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大報恩寺 おかめ節分 『大報恩寺に残る聖徳太子信仰?』  


京都市上京区 大報恩寺(千本釈迦堂)
おかめ節分会・・・2月3日


①おかめ節分会


この日のおかめ像は赤い傘をさし、山吹色の着物を着ておめかしをしていました。

大報恩寺 おかめ像 

大報恩寺になぜおかめの像があるんでしょうか。
それはここに大工の棟梁とおかめの伝説が伝えられているからです。

千本釈迦堂の本堂を建てるとき、長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という大工の棟梁が謝って柱を短く切ってしまった。
棟梁はどうしたものかと困り果てていたが、妻の阿亀(おかめ)が、全ての柱を短く切って升型の受けを作ってはどうかと助言した。
棟梁はおかめの助言に従って無事本堂を完成させることができた。
妻のおかめは夫の失敗が人に知れないようにと、本堂の完成を待たずに自殺した。

大報恩寺 柱の升組
  
大報恩寺本堂 矢印が示す場所に升受けがある。

本堂の大柱を見ると、たしかに枡受けがあります。
このような伝説があるので、大報恩寺の節分会は『おかめ節分会』と呼ばれているのでしょう。

大報恩寺 おかめ節分会 木遣音頭


②応仁の乱の戦火をまぬがれた寺

大報恩寺は1223年、義空上人が釈迦念仏道場として開きました。
この付近は西陣と呼ばれますが、それは『応仁の乱(1467-1477)』で西軍の陣が置かれたことに由来します。
このとき千本釈迦堂にも兵火が及びましたが、奇跡的にも焼失をまぬがれました。
「応仁の乱で焼けなかったのはおかめのご利益にちがいない」と、人々は噂したことでしょうね。

大報恩寺 おかめ節分会 狂言2


③飛騨守が大工?

だけど、このおかめ伝説、ちょっとひかかるんだなあ~。

それは、おかめの夫の大工の棟梁、長井飛騨守高次についてです。
飛騨守というのは役職名です。

古代から中世にかけて、朝廷は各地に国司という行政官を派遣していました。
その国司には、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などの役職がありました。
つまり、長井飛騨守高次とは、飛騨守、飛騨の国司なわけです。

飛騨守という役職についている役人が兼業で大工の棟梁をやったりする?

飛騨は過疎地帯であったため、租庸調(税金)のうち庸調が免除されていました。
そのかわり、飛騨の人々は大工として挑発されたので、大工業が発達していきました。

おかめは神なので、おかめの夫の長井飛騨守高次も神なのではないでしょうか。
その大工の神を飛騨守としたのは、飛騨が大工業が発達した地域だからではないかなあと思ったりします。

大報恩寺 おかめ節分会 狂言

④建築の神・聖徳太子

建築の神として信仰されているのは聖徳太子です。

世界最古の企業は大阪にある金剛組だといわれています。
創業はなんと飛鳥時代の578年で、四天王寺からほど近い場所にあります。

四天王寺 夕景 合成

四天王寺

聖徳太子は四天王寺を創建するために百済より3人の宮大工を招きましたが、そのうちのひとり、金剛重光(柳重光)によって金剛組は創業されました。

以前、テレビで金剛組の朝礼風景を見たことがあります。
事務所には厨子が置いてあって、中に聖徳太子像が安置されていました。
社員たちは厨子の前に並び、まず聖徳太子に合掌してから朝礼を始めるのです。
金剛組の朝礼風景は、今でも聖徳太子が建築の神として信仰されていることを示していますね。

もしかして大工の棟梁・長井飛騨守高次って聖徳太子の化身じゃないの?


千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼2 


⑩ひょっとこは聖徳太子?

おかめとペアになっている神といえばひょっとこですよね。
ひょっとこの語源にはいろんな説がありますが、その中に民話に登場するヒョウトクからくるというのがあります。

強欲な婆さんがヒョウトクのへそを火箸でぐりぐりといじったためにヒョウトクは死んでしまった。
ヒョウトクをかわいがっていた爺さんはヒョウトクの死をそれは悲しんだ。
そんな爺さんの夢枕にヒョウトクが立ち、『自分の顔の面を竈の前の柱にかけておけば裕福になるだろう』と告げた。
そのとおりにしたところ、爺さんは大金持ちになった。


ヒョウトクという名前は聖徳(ショウトク)に似ているじゃないですか~。

千本釈迦堂 おかめ節分会 おかめと鬼 

⑪大報恩寺の太子堂

大報恩寺を出ようと門の方へ向かって歩いていくと、門の手前に小さなお堂がありました。
お堂の上部には、太子堂と記した額がかけられています。

大報恩寺 太子堂 説明板


お堂の額には太子堂と記されていますが、説明板は「北野経王堂 願成就寺」となっていました。
説明板には次のような内容が記されています。

1391年、明徳の乱がおこった。
1392年、足利義満は明徳の乱の戦没者を悼んで北野経王堂 願成就寺という大寺を建てた。
北野経王寺 願成就寺では、毎年10月、10日間に渡って万部経会を行って戦没者を供養していた。
江戸時代に荒廃し、1671年に解体縮小されて小堂となったのがこのお堂である。


説明板には、このお堂になぜ太子堂という額がかけられているのかの説明はありませんでした。
でも、太子って聖徳太子のことじゃないかなあ?
『ひょっとこ=ひょうとく=聖徳太子』という推理はそうトンデモ説ではないかも?


大報恩寺 太子堂 おかめ御幣 

北野経王堂 願成就寺に飾られたおかめ御幣(関西では上棟式におかめ御幣を用います。)




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[2018/02/04 00:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)