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玉雲寺(京都府京丹波町) 紅葉 

玉雲寺 山門

落ち葉の絨毯が敷き詰められた石段

玉雲寺 吹寄せ 石仏    
霊樹山 滝見峰

当山は大容梵清禅師が須知出羽守慶吉の総請を受け、応永二十三年(1416)開山となられた寺である。
梵清禅師は、薩摩の島津氏に出生され、了堂信覚禅師の法を継がれ、当寺開山往持のほか、大和の補厳寺・加賀の仏陀寺・能登の總持寺(曹洞宗大本山)に住職された。
以来、末山門派が京都府だけでなく岡山県や宮城減等にまで及び、古い記録によると百六十余寺を数えている。
しかし、天正七年(一五七九)明智光秀の市森城攻撃があり、その兵火で寺の建物宝物等がほとんど焼失した。
現在の境内・本堂・庫裏は光秀が禅師の威徳を尊崇し翌天正八年に再興したものである。(説明板より)


玉雲寺 山門 鐘楼

市森城は別名を須知城といい、玉雲寺からほど近い場所にあります。
今回は時間の関係でいきませんでしたが。

玉雲寺 鐘楼

 
▲1528年(0歳)
美濃国(現在の岐阜県)に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれる。

▲1535年(8歳)
父親の明智光綱がなくなり、明智家の家督をつぐ。
まだ幼かったので、おじの明智光安が後見人となる。

▲1556年(28歳)
長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。
おじの光安は戦死。
一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となる。

▲1556年~1565年(28歳~37歳)
浪人となり、各地を転々とする。
その後、越前(今の福井県)の大名、朝倉義景に仕える。

▲1568年(40歳)
朝倉義景から織田信長に仕える。

※参照:
織田信長の年表を小学生でもわかるように簡単にまとめてみた

▲1571年(43歳)
織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行う。
光秀は実行部隊として武功を挙げる。

▲1572年(44歳)
働きが認められ、現在の滋賀県に5万石を与えられる。
琵琶湖の近くに坂本城を建てる。

▲1577年(49歳)
丹波方面(現在の京都府の一部と兵庫県の一部)を攻めるよう命令される。

▲1579年(51歳)
丹波国29万石を与えられる。

▲1582年(54歳)
羽柴秀吉(=豊臣秀吉)とともに中国地方を攻めるように命令される。
進軍の途中に軍隊を引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う(本能寺の変)。
信長死亡の知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北(山崎の戦い)。
逃げる途中に襲われて死亡。

※参照:
豊臣秀吉の年表をわかりやすい形で簡単にまとめてみた

https://history-land.com/akechi-mitsuhide/ より引用

玉雲寺-本堂


玉雲寺 石仏 





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[2020/12/10 18:49] 京都府 | TB(0) | CM(0)