梅宮大社 梅 『橘嘉智子はなぜ仏教に帰依したのか』 

京都市右京区 梅宮大社
2018年3月中旬撮影

梅宮大社 門 紅白の梅


①酒解神=オオヤマツミ、酒解子神=コノハナノサクヤヒメ、大若子神=ニニギ、小若子神=ホオリ

梅宮大社の本殿の御祭神は酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神の四柱です。


酒解神とはオオヤマツミの別名です。
酒解子神はコノハナノサクヤヒメの別名で、酒解神の御子神。
大若子神は天照大神の孫・ニニギの別名で酒解子神の夫神。
ニニギは天照大神の天孫で葦原中国へ天下って国を治めた神。葦原中国のコノハナノサクヤヒメと結婚しました。
小若子神はホオリの別名で、酒解子神(コノハナサクヤヒメ)と大若子神(ニニギ)の御子神です。
ということは小若小神(ホオリ)は酒解神(オオヤマツミ)の孫ということですね。

言葉で説明するより図を見てもらったほうがわかりやすいと思います。

酒解神(オオヤマツミ)―――酒解子神(コノハナノサクヤヒメ)※酒解神(オオヤマツミ)の娘
                  |
                  |ーーー小若子神(ホオリ)
                  |   ※母・酒解子神(コノハナノサクヤヒメ)・父・大若子神(ニニギ)
                  | 
天照大神ーー――――――――――大若子神(ニニギ)※天照大神の孫  

梅宮大社 紅白の梅                

酒解神は初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神です。
若子(ワクコ)は発酵を意味する言葉なので、大若子神・小若子神も酒の神を意味していると考えられています。

ホオリは有名な海幸彦・山幸彦の物語に登場する山幸彦のことで、初代神武天皇の祖父にあたります。

酒解神(酒造の祖神)=オオヤマツミ
酒解子神(酒解神の御子神)=コノハナノサクヤヒメ(ニニギの妻)
大若子神(酒解子神の夫神)=ニニギ(天照大神の孫で葦原中国へ天下って治めた。)
小若子神(酒解子神と大若子神の御子神・酒解神の孫)=ホオリ(神武天皇の祖父)

梅宮大社 庭園 梅


②酒解神=橘清友、酒解子神=橘嘉智子、大若子神=嵯峨天皇、小若子神=仁明天皇?

そして、相殿として、嵯峨天皇とその皇后の橘嘉智子、嵯峨天皇と橘嘉智子の間に生まれた仁明天皇、檀林皇后の父・橘清友を御祭しています。

嵯峨天皇・・第52代天皇
橘嘉智子・・嵯峨天皇の皇后
仁明天皇・・嵯峨天皇と橘嘉智子との間に生まれた皇子。第54代天皇
橘清友・・・橘嘉智子の父親


相殿とは同じ社殿に2柱以上の神を合わせて祭ることをいいます。

これは、酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神と、嵯峨天皇・橘嘉智子・仁明天皇・橘清友が同一視されたということではないかと思うのです。

酒解神=オオヤマツミ=橘清友
酒解子神=コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子
大若子神=ニニギ=嵯峨天皇
小若子神=ホオリ=仁明天皇


酒解神(オオヤマツミ=橘清伴)―――酒解子神(コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子)※酒解神(オオヤマツミ=橘清伴)の娘
                  |
                  |ーーー小若子神(ホオリ=仁明天皇)
                  |   ※母・酒解子神(コノハナノサクヤヒメ=橘嘉智子
                       父・大若子神(ニニギ=嵯峨天皇)
                  | 
天照大神ーー――――――――――大若子神(ニニギ=嵯峨天皇)※天照大神の孫 

梅宮大社 椿

③右大臣・橘諸兄失脚、橘奈良麻呂拷問死。

本殿の向かって右の若宮社には橘諸兄が、本殿の向かって左の護王社にはは橘氏公(ウジギミ)と橘逸勢が祭られています。

若宮社・・・橘諸兄
護王社・・・橘氏公・橘逸勢


若宮社の橘諸兄(684~757)は敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で葛城王といいました。
父親は美努王、母親は橘美千代です。
736年、弟の佐為王と共に母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い出ます。
葛城王の申し出は許可され、葛城王はこれ以後、橘諸兄と称しました。

橘三千代は夫の美努王が大宰府に単身赴任しているすきに藤原不比等と再婚して光明皇后を産んでいます。
光明皇后は橘諸兄の異父妹なんですね~。

737年、天然痘が流行し、藤原不比等の子である藤原四兄弟や舎人親王ら多くの政府高官が死亡しました。
738年、こういった情況下で橘諸兄は右大臣となり、743年には左大臣になりました。
 
ところが755年、諸兄の従者が『諸兄は酒宴の席で朝廷を誹謗した』と讒言をしました。
聖武太上天皇は問題視しなかったそうですが756年、これを恥じた諸兄は辞職し、翌757年死亡しています。

このころ、光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂が勢力を伸ばしており、この事件には仲麻呂の思惑が働いていたのではないかと思われます。


758年、橘諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、クーデターを計画しましたが密告によって捕らえられました。
このクーデター計画にかかわった多くの人が厳しい拷問によって死亡しています。
続日本紀の拷問死した人物の記述の中に、奈良麻呂の名は記されていないが、やはり拷問死したと考えられています。

梅宮大社 白梅

④子孫は繁栄したが、早死にした橘清友


梅宮大社の御祭神の橘清友は、この奈良麻呂の子です。
清友は777年に渤海大使都蒙を接待したとき、
『骨相から見るとあなたの子孫は繁栄するが、あなた自身は32歳で厄があるでしょう』
といわれ、その予言どおりに32歳で死亡しました。

子孫が繁栄するというもうひとつの予言もあたったといえるかもしれません。

娘の橘嘉智子嵯峨天皇の皇后となり、橘嘉智子が生んだ正良親王は54代仁明天皇に、正子内親王は53代淳和天皇の皇后となりました。

梅宮大社 猫2匹

⑤承和の変

橘嘉智子の娘の正子内親王は淳和天皇の皇后となり、恒貞親王をもうけました。
833年、正子内親王の夫・淳和天皇は、正子内親王の弟・正良親王(仁明天皇)に譲位します。
そして仁明天皇の皇太子には、淳和天皇と正子内親王の間に生まれた恒貞親王が立ちました。

このころ、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て権力を強めつつありました。
良房は恒貞親王ではなく、仁明天皇と妹順子の間にできた道康親王の皇位継承を望んでいました。
淳和上皇と恒貞親王はしばしば皇太子辞退を奏請していますが、それはおそらく良房を恐れてのことでしょう。
しかし、恒貞親王の皇太子辞退は嵯峨上皇に慰留されていました。

840年、淳和上皇が崩御し、842年嵯峨上皇が病に伏せると、後ろ盾をなくした恒貞親王は不安定な立場に立たされてしまいます。

伴健岑と橘逸勢(橘嘉智子の従兄弟)は恒貞親王の身を案じて恒貞親王を東国へ移す計画を練りました。
ふたりはこの計画を安保親王(第51代平城天皇の皇子。在原業平の父)に相談しますが、阿保親王はこれに与せず、橘嘉智子に密告してしまいます。
驚いた橘嘉智子はこれを藤原良房に相談したのです。

嵯峨上皇が崩御した2日後、仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを逮捕しました。
恒貞親王は廃太子。
橘逸勢は姓・官位を剥奪、『非人』の姓を与えられて流罪になり、その護送途中に病没しました。

これを『承和の変』といいます。

梅宮大社 黒猫

⑥橘氏公

橘氏公は橘嘉智子の兄で、橘嘉智子の立后を受けて急速な昇進を遂げています。
833年に正良親王が仁明天皇として即位後は、844年に右大将となり、845年に従二位となっていますが、847年に66歳で没しました。

橘嘉智子以降、橘氏より立后する女性は出ず、橘氏の男子からも藤原氏をしのぐような人物は登場しませんでした。

●自らの罪におびえた橘嘉智子

従来『承和の変』は藤原良房による他氏排斥だと考えられていましたが、当時良房はまだ中納言で第六位の身分にすぎませんでした。
そんな良房がひとりでこんな事件を起こせるはずがない、仁明天皇や橘嘉智子もこの事件に深く関与しているのではないか、と言う説が近年となえられています。

『日本三代実録』によれば、恒貞親王の母・正子内親王は激しく怒り泣いて母・嘉智子太皇太后を恨んだとも記されています。

橘嘉智子は自分の孫の繁栄を願って仁明天皇と藤原順子の間に生まれた道康親王の立太子を画策したのでしょう。
しかし、道康親王の立太子は適ったものの、橘氏はその後ぱっとせず、藤原氏の栄華の手助けをしたに過ぎなかったという結果に。
しかもそのために娘の正子内親王の恨みを買い、孫の恒貞親王・従兄弟の橘逸勢を犠牲にしています。
橘氏の没落を招いたのは橘嘉智子だった可能性が高いのです。

橘嘉智子は我が国最初の禅寺である檀林寺(現在の天竜寺付近にあったとされる。)を創建し、奨学・養老・施薬の施設をととのえるなど、大変信仰心の厚い女性であったとされます。

私は橘嘉智子が深く仏教に帰依したのは、自らの罪の重さにおののいたためではないかと思います。

梅宮大社 紅梅 


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[2018/03/20 23:54] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)