スライドショー作るのが楽しくて、ブログのほう、さぼりぎみですw
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また動画(スライドショー)つくりました。
今日はこの機能試してみようか、などと考えながら
動画つくるのは楽しくてはまりそうです。
動画ラストのところは、gifアニメ風にしてみましたw
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使用した無料ソフトはこちら。
https://www.gigafree.net/media/me/Shotcut.html他にもたくさん無料ソフトありますが、1回か2回しか保存できなかったです。
(購入しろとメッセージがでるw)
ちょっとしたことがわからなくて、手間取りましたが、なんとか作れましたが、まぐれでつくれたのかもw
今年のルミナリエはコロナで中止のようですね。写真は過去に撮影したものです。
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メタセコイアの並木
雨のち虹。

↑ これは結露ソフトフィルターで撮影w
平安時代だったかに藤原なんちゃらが「虹が出た場所に市をたてた」というネット記事を読んだ記憶があります。
ところがその後、記事を探しても見つからない!
この件に関して何かご存じの方、おられましたら是非ご一報ください。
さて、なぜ虹が出ると市を立てるのでしょう?
こんなに美しい虹ですが、古にはまがまがしいものだと考えられていたようです。
そして、市(いち)とは斎(いつき)の事であると聞いたことがあります。
斎とは「心身を清めて神に仕えること」です。
もしかしたら市とは、もともとは物品の売買を行うことで、市によって穢れが浄められると考えられていたのかも?
たとえば各地の天満宮で鷽替神事が行われています。
嘘替神事とは「変えましょう、変えましょう」といいながら、隣近所の人と鷽鳥の入った紙包みを何度も交換しあいます。
この神事によって「嘘が誠に変えられる」と考えられていました。
交換することで穢れが浄められるというような信仰があって鷽替神事が生まれたのかもしれませんね。
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12月19日。円福寺はまだ少し紅葉が残っていました。


イチョウの葉は全部落ちてる・・・・はずだったんだけど
なんと大根の花が咲いていましたよ♪
これは日本版クリスマスツリーと言えるかもしれません。
何故ならば、クリスマスとはミトラ教の冬至祭を取り入れたものだといわれており
日本では大根焚の習慣がありますが、行われるのはだいたい12月の冬至に近い日だからです。
千本釈迦堂 大根焚・・・・12月7日、8日
了徳寺 大根焚・・・・・・12月9日、10日
宝山寺 大根焚・・・・・・12月1日
信貴山大本山 千手院・・・12月第1日曜日
大根焚は冬至の行事なのかも??

イチョウもまた、冬至のシンボルツリーだと私は思います。
冬至のことを一陽来復といいますが、一陽とイチョウは掛詞になっていますね。
またイチョウは樹形が太陽のように丸いものが多く(中には細長いものもありますが)
冬至に向かって、黄色い葉を1枚1枚落としていきます。
太陽の色は黄色なので、イチョウが落葉していく様子は、まるで衰えいく太陽をあらわしているかのようです。
そして、冬至が近くなると、すっかり落葉したイチョウの木に聖天さんのシンボルである大根を吊るし、太陽の勢いが再び増していくことを祈願する行事であったのかも?
昔、気になって撮った写真を思い出しました。↓
大阪府交野市の天田神社付近の民家の塀に貼ってあった張り紙が、気になったので写真を撮っておいたのでした。
「12月15日 大根鉢 達磨堂円福寺」と書いてあります。
大阪府枚方市の高田の地蔵堂にも同様の張り紙が貼ってあったと思います。
京都府八幡市、大阪府枚方・交野の農家から托鉢をして大根をもらい、1か月ほど干し、1年~3年つけて沢庵にするそうです。
春と秋の万人講で参拝者にもふるまわれるとのこと。
12月17日、18日に大根をイチョウの木にかける大根吊りが行われたようです。
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20201217/2000038713.html
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獅子窟寺 『空海、星の神を鎮魂する修法を行う?』 ↑ こちらの記事に書きましたが、前回、獅子窟寺を参拝した際、獅子の岩の場所がわからず、参拝し損ねたので再び行ってきました。

山道は急な坂道。本堂まで、距離は大したことないんですが、最初のこの坂道で結構体力使ってしまいますw
牛臥石
本堂
社務所
社務所前から、大阪の町が望めます。
吹田市のオオサカホイールと太陽の塔も見えた!
獅子の岩(女岩)も参拝できました。

だけど、案内図見ると中興の墓の向こうに男岩というのもある?
これはわからなかったです~。
もしかして、これのことかな、とも思いますが ↓

この岩、獅子の岩のほぼ真上にあるんです。
案内図みると、男岩は獅子の岩の真上じゃないですよね~。(案内図がおかしいのかもw)
奥の院(磐座あるだけで建物あるわけじゃないです)に向かう道にもたくさん磐座あるんですけど、説明板とかないので、本当に迷います。(前回遭難しかけたし)
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和歌山県 救馬渓観音
救馬渓観音に到着。きれいに整備されたお寺と言う印象。
岩の上に七福神。
倶利伽羅不動尊

恵比寿堂

コンクリート造りの斬新なお寺

中門くぐると仁王様がいました。
コンクリートの柱の向こうに岩肌が見えています。
かつては掛け造り立ったのかも?
鬼羅岩窟にたてられた本堂のご本尊は馬頭観音です。(写真なし・・・・)
下の記事によると、屋根は一枚岩と一体となっているそうです。(気が付かなかった~)
https://blog.goo.ne.jp/mrslim2/e/eb44f732b02cdb38f702634c7a116fd2他にも不動堂、慈母観音堂など岩窟に作られてるみたいですね。(気が付かなかった~~)
上の写真は、奇絶峡の不動明王堂内部。
気絶峡 紅葉 天井部分は岩になっていました。
このあたりには岩のくぼみや岩窟に対する信仰があったのではないかと思いました。

本堂右手の道を歩いていくと、岩窟に稲荷大明神が祀られていました。
さらに進んでいくとまたしても岩窟が。

こちらの岩のくぼみには縁結びの神が祀られていました。
小栗判官が湯の峰温泉に行く途中、突然愛馬が病のため動けなり、当寺に参拝し祈願したところ、たちまち愛馬の病が治り、愛馬が救われたことに感激した小栗判官は、1426年(応永33)、堂宇を再建し、馬を救った観音さまということで「救馬渓観音(すくまだにかんのん)」と名付けたといわれています。
当山は1300年前の飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者」によって開山され、その後天暦7年(953)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。後に熊野詣でに行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といった。当山の中興の祖と云われるのは、戯曲・浄瑠璃で有名な小栗判官こと小栗小次郎助重で、常陸の国小栗城で足利持氏の軍に破れ逃れた後、仏門に帰依し各地を巡錫中「瘡痍」にかかった。治療のため、妻「照手姫」と紀州湯の峯温泉に湯治に向かう途中、突然愛馬が病に冒され動けなくなってしまった。この時、当山の霊験あらたかなることを聞き、従者と共に参拝し祈願すると馬の病は忽ちに全快し、無事湯の峯にたどり着くことが出来た。愛馬が救われたことに感激した小栗判官は応永33年(1426)堂宇を再建し、「救馬渓観音」と名付けられたという。「生馬」の地名や「馬川」の川の名はこの霊験に由来している。江戸時代には紀州藩付家老紀伊田辺藩主安藤家の祈祷所として尊信を篤く受け、寛文4年(1664)に現本尊の厨子の寄進を賜り、嘉永5年(1852)には本堂を再建されるなどの庇護をうけた。
明治に入り廃仏毀釈のあおりを受け、一時無住となり荒廃するも、先住の努力と御本尊馬頭観世音菩薩の霊験を慕う人々の寄進により復興し現在に至る。
当山は熊野本宮への参拝道である山間部を通る「中辺路」と、海岸線を通る「大辺路」の分岐点に位置していることから、古くから熊野本宮への道中の安全を祈願した寺としても知られる。開基以来、観世音の霊徳を慕い、加護を念じて初午や月縁日の18日には羽織 袴に盛装し、参拝する人々は列をなしたと伝えられる。
大阪府貝塚市の「水間寺」の観世音は当山から勧請されたとの言い伝えもあるが、文献等は残っていない。
http://www.sukuma.or.jp/sukuma/menu/engi.htm より引用
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