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石清水八幡宮 紅葉 『応神天皇は物部王朝の天皇だった?』 

 
京都府八幡市 石清水八幡宮
2017年11月19日 撮影


石清水八幡宮 本殿

①神武=崇神=応神?


石清水八幡宮の御祭神の一、誉田別尊(ほんだわけのみこと)とは、第15代応神天皇のことです。
初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇は同一人物だとする説がありますよ。

a.神武と崇神はどちらも和風諡号が「ハツクニシラス」といいます。
ハツクニシラスがふたりいるのはおかしい。よって、神武=崇神

b.応神天皇は神功皇后が三韓出兵した際、神功皇后のお腹の中にいました。
神宮皇后は朝鮮から九州の宇美に戻って応神天皇を出産します。
そして九州から畿内へ戻るのですが、そのルートが神武東征のルートと重なるので、神武=応神

c.神武=崇神(a)かつ 神武=応神(b) ∴神武=崇神=応神

神武・崇神・応神と諡号に神が付く天皇は3人だけです。
諡号に同じ神という漢字をもちいているのは、3人が同一人物であることを示す暗号なのかも?

石清水八幡宮 紅葉2

②名前を交換することは政権交代を意味している?

古事記にこんな話があります。

武内宿禰は応神天皇に禊をさせるため海岸に連れていきました。
その夜、武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。
御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。


うーん、これってもしかして政権交代を意味してないですかね?
伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。
応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのでは?

そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか?

石清水八幡宮 灯篭

③天皇家は伽耶出身?

角鹿(現在の敦賀)の地名の由来に関して、日本書紀は②とは別の話を記しています。

崇神天皇代、額に角の生えた意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子・ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)が船で笥飯浦にやってきました。
これが「角鹿(つぬが)」の語源です。
垂仁天皇代、ツヌガアラシトが帰国しようとした際、天皇はツヌガアラシトに「国名を御間城(崇神天皇の諱)」とするようにと言いました。
これが任那(弥摩那)の語源です。
そしてそのとき、天皇はツヌガアラシトに赤絹を与えましたが、これを新羅が奪いました。
これが新羅と任那の争いの始まりです。


もしかして天皇家は加羅出身?
これについてはもう少しじっくり考えてみたいと思います。

四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソに登場したツヌガアラシト

④神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?

応神天皇と同一人物と思われる神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。
ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。

ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

余談となりますが、天皇制支持の方で、このニギハヤヒの存在について語られた方を、私は一人も存じ上げません。

石清水八幡宮 神馬舎

⑤卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫


籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。
この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。
また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。
箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。
しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。




 ⑤神功皇后=卑弥呼

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。

39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」

40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」

43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」

http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)


我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!

私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。
そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので
卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后
ということになると思います。

安居橋

⑥応神天皇は二人いた?


すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。
そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?

もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。
ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?

言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。

⑦八幡神は物部王朝の応神天皇?


八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。
八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。

また、日本には怨霊信仰がありました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。
そのため、「古には神と怨霊は同義語だった」などとも言われますよ。

戦国時代には「神とは立派な人物である」と考え方が変化してきたようで、豊臣秀吉や徳川家康は自ら死後、神として祀られることを望みました。

しかしそれよりも昔、神として祀られた人物は、
藤原広嗣(藤原広嗣の乱をおこして処刑される)、
伊予親王(クーデターを企てたとして幽閉され、毒を飲んで死亡)、
早良親王(クーデターを企てたとして幽閉され、ハンガーストライキを行って死亡)、
菅原道真(藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され死亡)、
平将門(平将門の乱を起こし朝廷軍と戦って死亡)、
藤原純友(藤原純友の乱を起こし朝廷軍と戦って死亡)など政治的に不遇だった人物ばかりです。

武田邦彦さんが、「天皇は神として祀られているケースが多い」とおっしゃっていましたが
その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など)
古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。

応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないかと私は考えています。

男山 神応寺 

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[2017/11/22 17:56] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)