fc2ブログ














京都イルミエール 





スライドショー作るのが楽しくて、ブログのほう、さぼりぎみですw




まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。


謎学の旅 もよろしくお願いします。







にほんブログ村


[2020/12/31 00:10] 京都府 | TB(0) | CM(0)

大阪・光の饗宴 

また動画(スライドショー)つくりました。
今日はこの機能試してみようか、などと考えながら
動画つくるのは楽しくてはまりそうです。

動画ラストのところは、gifアニメ風にしてみましたw






※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。





にほんブログ村    







[2020/12/25 13:16] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

神戸ルミナリエ ショットカットでスライドショーを作ってみた。 






使用した無料ソフトはこちら。https://www.gigafree.net/media/me/Shotcut.html
他にもたくさん無料ソフトありますが、1回か2回しか保存できなかったです。
(購入しろとメッセージがでるw)

ちょっとしたことがわからなくて、手間取りましたが、なんとか作れましたが、まぐれでつくれたのかもw

今年のルミナリエはコロナで中止のようですね。写真は過去に撮影したものです。



※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。





にほんブログ村    







[2020/12/23 18:47] 兵庫県 | TB(0) | CM(0)

メタセコイアの並木 と 虹 (滋賀県高島市) 


メタセコイアの並木 メタセコイアの並木

メタセコイアの並木-と 虹 
雨のち虹。

虹3

↑ これは結露ソフトフィルターで撮影w

虹

平安時代だったかに藤原なんちゃらが「虹が出た場所に市をたてた」というネット記事を読んだ記憶があります。
ところがその後、記事を探しても見つからない!
この件に関して何かご存じの方、おられましたら是非ご一報ください。

さて、なぜ虹が出ると市を立てるのでしょう?
こんなに美しい虹ですが、古にはまがまがしいものだと考えられていたようです。

そして、市(いち)とは斎(いつき)の事であると聞いたことがあります。
斎とは「心身を清めて神に仕えること」です。

もしかしたら市とは、もともとは物品の売買を行うことで、市によって穢れが浄められると考えられていたのかも?

たとえば各地の天満宮で鷽替神事が行われています。
嘘替神事とは「変えましょう、変えましょう」といいながら、隣近所の人と鷽鳥の入った紙包みを何度も交換しあいます。
この神事によって「嘘が誠に変えられる」と考えられていました。

交換することで穢れが浄められるというような信仰があって鷽替神事が生まれたのかもしれませんね。

虹2 

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村    







[2020/12/21 23:26] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

円福寺 大根鉢 

円福寺

12月19日。円福寺はまだ少し紅葉が残っていました。

円福寺 仁王門

円福寺 鐘楼


円福寺 大根ツリー3 

イチョウの葉は全部落ちてる・・・・はずだったんだけど

なんと大根の花が咲いていましたよ♪

これは日本版クリスマスツリーと言えるかもしれません。
何故ならば、クリスマスとはミトラ教の冬至祭を取り入れたものだといわれており

日本では大根焚の習慣がありますが、行われるのはだいたい12月の冬至に近い日だからです。

千本釈迦堂 大根焚・・・・12月7日、8日
了徳寺 大根焚・・・・・・12月9日、10日
宝山寺 大根焚・・・・・・12月1日
信貴山大本山 千手院・・・12月第1日曜日

大根焚は冬至の行事なのかも??

円福寺 大根ツリー4


 イチョウもまた、冬至のシンボルツリーだと私は思います。
冬至のことを一陽来復といいますが、一陽とイチョウは掛詞になっていますね。
またイチョウは樹形が太陽のように丸いものが多く(中には細長いものもありますが)
冬至に向かって、黄色い葉を1枚1枚落としていきます。
太陽の色は黄色なので、イチョウが落葉していく様子は、まるで衰えいく太陽をあらわしているかのようです。

そして、冬至が近くなると、すっかり落葉したイチョウの木に聖天さんのシンボルである大根を吊るし、太陽の勢いが再び増していくことを祈願する行事であったのかも?

円福寺 大根ツリー

昔、気になって撮った写真を思い出しました。↓

天田神社付近 大根鉢 張り紙

大阪府交野市の天田神社付近の民家の塀に貼ってあった張り紙が、気になったので写真を撮っておいたのでした。
「12月15日 大根鉢 達磨堂円福寺」と書いてあります。

大阪府枚方市の高田の地蔵堂にも同様の張り紙が貼ってあったと思います。

京都府八幡市、大阪府枚方・交野の農家から托鉢をして大根をもらい、1か月ほど干し、1年~3年つけて沢庵にするそうです。

春と秋の万人講で参拝者にもふるまわれるとのこと。

12月17日、18日に大根をイチョウの木にかける大根吊りが行われたようです。

https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20201217/2000038713.html


円福寺 大根ツリー2 



※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村    













[2020/12/20 15:39] 京都府 | TB(0) | CM(0)

正寿院 紅葉 

こちらの記事もよかったら読んでみてね。

正寿院 風鈴 猿丸神社 『お寺の鰐口と神社の鈴の関係は?』

正寿院 猪目窓 『ハート形は夫婦猪の形?』

正寿院 本堂 
宇治田原は参拝客がそんなに多くなくて、のんびりできるところがよいです。

正寿院 地蔵堂

正寿院は飯尾山医王教寺(717年創建、現在は廃寺)の塔頭寺院として建立された伝わります。
1596年、祐胤大徳が中興したとされます。

昔、寺の奥に瀧谷という小さな滝があり、瀧谷寺(りゅうこくじ)ともよばれていました。
弁財天を鎮守としています。

世をすくう めぐみあればや 滝谷の 流れにまかす おやまだのはら

御本尊は十一面観音(鎌倉時代~後期 町指定文化財)で50年に1度だけ開扉されます。
木造不動明王坐像は 鎌倉時代、快慶の作と考えられている。
(快慶作の醍醐寺不動明王と作風が似ているため)推定されている。
銘記中の僧名から、廃仏毀釈で廃寺となった大寺内山永久寺(天理市)の関係遺品と考えられているそうです。

ちょっと調べてみたところ、これぐらいしかわからなかった~。


正寿院 本堂2


正寿院 紅葉


正寿院 稲目窓

この窓から見える風景が人気です。
この部屋は寝転んでもオッケーです。

寝転ぶとこういう天井画を見ることができます。



正寿院 天井画 
天井画 

正寿院 天井画2 




※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村    




[2020/12/18 19:56] 京都府 | TB(0) | CM(0)

獅子窟寺 紅葉 


獅子窟寺 『空海、星の神を鎮魂する修法を行う?』

↑ こちらの記事に書きましたが、前回、獅子窟寺を参拝した際、獅子の岩の場所がわからず、参拝し損ねたので再び行ってきました。

獅子窟寺 参道

山道は急な坂道。本堂まで、距離は大したことないんですが、最初のこの坂道で結構体力使ってしまいますw

獅子窟寺 牛臥石 
牛臥石

獅子窟寺 本堂 
本堂

獅子窟寺  
社務所

獅子窟寺より大阪の町を望む

社務所前から、大阪の町が望めます。

オオサカホイールと太陽の塔

吹田市のオオサカホイールと太陽の塔も見えた!

獅子窟寺 獅子の岩

獅子の岩(女岩)も参拝できました。

獅子窟寺 案内図

だけど、案内図見ると中興の墓の向こうに男岩というのもある?
これはわからなかったです~。

もしかして、これのことかな、とも思いますが ↓

獅子窟寺 マラ石?

この岩、獅子の岩のほぼ真上にあるんです。
案内図みると、男岩は獅子の岩の真上じゃないですよね~。(案内図がおかしいのかもw)


奥の院(磐座あるだけで建物あるわけじゃないです)に向かう道にもたくさん磐座あるんですけど、説明板とかないので、本当に迷います。(前回遭難しかけたし)







※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村    






[2020/12/16 17:28] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

星のブランコ(大阪府交野市) オレンジ色の夢をみそうw 


星のブランコ3 
星のブランコ4 

星のブランコ2 
星のブランコ1 

よかったら、こっちの記事もよんでみてね ↓
星田園地 星のブランコ 紅葉 『物部王朝の太陽神』



まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ謎学の旅 もよろしくお願いします。




にほんブログ村






[2020/12/15 16:08] 未分類 | TB(0) | CM(0)

玉雲寺(京都府京丹波町) 紅葉 

玉雲寺 山門

落ち葉の絨毯が敷き詰められた石段

玉雲寺 吹寄せ 石仏    
霊樹山 滝見峰

当山は大容梵清禅師が須知出羽守慶吉の総請を受け、応永二十三年(1416)開山となられた寺である。
梵清禅師は、薩摩の島津氏に出生され、了堂信覚禅師の法を継がれ、当寺開山往持のほか、大和の補厳寺・加賀の仏陀寺・能登の總持寺(曹洞宗大本山)に住職された。
以来、末山門派が京都府だけでなく岡山県や宮城減等にまで及び、古い記録によると百六十余寺を数えている。
しかし、天正七年(一五七九)明智光秀の市森城攻撃があり、その兵火で寺の建物宝物等がほとんど焼失した。
現在の境内・本堂・庫裏は光秀が禅師の威徳を尊崇し翌天正八年に再興したものである。(説明板より)


玉雲寺 山門 鐘楼

市森城は別名を須知城といい、玉雲寺からほど近い場所にあります。
今回は時間の関係でいきませんでしたが。

玉雲寺 鐘楼

 
▲1528年(0歳)
美濃国(現在の岐阜県)に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれる。

▲1535年(8歳)
父親の明智光綱がなくなり、明智家の家督をつぐ。
まだ幼かったので、おじの明智光安が後見人となる。

▲1556年(28歳)
長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。
おじの光安は戦死。
一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となる。

▲1556年~1565年(28歳~37歳)
浪人となり、各地を転々とする。
その後、越前(今の福井県)の大名、朝倉義景に仕える。

▲1568年(40歳)
朝倉義景から織田信長に仕える。

※参照:
織田信長の年表を小学生でもわかるように簡単にまとめてみた

▲1571年(43歳)
織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行う。
光秀は実行部隊として武功を挙げる。

▲1572年(44歳)
働きが認められ、現在の滋賀県に5万石を与えられる。
琵琶湖の近くに坂本城を建てる。

▲1577年(49歳)
丹波方面(現在の京都府の一部と兵庫県の一部)を攻めるよう命令される。

▲1579年(51歳)
丹波国29万石を与えられる。

▲1582年(54歳)
羽柴秀吉(=豊臣秀吉)とともに中国地方を攻めるように命令される。
進軍の途中に軍隊を引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う(本能寺の変)。
信長死亡の知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北(山崎の戦い)。
逃げる途中に襲われて死亡。

※参照:
豊臣秀吉の年表をわかりやすい形で簡単にまとめてみた

https://history-land.com/akechi-mitsuhide/ より引用

玉雲寺-本堂


玉雲寺 石仏 





まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ謎学の旅 もよろしくお願いします。




にほんブログ村








 

[2020/12/10 18:49] 京都府 | TB(0) | CM(0)

救馬渓観音 紅葉 

和歌山県 救馬渓観音 

救馬渓観音7

救馬渓観音に到着。きれいに整備されたお寺と言う印象。

救馬渓観音-七福神

岩の上に七福神。

救馬渓観音6 
倶利伽羅不動尊

救馬渓観音

恵比寿堂

救馬渓観音2

コンクリート造りの斬新なお寺

救馬渓観音-仁王

中門くぐると仁王様がいました。
コンクリートの柱の向こうに岩肌が見えています。
かつては掛け造り立ったのかも?
鬼羅岩窟にたてられた本堂のご本尊は馬頭観音です。(写真なし・・・・)
下の記事によると、屋根は一枚岩と一体となっているそうです。(気が付かなかった~)

https://blog.goo.ne.jp/mrslim2/e/eb44f732b02cdb38f702634c7a116fd2

他にも不動堂、慈母観音堂など岩窟に作られてるみたいですね。(気が付かなかった~~)

奇絶峡-不動明王堂 

上の写真は、奇絶峡の不動明王堂内部。気絶峡 紅葉
 天井部分は岩になっていました。

このあたりには岩のくぼみや岩窟に対する信仰があったのではないかと思いました。


救馬渓観音5

本堂右手の道を歩いていくと、岩窟に稲荷大明神が祀られていました。

救馬渓観音4     
さらに進んでいくとまたしても岩窟が。

救馬渓観音3

こちらの岩のくぼみには縁結びの神が祀られていました。

小栗判官が湯の峰温泉に行く途中、突然愛馬が病のため動けなり、当寺に参拝し祈願したところ、たちまち愛馬の病が治り、愛馬が救われたことに感激した小栗判官は、1426年(応永33)、堂宇を再建し、馬を救った観音さまということで「救馬渓観音(すくまだにかんのん)」と名付けたといわれています。

当山は1300年前の飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者」によって開山され、その後天暦7年(953)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。後に熊野詣でに行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といった。


当山の中興の祖と云われるのは、戯曲・浄瑠璃で有名な小栗判官こと小栗小次郎助重で、常陸の国小栗城で足利持氏の軍に破れ逃れた後、仏門に帰依し各地を巡錫中「瘡痍」にかかった。治療のため、妻「照手姫」と紀州湯の峯温泉に湯治に向かう途中、突然愛馬が病に冒され動けなくなってしまった。この時、当山の霊験あらたかなることを聞き、従者と共に参拝し祈願すると馬の病は忽ちに全快し、無事湯の峯にたどり着くことが出来た。愛馬が救われたことに感激した小栗判官は応永33年(1426)堂宇を再建し、「救馬渓観音」と名付けられたという。「生馬」の地名や「馬川」の川の名はこの霊験に由来している。江戸時代には紀州藩付家老紀伊田辺藩主安藤家の祈祷所として尊信を篤く受け、寛文4年(1664)に現本尊の厨子の寄進を賜り、嘉永5年(1852)には本堂を再建されるなどの庇護をうけた。
 明治に入り廃仏毀釈のあおりを受け、一時無住となり荒廃するも、先住の努力と御本尊馬頭観世音菩薩の霊験を慕う人々の寄進により復興し現在に至る。
 当山は熊野本宮への参拝道である山間部を通る「中辺路」と、海岸線を通る「大辺路」の分岐点に位置していることから、古くから熊野本宮への道中の安全を祈願した寺としても知られる。開基以来、観世音の霊徳を慕い、加護を念じて初午や月縁日の18日には羽織 袴に盛装し、参拝する人々は列をなしたと伝えられる。

大阪府貝塚市の「水間寺」の観世音は当山から勧請されたとの言い伝えもあるが、文献等は残っていない。


http://www.sukuma.or.jp/sukuma/menu/engi.htm より引用



まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ謎学の旅 もよろしくお願いします。




にほんブログ村









 

[2020/12/09 17:05] 和歌山 | TB(0) | CM(0)