたようです。
祭の行列がにぎやかに町を練り歩きますよ♪②徳川家康、方広寺鐘銘に大激怒!豊臣家を滅亡させる。秀吉の死後、秀頼が方広寺の大仏を作り直す計画をたてていました。
秀吉が作った大仏は木造漆膠でしたが、秀頼は銅造で大仏を作ろうとしました。
ところが1602年、流し込んだ銅が漏れ出て火災が起き、造営中の大仏と方広寺大仏殿は消失してしまうのです~。
1610年、方広寺大仏殿は再建され、1610年には梵鐘が完成しました。
ところが家康がこの梵鐘の銘文「国
家安
康」「君
臣豊楽」に大激怒!
方広寺鐘銘「国家安康」だと?これは家康の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか!
けしからんーーーー!と。
そしてこれを理由に豊臣秀頼の居城・大阪城を責め、豊臣家を滅亡させてしまったのです。
③新日吉神社は豊国廟への参拝を妨げるために再建された?
1615年、豊臣家が滅亡すると徳川家康は、後瑞夫天皇の勅許をえて豊国大明神の神号を剥奪し、豊国神社も廃絶させてしまいました。
(現在、方広寺の隣にある豊国神社は1868年に明治天皇の勅命によって再興されたものです。)
1640年、旧豊国神社参道上(現在地よりもやや北がわ)に新日吉神社が再建されました。
(1160年、後白河天皇が法住寺殿の鎮守として現在地より南に創建されましたが、遷宮を繰り返していました。)
幕府が豊国廟への参拝を妨げるため、豊国神社旧参道に新日吉神社を再建したとする説があります。
獅子に噛んでもらうとご利益があるといわれます。④新日吉社の再建は豊国神社の復活?
ところがウィキペディアを調べてみると、次のようなことが記されていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BAa.新日吉神社は、豊国神社の参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布した。
b.新日吉神社の再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。
c.再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。
秀吉の元姓は木下、幼名は日吉丸だった。
d.a~cの理由から、新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。
この説はつじつまがあっており、読むとなるほどと納得させられます。
⑤猿の三番叟
ただし、新日吉社は秀吉を祀る豊国神社そのものではなく、秀吉の荒魂を和霊に転じたものを祀る神社だと私は考えます。
その理由をお話ししますね。
本殿向拝柱上方にある御神猿(説明版の写真)
新日吉神宮本殿向拝柱上方に御神猿のレリーフがあります。
また、狛犬のかわりに狛猿の像が置かれています。
能に「翁」という演目がありますが、その後半に狂言方が舞う舞に三番叟があります。
烏帽子をかぶり、手に鈴を持つ新日吉神宮の猿はこの三番叟を舞ういでたちをしています。
三番叟は古い猿楽芸を伝えるものだともいわれるためか、よくこのような人形を見かけます。
ます。

八坂神社 翁 三番叟
⑤能「翁」の白式尉と黒式尉
三番叟を舞う人はは黒い翁面をつけており、黒式尉といわれます。
これに対し、翁の前半は白い翁面をつけた人が舞い、白式尉といわれます。
白式尉は荘厳な舞、黒式尉は鈴を振って足拍子を踏み鳴らすなどのしぐさをします。
黒式尉が舞う三番叟は農耕作業を舞にしたものであるとも聞きますが、私にはよくわかりませんでした。(汗)
⑥白式尉・黒式尉と陰陽
それにしても、黒式尉の面は真っ黒ですね。こんなに黒い顔の人は日本人にはいません。松崎しげるも真っ青です。
なぜ黒式尉の面は真っ黒なんでしょうか?
私は白式尉と黒式尉の面陰陽道からくるもので、白式尉は陽、黒式尉は陰をあらわしているのではないかと思います。
えー、神はその表れ方で御霊・荒魂・和魂にわけられるといい、男神は荒魂を、女神は和魂をあらわすとする説があります。
陰陽道では男は陽、女は陰なので、荒魂が陽、和魂が陰となります。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰
ですが、荒魂・和魂は男女のほかに、白式尉と黒式尉で表されることもあったのではないかと思います。
陰陽では白が陽、黒が陰なので、次のようになると考えられます。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体・・・陰陽バランスがとれている状態・・・白黒
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽・・・白・・・・・・・・・・・・白式尉
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰・・・黒・・・・・・・・・・・・黒式尉

陰陽図
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yin_yang.svg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Yin_yang.svg よりお借りしました。
作者 Gregory Maxwell [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
さらに、猿は黒式尉だと考えられるので、次のようになります。
御霊・・・神の本質・・・・・男女双体・・・陰陽バランスがとれている状態・・・白黒
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神・・・陽・・・白・・・・・・・・・・・・白式尉・・・秀吉
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神・・・陰・・・黒・・・・・・・・・・・・黒式尉・・・猿
つまり、秀吉という荒魂を、和魂に転じたのが三番叟猿であり、その三番叟猿を秀吉の廟の参道におくことで、秀吉の怨霊封じとしたのではないかと思うわけです。祭の行列はまだまだ続きますよ!

こういう武者姿はなんとなく秀吉を思わせますね。↑ ↓
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[2018/05/15 19:54]
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