Author:佳音
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この後、菟道稚郎子命は菟道宮に住まい、3年間大鷦鷯尊と皇位を譲り合いました。しかし、長期間天皇がいなければ天下の煩いになると思い、自殺しました。大鷦鷯菟道稚郎子命尊は難波から菟道宮に至り、菟道稚郎子命の遺体に招魂の術を施しました。菟道稚郎子命は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び死んでしまいました。この話のテーマは次のようなものでしょうか。前半―自らの命を狙った大山守皇子の死をも悼む菟道稚郎子命のやさしさ。後半ー大鷦鷯尊に皇位を譲るため自殺した菟道稚郎子命のやさしさ。私はなんか偽善ぽいなあ、と思いましたがwでも同時に違う観点で、興味深い話だとも思いました。 宇治川 朝霧橋②「木を伐ることは兄大山守命を殺すことの隠喩」ならば水死させているので「梓弓・檀の木を伐らなかった」とはいえなくないか?まず、前半の「自らの命を狙った大山守皇子の死をも悼む菟道稚郎子命」について。千人万首の語釈では◇い伐らむと 梓も檀も弓に用いた樹であるので、通常なら弓を作るために伐るのであるが、古事記の文脈に即せば、木を伐ることは兄大山守命を殺すことの隠喩となる。http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/ujiwaki.htmlより引用とあります。菟道稚郎子命が渡し守に扮して、大山守皇子が宇治川を渡る船を転覆させたので、大山守皇子は死んでしまったのです。それなのに、「君(天皇?)や妻(大山守命の妻)を思い出して、彼らがどんなに悲しむだろうかと思って、梓弓・檀の木を伐らずにきた(殺さなかった)」とはどういうことなんだ?とツッコミを入れたくなりませんか?まあ、これは「今まで君(天皇?)や妻(大山守命の妻)を思い出して、彼らがどんなに悲しむだろうかと思って、大山守皇子を殺さなかったが、ついに殺してしまった。」という意味かもしれません。宇治川③招魂の術で蘇生した菟道稚郎子命次に後半の大鷦鷯尊に皇位を譲るため自殺した菟道稚郎子命について。皇位を譲るため自殺までしなくていいと思いますが、この点よりも気になるのが「大鷦鷯が菟道稚郎子命の遺体に招魂の術を施すと菟道稚郎子命は蘇生した。」という部分です。 萬福寺宇治には萬福寺という寺があり、布袋を弥勒菩薩そのものであるとして祀っています。弥勒菩薩はゴータマ・ブッダの次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で56億7000万年後にあらわれるとされます。ブッダとは悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人のことです。布袋は中国に実在した僧ですが、死後に姿を見かけられたという話が残されています。死後に姿を見かけられたっていうのは、布袋が生き返ったということだと思います。(実際には布袋は双子だったのを、人々が「布袋は生き返った」と勘違いしたんだと思いますが)その布袋が弥勒菩薩と同体であるということは、弥勒菩薩もまた生き返るみほとけということではないかと思ったりします。つまり、釈迦がブッダとして存在する世の中は終わりを告げるが、釈迦は再び生き返る。それが弥勒菩薩ではないかということです。萬福寺の創建は1661年ですが、なぜ宇治の地に創建されたのでしょうか?それは宇治に 菟道稚郎子命が蘇生したという伝説があったからではないでしょうか?萬福寺 布袋像④「わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 」の本当の意味とは?宇治の喜撰山には喜撰洞があり、喜撰法師が住んだ洞だと伝えられています。喜撰法師はこんな歌を詠んでいますね。わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなりこの歌について、小説家の高田祟史さんは「QED六歌仙の暗号」の中で次のように言っておられます。(以下、ネタバレとなりますので、知りたくないという方はここより先を読まないようにお願いしますねっ。)萬福寺 ↑↓わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり高田祟史さんは「宇治は都の辰巳ではない、都の辰である」とし、歌は「わが庵は都の辰」で切れ、「巳しかぞすむ」で一つの文節を作っているのではないかとしておられます。そして「巳しかぞすむ」は「己鹿ぞすむ」であり、「鹿」は「ろく」都読むので、「己鹿ぞすむ」は「みろくぞすむ(弥勒ぞすむ)」という意味ではないかというのです。④宇治は都の辰ではなく都の辰巳が正しいのでは?当時の平安宮(平安京の大内裏)は二条城付近にありました。そして喜撰山に喜撰洞が喜撰法師の棲んだ庵のあとではないかと思います。二条城から宇治の喜撰洞の方角を確認してみると、申し訳ないですがが都の辰というのは厳しいのではないかと思いました。やはり都の辰巳というのが正しいように思えます。
⑤「もののな」の高度なテクニック④で述べたように「わが庵は都の辰」とはいいがたいと思います。ですが、「わが庵は都の辰巳 しかぞ住む』の中に、「みろく」という言葉をよみとられたのは、高田祟史さんの素晴らしい発見だと思います。この歌の中から「みろく」という言葉を読み取るのがむつかしいのは、ひとつは「わが庵は/都の辰巳/しかぞ住む」と「巳」と「しか」の間で文節が切れていることがあります。さらに、「しか」を漢字に変換して「鹿」とし、「鹿」を「ろく」と読むという発想はなかなか思い浮かびません。和歌のテクニックのひとつに『もののな』があります。もののなとは、ある事物の名称を、意味に関係なく歌の中に詠み込むことを言います。たとえば「あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の 宿り定めぬ 世にこそありけれ」という歌がありますが、この歌の中に「たちばな」という言葉が読み取れますね。「わが庵は都の辰巳 鹿ぞ住む』の中に「みろく」を発見するのは難しく、高度な「もののな」のテクニックだといえるのではないでしょうか。⑥ばれないように詠むのが大事高田祟史さんは和歌は文学ではなく呪術だとおっしゃっていたと思います。和歌ではないのですがが、言葉を呪術として用いた例として1610年、徳川家康が方広寺の鐘名「国家安康」「君臣豊楽」に激怒したというエピソードがあります。 方広寺鐘銘「国家安康だと?私(家康)の名前を切っているじゃないか!「君臣豊楽子孫殷昌だと?豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、という意味ではないか!けしからんーーーー!」こう家康は怒り、豊臣家を滅亡させてしまいました。現代人はこれを家康のいちゃもんだと考えがちですが、私は豊臣秀頼が本当に家康が指摘したような呪術を用いて鐘銘を刻んだ可能性があると思います。言霊信仰とは口に出した言葉は実現する力があるとする信仰のことです。ポジティブなことを言葉にすればポジティブなことがおき、ネガティブなことを言葉にすればネガティブなことがおきるとすれば憎い相手を言葉の力によって貶めたいと考えるのは当然のことですね。この事件は言葉に呪術をこめる伝統があったことを物語っているように思えます。「国家安康」「君臣豊楽」とはなかなかうまい呪術を考えたものですね。しかし相手にばれてしまうと、怒りをかって豊臣家のように滅ぼされてしまいます。呪術は相手にばれないように慎重にかける必要があったのです。喜撰法師の「もののな」のテクニックはすごいですね。この歌に『巳鹿→みろく」と言う言葉が隠されていることに気付いた人は、高田祟史さんひとりだけかもしれません。 萬福寺まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
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