北野天満宮 梅 『京都はお土居に囲まれた城塞都市だった?』 

京都市上京区 北野天満宮
2018年3月中旬 撮影

北野天満宮 お土居 梅 
御土居

①御土居

御土居は豊臣秀吉が作った土塁で、京都を囲むように作られました。
江戸時代になって寺社・公家に払い下げられ、その多くは取り壊されました。
しかし、北野天満宮・蘆山寺境内など数か所に遺構が残されています。

北野天満宮 本殿 梅 
本殿

②土塁を作った目的

秀吉が土塁を作った目的は複数あると考えられています。

ひとつは堤防としての役割です。
お土居は鴨川に沿って南北に長く伸びていますが、それは鴨川の氾濫から町を守るためだと考えられています。

洛中の範囲を明らかにするためだとする説もあります。

天正18年(1590年)ごろ、秀吉は細川幽斎に意見を聞くなど都の境界を定め、惣土堤を築かせたというようなことが、 『室町殿日記』に記されているようですね。

また防壁として作られたとする説もあります。

 北野天満宮 宝物殿 梅

宝物殿

③御土居=防壁説の疑問点

ただし防壁としてお土居がつくられたとする説には、いくつかの疑問点が指摘されています。

a.御土居の西部や北部は第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらあり、兵力が多く必要である。
b.御土居の内側に堀(紙屋川)がある個所があり、侵入者に御土居を占拠されかねない。
c.防壁上に櫓がない。
d.御土居の出入口に侵入者を防ぐ構造がない。
e.御土居の上に竹が植えられていたので視界が遮られる。兵士がが御土居の上を移動できない。

北野天満宮 社務所 梅 
社務所
 
④京の町は御土居に囲まれた城塞都市だった?

1585年、秀吉は関白となり、政庁兼邸宅として聚楽第を建てました。
聚楽第が完成したのは1587年です。




「京都図屏風」から、本丸の位置は、北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀は上長者町通、西堀は裏門通にあったと推定されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:OdoiRemains.png
お土居の範囲はリンク先をご覧ください。

聚楽第は二条城の北、京都御苑の西ですから、当然お土居の中にあるわけです。
いや、1587年に聚楽第が完成し、その後1590年ごろに御土居がつくられたと言ったほうがいいですね。
お土居は聚楽第の防壁として作られた可能性があると思います。

つまり、京の都は聚楽第を中心とした城郭都市であったのではないかということです。

長五郎餅本舗さん 梅 
長五郎餅本舗さん

⑤農地までを取り囲む城塞都市?

御土居を防壁とする説の疑問点をひとつひとつ見てみましょう。

a.御土居の西部や北部は第2次世界大戦後まで農地が広がっていた場所すらあり、兵力が多く必要である。

御土居の西部や北部は、御土居が作られた1590年ごろからずっと農地だったということでしょうか。

秀吉は豪快で派手好きな性格であったといわれますね。
1587年の北野大茶湯では「茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず参加すること」とお触れを出し、1000人もの人が参加しています。
2日目には肥後国一揆がおこったためか、突然中止になってしまうのですが~。
(思ったほど参加者が集まらなかったので、秀吉が機嫌を損ねたとする説もあります。)

北野天満宮 しだれ梅

このような秀吉の性格を考えると、農地まで防壁を築くということはありえそうに思えます。
籠城することになった場合、食料や水を確保しておくことがかかせません。
農地まで防壁で囲っておけば、安心できると秀吉は考えたりしなかったかな?

北野天満宮 梅

⑥紙屋川は排水システム?

b.御土居の内側に堀(紙屋川)がある個所があり、侵入者に御土居を占拠されかねない。

紙屋川は御土居の西を流れる川で、この川の東に御土居を設け、京の町を囲っていたようです。
つまり紙屋川を堀がわりに利用していたのですね。
紙屋川の大部分は御土居の外側を流れていたが、御土居の内側を流れている個所もあったということだと思います。
ということは、御土居の下が暗渠のようになっている個所があったということではないでしょうか。

御土居は防壁であると同時に、鴨川の氾濫から町をまもるためのものでもあったでしょう。
それでも鴨川の水が御土居を超えてきたら?
京の町は御土居に囲まれているので、町にたまってしまいます。
町には水抜きのための排水システムが必要です。
紙屋川は京の町の排水口として、御土居の内側に作られたのかも?


北野天満宮 梅林 
梅園

⑦秀吉は途中で町つくりを放棄した?

c.防壁上に作られる櫓がない。
d.御土居の出入口に侵入者を防ぐ構造がない。

聚楽第は1591年に秀吉の甥・秀次の邸宅となり、1595年には秀吉は秀次を切腹させて聚楽第を破却させています。

一方、お土居を作り始めたのは1590年ごろなので、当初は櫓など造るつもりだったのを、途中で「聚楽第も潰すし、お土居ももうどうでもいいよ!」と放置されたとかいうようなことはないですかね?

e.御土居の上に竹が植えられていたので視界が遮られる。兵士がが御土居の上を移動できない。

これはお手上げです。ぜんぜんわかりません。皆さまはどうお考えになりますか?

北野天満宮 梅昆布茶 と お菓子 

梅園では梅昆布茶とお菓子をいただけますよ♪



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[2018/03/15 22:26] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)