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旧小西儀助商店 紅葉 少彦名神社 神農祭 『神農さんと聖徳太子は習合されている?』 



大阪市中央区道修町 旧小西儀助商店  少彦名神社

コニシボンド いちょう

旧小西儀助商店  


①旧小西儀助商店

ここはどこでしょう?
古い町並みが残る城下町?

実はここは大阪の北浜駅を下車してすぐのオフィス街、道修町です。
この建物は旧小西儀助商店 で、ボンドで有名なコニシ株式会社の創業者・小西儀助がたてたものです。

近代的なオフィスビルに囲まれた谷間に建っています。

小西家住宅

http://www.bond.co.jp/history/kyukonishi/pdf/konishi.pdf
上記に間取り図がありますよ~。

 1階は店・書院・仏間・社長室(茶室)・前栽・台所・炊事場・蔵などがあります。
2階は居住スペースのようで、子供部屋が3室、他10部屋もあります。

現在、旧小西儀助商店 の建物は2階建てですが、かつては3階建てだったそうです。
こちらに写真があります。→
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00520/

建てられたのは1900年で、建築当時、家族12人、従業員が35人、下女7、8人の合計52人が暮らしていたとのこと。

道修町の漢方薬屋さん 

道修町の漢方薬屋さん


②薬の神様

旧小西儀助商店から道修町通りに入っていくと少彦名神社があります。
道修町は製薬メーカーや薬問屋が多く、薬の神様として少彦名神を祀っているのです。
近代的なビル街ですが、古くからの習慣を大事にしている街なんですね。

少彦名神社 

少彦名神社

③春琴抄の舞台

少彦名神社の門前には春琴抄の碑が建てられています。
谷崎純一郎は道修町界隈を舞台として小説春琴抄を書いたんですね~。

春琴抄碑 

大阪道修町の薬種商鵙屋の次女、春琴(本名は琴)は9歳の頃に失明したが、三味線の道に生きる決意をします。
春琴の身の回りの世話をしてい丁稚の佐助は、春琴の弟子となります。
ところが春琴、気性が激しく若干暴力的なところがありましてw
弟子に撥をなげつけてケガをさせるということがときどきありました。
あるとき、誰かが春琴の屋敷に潜り込み、春琴の顔に熱湯をかけました。
春琴は顔に大やけどを負い醜い姿を見られるのを嫌がって佐助を近づけようとしない。
そこで佐助は自ら両眼を針でついて失明してしまう、というような話のようですね。

佐助は春琴の「醜い姿を見せたくない」という気持ちを思いやって「僕も目が見えないから容姿のことなど気にしなくていいんだよ」ということを示すために針で目をついたのではないでしょうか。

マゾヒズム? 谷崎純一郎、オタンビーだなあ~。

少彦名神社 絵馬

④江戸時代の女性はバリバリ働いていた。

春琴は明治19年に脚気で亡くなったという設定ですから江戸末期から明治にかけてが舞台なんですね。

ここで私が注目したのは、春琴が三味線の師匠として自立していたということです。
また小西儀助商店では下女7,8人がいたということで、江戸時代末から明治にかけて女性が働くことは当たり前だったように思えます。

https://edo-g.com/blog/2017/08/womens_work.html より引用

上のサイトには江戸時代の女性の職業として、次のようなものがあげられています。

接客職・・・・水茶屋・麦湯の女・・料理屋・留女
販売職・・・・糊売り・針売り・枝豆売り・鮎売り・大原女・楊枝屋
技術職・・・・産婆・髪結・手習いの師匠(寺子屋)・三味線の師匠御物師(着物を仕立てる)
芸人・・・・・瞽女(盲人女性の芸能者・三味線などを弾いて諸国をめぐった。)鳥追・手妻使い(マジシャン)
手工業・・・・養蚕・機織り・綿摘(内職として)
遊女・・・・・遊女・夜鷹・湯女・飯盛女・矢場女
スピリチュアル・・・占い師・巫女
その他・・・改め婆・乳母・洗濯屋・女中・下女(掃除・炊事などの雑用を行う)

上は町人の女性の職業ですが、農村や漁村でももちろん女性は働いていたはずです。海女もいたでしょうね。

専業主婦が定着したのは1950年代だと言われます。
ときどき「女は家にいて、男は仕事にいくのが日本の伝統」みたいなことを言う人がいますが、誤解だったんですね~。

江戸時代、明治時代は男女差別というよりも格差社会が問題であったと思います。
多くの人が会社勤めをするようになってから、男女差別は問題になってきたといわれます。

少彦名神社 神農祭-巫女  

少彦名神社 神農祭

⑤杉田水脈氏は「男女平等」という言葉の概念をもて遊んでいるだけで、労働の実体を把握していないのではないか?

男女差別がない状態とは、男と女が同じ仕事をするということではありません。
女性が好む仕事、男性に適した仕事というのもあると思います。
しかし、〇〇は女の仕事、△△は男の仕事、のように分類してしまうことは好ましくないです。

女性でも理数系が得意だったり、研究開発をやってみたいという人がいるので、女性だからという理由で雇用機会を奪ったりするようなことはよくないのです。

雇用機会が公平に与えられているか、給与格差はあるか、不当に昇進・昇給をおさえられていないか。
女子社員にのみ掃除・お茶くみを強要していないか。

また働く女性には出産・育児の権利が認められるべきと思いますので、これらをどう確保していくのか、といった問題も考えなければいけません。(専業主婦だめ、といっているんじゃありません。いろいろなライフスタイルを認めるべき、と言っています。)

杉田水脈氏は「日本に女性差別はない」と発言しています。
https://www.businessinsider.jp/post-172378
でも申し訳ないんですが、言葉の概念をもてあそんでいるだけのように思ってしまいます。

杉田さんは、雇用機会の公平さ、給与格差、出産・育児の権利などを十分に認識した上で、発言していないように思えます。

自分が専業主婦だから、男女平等などどうでもいい、とか、男はこうあるべき、女はこうあるべきと結論づけて多様性を認めない人もいますが(専業主婦が悪いといっているわけではない)
自分のことだけ考えないで、もう少し他の人のことも考えるべきではないかと思います。

また、働く女性が増えたことと男性の低賃金化を結びつける人がいますが、女性を雇用することと男性の低賃金化は本来別の問題です。
派遣が増えたり、企業の内部留保が増えていたり、社員と役員の年収格差などが問題であって、怒りの矛先を間違えています。

こちらは役員報酬が高い上場企業経営者 ↓
https://toyokeizai.net/articles/-/236206?page=2

少彦名神社 神虎 

⑥張り子の虎で有名な少彦名神社と朝護孫子寺

えー、それでは本題に入ります。(前置きが長い~)

少彦名神社のシンボルは張り子の虎で、神農祭では五葉笹に張り子の虎(神虎と呼ばれる)をとりつけたものを参拝者に授与しています。
江戸末期に大阪でコレラが流行した際、薬と一緒に張り子の虎を配ったとされます。

少彦名神社 蛭子 大黒

張り子の虎といえば、朝護孫子寺を思い出します。

朝護孫子寺 張り子の虎

朝護孫子寺

朝護孫子寺は聖徳太子が創建した寺です。

聖徳太子が信貴山で、物部守屋との闘いの戦勝祈願をしたところ、毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かったというのです。
そして、聖徳太子が先勝祈願をしたのが、寅年、寅日、寅の刻であったといわれます。

少彦名神社 神農祭 

少彦名神社 神農祭

⑦神農祭が広隆寺の聖徳太子御火焚祭と同じ日なのは偶然?

少彦名神社の神農祭は11月22日~11月23日です。
あれっ?聖徳太子をご本尊とする京都・広隆寺の御火焚祭も11月22日でしたね。
http://www.digistyle-kyoto.com/event/nenjugyoji/post_24.html

広隆寺の御火焚祭は聖徳太子の命日に行っているとされていますが、聖徳太子の命日は2月22日です。
それが広隆寺ではなぜ11月22日を聖徳太子の命日としているんんでしょうか?
11月の数字であるふたつの1を足すと2になるからかな?

そして少彦名神社の神農祭と広隆寺の御火焚祭が同じ日であるのが気になります。

神農さんとは中国の神で、少彦名神と習合されているのだと思います。どちらも薬の神なので。
そして神農さん=少彦名神はさらに聖徳太子と習合されているのではないか?と思ったりします。

少彦名神社 神農さん 

少彦名神社 神農さん


神農さん、コロナウィルスが早く収束するようにお願いします~





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[2020/02/21 17:53] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

美山 かやぶきの里 雪だるま 『広景はなぜ雪だるまの前に片方下駄を脱いだ人を描いたの?』 


京都府南丹市美山町 茅葺の里 

美山 雪だるま 
①昔の雪だるまは雪の達磨だった。

誰が作ったのか、雪だるまが置かれていました。
昔の雪だるまはどんなだったんでしょう?
調べてみたら、歌川広景が雪だるまの絵を描いていました。

Hirokage - Comic Incidents at Famous Places in Edo (Edo meisho dôke zukushi), No. 22, dog stealing a workman's meal from a snow Daruma

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hirokage_-_Comic_Incidents_at_Famous_Places_in_Edo_(Edo_meisho_d%C3%B4ke_zukushi),_No._22,_dog_stealing_a_workman%27s_meal_from_a_snow_Daruma.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/Hirokage_-_Comic_Incidents_at_Famous_Places_in_Edo_%28Edo_meisho_d%C3%B4ke_zukushi%29%2C_No._22%2C_dog_stealing_a_workman%27s_meal_from_a_snow_Daruma.jpg

日本語: 歌川広景English: Utagawa Hirokage [Public domain]


これはマンマだるまですね~w

②なぜ広景は鼻緒を結びなおす人を描いたの?

上の絵は小さくてわかりにくいと思いますが、拡大してみてみると雪だるまの口元には魚がお供えされているようです。
雪だるまの前にいる男性は左の下駄の鼻緒がきれたので、下駄をぬいで 鼻緒を結びなおしているように見えます。

なぜ広景は鼻緒を結びなおす人を描いたのでしょうか?

『景徳伝燈録』に次のような物語があります。
達磨(インド人で中国禅宗の開祖。5世紀後半から6世紀前半)が遷化(死亡)してから3年後、宋雲という人がパミール高原の葱嶺で履き物の片方を手にして歩く達磨に出会いました。
宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る。あなたの主君はすでにみまかっている」と答えました。
帰国した宗雲は孝明帝が崩御したことを知ります。
そして孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていました。

つまり、雪だるまの前に立っている人は、達磨の化身ということなのでしょう。

だるまは正しくは菩提達磨といい、嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされます
このため、手足が腐ってしまったという伝説が生じました。
縁起物としてのだるまはここから作られました。

勝尾寺 だるま 
勝尾寺 だるま

四天王寺 達磨像

四天王寺に置かれていた達磨の石像

③天智天皇は達磨のイメージに重ねられた?


『景徳伝燈録』にある、達磨が履き物の片方を手にして歩いていたという伝説は、天智天皇の伝説を思わせます。

蹴鞠をしていた中大兄皇子(のちの天智天皇)の沓が脱げ、それを中臣鎌足が拾ってさしだしました。

また、天智天皇陵のそばに沓石が置かれており、この沓石にこんな伝説があります。

天智天皇は騎乗して山林に入り、行方不明になりました。そのため、沓が落ちていた場所を陵にしました。(『扶桑略記』)

中大兄皇子の伝説は達磨の伝説をもとに創作されたのではないでしょうか。

達磨はインドの王の第三王子として生まれたのに、王位をつげず、出家して僧となっています。
出家したということは子孫も残せなかったのでしょう。

天智天皇(中大兄皇子)は皇位にはつきましたが、崩御後、弟の大海人皇子(天武天皇)vs子の大友皇子が争い(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位したので、自らの血を皇位継承させることができませんでした。

奈良時代末、天武系天皇の血筋が絶えてしまって、天智天皇の皇子・志貴皇子の子である光仁天皇が即位したことで
天智天皇の子孫が皇位継承することになったのですが。

そういう点で、もしかしたら中大兄皇子と達磨は同一視されたのかもしれませんね。

  美山 かやぶきの里2   
美山 蓑 農具

美山民族資料館

美山民族資料館2

美山 古民家カフェより つらら

美山 かやぶきの里



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[2020/02/15 15:32] 京都府 | TB(0) | CM(0)

美山 茅葺の里 知井八幡神社 雪 『八股角鹿伝説の角鹿は敦賀では?』 

京都府南丹市美山町 茅葺の里 知井八幡神社

美山 茅葺の里2 

①八股角鹿伝説


美山の知井八幡神社にはこんな伝説が伝えられているそうです。

713年、元明天皇の時代、八つの頭を持つ「八股角鹿」という大鹿が現れ、人々に災いをもたらしていました。
甲賀三郎兼家はこの大鹿を退治するため丹波北部にやってきて、京北弓削の八幡宮社で神に祈り、弓矢をもって山に入りました。
そこへ二人の童子が現れて兼家を八丁山へ案内しました。
八丁山(京都府南丹市美山町佐々里)
につくと洞窟から八頭の大鹿が現れて兼家にとびかかってきました。
兼家が放った矢は鹿に命中しました。
鹿は山を下りて逃げていきましたが、力つきたところを、兼家に斬られて絶命しました。
血で岩や道が赤くなっていたため、赤石ヶ谷と呼ばれるようになりました。
兼家は佐々里の里へと下り、祠をたてて八幡大明神を祀り神のご加護に感謝しました。
これが今の知井八幡神社です。
その後、甲賀三郎兼家とその家来が美山のまちを開きました。

知井八幡神社 

知井八幡神社

②八股角鹿と角鹿(つるが)

鹿の名前が「八股角鹿」というのが気になります。

「角鹿」は越前国の敦賀(つるが)の古名です。

古事記仲哀天皇代にこんな話があります。

武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子(応神天皇)と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。
御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。


また日本書紀・垂仁天皇2年条にこんなことが記されています。

垂仁天皇の時意富加羅国の王子・ツヌガアラシトが笥飯(けひ)浦にやってきました。
額に角があったので、この地を角鹿と称しました。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされます。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。

たまたま大鹿と地名が同じ角鹿だったとは思えないです。
というのは、兼家が知井八幡宮を創建していますが、八幡神とは応神天皇のことだからです。

四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

③713年の日食・飢饉・大風被害

①の伝説に
713年、元明天皇の時代、八つの頭を持つ「八股角鹿」という大鹿が現れ、人々に災いをもたらしていました。
とありますが、八股角鹿がもたらした災いとはどんなものでしょうか。

713年3月1日に日食が観察されています。人々はこれを不吉なことがおこる前兆ではないかと、不安な思いで見つめたことでしょう。


その後、志摩、大和、讃岐などで飢饉がおこっています。
また 伊賀・伊勢・尾張・三河・出羽が大風で被害をうけています。

これらは八股角鹿の仕業で引き起こされたものであると考えられたのではないでしょうか。

敦賀の気比神宮と美山は直線距離で20kmほどです。





若狭から京へ魚介類を運ぶルートはいくつかありましたが、すべて鯖街道と呼ばれていました。
美山を通るルートもありました。
平城宮跡や、奈良県明日香村で発掘された木簡から、若狭から鯛の寿司など10種類ほどの海産物が運ばれたと推定されています。

そして美山からみて、気比神宮のあるあたりは鬼門の東北に近い方角にあります。
713年の日食・飢饉・大風は敦賀・気比神宮の神の祟りと考えられ、
その結果、気比神宮の西南にあたる美山に知井八幡神社をたて(美山からみて気比神宮は鬼門の方向にあたるので)、八股角鹿伝説が創作されたのではないでしょうか。

知井八幡神社2 
知井八幡神社

知井八幡神社-狛犬 
知井八幡神社

美山 茅葺の家と知井八幡神社 
向かって右に知井八幡神社の鳥居が見えています。

美山 茅葺の家 
美山 茅葺の里 




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[2020/02/12 15:02] 京都府 | TB(0) | CM(0)

田中神社(東山区) 紅葉 『和泉式部が出会った田刈る童の正体とは?』 


京都市東山区 田中神社

田中神社

①稲荷の叔母神


伏見稲荷大社の北東、本町通(伏見街道)沿いに田中神社があります。
伏見稲荷大社の境外摂社ですよ。
「稲荷の叔母神」と呼ばれています。

急いでいたので前を通り過ぎただけで、境内には入らなかったのですが
北に田中社、南に四大社を祀っているとのことです。

田中大神は伏見稲荷大社五柱のうちの一柱とのこと。

伏見稲荷大社五柱は次のとおり。
中央 
 
下社ウカノミタマ
中社佐田彦大神
下社大宮能売大神
田中大神    ※1499年合祀
四大神     ※1499年合祀

稲荷山荒神峯にも田中社神蹟があるそうです。

伏見稲荷大社 千本鳥居 雪 
伏見稲荷大社 

②四大神は紀氏の神だった。

柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神々のことだということです。(式内社調査報告)

五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。

また記紀は、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としています。
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。

五十猛命(いそたけるのみこと)スサノオの子林業の神
大屋姫(おおやつひめ)スサノオの娘 五十猛命の妹 抓津姫の姉スサノオの命で全国山々に木種をまいて
紀伊国に戻る。
抓津姫(つまつひめ)スサノオの娘 五十猛命の妹 抓津姫の妹
事八十神


和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としています。
都麻都姫命(抓津姫)は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されていますが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明です。

紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。

そして紀州は紀氏の本拠地でした。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。

伏見稲荷大社 狐 雪2 

伏見稲荷大社

③伏見稲荷大社は紀氏の神を奪った?

伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社がありますが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされています。
その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転しました。



藤森神社 藤森祭 神輿
 
藤森神社 藤森祭


そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子だといいます。
藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。

伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、もともとは紀氏の土地でした。
しかししだいに藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられています。

伏見稲荷大社の四大神が紀氏の神だということは、藤原氏や秦氏は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったということではないでしょうか。

和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれています。

伏見稲荷 御田植神事 

伏見稲荷大社 御田植神事 

④空海の前に現れた紀州の神


田中神社はもともとは南区の九条あたりにあったそうです。
東寺があるあたりですね。
伏見稲荷大社は東寺の鎮守です。
伏見稲荷大社と東寺はそういう関係にあるので、伏見稲荷大社の境外摂社である田中神社がおかれていたのでしょうか?
あるいは伏見稲荷大社のあたりに藤森神社があったころから、東寺付近に田中神社はあったのかも?

ちなみに東寺の創建は796年、伏見稲荷大社の創建は和同年間(708年~715年)とされます。
しかし和同年間に創建されたのは紀氏の神社・藤森神社の前身としての伏見稲荷大社だと思います。

というのは、 『稲荷大明神流記』に次のように記されているからです。

816年、紀州国の熊野で空海に老翁がこう言った。
「私は神である。あなたには威徳がある。私の弟子となるがよい」
空海は答えた。
「私は密教を広めたいという願いがあります。あなたには仏法でそれを守ってください。
京の都の九条にある東寺であなたを待っています。」
823年、空海は東寺を賜って真言の道場とした。
そこへ紀州の神が、椙(すぎ)の葉を持ち稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れてやってきた。
空海は17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。

この話から、大同年間、ここには紀氏が祭祀する神社があったが、823年に空海が紀氏の神を鎮め、東寺の鎮守にしたと考えられます。

③で次のように書きました。
「伏見稲荷大社の四大神が紀氏の神だということは、藤原氏や秦氏は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったということではないでしょうか。」と。

空海は俗名を佐伯真魚といいますが、佐伯氏は秦氏ではないかともいわれています。

東寺 五重塔 
東寺

⑤和泉式部が出会った田刈る童の正体とは?

田中神社は洪水があったため、現在地に遷宮したといわれます。

いつごろ遷宮したのかわかりませんが、和泉式部((978年頃 - ?)が生きていた時代にはすでに遷宮していたのかもしれません。

こんな話が伝えられています。

和泉式部しにびて稲荷へまいりけるに、田中明神の程にて時雨のしけるに、いかがすべきと思けるに、
田刈りける童の、あおといふ物をかりてきてまいりにけり。
つぎの日、式部はしのかたをみだしてゐたりけるに、大(おほき)やかなる童の、文もちてたゝずみければ、
『あれはなにものぞ』といへば、『此御ふみまいらせ候はん』といひて、さしをきたるを、ひろげてみれば、
"しぐれするいなりの山のもみぢ葉は青かりしより思ひそめてき"とかきたりけり。
式部あはれと思ひて、このわらはをよびて『おくへ』といひてよびいれけるとなむ。


『古今著聞集(鎌倉時代)』巻五中「田刈る童との説話」


 
和泉式部が(しにびて?)稲荷をお参りし、田中明神のあたりで時雨にあった。
どうしたものかと思っていると、田を刈る童が襖(あ襖お)という着物を借りてきてくれた。
次の日、式部は(しのかたをみだして?)いると、大きな童が文を持って佇んでいた。
「あれは何者か」と問うと「この手紙を持ってまいりました」といって手紙を置いた。
手紙を広げてみると「時雨する 稲荷の山の もみじ葉は 青かりし(襖借りし)より 思いそめてき」と和歌が記されていた。
式部はしみじみと思い、この童を呼んで『奥へ』と言って呼び入れた。


田を刈る童とは、空海が出会った稲を背負う紀州の老翁が姿形を変えた神ではないでしょうか。

そして田中大神の正体もまた、空海が出会った稲を背負う紀州の老翁が姿形を変えた神であるように思えます。

東寺 五重塔 
東寺




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[2020/02/08 15:13] 京都府 | TB(0) | CM(0)

獅子窟寺 『空海、星の神を鎮魂する修法を行う?』 

大阪府交野市 獅子窟寺

 
獅子窟寺-登り口 

ここが獅子窟寺参道の登り口。丁石がおいてありました。一丁は約109mなので、6丁は約654mです。

獅子窟寺-参道

長い坂道なので息がきれますよ。はあはあ。

獅子窟寺 牛臥石 
↑牛臥石。

獅子窟寺 仁王門あと 
↑ これは仁王門あと。
1615年、大坂夏の陣の際、獅子窟寺は豊臣方への加勢を拒否し、そのため焼き討ちにあって、全山十二院を消失したと伝えられます。
仁王門もこのとき焼失したそうです。


獅子窟寺-天福岩

到着ーーーー!

①八丁三所伝説

黄檗宗の僧・月潭が著した『獅子窟寺記』(1692年)には次のように記されているそうです。

獅子窟寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建した。
天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行った。


境内に空海が修法を行ったと伝わる獅子窟があるということなので、探してみましょうー。


獅子窟寺 巨石群3

下の地図に獅子の岩とあるあたりです。

向かって左の立て看板には「獅子の岩へお参りされるかたは石垣がくずれる恐れがありますので上のほうよりお参りください」と書いてあります。
写真右手に短い階段があって岩の上に登れるようになっています。

獅子窟寺 案内図


獅子窟寺-弁財天

↑ 登ったところにはこんな岩が。弁財天と記した旗が立てられていました。

獅子窟寺 巨石群2

↑ さらに木の根の階段を登っていくと

獅子窟寺 マラ石?

↑ これは巨大なマラ石だよねw

だけど、獅子窟がない~。
ここじゃなくて、奥の院のほうなのかな?と思って山道を歩いていきましたが、
帰宅後調べてみたら、このマラ石から一段おりたところ(急な段差があって階段もなかったです~)に獅子窟はあったようです(涙)。

獅子窟寺 巨石群

↑ これは写真Aの立て看板の後ろあたりにあった岩。どうやらこの岩の後ろあたりに獅子窟はあるみたいですね。

そういうわけで場所がわからなくて写真撮れなかったので、リンクをはっておきます(汗)。

https://omairi.club/spots/82293/point

空海は獅子窟で仏眼仏母の修法を行ったそうですが、仏眼仏母について、ウィキペディアには次のように記されています。

「仏眼仏母 (ぶつげんぶつも)、(梵: बुद्धलोचना [buddhalocanā])は、仏教、特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%9C%BC%E4%BB%8F%E6%AF%8D より引用

次のように記したサイトもありました。

「金剛界大日如来が、胎蔵界に入った瞑想した境地が、一字金輪(ボロン)ですが、
胎蔵界大日如来が、金剛界に入って瞑想した境地をあらわしたのが、仏眼仏母といわれています。」
https://ameblo.jp/ronjanzensin/entry-12145864529.htmlより引用

獅子窟が金剛界で、空海は胎蔵界大日如来としてここで瞑想したということでしょうか?
でも案内図 ↓をみると、「獅子の岩(女岩)と書いてあるので、獅子窟は胎蔵界で、空海は金剛界大日如来じゃないか、と思えます。(胎蔵界は女性の子宮を意味する。)

うーん?

交野市のhpには次のように記されています。

八丁三所

平安時代、私市の獅子窟寺(ししくつじ)で弘法大師が修行していた折、天から北斗七星が、星田の3か所に降りたという言い伝えのある場所。

その場所は、星田の光林寺(こうりんじ)、星の森、妙見山(みょうけんざん)で、それぞれの間の距離がほぼ八丁(約880m)にあたることから、名付けられたという。

https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2018031500015/ より引用

空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃だとする記事もありました。

獅子窟寺展望台より望む  
社務所前より大阪方面を望む

②昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えた?

昔の人は巨岩を空から落ちてきた星だと考えていたのではないかと思います。

雲陽誌という書物に次のような内容が記されています。

島根県松江市の松崎神社では延宝7年に石が掘り出され、古語『星隕って石となる』から神・ニギハヤヒ(物部氏の祖神)の石として宝物にしました。
ニギハヤヒは星の神です。

獅子窟寺から南へ直線距離で1kmほどの場所に磐船神社があります。
磐船神社はニギハヤヒを祀る神社で天の磐船という巨岩をご神体としています。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 天の磐船

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされ、この磐がその天の磐船だと考えられています。
ニギハヤヒが天の磐船を操って天下ったというのは、この巨岩は空から降ってきた星だと考えられたということではないかと思います。

そう考えると、ニギハヤヒが星の神とされていることも説明できます。

この磐船神社も獅子窟寺同様、巨岩がごろごろしておりまして、磐の間を通り抜ける岩窟廻りなどを体験することができますよ。
(雨天などは中止になることもあるので、確認の上おでかけすることをおすすめします。)

こちらからバーチャル岩窟廻りができます。↓

http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/gankutu.html

獅子窟寺 山道 
獅子窟寺奥の院へ向かう道

④星の神は敗者の神


記紀神話に星の神は一柱しか登場しません。
天津甕星という神さまのみです。

ですが住吉明神は星の神ではないかと考えられています。
住吉明神とは底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后の総称ですが、神名にある『筒』は星の神であることを示すものだという説があります。
『上記(うえつふみ)』という文書の中に、トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などとあり、星の名前には必ずツツという音がついているためです。

記紀神話に星の神が一柱しか登場しないのは、星の神が抹殺されたのではないかともいわれています。

そして星の神・天津甕星は天照大神の葦原中国(日本列島。たぶん北海道・沖縄は省く)平定に最後まで抵抗した荒々しい神、と記されています。

天照大神は葦原中国を平定して天孫であるニニギを天下らせていますので、天津甕星は天照大神に負けた神だと考えられると思います。

そして大阪府交野市あたりは古には肩野物部氏が住んでいた土地であり、
物部氏の祖神で磐船神社の御祭神・ニギハヤヒは神武より早く畿内に天下っていたのですが
のちに向からやってきた神武に服したと、記紀には記されています。

交野には星の伝説が数多くあり、星の町と呼ばれますが、
それは敗者・物部氏が住んでいた土地であり、またその土地の山には巨岩(昔の人は巨岩を落ちてきた星だと考えていたと思います。)が無数にあることに由来していると思います。

獅子窟寺-岩 
奥の院へ向かう道は巨岩がごろごろしていました。

⑤薬子の変

さて、空海はなぜ獅子窟寺で修法を行ったのでしょうか?

空海が獅子窟寺で修法を行ったのは嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)の頃ということでしたが
810年には薬子の変がおこっています。

806年、桓武天皇が崩御して平城天皇が即位しましたが、809年に病を患い、病の原因を占ったところ、早良親王の祟りとでました。
早良親王は桓武天皇の同母弟で桓武天皇の皇太子でしたが、藤原種継暗殺事件に関与したとして淡路に流されていく途中、憤死しました。
我が子に皇位をつがせたいと願う桓武天皇の陰謀との説もあります。
このような経緯をへて平城天皇は即位したので、早良親王の怨霊をそれは恐れたことでしょう。

そして、早良親王の怨霊を避けるため、同母弟の嵯峨天皇に譲位しました。

810年、平城上皇は平城京へ移りますが、上皇の寵臣である藤原仲成・薬子兄弟は複位をもくろんでいました。
そして平城京の平城上皇vs平安京の嵯峨天皇が対立し、二所朝廷と呼ばれる状態となってしまいます。

そして平城上皇は平城京遷都の詔を出すにいたりますが、嵯峨天皇はこれを拒否します。
平城上皇は挙兵しますがあっけなくとらえられ、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。

平城上皇は出家して空海より灌頂(密教の儀式。頭に水をそそぐ。)を受けています。

そのほか、大勢がこの事件に関与したとして処分を受けています。

獅子窟寺-岩2 
奥の院へ向かう道 巨岩

家系氏名官位など処罰内容
皇族平城上皇太上天皇自主的に出家、大権の喪失
皇族高岳親王皇太子廃太子
皇族阿保親王四品大宰員外帥へ左遷
皇族礒野王従五位上・図書頭伊豆権守へ左遷
皇族田口王従五位下土佐権守へ左遷
皇族真菅王従五位下壱岐権守へ左遷
藤原式家藤原薬子正三位・尚侍尚侍を解任、のち自殺
藤原式家藤原仲成従四位下・参議佐渡権守へ左遷、のち射殺
藤原式家藤原安継従五位下・大舎人助薩摩権守へ左遷
藤原式家藤原貞本従五位下・大蔵大輔飛騨権守へ左遷
藤原式家藤原永主日向国へ流罪
藤原式家藤原山主日向国へ流罪
藤原式家藤原藤主日向国へ流罪
藤原北家藤原真夏正四位下・参議伊豆権守次いで備中権守へ左遷
藤原北家藤原真雄従四位下・左馬頭伊予守へ左遷、のち備前守に転任
紀氏紀田上従四位下・尾張守佐渡権守へ左遷
紀氏紀良門従五位下・越後守肥前権介へ左遷
その他多入鹿従四位下・参議讃岐権守へ左遷、のち安芸守、讃岐権守に転任
その他菅野庭主正五位上・木工頭安房権守へ左遷
その他大中臣常麻呂従五位上・兵部少輔備前権守へ左遷、のち伊予守に転任
その他大伴和武多麻呂従五位上・左近衛少将武蔵権介へ左遷、のち日向権守に左遷
その他御室是嗣従五位上大隅権守へ左遷、のち筑後権介に左遷
その他御室氏継従五位上薩摩権守へ左遷
その他安倍清継従五位下・越前介安芸権守へ左遷、のち伯耆国へ流罪
その他当麻鱸麻呂従五位下淡路権守へ左遷
その他安曇広吉従五位下伊予権介へ左遷
その他百済王愛筌越前権少掾安房国へ流罪
その他永野浄津越前国へ流罪
その他伊勢安麻呂能登国へ流罪

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89 より引用

この大勢の処分された人々の霊を弔うため、空海は獅子窟で仏眼仏母の修法をおこなったなんてことないですかね~?

神泉苑御霊会で崇神天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂が慰霊されていますが、
観察使とは藤原仲成のことではないかなどともいわれていますよ。

神泉苑で慰霊されたということは、彼らは御霊(怨霊)だということになりますが。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、天災や疫病の流行は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。

嵯峨天皇代になにか天災・疫病の流行などがあり、それらは薬子の変で処分された人々の怨霊の仕業だと考えられたので、
空海が修法を行ったんだったりして?

獅子窟寺-岩3 
奥の院へ向かう道 巨岩

④奥の院は巨岩がごろごろしていた。

奥の院へ向かう道は細くて険しい山道もありました~。
が、木の幹に太いロープを結び付けてくださっている場所などもあり、心遣いに感謝です!

奥の院といっても、建物があるわけではなく、大きな岩がごろごろと存在しているのです。
そのひとつひとつが薬子の変で処罰された人々の霊のように思えてきたw

獅子窟寺-岩6

↑ 弥勒岩?鏡岩?

獅子窟寺-岩5

登れるようになっていました。

獅子窟寺-岩7  

⑤遭難しかけるw

そろそろ境内に戻ろうと引き返したのですが、どこでどう道をまちがったのか?歩いた記憶のない道にきてしまい・・・・
道が二股にわかれているところまで引き返し、もう一方の道を行ってみましたが、こちらの道も歩いた記憶がないw。
でも「私市駅→」と書いてある看板があったので、友人と相談してそっちのほうに行ってみよう、ということになりました。

途中、ものすごい急こう配があり、お尻で滑りおりるようにしておりてみると、「獅子窟寺→」の看板がありました。
ほっとしたのもつかの間、倒木で道が塞がれています~(涙)。

戻ろうかとも思ったけど、あの急こう配を上る自信がなかったので、獅子窟寺とは逆方向に道を下っていくことにしました。
道沿いにも巨岩が積み重なった場所などありましたが、不安な気持ちが勝ってしまって写真を撮るどころではありませんでした~。
日は傾いてくるし、こんなところで遭難したら恥ずかしいしー。
だけど20分くらい歩いたら、ガードレールが見えてきて、さらに歩くと民家が見えてきました。ヨカッタ、ヨカッタ。

私市駅付近に降りて来たのです。
そこから歩いて河内森近くの駐車場に止めてあった車まで戻りました。

みなさんも、獅子窟寺の奥の院に行かれる際はご注意ください!


獅子窟寺-岩4






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[2020/02/06 18:24] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

和歌山県海南市 工場夜景 


和歌山県海南市あたり 


海南市 森林公園より2

①紀州漆器の担い手たちは滋賀県木地師の里からやってきた?


森林公園雨の森展望台から海南市を見下ろしました。
工場の夜景が美しいっ!

工場は日本製鉄だと思います。近代産業が盛んな町なんですね。
しかし近代産業だけではありません。
海南市は伝統産業として紀州漆器などでも有名なんですよ。

室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろ、近江の木地師集団が紀州に移住してきたとされます。
彼らが紀州檜を用いて椀などを製造したのが紀州漆器の始まりとされます。

海南市 森林公園より 

おお~、近江の木地師!

近江は現在の滋賀県のことですが、滋賀県東近江市君ヶ畑あたりは「木地師の里」と呼ばれています。

また、滋賀県蒲生郡日野では日野漆器が作られていました。

日野は1533年、日野領主の蒲生氏が中野城を築いた際、木地師や塗師が招へいされて住み着き、漆器の産地として発展したとされます。

近江の木地師集団が紀州に移住してきたのは室町時代から戦国時代(1336~1590年)ごろということなので、日野からやってきたということはないか。

紀州漆器の担い手たちは滋賀県東近江市君ヶ畑あたりの「木地師の里」からやってきたのかもしれませんね。

大皇器地祖神社 
大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)


君が畑には大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)があり、木地師の祖神として惟喬親王を祭っていますよ。

大皇器地祖神社の近くには惟喬親王の墓もあります。(京都三千院近く、滋賀県筒井峠付近にも惟喬親王の墓があります。)

惟喬親王-墓2 
大皇器地祖神社近くにある惟喬親王の墓

惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があり
(奈良時代にろくろで作られた百万塔が現存しているので、この伝説は事実ではないのですが)
そのため、木地師の祖とされているのです。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸

使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。

木地師の祖ということで日野漆器の産地だった滋賀県日野でも惟喬親王は厚く信仰されています。
日野祭の双六町曳山の見送幕は惟喬親王が描かれています。
http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/yama/sugo.html

紀州に定住した近江からやってきた木地師集団も惟喬親王を信仰していたことでしょう。

また惟喬親王の母親は紀静子といい、紀氏の女性でした。
そして紀州は紀氏の本拠地ですから、彼らは紀州で漆器をつくるということに意義を見出していたかもしれません。

②根来塗


近江の木地師集団が定住して漆器をつくったのが紀州漆器都する説のほか、秀吉の根来寺焼き討ちからのがれてきた職人が黒江湊に移住して紀州漆器がつくられはじめたとする説もあります。

根来寺に関係する漆器に根来塗があり、寺の僧侶たちが用いていたとされます。

黒漆で下塗りをしたのち、朱漆塗りを重ねてつくるそうです。

たぶんですが、朱塗りは漆に天然の辰砂をまぜるのではないかと思います。(もしちがっていたら教えてね~)
https://www.negoronuri.com/

③なぜ根来に小野小町伝説があるのか

根来寺 紅葉

根来寺

根来寺の裏あたりにある山を根来山というようです。(写真に写っている山が根来山かどうかはわかりません~。すいません。)

で、この根来山付近にこんな話が伝えられています。

康和(1099~1104年)のころ、根来山の麓の西坂本に室家右兵衛尉忠家(むろやうひょうえのじょうただいえ)が住んでいました。
忠家は金持ちでしたが、子供がいませんでした。
あるとき、忠家の妻は、小野小町の墓に参拝すると子供を授かるという話を聞き、二十一日絶食して小野小町の墓にお参りをしました。
やがて妻は身籠り女児を出産しました。
女児は桂姫と名付けられ、小野小町そっくりな美女に成長しました。
桂姫の髪は住持池(じゅうじがいけ)の水をつけないと梳くことができず、住持池の水を汲んできては梳いていました。
桂姫は和泉国尾崎の大原源蔵高広(おおはらげんぞうたかひろ)という北面(ほくめん)の武士に嫁ぐことになりました。
嫁入り行列が住持池を通り過ぎようとしたとき、空がかき曇り池に大波がたり、大蛇があらわれて娘をさらって水の中に消えました。
母親は悲しみもう一度娘に会いたいと願っていましたが、あるとき住持池を泳ぐ二匹の蛇の姿を見ました。
桂姫をさらった大蛇は小町に思いをよせていた深草小将の生まれ変わりだといわれています。





なぜ、この地に小野小町の伝説があるんでしょうか?

実は私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことではないかと考えています。

小野小町像 
髄心院 小野小町像


詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

特に、下記記事を詳しく書いていますが、
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

ざっとまとめておくと次のような理由があげられます。

a古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
 『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
①花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
②私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
③はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

①で述べたように惟喬親王は木地師の祖として信仰されています。
そして根来塗をつくるためには木地師の存在があったと考えられます。

根来寺付近に住んでいた木地師は木地師の祖・惟喬親王に対する信仰があり、惟喬親王=小野小町なので、小野小町に関係する伝説が生じたのではないでしょうか。

ところで、この話にでてくる小野小町の墓ってどこにあるんでしょうね。
和歌山市湯屋谷に小野小町の墓があるそうですが、ここのことでしょうか?

海南市 森林公園より3 



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[2020/02/01 18:20] 和歌山 | TB(0) | CM(0)