Author:佳音
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推古天皇21年12月庚午朔(613年)、聖徳太子が片岡山を訪れると、飢えた人が道に臥していました。姓名を問うても答えません。太子は老人に飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人にかけてやり、こんな歌を詠みました。しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ片岡山で、食物がなく、餓えて倒れている、その旅人よ可哀相に。親がなく生まれたわけではないだろうに。ご主人様もいないのか。食い物もなく、餓えて倒れている、その旅人よ可哀相に。※「しなてる」は「片」にかかる枕詞。 「さす竹の 」は「君」にかかる枕詞。勢いよく伸びる竹のような。翌日、太子は使者に旅人を見に行かせたところ、すでに旅人は死んでいた。太子は悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を封じた。数日後、太子は「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が棺を開いてみると屍も骨もなく、棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました。太子は、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語りました。達磨寺境内の奥には3つの古墳(達磨寺1号墳、達磨寺2号墳、達磨寺3号墳)があります。達磨寺1号墳は雪丸塚と呼ばれています。達磨寺3号墳の上に本堂が建っています。つまり、達磨寺3号墳は片岡の乞食=達磨てあるという信仰があったのだと思われます。 達磨寺1号墳だと思う。(間違ってたらごめん) 達磨寺2号墳だと思う。(間違ってたらごめん) ②守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられている。法起寺 青空 /法輪寺 夕景 /法隆寺 花火 『人木の墓』 上の記事で私はこんなことを書きました。着物を共用することで、聖徳太子と老人は同一人物であるということを示しているようにも思えると。しかし、老人は聖徳太子のライバル・物部守屋ではないかと思ったりもします。587年、崇仏派の蘇我氏vs廃仏派の物部氏の戦いがあり、聖徳太子は蘇我氏側に参戦していました。結果、守屋は榎木の木の上で指揮を執っていたところ弓で射られて死に、蘇我氏が勝利しました。下図に示したように守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられています。
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