大阪府交野市 獅子窟寺
ここが獅子窟寺参道の登り口。丁石がおいてありました。一丁は約109mなので、6丁は約654mです。
長い坂道なので息がきれますよ。はあはあ。
↑牛臥石。
↑ これは仁王門あと。
1615年、大坂夏の陣の際、獅子窟寺は豊臣方への加勢を拒否し、そのため焼き討ちにあって、全山十二院を消失したと伝えられます。
仁王門もこのとき焼失したそうです。
到着ーーーー!
①八丁三所伝説
黄檗宗の僧・月潭が著した『獅子窟寺記』(1692年)には次のように記されているそうです。
獅子窟寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建した。
天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行った。境内に空海が修法を行ったと伝わる獅子窟があるということなので、探してみましょうー。
A

下の地図に獅子の岩とあるあたりです。
向かって左の立て看板には「獅子の岩へお参りされるかたは石垣がくずれる恐れがありますので上のほうよりお参りください」と書いてあります。
写真右手に短い階段があって岩の上に登れるようになっています。


↑ 登ったところにはこんな岩が。弁財天と記した旗が立てられていました。

↑ さらに木の根の階段を登っていくと

↑ これは巨大なマラ石だよねw
だけど、獅子窟がない~。
ここじゃなくて、奥の院のほうなのかな?と思って山道を歩いていきましたが、
帰宅後調べてみたら、このマラ石から一段おりたところ(急な段差があって階段もなかったです~)に獅子窟はあったようです(涙)。

↑ これは写真Aの立て看板の後ろあたりにあった岩。どうやらこの岩の後ろあたりに獅子窟はあるみたいですね。
そういうわけで場所がわからなくて写真撮れなかったので、リンクをはっておきます(汗)。
https://omairi.club/spots/82293/point空海は獅子窟で仏眼仏母の修法を行ったそうですが、仏眼仏母について、ウィキペディアには次のように記されています。
「仏眼仏母 (ぶつげんぶつも)、(梵: बुद्धलोचना [buddhalocanā])は、仏教、特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%9C%BC%E4%BB%8F%E6%AF%8D より引用
次のように記したサイトもありました。
「金剛界大日如来が、胎蔵界に入った瞑想した境地が、一字金輪(ボロン)ですが、
胎蔵界大日如来が、金剛界に入って瞑想した境地をあらわしたのが、仏眼仏母といわれています。」
https://ameblo.jp/ronjanzensin/entry-12145864529.htmlより引用
獅子窟が金剛界で、空海は胎蔵界大日如来としてここで瞑想したということでしょうか?
でも案内図 ↓をみると、「獅子の岩(女岩)と書いてあるので、獅子窟は胎蔵界で、空海は金剛界大日如来じゃないか、と思えます。(胎蔵界は女性の子宮を意味する。)
うーん?
交野市のhpには次のように記されています。
八丁三所
平安時代、私市の獅子窟寺(ししくつじ)で弘法大師が修行していた折、天から北斗七星が、星田の3か所に降りたという言い伝えのある場所。 その場所は、星田の光林寺(こうりんじ)、星の森、妙見山(みょうけんざん)で、それぞれの間の距離がほぼ八丁(約880m)にあたることから、名付けられたという。
https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2018031500015/ より引用
空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃だとする記事もありました。
②昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えた?
昔の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えていたのではないかと思います。
雲陽誌という書物に次のような内容が記されています。
島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒ(物部氏の祖神)の石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。
獅子窟寺から南へ直線距離で1kmほどの場所に磐船神社があります。
磐船神社はニギハヤヒを祀る神社で天の磐船という巨岩をご神体としています。
磐船神社 天の磐船
ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされ、この磐がその天の磐船だと考えられています。
ニギハヤヒが天の磐船を操って天下ったというのは、この巨岩は空から降ってきた星だと考えられたということではないかと思います。
そう考えると、ニギハヤヒが星の神とされていることも説明できます。
この磐船神社も獅子窟寺同様、巨岩がごろごろしておりまして、磐の間を通り抜ける岩窟廻りなどを体験することができますよ。
(雨天などは中止になることもあるので、確認の上おでかけすることをおすすめします。)
こちらからバーチャル岩窟廻りができます。↓
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/gankutu.html
獅子窟寺奥の院へ向かう道
④星の神は敗者の神
記紀神話に星の神は一柱しか登場しません。
天津甕星という神さまのみです。
ですが住吉明神は星の神ではないかと考えられています。
住吉明神とは底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后の総称ですが、神名にある『筒』は星の神であることを示すものだという説があります。
『上記(うえつふみ)』という文書の中に、トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などとあり、星の名前には必ずツツという音がついているためです。
記紀神話に星の神が一柱しか登場しないのは、星の神が抹殺されたのではないかともいわれています。
そして星の神・天津甕星は天照大神の葦原中国(日本列島。たぶん北海道・沖縄は省く)平定に最後まで抵抗した荒々しい神、と記されています。
天照大神は葦原中国を平定して天孫であるニニギを天下らせていますので、天津甕星は天照大神に負けた神だと考えられると思います。
そして大阪府交野市あたりは古には肩野物部氏が住んでいた土地であり、
物部氏の祖神で磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは神武より早く畿内に天下っていたのですが
のちに向からやってきた神武に服したと、記紀には記されています。
交野には星の伝説が数多くあり、星の町と呼ばれますが、
それは敗者・物部氏が住んでいた土地であり、またその土地の山には巨岩(昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えていたと思います。)が無数にあることに由来していると思います。
奥の院へ向かう道は巨岩がごろごろしていました。
⑤薬子の変
さて、空海はなぜ獅子窟寺で修法を行ったのでしょうか?
空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃ということでしたが
810年には薬子の変がおこっています。
806年、桓武天皇が崩御して平城天皇が即位しましたが、809年に病を患い、病の原因を占ったところ、早良親王の祟りとでました。
早良親王は桓武天皇の同母弟で桓武天皇の皇太子でしたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして淡路に流されていく途中、憤死しました。
我が子に皇位をつがせたいと願う桓武天皇の陰謀との説もあります。
このような経緯をへて平城天皇は即位したので、早良親王の怨霊をそれは恐れたことでしょう。
そして、早良親王の怨霊を避けるため、同母弟の嵯峨天皇に譲位しました。
810年、平城上皇は平城京へ移りますが、上皇の寵臣である藤原仲成・薬子兄弟は複位をもくろんでいました。
そして平城京の平城上皇vs平安京の嵯峨天皇が対立し、二所朝廷と呼ばれる状態となってしまいます。
そして平城上皇は平城京遷都の詔を出すにいたりますが、嵯峨天皇はこれを拒否します。
平城上皇は挙兵しますがあっけなくとらえられ、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。
平城上皇は出家して空海より灌頂(密教の儀式。頭に水をそそぐ。)を受けています。
そのほか、大勢がこの事件に関与したとして処分を受けています。
奥の院へ向かう道 巨岩
家系 | 氏名 | 官位など | 処罰内容 |
---|
皇族 | 平城上皇 | 太上天皇 | 自主的に出家、大権の喪失 |
皇族 | 高岳親王 | 皇太子 | 廃太子 |
皇族 | 阿保親王 | 四品 | 大宰員外帥へ左遷 |
皇族 | 礒野王 | 従五位上・図書頭 | 伊豆権守へ左遷 |
皇族 | 田口王 | 従五位下 | 土佐権守へ左遷 |
皇族 | 真菅王 | 従五位下 | 壱岐権守へ左遷 |
藤原式家 | 藤原薬子 | 正三位・尚侍 | 尚侍を解任、のち自殺 |
藤原式家 | 藤原仲成 | 従四位下・参議 | 佐渡権守へ左遷、のち射殺 |
藤原式家 | 藤原安継 | 従五位下・大舎人助 | 薩摩権守へ左遷 |
藤原式家 | 藤原貞本 | 従五位下・大蔵大輔 | 飛騨権守へ左遷 |
藤原式家 | 藤原永主 | | 日向国へ流罪 |
藤原式家 | 藤原山主 | | 日向国へ流罪 |
藤原式家 | 藤原藤主 | | 日向国へ流罪 |
藤原北家 | 藤原真夏 | 正四位下・参議 | 伊豆権守次いで備中権守へ左遷 |
藤原北家 | 藤原真雄 | 従四位下・左馬頭 | 伊予守へ左遷、のち備前守に転任 |
紀氏 | 紀田上 | 従四位下・尾張守 | 佐渡権守へ左遷 |
紀氏 | 紀良門 | 従五位下・越後守 | 肥前権介へ左遷 |
その他 | 多入鹿 | 従四位下・参議 | 讃岐権守へ左遷、のち安芸守、讃岐権守に転任 |
その他 | 菅野庭主 | 正五位上・木工頭 | 安房権守へ左遷 |
その他 | 大中臣常麻呂 | 従五位上・兵部少輔 | 備前権守へ左遷、のち伊予守に転任 |
その他 | 大伴和武多麻呂 | 従五位上・左近衛少将 | 武蔵権介へ左遷、のち日向権守に左遷 |
その他 | 御室是嗣 | 従五位上 | 大隅権守へ左遷、のち筑後権介に左遷 |
その他 | 御室氏継 | 従五位上 | 薩摩権守へ左遷 |
その他 | 安倍清継 | 従五位下・越前介 | 安芸権守へ左遷、のち伯耆国へ流罪 |
その他 | 当麻鱸麻呂 | 従五位下 | 淡路権守へ左遷 |
その他 | 安曇広吉 | 従五位下 | 伊予権介へ左遷 |
その他 | 百済王愛筌 | 越前権少掾 | 安房国へ流罪 |
その他 | 永野浄津 | | 越前国へ流罪 |
その他 | 伊勢安麻呂 | | 能登国へ流罪 |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89 より引用
この大勢の処分された人々の霊を弔うため、空海は獅子窟で仏眼仏母の修法をおこなったなんてことないですかね~?
神泉苑御霊会で崇神天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂が慰霊されていますが、
観察使とは藤原仲成のことではないかなどともいわれていますよ。
神泉苑で慰霊されたということは、彼らは御霊(怨霊)だということになりますが。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、天災や疫病の流行は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
嵯峨天皇代になにか天災・疫病の流行などがあり、それらは薬子の変で処分された人々の怨霊の仕業だと考えられたので、
空海が修法を行ったんだったりして?
奥の院へ向かう道 巨岩④奥の院は巨岩がごろごろしていた。
奥の院へ向かう道は細くて険しい山道もありました~。
が、木の幹に太いロープを結び付けてくださっている場所などもあり、心遣いに感謝です!
奥の院といっても、建物があるわけではなく、大きな岩がごろごろと存在しているのです。
そのひとつひとつが薬子の変で処罰された人々の霊のように思えてきたw
↑ 弥勒岩?鏡岩?

登れるようになっていました。
⑤遭難しかけるwそろそろ境内に戻ろうと引き返したのですが、どこでどう道をまちがったのか?歩いた記憶のない道にきてしまい・・・・
道が二股にわかれているところまで引き返し、もう一方の道を行ってみましたが、こちらの道も歩いた記憶がないw。
でも「私市駅→」と書いてある看板があったので、友人と相談してそっちのほうに行ってみよう、ということになりました。
途中、ものすごい急こう配があり、お尻で滑りおりるようにしておりてみると、「獅子窟寺→」の看板がありました。
ほっとしたのもつかの間、倒木で道が塞がれています~(涙)。
戻ろうかとも思ったけど、あの急こう配を上る自信がなかったので、獅子窟寺とは逆方向に道を下っていくことにしました。
道沿いにも巨岩が積み重なった場所などありましたが、不安な気持ちが勝ってしまって写真を撮るどころではありませんでした~。
日は傾いてくるし、こんなところで遭難したら恥ずかしいしー。
だけど20分くらい歩いたら、ガードレールが見えてきて、さらに歩くと民家が見えてきました。ヨカッタ、ヨカッタ。
私市駅付近に降りて来たのです。
そこから歩いて河内森近くの駐車場に止めてあった車まで戻りました。
みなさんも、獅子窟寺の奥の院に行かれる際はご注意ください!

※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
にほんブログ村
和歌山県海南市あたり
①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?森林公園雨の森展望台から海南市を見下ろしました。
工場の夜景が美しいっ!
工場は日本製鉄だと思います。近代産業が盛んな町なんですね。
しかし近代産業だけではありません。
海南市は伝統産業として紀州漆器などでも有名なんですよ。
室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたとされます。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされます。
おお~、近江の木地師!
近江は現在の滋賀県のことですが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれています。
また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていました。
日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされます。
近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。
紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれませんね。
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っていますよ。
大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もあります。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓があります。)
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないのですが)
そのため、木地師の祖とされているのです。
木地師資料館に展示されていた掛け軸使い方は上の絵のとおり。
ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。
木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されています。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれています。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html紀州に定住した近江からやってきた木地師集団も惟喬親王を信仰していたことでしょう。
また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性でした。
そして紀州は紀氏の本拠地ですから、彼らは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれません。
②根来塗近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器都する説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もあります。
根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされます。
黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうです。
たぶんですが、朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思います。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/③なぜ根来に小野小町伝説があるのか
根来寺根来寺の裏あたりにある山を根来山というようです。(写真に写っている山が根来山かどうかはわかりません~。すいません。)
で、この根来山付近にこんな話が伝えられています。
康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいました。
忠家は金持ちでしたが、子供がいませんでした。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをしました。
やがて妻は身籠り女児を出産しました。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長しました。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていました。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになりました。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えました。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見ました。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれています。なぜ、この地に小野小町の伝説があるんでしょうか?
実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。
髄心院 小野小町像詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html特に、下記記事を詳しく書いていますが、
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』 ざっとまとめておくと次のような理由があげられます。
a | 古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。 |
b | 古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。 |
c | .小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。 |
d | 『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。 三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。 紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。 また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。 三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。 そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。 惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。 そういうことで小町なのではないだろうか。 |
e | 花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。 ①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。 ②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。 ※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』 ※『世』・・・『世の中』と『男女関係』 ※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』 しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。 ③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。
|
①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されています。
そして根来塗をつくるためには木地師の存在があったと考えられます。
根来寺付近に住んでいた木地師は木地師の祖・惟喬親王に対する信仰があり、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないでしょうか。
ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるんでしょうね。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうですが、ここのことでしょうか?
まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村
。