由良湊神社 ねり子祭り『ねり子は応神天皇のイメージ?』 


 兵庫県洲本市 由良湊神社
ねり子祭り・・・2月11日


由良湊神社 ねり子祭-ふとん太鼓2

①由良湊神社

由良湊神社が創建された年代や経緯などは詳しくはわかっていないようです。
近世になり、成山城城主・池田忠長が由良神社の近くにあった八幡宮を再興して氏神とし、由良湊神社を境外摂社としました。
その後、蜂須賀氏が八幡宮を由良湊神社の境内に遷宮させたということです。

御祭神は速秋津日古神(はやあきつひこのかみ)・速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)・品陀別尊(ほむたわけのみこと/第15代応神天皇)です。

八幡神とはこの品陀別尊(応神天皇)のことです。(以後、皇子または応神天皇と記します。)

由良湊神社 ねり子祭-獅子 

②父の死後、九州で生まれた皇子

応神天皇の父親は第14代仲哀天皇、母親は神功皇后です。

仲哀天皇は熊襲征伐のため神功皇后とともに筑紫に行きました。
その際、神功皇后が神がかりして、「新羅の宝を授ける」という託宣しました。
しかし仲哀天皇はこれを信じなかったため、神の怒りに触れて崩御してしまいました。
 
神功皇后はおなかに応神天皇を宿していましたが、おなかに石をおき、冷やすことで出産を遅らせて三韓出兵します。
そして日本に戻り、九州の宇美で皇子(のちの応神天皇)を出産しました。

そのあと、神功皇后や武内宿祢とともに畿内いりしたんだと思います。(よくわかりません。すいません。)
まだ子供なので、武内宿祢に抱かれて旅をしたのでしょう。

皇太子になったのは神功皇后4年です。
おそらく3歳から4歳ごろ皇太子となったのでしょう。

由良湊神社 ねり子祭-獅子と子供

③名前を交換した皇子

古事記にこんな話があります。

武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)に禊をさせるため海岸に連れていきました。
その夜、武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「皇子と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。
皇子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。

由良湊神社 ねり子祭-女の子たち 


④ねり子は八幡神のイメージ?

時間の関係で、ねり子祭りを最後まで見ることができなかかったんですが、
数えで3歳の幼児をねり子といい、数人の大人がねり子を抱いて神社からお旅所までをリレーするそうです。

皇子だった応神天皇が武内宿祢に抱かれて畿内へ向かうシーンや、武内宿祢に抱かれて禊をするために敦賀に行くシーンを思い浮かべてしまいます。

ねり子は八幡神(応神天皇)のイメージと重ねられているのではないでしょうか。

由良湊神社 ねり子祭-ふとん太鼓3 
⑤名前の交換は政権交代を表している?

③の、応神天皇と伊奢沙和気大神が名前を交換するという話は、政権交代を意味しているのではないかと思います。
伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。
応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのかも?
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか?

由良湊神社 ねり子祭り 鬼と布団太鼓 


⑥神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?


初代神武天皇の東征ルートと、15代応神天皇の畿内入りルートが重なるため、二人は同一人物ではないかとする説があります。

神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。
ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。

ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

応神天皇とはニギハヤヒ、神武天皇とは応神天皇と名前を交換した伊奢沙和気大神のことなのかもしれませんね。

由良湊神社 ねり子祭り 鬼 

⑤卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫

籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。
この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。
また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。
箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。
しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。



由良湊神社 ねり子祭-ふとん太鼓
 


⑥神功皇后=卑弥呼

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。

39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」

40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」

43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」

http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)


我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!

私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。
そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので
卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后
ということになると思います。

由良湊神社 ねり子祭-お参り 


⑦応神天皇は二人いた?

すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。
そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?

もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。
ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?

言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。

由良湊神社 ねり子祭-獅子  

⑧八幡神は物部王朝の応神天皇?


八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。
八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。

また、日本には怨霊信仰がありました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。
そのため、「古には神と怨霊は同義語だった」などとも言われますよ。

戦国時代には「神とは立派な人物である」と考え方が変化してきたようで、豊臣秀吉や徳川家康は自ら死後、神として祀られることを望みました。

しかしそれよりも昔、神として祀られた人物は政治的に不遇だった人物ばかりです。

武田邦彦さんが、「天皇は神として祀られているケースが多い」とおっしゃっていましたが
その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など)
古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。

応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないかと私は考えています。


由良湊神社 ねり子祭-ふとん太鼓4 



 

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[2018/02/23 00:00] 兵庫の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)