京都市左京区 下鴨神社
節分祭・・・ 2月3日
比良木社①なんでも柊ドラえもんは『どこでもドア~♪』ですが、下鴨神社の摂社・雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)には『なんでも柊』があります。
そのためでしょうか、雲井於神社は通称名を『比良木社』といいます。
古来、比良木社は厄除けの神として信仰が厚く、祈願が叶うと何らかの木を献上するならわしがありました。
ところが、何の木を植えてもヒイラギの木に変わってしまうというのです!
さらに、献木が柊になるかどうかで、祈願の成就を占ったそうです。
何を植えてもヒイラギに変わってしまうというのはびっくりです。
もし本当なら京都七不思議のひとつに加えたい~。
そういうわけで比良木社を参拝しました。
下鴨神社 古神符焼納神事
②なんでも柊の種明かし瑞垣の前の木を見てみると、葉がギザギザになっているものと、なっていないものがありました。
私は植物の種類はよくわからないんですが、ヒイラギではなく、ヒイラギモクセイかも?。
ヒイラギモクセイはヒイラギとモクセイの雑種だと考えられています。
園芸をされている方に教えていただいたのですが、ヒイラギモクセイの剪定を強くすると、いつの間にかヒイラギになってしまうのだそうです。
またヒイラギモクセイの木を剪定をしなかったり、老木になると鋸歯がなくなってモクセイの葉のように丸くなるのだとか。
誰かがお礼参りにヒイラギモクセイの木を献木してここに植えたところ、剪定を強く行ったためにヒイラギのように葉がギザギザになってしまった、というのがどうやら謎の真相のようです。

ヒイラギ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AOsmanthus_heterophyllus_(leaf_s3).jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/Osmanthus_heterophyllus_%28leaf_s3%29.jpg よりお借りしました。
作者 Alpsdake (投稿者自身による作品) [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズ経由で

ヒイラギモクセイ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3AOsmanthus_%C3%97_fortunei_6.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/66/Osmanthus_%C3%97_fortunei_6.JPG よりお借りしました。
作者 Qwert1234 (Qwert1234's file) [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズ経由で④節分って何?江戸時代まで日本では太陽太陰暦を用いていました。
月の周期は約29.5日なので、 1年=29.5日×12ヶ月=354日となります。
ところが、地球が太陽の回りを一周するのに要するのは365日なので、太陽太陰暦は実際の季節とは1年で約11日もずれてしまいます。
そのため、4年に一度閏月を設けて修正する必要がありました。
太陽太陰暦では月齢がそのまま何日であるかを示します。
これは月がカレンダーがわりになるということで、紙が貴重品だった時代には大変便利でした。
けれど太陽の運行によって生じる季節とは、最大で一ヶ月もずれてしまい、農作業などに不便が生じます。
そこで1太陽年(太陽が黄道上の分点(春分・秋分 )と至点(夏至・冬至)から出て再び各点に戻ってくるまでの周期。約365.2424日)を24に分割した二十四節気を太陽太陰暦と併用していました。
そのため、かつては二十四節季の正月と、太陽太陰暦の正月の2回の正月があったのです。
節分とはもともとは二十四節気の立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味する言葉でした。
中でも立春は1年の切り替わりでもあったため、重用視され、しだいに節分は立春の前日を意味する言葉となりました。
二十四節気では立春を1年の始まりとします。
つまり、節分とは二十四節気における大晦日なのです。
また、旧暦では1月、2月、3月を春、4月、5月、6月を夏、7月、8月、9月を秋、10月、11月、12月を冬としていました。
ざっくりと新暦換算すると約1か月遅れの2月、3月、4月が春、5月、6月、7月が夏、8月、9月、10月が秋、11月、12月1月が冬となります。
二十四節気では立春(2月4日)から立夏の前日(5月4日)が春、立夏(5月5日)から立秋の前日(8月6日)を夏、立秋(8月7日)から立冬の前日(11月6日)が秋、立冬(11月7日)から立春の前日(2月3日/節分)が冬でした。
※( )の日付は新暦
現在では1月はまだまだ冬、3月になるとようやく春となりますが
昔は新年とともに春がくると考えられていたのですね。
太陽太陰暦(旧暦)の1月は太陽暦(新暦)の2月なので、1年で最も寒い季節に春がやってきていたわけです。
下鴨神社 追儺弓神事 下鴨神社 追儺弓神事 『ヤタガラスを射る?』 ⑤ヒイラギは冬の木?
ヒイラギは葉に鋭い鋸歯(きょし)があります。
これに刺さると疼ぐ(ひいらぐ=痛む)ことから、『疼木』と名付けられたとされます。
ヒイラギを漢字で書くと柊ですが、この漢字は日本で創作された国字です。
そういったところから、冬の木=柊という漢字がつくられたのかも?
節分祭は立春の前日に行われる行事で、冬の気を祓う行事だといっていいでしょう。
節分にはヒイラギの枝に鰯の頭をさしたものを玄関口に飾る習慣がありますね。
また『比良木社』では節分の日にヒイラギの小枝をさしたお札を授与しています。
節分と柊はこのように大変関係が深いです。
下鴨神社 光琳の梅⑥柊鰯は柊なよしで、節分ではなく正月の習慣だった。
土佐日記には正月の注連飾りに、『柊の枝となよし(ボラ)の頭を刺してあった』とあります。
現在、節分の日に柊にイワシの頭を刺したものを門に飾る柊鰯(ひいらぎいわし)の習慣がありますが、もともとは正月の行事で、柊にはイワシではなくボラの頭をさしていたのですね。
京都花見小路の注連飾り⑦クリスマスのルーツはミトラ教の冬至祭だった。
クリスマスには柊の葉で作ったリースをドアに飾る習慣がありますね。
クリスマスはキリストの誕生日とされますが、実は聖書にキリストの誕生日がいつなのかは記されていないんですね。
クリスマスはミトラ教の冬至祭をキリスト教がとりいれたものだと考えられています。
冬至は1年で太陽の南中高度が最も低くなる日で、グレゴリオ暦の12月22日です。
その3日後の25日ごろより太陽は再び南中高度をあげていきます。
それでミトラ教では12月25日に冬至祭を行っていたのでしょう。
北野異人館街 洋館長屋

京都駅ビル クリスマスイルミネーション⑧キリストは太陽を擬人化したものだった?太陽は冬至の12月22日に最も南中高度が低くなり、その3日後の25日から再び南中高度を上げていくと書きました。
で、キリストは十字架に磔になって死亡し、3日後に生き返っていますね。
地球の自転軸は歳差運動によってコマがふれるように回転しています。
そのため、かつて北半球でも南十字星が見えていたといいます。
とはいえ南十字星が見えていたのは空のたいへん低い位置だったことでしょう。
そして冬至の太陽の南中高度はこの南十字星の南中高度に近づきます。
そのため、キリストは太陽を擬人化したもの、キリストが十字架に磔になったというのは冬至の太陽が南十字星の南中高度に近づくという意味ではないかとする説があります。
京都イルミエール⑨冬至正月と節分「冬至正月」という言葉があり、かつて冬至(12月22日)を1年の始点とする考え方があったとされます。
そして④で説明したように節分とは二十四節気の大晦日で、翌日の2月4日は立春で二十四節気の正月です。
さらにミトラ教の冬至祭ルーツとするクリスマスに飾るヒイラギのクリスマスリースと、日本の節分の柊鰯。
クリスマス・・・冬至祭(冬至正月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヒイラギのクリスマスリース
節分・・・・・・二十四節気の大晦日(翌日の立春は二十四節気の正月)・・・柊鰯
同志社彰栄館⑩古代日本に原始キリスト教が伝わっていた?キリスト教の伝来は一般的には1549年、フランシスコザビエルによってもたらされたとされていますが、それ以前の日本にキリスト教が伝わっていたという説もあります。
佐伯好郎氏は次のように主張されました。
・中国ではローマを大秦、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院のことを大秦寺と言った。
渡来人であった秦氏は京都市右京区の太秦を本拠地としていたが太秦と大秦は点ひとつの違いである。
・広隆寺は別名太秦寺とも呼ばれていた。
・広隆寺の弥勒菩薩半迦思惟像の手の印は、壁画に描かれた景教徒の手の印と全く同じである。
・秦氏は秦の始皇帝の子孫を称しており、日本書紀は秦氏は百済より渡来したと記しているが、秦氏のルーツを中央アジアのバルバシ湖の南にあったキリスト教国・弓月王国ではないかとしている。(秦氏の祖は弓月君という名前である。)
しかし、時代考証が合わないということで氏の説は学会から抹消されました。
ネストリウス派キリスト教は431年エフェソ公会議で異端として排斥され、布教の矛先を東洋に向けています。
秦氏が帰化したと思われる4世紀後半から5世紀前半では、まだネストリウス派は東洋に進出していない、というのがその理由でした。
佐伯氏は後年秦氏=景教徒説を捨て、秦氏=原始キリスト教徒説に訂正ししましたが、学会が氏の説を認めることはついになく、現在に至っています。
ですが、古くより東西はシルクロードを通じて繋がっていました。
ギリシャのパルテノン神殿にあるのと同じエンタシスの柱が奈良の唐招提寺や法隆寺にも伝わっています。
建築様式だけ伝わって宗教が伝わらないというのは不自然じゃないかなあ?
柊鰯のルーツはクリスマスリースだったりして?
比良木社
まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村
- 関連記事
-
[2018/02/11 15:10]
京都府 |
トラックバック(-) |
コメント(-)