勝持寺 2020年11月15日 撮影
勝持寺は大原野神社の別当寺(神社を管理する寺)でした。
大原野神社の紅葉はこちらを見てね。→
大原野神社 紅葉 鳥羽上皇に仕えていた北面の士 佐藤藤兵衛義清は、1140年、この寺で出家して西行と名を改めました。

西行には不思議な伝説がたくさん残されています。
①『西行物語絵巻』には「親しい友の死を理由に北面を辞した」
『源平盛衰記』には、高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
近世初期成立の『西行の物かたり』には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。
⓶出家するとき、まだ4歳の子供が西行の衣の裾をつかんで泣いたが、西行はその子を縁側から蹴り落として出家して歌を詠んだ。
惜しむとて 惜しまれぬべき 此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ
③1141年以降、西行にゆかりの人物(藤原俊成か?)が、院に許しを請うた。
すると崇徳院は次のように歌を詠んだ。 最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ
(最上川では上流へ遡行させるべく稲舟を引っ張っている。その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。
これに対して西行は次のように返した。
つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて
(最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手(自分のこと)を見てください。)

④各地に「西行戻し」と呼ばれる伝説が伝えられている。
西行戻しの松 | 松島 | 西行法師は松島に入る手間で歌を詠んだ。 『月にそふ 桂男(美男子)のかよひ来て すすきはらむは誰(た)が子なるらん』 そこへ山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がやってきて歌を詠んだ。 雨もふり 霞もかかり 霧もふりて はらむすすきは 誰れが子なるらん と詠んだ。 西行は童子に尋ねた。「あなたは何を生業とされているのですか。」 童子は「冬萌(ほ)きて夏枯れ草(麦) を刈って業としている」と答えた。 西行はその意味が分からなかった。 童子は「才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらしますよ」といい、西行は去っていった。 |
西行戻り橋 | 秩父 | 西行が秩父へ歌の修行に向かう途中、寄居町末野にやって来た。 末野を流れる逆川にかかる土橋のところで、鎌を振ってやってくくる童子がいた。 西行は「どこへ行くのか」と問うと、童子は「冬ぼきの夏枯草を刈りに行く」と答えた。 西行は「冬ぼきの夏枯草」が何かわからなかった。 橋のたもとのあばらで、美しい小娘が機織りする姿に西行はみとれ、娘の織る絹がほしくなった。 西行が「その絹を売るか」とたずねると娘は「ウルカとは、川の瀬にすむ鮎のはらわた」と答えた。 西行は恥ずかしくなって橋を戻っていった。 |
西行戻り石 | 日光 | 西行が日光に来たとき、石の上に鎌をもった少年がいたので 西行は「どこへ行くのか」と問うと、童子は「冬ぼきの夏枯草を刈りに行く」と答えた。 西行は童子が歌で答えたのにおどろいて黒髪山(男体山)を拝して引き返した。 |
甲駿街道 | 西行峠 | 西行法師が歌修行のために、諸国をめぐり、自分の歌の上手なのを鼻にかけていた。 この地を訪れた西行は木こりにあい「甲斐の国にも歌をよむ人がいるのか。」と尋ねた。 木こりは歌を詠んだ。 いきっちな つぼみし花が きっちなに ぶっぴらいたる 樋とじの花 (行くときは蕾だったのに帰るときにはもう咲いていた。桜の花よ。) ※桜の皮は曲げ物や樋を締めるのに使うので桜の花のことを樋綴といった。
西行法師はこの峠で、鎌を手にした農家の子供にあい、「どこにいくのだ」とたずねたところ 「冬青む夏枯れ草(麦)を刈りにいく。」と答えた。 西行法師は「冬青む夏枯れ草」の意味がわからず、引き返した。 |

⑤奥州下りの折、神奈川県中郡大磯町の旧宿場町(
大磯宿)の西端(
西小磯村付近)の海岸段丘を流下する渓流で次のように歌を詠んだ。
心なき 身にもあはれは しられけり 鴫(しぎ)立つ澤(さは)の 秋の夕暮れ
(風流を愛でる心を捨てた出家の身にではあっても、しみじみとした趣が感じられる。鴫が飛び立つ沢の夕暮れよ)- ⑥伊勢神宮で次のような歌を詠んだ。
何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
⑦源頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、「一切忘れはてた」ととぼけた。
⑧頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えた。
⑨ねがはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ
生前、このように歌を詠んでその歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂した。
⑩鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは〜”(撰集抄)
(西行が高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く、声もか細く魂もなかったので、高野山の奥に捨てた。
伏見前中納言師仲に作り方を教わったのだが、つまらなく思い、その後、人を作ることはなかった。
⑩西行の子・隆聖の子孫・佐藤正岑の子が長束正家である。

西行にはなぜこんな不思議な伝説が数多く伝えられているのでしょうか?
じっくり考えてみたいと思います。
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