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法金剛院 待賢門院桜 木蓮 『藤原璋子は雪や霜を降らせる青女だった?』 

法金剛院

①恋する女は紫色に染まる。

法金剛院の桜は待賢門院桜とよばれ、やや紫がかったしだれ桜です。

紫というと次の歌を思い出します。

紫は ほのさすものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる子や誰
(海石榴市の辻で逢った貴女は、何というお名前ですか。)


紫色に布を染めるためには、椿の灰を媒染剤としました。
紫とは道で出会った女、灰汁は男のことで、男と目があったとたん、女がぱっと美しく瞳を輝かせた、というような意味でしょうか。

 こんな歌もあります。

紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも.
( 紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことがこんなに恋しいのでしょうか。あなたは人妻だというのに)


大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王に贈った有名な歌ですね。

この2首を鑑賞すると、恋する女のことを『紫』といっているように思えてきます。

法金剛院 木蓮

②紫がかった待賢門院桜


待賢門院桜と呼ばれているのは、法金剛院の中興・待賢門院にちなむものでしょう。

待賢門院というのは院号で、藤原公実の娘・藤原璋子(しょうし/たまこ/1101年 - 1145年)のことです。
この人はちょっと素行が悪かったというか、プレイガールだったというべきか・・・。
まあ、悪いのは養父の白河法皇なんですけどね。

璋子は七歳のとき、父を失って白河法皇に育てられたのですが、養父である白河法皇と関係があったのです。
ほかにも二人の男性と密通しているという噂もありました。

1117年、璋子は白河法皇の孫の鳥羽天皇に入内しましたが、 入内後もたびたび白河法皇と密会していたとか、いないとか。
1119年、璋子は鳥羽天皇の第一皇子の崇徳天皇を出産しますが、崇徳の父親は白河法皇の子だという噂がありました。
『古事談』には、鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んで嫌っていたと記されています。

藤原璋子は恋多き女というイメージがあり、そこから紫がかったこの桜を待賢門院桜というんだったりしてw

 法金剛院 青女の滝   

青女の滝


③霜や雪は白いのに、なぜ「青女(霜・雪を降らす女神)の滝」なの?


法金剛院境内には日本最古の人口滝といわれる青女の滝があります。
「青女」でぐぐってみると、
《「淮南子 (えなんじ) 」天文訓から》霜・雪を降らすという女神。 転じて、霜や雪。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%9D%92%E5%A5%B3/ より引用

と出てきます。

霜や雪は白いですが、なぜ白女ではなく青女なのでしょうか?

白馬と書いて「あおうま」と読むことがあります。
1月7日に白い馬を見ると縁起がいいなどといわれ、大阪の住吉大社では白馬神事(あおうましんじ)、京都の上賀茂神社では白馬奏覧神事(あおうまそうらんしんじ)等の行事が行われています。

どうも、白を青という習慣があったようで?
それで本当は白女なのに青女というようになったとか?
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法金剛院 桜2

④霜や雪は謀反人をあらわす?

日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があります。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。

 
また、摂津風土記には「夢野の鹿」という話があります。

雄鹿が「背中に雪がつもり、すすきが生える夢をみた」というと、雌鹿は「雪は塩ですすきは矢です。あなたは矢で射殺され、塩が振られているのです。この夢は別の女のところに出かけるとあなたは殺されるという前兆です。だから行かないでください」しかし雄鹿はでかけてしまい、矢で射られて死んでしまいました。

雪や霜は塩に喩えられているのですね。
かつて謀反の罪で殺された人の死体には塩が振られることがあったそうです。

法金剛院 桜と本堂

⑤叔父子と呼ばれた崇徳


②にも書きましたが
崇徳天皇は名目上は鳥羽天皇の第一皇子で母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)とされています。
しかし『古事談』によれば、崇徳天皇は鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父・白河法皇と待賢門院との間にできた子であったと記されてます。
白河は自分の女である待賢門院を孫の鳥羽に与えたのですが、そのとき待賢門院は白河の子を身籠っていたというのです。
鳥羽は崇徳を『父の弟にして子』と言う意味で『叔父子(おじご)』と呼んでいたといいます。

1129年、祖父・白川法皇が崩御して、鳥羽上皇が院政を行うようになりました。
1142年、鳥羽上皇は崇徳に退位を強要し、崇徳は異母弟の近衛天皇に譲位しました。

近衛は崇徳の養子として即位する予定でしたが、鳥羽によって発布された宣命には皇太弟と明記されていました。
さらに、崇徳から将来の治天の君の資格を剥奪するとも書かれていました。
そして崇徳が上皇となってからも、政治の実権は鳥羽が握っていました。 

1155年、近衛天皇は17歳で崩御しました。
このとき、崇徳と左大臣藤原頼長(悪左府)が愛宕権現に祈願し近衛を呪詛したという噂がたちました。
崇徳は自分か、息子・重仁の即位を願っていましたが、鳥羽は後白河(崇徳の同母弟)を即位させました。 

実は鳥羽上皇は後白河の長子・二条を即位させたかったのですが、まだ幼かったため、中継ぎとして後白河を即位させたのです。

後白河の長子である二条は幼くして母親をなくしたために美福門院(得子)の養子となっていました。
それで二条は父親の後白河よりも美福門院との結びつきの方が強かったみたいなんですね。
鳥羽は美福門院を寵愛していましたし、美福門院がかわいがっている二条を即位させたいと考えたのでしょう。

「叔父子の崇徳め、呪詛するなんて許さん!放蕩息子の後白河を皇位につけるのも嫌だが、二条がまだ幼いので仕方ない。
後白河を中継ぎで即位させよう。」

と鳥羽が言ったかどうかしらないけど~。

法金剛院 桜と本堂と門

⑤保元の乱

崇徳はついにブチ切れ、1156年、左大臣藤原頼長や平忠正、源為義らの武士を率いてクーデターを起こしました。(保元の乱)。
しかし、後白河側についた平清盛・源義朝らによって鎮圧され、崇徳は讃岐に流罪となってしまいます。

崇徳は讃岐で五部大乗経を写本し、反省の証に朝廷に差し出すが、後白河は受け取りを拒否し、写本を送り返してきました。
崇徳、またしてもブチ切れ!
自分の舌を噛み切り、その血で写本に次のように書き込んだと伝えられます。
『日本国の大魔縁となり、この経を魔道に回向(えこう)す。』
『皇を取って民とし民を皇となさん』と。

そして爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になったといわれます。
『保元物語』によれば、状況調査のために派遣された平康頼は『院は生きながら天狗となられた』と報告したと記されています。

法金剛院 桜

⑥青女は藤原璋子だった?

崇徳は謀反人なのです。
そして、崇徳の上に雪や霜を降らせたのは(崇徳が乱をおこす原因を作ったのは)、素行の悪い母親の藤原璋子。

てなことで、藤原璋子ゆかりの法金剛院の滝は、雪や霜を降らせる青女の滝、なーんてことになったんだったりして。

法金剛院 桜と池



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[2020/03/12 20:55] 京都府 | TB(0) | CM(0)