FC2ブログ















亀岡光秀まつり 『愛宕百韻は光秀の信長打倒の意思表明?』 


京都府亀岡市 亀山城跡周辺
亀岡光秀祭 5月3日

亀岡光秀祭7 

①本能寺の変

黒井城 レンゲ 鯉のぼり 夕景 『ひとりで直正に会いにきた脇坂安治』 
上記記事で、明智光秀が赤井直正の居城・黒井城を落としたという記事を書きましたが
光秀といえば一番に思い浮かぶのが「本能寺の変」ですよねえ~。

光秀は織田信長に仕える武将で、丹波国攻略・天王寺の戦い(vs石山本願寺)・雑賀攻め・信貴山城の戦いなどに参加して戦功をあげました。
信長も光秀を高く評価し、光秀も「一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と文を書いています。

ところが1582年、光秀は『本能寺の変』をおこして信長を討伐してしまうのです。

亀岡光秀祭6 

②光秀はなぜ本能寺の変をおこしたのか?


なぜ光秀が『本能寺の変』をおこしたのかについては諸説ありますね。

最も有力なのは、信長はときどき光秀にひどい仕打ちをしおり、これを光秀が恨んでいたとする説です。
飲めない酒を無理やり飲まされたとか、信長が光秀を足蹴にしたとか、パワハラ的な話がいくつか残っています。

ほかには足利義昭の室町幕府債権計画に光秀が乗ったとか
朝廷が信長討伐を光秀命じた、徳川家康や豊臣秀吉が天下をとるため光秀に信長を討たせた、等の説があります。

ともかく光秀は本能寺をせめ、信長は自害したと伝わります。

こうして光秀は天下を取るのですが、このとき中国地方に出兵していた豊臣秀吉が『本能寺の変』を知って急遽毛利氏と和睦し、引き返してきました。
そして山崎で光秀vs秀吉の戦いとなったのです。
この戦いで光秀軍は敗れ、落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負って自害したといわれます。

光秀の天下はわずか13日間であり、三日天下という言葉はここから生まれたと言われます。

亀岡光秀祭4 
③愛宕百韻は光秀の信長打倒の意思表明?

『本能寺の変』が起こったのは、天正10年6月2日(1582年6月21日)のことでした。
そのわずか4日前の天正10年5月28日(5月24日とも伝わる。この場合は8日前)、光秀は西国出陣の前に愛宕山に参籠し、連歌会を催しています。(愛宕百韻)

連歌はまず最初に主賓が挨拶として五七五の一句を詠み(発句)、これに続けて他の人が七七、五七五、七七、五七五、七七・・・
と続けていきます。

この連歌会は愛宕百韻と呼ばれていますから、百句を続けて一作品としたのでしょう。

光秀はこの愛宕百韻の発句で次のように詠んでいます。

時は今 雨が下しる 五月かな  (時は今、雨が下る五月である。)
※「下る」とかいて「ふる」とも読みます。
※ググると「雨が下しる」と「天が下しる」の両方でてきて、どちらが正しいのかわかりません~。

亀岡光秀祭5 

この句の中の「時」は「土岐」にかかるという説があります。
明智氏は美濃源氏土岐氏の支流。つまり、時は土岐で、明智光秀をさしているというのです。
雨は天にかかります。そして「下しる」は「下知る」で
「私(明智光秀)は今、天下を知ろうと思っている。」という裏の意味がかくれているのではというのです。

当時、秀吉もこれを疑って、光秀を討ったのち、連歌会のメンバー・里村紹巴を問い詰めたという話が「常山紀談」に記されています。

里村紹巴は秀吉に光秀の懐紙を見せました。
懐紙には「下しる」の「し」の部分に書き直した跡がありました。
里村紹巴は次のように弁明しました。
「最初は『下なる』であったものを、誰かが自分をおとしめるために『下しる』と書き直したのです。」
里村紹巴が言ったことは嘘で、本当は最初から「下しる」だったのですが、里村紹巴が「し」を消したうえで改めて「し」を書いたとされます。

亀岡光秀祭-2

③愛宕百韻は光秀の信長打倒の意思表示ではない?

愛宕百韻は光秀の信長打倒の意思表示ではないとする意見もあります。

a.わざわざ謀反をおこすことを示すような句を詠むはずがない。
b.本能寺の変がおきたのは6月2日。5月28日に福屋隆兼にあてて光秀が送った手紙には「信長より山陰道への出陣を命令されたので、備中に着陣のうえ様子を見て伯耆へ発向する予定。その際には、格別の貢献を期待しています。」とあり、5月28日には謀反を決意していなかった。
c.愛宕百韻は全体的に見ると雅な句が多く、信長打倒の意思表示とは思えない。

等です。

亀岡光秀祭-雑賀衆

④方広寺鐘銘は秀頼が仕掛けた家康への呪いだった?

「a.わざわざ謀反をおこすことを示すような句を詠むはずがない。」について考えてみましょう。

結論を先にいえば、「わざわざ謀反をおこすことを示すような句を詠むはずがないとはいえない」と私は考えます。

というのは、わざわざ謀反をおこすことを示すような句を詠んだと思われる例があるからです。
それは方広寺の鐘銘です。

1582年、秀吉が光秀を討ったあと、豊臣家が権力を強めます。
1598年、秀吉が死去すると、秀吉の子の秀頼が秀吉のあとを継ぎました。
1600年、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が1603年に江戸幕府を開きます。
1614年、秀頼は天得院の文英清韓(ぶんえいせいかん)に依頼して方広寺の鐘銘を作らせました。
鐘銘には「国家安康 君臣豊楽」とあり、これに徳川家康が大激怒!

方広寺 鐘銘 

方広寺鐘銘

「国家安康」だと?これは家康の名前を切っているじゃないか!
「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味ではないか!
けしからんーーーー!と。

そして家康はこれを理由に秀頼の居城・大阪城を責め、豊臣家を滅ぼしてしまったのです。

方広寺鐘銘事件は家康がいいがかりをつけた事件だととらえる向きもありますが
私は秀頼が家康を呪うことを目的にために文英清韓に鐘銘を造らせた可能性が大ありだと考えています。

「パパ(秀吉)は光秀の「時は今 雨が下しる 五月かな」を見逃した。
それは光秀の句に謀反の意図があるとは断定できなかったからだ。
「国家安康」「君臣豊楽子孫殷昌」とはなかなかいい呪術だ。
気がつきにくいし、気がついたとしても家康はケチのつけようがないよね?」

ところが家康はパパ(秀吉)よりも細かいことに執拗にこだわるタチだった!ということではないでしょうか。

私は光秀の「時は今 雨が下しる 五月かな」のには信長を倒す意図を詠んだものだと思います。
なぜ光秀が信長を倒す意図をあえて句という形で残したのか。
それは言霊信仰からくるものではないでしょうか。
言霊信仰とは口にした言葉は実現する力を持つ、という信仰のことです。
なので、敵方にさとられる危険をおかしてでも、言葉を発する必要があったと考えられるのです。

しかし、わざわざ敵方にさとられるようなストレートな言葉の発し方ではなく、ちょっとひねってわかりにくくしたのでしょう。
和歌のテクニックである掛詞・縁語・折句・もののな・ぎなた読みなどはそうしたところから生まれた野だと思います。

家康にばれはしたものの、「国家安康」「君臣豊楽子孫殷昌」というのはなかなかうまい呪術ではないでしょうか。

亀岡光秀祭8

⑤惟喬親王の歌会のメンバーは藤原氏と敵対していた人ばかり

 現在人は呪術は非科学的だとして、重要視しない人が多いです。
しかし、昔の人は呪術を大変重要視していたと思います。
そして和歌や連歌は呪術のための道具であったと考えられます。

平安時代には惟喬親王が在原業平・僧正遍照・紀有常らと頻繁に歌会を開いています。
この歌会のメンバーは全員藤原良房と敵対関係にあり、歌会と称してクーデターを企てていたのではないかとする説があります。

文徳天皇は紀静子との間に長子の惟喬親王をもうけており、惟喬親王を皇太子にしたいと考えていました。
しかし文徳天皇と藤原明子(良房の娘)との間に惟仁親王(のちの清和天皇)が生まれ、
良房に権力があったことから惟仁親王が皇太子となりました。

紀有常は紀静子の兄。在原業平は平城天皇の孫ですが臣籍降下して紀有常の娘を妻にしています。
僧正遍照は桓武天皇の孫ですがやはり臣籍降下し、藤原良房にすすめられて出家したという話が伝えられていますが
遍照は決して他人に出家の理由を話さなかったそうです。
遍照は藤原良房になにか弱みを握られていたのではないでしょうか。

亀岡光秀まつり

⑥業平と遍照の和歌による呪術

業平と遍照の歌を鑑賞してみましょう。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし/在原業平

世の中に桜というものがなかったならば、もっとのどかな気持ちで春を迎えられるのに、という歌です。
一般には、桜が美しすぎるため、見る人の心をそわそわさせるという意味だとされていますが
業平は良房の次の歌をうけてこの歌を詠んだのではないかと私は考えています。


染殿の后のおまへに
花瓶(に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば 
()は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房

つまり、桜とは藤原明子のことで、「明子がいなかったなら、清和天皇が生まれることはなく、私がお仕えする惟喬親王が天皇になっていたのに。明子など消えてしまえ。」という意味ではないかと思うのです。

天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ/遍照
(天の風よ、吹いて雲のすきまを閉じてしまっておくれ。乙女の姿をもう少し見ていたいから。)

この歌は詞書に「五節の舞姫をみてよめる」とあります。

遍照は宮中を天上になぞらえ、そのため宮中に吹く風を「天つかぜ」と表現したと解釈されています。
古今和歌集では作者は「よしみねのむねさだ(遍照の在俗時の名前)」となっており、遍照が出家する(850年)以前に詠んだ歌だと一般には考えられていますが、
僧侶がこんな好色な歌をよむなんてけしからん、という批判をさけるために在俗時の名前にしたのかもしれません。

世継ぎ争いに勝利した惟仁親王は859年に即位して清和天皇となったわけですが
この際の大嘗祭で、藤原良房の養女・藤原高子が五節舞姫をつとめています。
そして866年には清和天皇に入内して女御となりました。

高子が清和天皇に入内したことで藤原良房はますます権力を高めていきます。

遍照の歌にある「をとめ」とは859年の清和天皇即位に伴う大嘗祭で五節舞姫をつとめた藤原高子のことではないでしょうか。
遍照は宮中を天上になぞらえているのでしたね。
そして「風よ、高子を天上(宮中)に入れないでくれ。清和天皇に入内させないでくれ」と詠んだ歌のように思えます。


亀岡光秀祭-3

⑦福屋隆兼にあてて光秀が送った手紙はフェイク情報だった?

次にbについて考えてみましょう。

b.本能寺の変がおきたのは6月2日。5月28日に福屋隆兼にあてて光秀が送った手紙には「信長より山陰道への出陣を命令されたので、備中に着陣のうえ様子を見て伯耆へ発向する予定。その際には、格別の貢献を期待しています。」とあり、5月28日には謀反を決意していなかった。

備中とは現在の岡山県西部、伯耆とは鳥取県中部・西部にあたります。
福屋 隆兼は(ふくや たかかね)は、石見の国人で、本明城の城主でした。
石見は島根県西部のことで、、地理的に伯耆に近いです。
それで福屋隆兼に援軍を依頼する文を送ったと考えられます。

しかし、時に人は真実をわかりにくくするための工作をすることがあります。
光秀は何らかの意図があって、福屋隆兼に「伯耆へ行く」とフェイク情報を流したとも考えられますよね?

「本城惣右衛門覚書」によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたとあります。

信長討伐という目的は光秀に近しい数人しか知らないことだったのでしょう。

福屋隆兼にあてて光秀が送った手紙がフェイク情報だったと仮定した場合、どういう目的で光秀はフェイク情報を流したのでしょうか?
すいません、わかりません!(汗)もうちょっと考えてみます。

亀岡光秀祭

⑧愛宕百韻を鑑賞してみる。

c.愛宕百韻は全体的に見ると雅な句が多く、信長打倒の意思表示とは思えない。

これを検証するため、まずは愛宕百韻を鑑賞してみました。http://www.nobunaga-lab.com/labo/12_honnouji/atago100.html 
意味がわからない箇所がたくさんありますが、次のように解釈できなくもありません。

花落つる池の流れをせきとめて家康の勢いをせき止める
度々の化の情はなにかせん家康が我々にかけた情けは嘘の情けで気にとめる必要はない。
おもひなれたる妻もへだつる光秀が詠んだ句。 思いなれた妻も離れてしまって。
光秀の妻・妻木煕子は1576年に死亡しており光秀はやもめだった。光秀には側室はいなかった
賢きは時を待ちつつ出づる世にチャンスをうかがって謀反をおこすのだ?)
紅葉ばを分くる龍田の峰颪峰おろし」という言葉から、勇猛に戦うぞという意思が感じられる。
契り只かけつつ酌める盃に謀反をおこす決意をきめて盃を交わしている?
たちさわぎては鴫の羽がき「たちさわぎては」という言葉から、世間を騒がせるぞという意思が感じられる。
縄手の行衛ただちとはしれ まっすぐな路の行方、ただちに走れ
いさむればいさむるままの馬の上ふるいたてば、ふるいたったまま馬の上で
国々は猶のどかなるころ国々はさらにのどかになるだろう

どうでしょう?戦に向かう歌だとおもえなくもなくないですか?

そして「時は今 雨が下しる 五月かな」は 光秀が「花のいろは移りにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに」という小野小町の歌を受けて詠んだものではないかと私には思えます。

この歌は小野小町が詠んだものですが、私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。
古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多く、また小野小町は穴がない体だったという伝承があります。
穴がない体とは小野小町とは男であり、小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えたのです。

説明すると長くなるので、別ブログの次の記事をお読みください。
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

そして「わがみよにふるながめせしまに」とは「我が御代に下(ふ)る長天せしまに」であり
「私の御代に長い天下がくるだろう」という意味だと解釈したのです。

光秀の「時は今 雨が下しる 五月かな」は小町の歌を意識しているように思えませんか?

亀岡光秀祭 火縄銃 



※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!





にほんブログ村    



関連記事
スポンサーサイト

[2018/05/10 17:27] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)