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戒長寺 お葉つきイチョウ 『お葉つきイチョウの不思議』 


奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺


①不思議な戒長寺のお葉つきイチョウ



以前、戒長寺の記事を書きました。
山部赤人の墓 額井岳 紅葉 『言霊の使い手&戒場=開成?』 
戒長寺の住職さんに素敵なお土産をいただいたので(ありがとうございます!)、今日はその話をしたいと思います。

まずはお土産の写真をご覧ください。↓

お葉つきイチョウ 
イチョウの葉っぱと銀杏です。
とても素敵なお土産で超うれしかったです!

住職さんがいうには、二股に分かれている葉が雄(向かって右)で、分かれておらず扇のような形をしているのが雌(向かって右より2つ目)だということです。
中央の黄色い葉っぱは雌ですが、よく見ると少し色が濃くなっているところがありますね。
写真ではわかりにくいかもしれませんが色の濃いところは少し盛り上がっていますよ。
これがどんどん膨らんで向かって左のようなお葉つきイチョウになるのだとか。
なんという不思議!

戒長寺 説明板


上は戒長寺にあった説明板です。内容を下にまとめておきます。

①イチョウは裸子植物のイチョウ科に属する。
②イチョウはシダのように胞子をつくる胞子植物と種子を種子植物の両方の性質をもつ。
③イチョウは受精の際、シダと同様運動する精虫ができる。
④シダ類は葉に胞子をつけるのと同様、お葉つきイチョウも葉に種子をつける。

http://www.kyoboku.com/ohatsuki/
上のサイトによると、お葉つきイチョウは日本には20本ほどしかなく、そのほとんどが雌株だとあります。
そして山梨県身延町八木沢にあるイチョウと、三珠町にあるイチョウの2株のみ、雌雄株だと書かれています。
しかし、住職さんいわく、戒長寺のお葉つきイチョウも雌雄株だということです。

戒長寺 本堂

戒長寺 本堂

②イチョウは精子をつくる。

まず一般的なイチョウについてみてみましょう・

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005100132_00000
上のサイトの動画および説明がわかりやすいです。

①イチョウは4月ごろ花を咲かせる。雄の木は雄花(下向きに垂れ下がる)、雌の木は雌花をつける。(上向き)
②風で雄花から花粉が飛び、雌花の先からでた液に雄花の花粉がつく。
③花粉は液とともに雌花の先にある穴から吸い込まれる。
④吸い込まれた花粉は穴の奥にある小さな部屋に入り、精子を作る準備をする。
精子と受精する卵(らん)は、その小さな部屋の下にある丸い部分で作られる。
⑤9月、雌花は大きく育って垂れ下がる。卵がふたつでき、その下に精子ができる。
⑥精子は一つの袋に二つできる。繊毛(せんもう)を使って、袋の中で活発に動く。
⑦袋のまわりの空間は液体で満たされる。袋から出てきた精子はその中を泳ぎ卵に向かって受精する。


説明板に精虫とあるのは精子の事だと思います。

戒長寺 鐘楼

戒長寺 鐘楼



②お葉つきイチョウは花が咲くのか?

コトバンクに次のように記されていました。

葉が2裂して,片方が葉,片方が胚珠となること(お葉付きイチョウ)もイチョウの祖型を探る意味では興味ある現象である。


https://kotobank.jp/word/%E3%81%8A%E8%91%89%E4%BB%98%E3%81%8D%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6-1284157より引用

胚珠とは種子植物の種子になる部分のことをいいます。
花粉から花粉管が胚珠内部へと伸び、花粉内部の精細胞が胚珠内部の卵細胞と受精します。

ということは、お葉つきイチョウは葉の部分にこの胚珠ができるということだと思います。
コトバンクの説明では、葉が2裂してとありますが
戒長寺のイチョウは2裂しない葉に実ができていました。
戒長寺のイチョウは珍しい雌雄同株だということですし、他とはちがう性質をもっているのかもしれません。

受粉するということは、花が咲くということですよね?
戒長寺のお葉つきイチョウは雌雄体ということなので、たぶん雄花は咲くのでしょう。
雌花はどうでしょう?咲くのでしょうか?

戒長寺 遠望 

戒長寺 遠望


③大胞子葉と栄養葉


ウィキペディアには次のように記されていました。

現生の種子植物の中では、ソテツ類ともに最も原始的な性質を残した植物とされる。
雌花(大胞子葉)は栄養葉(普通の葉)に似た形をしており、実際葉にギンナンのついた「お葉つきイチョウ」(Ginkgo biloba 'Epiphylla' )も見られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E9%A1%9E より引用

胞子葉とは胞子(生殖細胞)をつけるように分化した葉のことです。

ということは、雌花は咲かないんでしょうか?

春に双眼鏡持って見にいくしかないかな。ご存じのかた、教えてください!

④お葉つきイチョウの雄株、しかも性転換した!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E%B2%A2%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%8F%E3%83%84%E3%82%AD%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6

山梨県南巨摩郡身延町上八木沢にある八木沢のオハツキイチョウは珍しい雄株のお葉つきイチョウだそうです。
ふつうのお葉つきイチョウは葉に銀杏をつけますが、八木沢のお葉つきイチョウは銀杏ではなくおしべをつけるとのこと。

2011年、雄株なのに銀杏の実をつけているのが発見され、調査したところ、一枝のみ性転換していることがわかったのです。

⑤性転換する植物

性転換する植物は結構あるみたいですね。
マムシグサ、ムサシアブミなどは球茎の重さによって雌雄が決まるという研究があります。

イチョウは雄株のはずなのに銀杏が実ったという話が結構あるようです。

⑥雄略天皇は性転換して女神の一言主大神になった?

昔の人はイチョウが性転換するということを知っていたのではないでしょうか。

というのは大イチョウを御神木とする一言主神社にこんな神話があるんですね。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、
向かいの山の方から、『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と同じ言葉が返ってきました。
雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。
 

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともあります。
今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓があります。

つまり「名前を問われたほうが先に名乗る」というようなしきたりがあったのに、
雄略天皇がうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので
木霊(山彦)である一言主大神はまず自分が名を名乗る必要が生じたため、
実体のある神となって名を名乗り、雄略天皇を矢で射た。
そして一言主大神は死んだ雄略天皇を黄泉の国へ連れて行ったという話ではないかと思います。

そして一言主大神は女神だと考えられます。
というのは雄略天皇がこんな歌を詠んでいるからです。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

(ヘイ彼女。いい籠持ってるじゃん。いいヘラ持ってるじゃん。この丘で菜を摘む彼女、家はどこ?名前はなんてーの?
大和の国は僕ちんが治めてるんだよん。僕ちんこそ名乗っちゃうよ。家柄も名前も。/友人による現代語訳)


これに対して彼女はこう答えたのではないかと思うのです。

『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である!』


一言主神は狩りをしていた。一方娘は菜を摘んでいた。二人は違うことをしているので、同一神ではないのではって?

でも狩りと菜摘みは関係があるんですよ。

狩りは鹿狩り、菜摘みは薬草を摘むことではないかと思います。
鹿狩と薬草摘みはどちらも古には旧暦5月5日に行われる行事で、薬狩りと呼ばれていました。

一言主神も娘も薬狩りをしていたということで共通点があり、同一神であると思うのです。

つまり男性である雄略天皇が性転換したのが一言主大神である(ふたりは同じ衣装を着ており同じ容姿をしていると考えられます。)ということで性転換するイチョウを一言主神社の御神木としたのではないかと思ったりするわけです。

一言主神社 公孫樹2 

一言主神社 御神木の大イチョウ

⑦容姿を気にする神は女神では?


平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」にはこんな話が記されています。

役行者は鬼神たちに葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じたが、一言主神は顔が醜いのを気にして夜しか働かなかったため橋は完成しなかった。
これに怒った役行者は一言主神を呪術で縛り付けた。

容姿を気にするあたり、やはり一言主神は女神じゃないのかな、と思ってしまいます。

祇園祭 宵山 役行者山

上の写真は祇園祭・役行者山の御神体で、中央が役行者、向かって右は葛城神、向かって左は一言主神です。
一言主神は鬼の姿をしています。
私なんかは鬼の姿をした一言主神ってかっこいいと思いますが、一般的に見て美しいとは言い難いかも。
やはり観音菩薩のような優し気な顔を美しいと思う人がほとんどでしょう。

一言主神社 公孫樹 
一言主神社 御神木の大イチョウ


一言主神社の御神木の大公孫樹は気根が発達して乳房のように見えることから乳垂れイチョウと呼ばれています。
銀杏のにおいは記憶にないです。
なのでもしかしたら雄株かもしれませんが、その木姿から女神と考えられていたのではないかと考えられます。

また樹齢1200年ともいわれる古木なので、かつて銀杏の実をつけていた時代があったかもと思ったりします。











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[2019/12/30 13:53] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

白崎海岸 夕景など 『曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだ?』 


和歌山県日高郡由良町 白崎海岸 

白崎海岸へ向かう 
カーブを曲がると不思議な白い岩の島があらわれた!

①由良は丹後?それとも紀伊?

由良の門(と)を渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな/曽禰好忠(そねのよしただ)

(由良の門を渡る舟人が船を操るかじを失って漂うように、ゆくえのわからない恋の道であることよ。)


百人一首にもとられている有名な歌ですね。

この歌にでてくる『由良の門』については、丹後由良川の河口説と紀伊国(現在の和歌山県日高郡由良町)由良の御崎説のふたつがあります。

由良の御崎は和歌山県和歌山県日高郡由良町神谷当たりと思われます。
由良町神谷は白崎海岸から約2kmほど南になります。

白崎海岸 5 
石灰岩なので白いのですね。 石灰岩は水に溶けやすいので浸食されて、穴があいています。昔このあたりまで海だったのか?隆起したのか?

②曽禰好忠は偏屈ではなく「いじめ」に立ち向かったのでは?

曽禰好忠という人を調べてみるとあちこちのサイトに「偏屈」「奇行が多い」などと出てきます。

985年、円融上皇が紫野において子の日の御遊のさいに歌会を開きました。
子の日の御遊とは、正月初子の日に紫野などの丘に登り、若菜を摘み、小松を引く行事のことです。
上賀茂神社で現在も行われている燃灯祭はこの『子の日の御遊』の伝統を伝えるものだと思います。

上賀茂神社 燃灯祭 『小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?』  燃灯祭

上賀茂神社 燃灯祭3

上賀茂神社 燃灯祭

こういった小松引きなどの行事を行ったあと、歌会が行われたのでしょう。。

歌会は官位に関係なく歌人の歌を鑑賞しようという趣旨で行われたのですが、曽禰好忠は招待されませんでした。
そこで曽禰好忠は強引に参加しようとしたのですが、藤原実資、藤原朝光らが追い出したというのです。

うーん、でもこの逸話をもって偏屈というのはどうかと思います。
会社の飲み会などで、ひとりだけ仲間はずれにして誘わないというようなこを聞いたことがあります。
これは「いじめ」ですよね。
曽禰好忠も「いじめ」を受けたということかもしれません。
そしてそういった「いじめ」に屈することなく乗り込んでいったというのは、ある意味すごいことだと評価したくなったりもしますね。

白崎海岸 3 

③藤原氏の曽爾氏排斥?


また藤原氏の他氏排斥は有名で、大伴氏(伴氏)、紀氏、橘氏、菅原氏など多くの氏族が藤原氏の陰謀によって没落させられています。
曽禰氏は物部氏の一族で、『新撰姓氏録』でも「石上同祖、ニギハヤヒの六世孫イカガシコオの後裔、采女臣同祖」などと記されています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神です。采女臣はニギハヤヒを祖とする穂積氏から分かれた氏族です。

曽爾氏も藤原氏によって排斥されようとしていたのかもしれませんね。

白崎海岸 4

④曽禰好忠は丹後掾だったので、丹後の由良?

①でこの歌で詠まれた『由良』は、丹後由良川の河口説と紀伊国(現在の和歌山県日高郡由良町)由良の御崎説のふたつがあるといいました。

紀伊国・由良の御崎は新古今集の時代には有名な歌枕だったそうです。
『八雲御抄』『歌枕名寄』『百人一首抄)』などは紀伊国由良としています。

しかし契沖は『百人一首改観抄』で次の様に述べています。
「曽禰集を見るに、丹後掾にてうづもれ居たることを述懐してよめる歌おほければ、此由良は丹後の由良にて」

つまり、曽禰好忠の役職は丹後掾で、うかない人生であったこと述懐する歌が多いので、
「由良の門を~」の歌の「由良」は丹後の由良、つまり宮津の由良川の河口ではないか
と、契沖は言っているわけです。

京都府の宮津市にある由良川は天橋立の東南東5kmほどのところにあります。
由良川は残念ながら見たことがありません。

白崎海岸 1 

⑤丹後の由良川の河口は潮の流れが激しいか?


こんな風に書いてあるサイトがありました。
由良は丹後国(現在の京都府宮津市)を流れる由良川の河口です。「門(と)」は、海峡や瀬戸、水流の寄せ引く口の意味で、河口で川と海が出会う潮目で、潮の流れが激しい場所です。

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/046.htmlより引用。




由良川河口付近の動画があったのでお借りしました。
そんなに潮の流れが激しいようには思われませんね。

⑥由良に風力発電所が作られたのは風がきついためでは?

私が白崎海岸に行った日はものすごい風で、三脚が吹き飛ばされそうでした。
髪もあっという間にぐちゃぐしゃに~。
波も高かったです。
天候にもよると思いますが、気になるのは風力発電用の風車が何基も並んでいたことです。

風力発電の風車がつくられているということは、風が強い地域だということではないかと思ったんですが、どうでしょう?
そして舟人はこの風でかじを吹き飛ばされてしまったのでは?
三脚が吹き飛ばされそうな風ですから、船人のかじも吹き飛ばしそうです。

由良風力発電所 風車 

⑦曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだ?

曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだのではないか、と私は思います。

紀伊の由良は歌枕として有名なので、この歌を聞いた人はまず紀伊の由良を思い浮かべるだろう、という計算を曽禰好忠はしていたんだったりして?

強い風、荒い波、白い石灰岩の磐がせまる荒々しい光景に、人々は曽禰好忠の人生の厳しさを思い浮かべたかもしれません。

そうして鑑賞する人々を欺きつつ、実は曽禰好忠の本心は丹後の由良にあるんだったりして?
かじを失った舟人(曽禰好忠自身を比喩したもの)は海を漂ってどこにいきつくのでしょうか?

由良川の河口を出ると、すこし行ったところに天橋立があります。

天の橋立 

天橋立

天橋立は股除きといって、脚を広げて大の字に立ち、前屈して見る習慣があります。
こうしてみると、海ではなく天上にかかる橋のように見えるというわけです。

天上人とは天の上に住む人の意味で、そこから転じて身分の高い人を意味することになりました。

また天上人と同音異義語で殿上人(てんじょうびと)という言葉があります。

殿上人についてウィキペディアは次のように説明しています。

9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者(三位以上は原則全員、四位・五位の一部)の中から公卿を除いた四位以下の者を指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%8A%E4%BA%BA より引用

曽禰好忠は漂った船がこの天橋立を通って天上にいき、天上人(殿上人)になれるという祈りをこめて、この歌を詠んだのかも?

そして曽禰好忠のよばれていない歌会に強引に参加しようとしたというエピソードは、この歌の意味を知っている人によって創作されたものなんじゃないか、などと思ったりもします。

白崎海岸 2 

白崎海岸 夕日 
白崎海岸 夕日2



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[2019/12/28 12:16] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

野崎観音(慈眼寺) 『深野池は調整池だった?』※追記あり 

大阪府大東市 野崎観音 (慈眼寺)

野崎観音 
※南太郎さんからメールでアドバイスをいただいたので(ありがとうございます!)追記を入れておきます。
(赤字部分)

①野崎まいりは~ 屋形船でまいろ~


野崎小唄ってご存知ですか?
東海林太郎さんが歌ってヒットした曲で、「野崎まいりは~ 屋形船でまいろ~」と歌います。

野崎まいりとは、5月の無縁経法要(有縁無縁すべてのものに感謝の読経を捧げる行事)に野崎観音を参拝することをいいます。

「屋形舟でまいろ」とはどういうことでしょうか?
車で野崎観音までやってきましたが近くに屋形舟が浮かぶような川はありませんでしたが?

野崎観音2

②中世から江戸時代に存在していた深野池

実は中世から江戸時代までこのあたりに深野池という池がありました。
この池は寝屋川市南部~門真市東~大東市中央部~東大阪市北部~四条畷市西部にまたがる大変大きな池だったそうです。
大阪から屋形船で川をさかのぼり、深野池までいく参拝者が大勢いたそうで、「野崎まいりは屋形船でまいろ」と歌っているわけですね。

1689年貝原益軒の『南游紀行』に次のように書かれているそうです。(要約文/改行は筆者による)

「ふかうの池は深野池と書く。
池の広さは南北2里(1里は4km弱)、東西1里、湖に似ている。
その中に島があり三ケという村がある。
三ケの村には漁家が7-80戸あり田畑もある。
この島は南北20町(1町は100⃣m強)、東西5-6町ある。
この池には鯉、鮒、鯰、はす、わたか、えび、鰻、つがに等が多い。
漁船が多く毎日漁に出て魚を大坂に売る。
また、蓮、芡実、葦が多く、皆採り用いて助けとする。
ことに菱が多く、これを採って飯や団子や粥にして食べたり、菓子にしたり売ったりする。
深野池の周りには約42村があるという。この池の水は大和川に流れる。
川下より毎日商船が訪れ、大坂までは2里ある。」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E9%87%8E%E6%B1%A0 よ引用

Old yamato riv

 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Old_yamato_riv.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Old_yamato_riv.jpgよりお借りしました。
枚岡市 [Public domain]


③深野池が失われたことで水害がおきた?

1704年、大和川の付け替え工事が行われ、大和川水系の水が流れ込まないようになりました。
水位が減少したため真宗大谷派・難波別院などによって新田開発が行われ、深野池は失われたということです。

上の地図の「新開」と書いてある池は新開池で、現在の鶴見区東南部~東大阪市北西部~大東市南西部に広がっていました。

太古には大阪湾はこのあたりまで入り込んでいたのですが、淀川水系・大和川水系から大量の土砂が運ばれ、淡水化して河内湖になりました。
中世になると深野池・
新開池という二つの大きな池になりました。

新開池の出口は西の徳庵で、この場所は土砂が堆積していたこともあって、頻繁に洪水が起きていました。
これを解消するため1655年、徳庵から西の今福まで運河が掘られました。(徳庵井路)
1661年、新開池の中に堤を作り六郷井路の水路、五箇井路がつくられました。

1704年の
大和川の付け替え工事では新開池の推量も減少し、鴻池善右衛門宗利が伊勢より農民を移住させて開墾しまいた。(鴻池新田)

ですが、その後、大雨が降ると生駒山から大量の水が大東市中部あたりの土地の低い場所に集中し、川が決壊して浸水してしまう被害がたびたびおこりました。
特に1972年の水害は大東市広範囲に被害をもたらし裁判にもなりました。
この裁判は大東水害訴訟と呼ばれ、被害をうけた住民らが国・大阪府・大東市に提訴しました。
結果は住民らの敗訴でした。

大東市は上の地図の北条・野崎・南条・寺川・中垣内・岸和田・赤井などのあたりです。
深野池があったあたりで、深野池の跡地だったため土地が低かったのではないかと思うのですが、どうでしょう?

野崎観音より大阪方面を望む2 
野崎観音よりのぞむ  中世~江戸時代にはここから深野池が見えたことでしょう。

また、深野池は調整池の役割を荷っていたのかも、と思います。

調整池とは集中豪雨などがあった際、一時的に水をためておく池のことです。
調整池に水をためておくことで、河川の洪水・決壊を防ぐわけです。

深野池は大きな池だったので、貯水能力も相当あったことでしょう。

現在、この地域では遊水池(洪水時、河川の流水を一時的に氾濫させる土地)として深北緑地がつくられました。
また調整池がつくられ、中世から江戸時代にあった深野池と同じ名前が付けられました。

最近は公園や駐車場が洪水時に遊水地として機能するようにつくられたものもありますね。

2019年の台風19号で日産スタジアムも冠水しましたが、もともと大雨の時などに水をためる遊水地となるように設計されていたそうです。
https://togetter.com/li/728338

野崎観音より大阪方面を望む 
野崎観音よりのぞむ 中世以前にはここから河内湖が見えていたのでしょうね。

野崎観音-夕景




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[2019/12/26 21:02] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

交野天神社 紅葉 『継体天皇は紀氏と関係ある?』 


大阪府枚方市 交野天神社

交野天神 拝殿2 
交野天神社 拝殿

①交野天神

交野天神社は閑静な住宅街の中にあり光仁天皇・天児屋根命・菅原道真をお祭りしてます。
『続日本紀』や『石清水神宮縁起』に「787年、桓武天皇が交野に父・光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けた」という記述があり、それがこの交野天神の創建だと考えられています。
天児屋根命は中臣氏の祖神で、中臣鎌足は中大兄皇子より藤原姓を賜ったので、藤原氏の氏神である春日大社にも祀られ春日明神と呼ばれています。
菅原道真は901年に藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、903年に大宰府で没しました。
その後、都では疫病の流行、天災などが相次ぎ、それらは菅原道真の怨霊の仕業であるとして、怨霊を鎮めるため北野天満宮や大阪天満宮などが作られました。

そう考えると、藤原氏の祖神の天児屋根命と菅原道真を祀っているのはおかしなことに思えます。
しかし、ずっとのちの時代になって、そういった藤原氏と道真の因果関係の記憶などが人々の心の中から薄れてからのち、ともに祀られるようになったのかもしれません。

②継体天皇と鍛冶

交野天神 貴船神社2 
交野天神社 境内

神社の奥まったところに小高い丘があり、階段のふもとに「継体天皇樟葉宮地」と刻まれた石碑が建てられていました。
交野天神は継体天皇樟葉宮の跡地であるという伝承もあるのです。

継体天皇の和風諡号(しごう)は日本書紀は男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記は袁本杼命(をほどのみこと)と記しています。

ヲホドとは小火床であり、鍛冶に関係があるのではないかとも言われています。
火床とは鍛冶をするための簡単な炉のことです。

交野天神社からそう離れてはいない枚方市岡本町に下井戸跡があり、案内板に次のように記されているようです。

「枚方宿4カ村の内、岡村の地下水は鉄気が多く飲料水に適さなかったため、古来より万年寺山や別子丘陵に取水の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。」

https://ja.localwiki.org/hirakata/%E4%B8%8B%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%B7%A1より引用

また枚方に茄子作という地名がありますが、惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

鈴は土で作られることもありますが、金属で作られることが多いです。

また、鈴は錫をあらわしているのかもしれません。

このようにこの土地は古くは鍛冶と関係があったのではないかと思われるふしがあります。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

③継体天皇即位は新王朝か?

継体天皇は応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、.越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったとされます。

継体天皇の即位について、次のように記したサイトがありました。

 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。
男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。
彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。
そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。
そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。
男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/umakai.htmlより引用

大神社 
交野天神社 大神社  御祭神は天照大御神 と 神武天皇

まとめると次のような内容になるかと思います。

a.男大迹 の王(のちの継体天皇)は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた。
b.男大迹 の王57歳のとき、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去して後継者がなかった。
c.大伴金村らは仲哀天皇の末裔・倭彦王を丹波から迎えて後継者にすることにし、迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった
d.、大伴金村は応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送った。
e.男大迹 の王も討伐軍かと疑い、使者を河内馬飼首荒籠のもとへ送った。そして軍が討伐ではなく迎えのためであることを確認し樟葉宮で即位した。

継体という漢風諡号は奈良時代になってつけられたものですが、新王朝という認識があったことから『継体』という諡号をつけたのではないかという説があります。

これが正しければ、よく右寄りの人がいう「一系万世」は事実ではないということになります。

継体天皇即位は新王朝なのでしょうか?
私はこの説はありえると思います。

交野天神 説明板

交野天神社 説明板

④神武天皇=応神天皇?

初代神武天皇は日向から東征して畿内入りしたとされます。
一方、15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが、このルートが神武東征ルートと重なるところから
二天皇は同一人物ではないかとする説があります。

⑤応神天皇は二人いた?

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。

ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、
気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思ったりするのですが?

四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

⑥継体天皇はイザサワケ大神と関係がある?

気比神宮は福井県敦賀市にあったのでしたね。
そして、応神天皇の5世孫である継体天皇は越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったのでした。
継体天皇はなぜ、越前三国で育ったのでしょうか?
それは継体天皇がイザサワケ大神と関係のある神だからではないでしょうか?

継体天皇が関係あるのは、もともとのイザサワケ大神なのか?それとも名前を交換したあとのイザサワケ大神なのか?

日本書紀は名前を交換するという説話を掲載するなどして、読者を混乱させようとしているように思えます。

⑦樟葉宮伝承地と貴船神社

②のところに貼った写真の、階段を上っていくと貴船神社があり、その神社の傍らにも「継体天皇樟葉宮跡伝承地」と刻んだ石碑がたっています。

交野天神 貴船神社 
交野天神社 貴船神社

貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)と継体天皇です。
兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神で、もともとは紀船神社だったのではないでしょうか。

なぜ継体天皇樟葉宮跡伝承地にその貴船神社があって継体天皇を祀っているのでしょうか?

『日本書紀』に次のような内容が記されています。

507年、継体天皇、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。
511年、筒城宮(京都府京田辺市)に遷都
518年、弟国宮(京都府長岡京市)に遷都
526年、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都

http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-33.html
上のサイトに、紀氏の荘園が記されていますが、「古代京都府南部」としるされています。
京田辺・長岡京などは紀氏の荘園があったようです。

また枚方の天田神社は紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領だったとされ、紀氏の母親をもつ惟喬親王の別荘・渚の院もありました。

石清水八幡宮が創建されたり、惟喬親王が渚の院で歌会を開いたりしたのは平安時代ですが、それ以前から紀氏の土地であったため天田神社付近が紀氏の所領になったり、惟喬親王の別荘がつくられたりしたのかも?

そして継体天皇が樟葉宮で即位したのも紀氏と関係があるような気がしたりもします。

交野天神 拝殿屋根を支える天邪鬼 

交野天神社 拝殿をささえる天邪鬼






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[2019/12/25 21:42] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

金剛寺 紅葉 『改竄された神話?神武東征はニギハヤヒ東征だった?』 


大阪府東大阪市 金剛寺

①石切駅から金剛寺へ

石切劔箭神社→石切参道商店街→石切大仏→千手寺とやってきたところまでお話ししました。

石切の旅、過去記事はこちらです。

石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 
石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 
千手寺 紅葉 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 

千手寺をさらに昇っていくと石切駅です。

石切駅 

石切駅

石切駅からさらに坂道を登っていくと観光客の姿はまばらに。
でも、ここから先にもお社などがたくさんあります。

黒熊明神、赤目明神、太郎明神 
黒熊明神、赤目明神、太郎明神 

熊繁大神 

熊繁大神

白光大神2 
白光大神

石光観世音 
石切観世音

途中であったお姉さんが(たぶん撤饌の)綿菓子をくれました。(ありがとうございます!)
そして「ここから20分ほど行ったところに切奥之院金剛寺というお寺があるよ」と教えてくれたので、山道を登っていくことに。

白光大神 

白光大神から金剛寺へ向かう道

金剛寺 一の鳥居 

どんどん山道になっていきますよ。鳥居には白姫大神と書いてありました。

金剛寺 二の鳥居 
まだまだ登っていきますよ~。

金剛寺 

これはなんでしょう?庚申塔かな?文字が刻んでありましたが、植物が絡みついたりしていて全然読めませんでした~。

金剛寺3 

ようやく金剛寺に到着しました。

金剛寺は明治後期の創建で弁財天をお祭りしているそうです。
創建は比較的新しいですが、古より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があるとのことです。
(写真撮り損ねました~。こちらの方のブログに写真がありましたのでリンク貼らせていただきます。
http://pachyderm.blog54.fc2.com/blog-entry-192.html

②神武天皇腰掛石

この神武天皇腰掛け石について、次のように記したサイトがありました。

A.また当山には開基以前より神武天皇腰掛け石と言い伝わる石があり、
これはその昔、神武天皇が日本国を統一せんが為、港より討伐に向かわれし際、
その戦いが思うに任せず、石に腰掛けて思案の末、
東(太陽)に向かって矢を放ってはならぬと、この地を下り、東側に回られた。


https://blog.goo.ne.jp/051006250510/e/52c784b802196fee920f2807b0a5b4b2 より引用

ウィキペディアには次のように記されています。

B.戊午年2月、彦火火出見尊たちは吉備国から東へ向かい難波の碕に至った。
3月に河内国日下邑の青雲白肩津から龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。
そこで東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。
戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。そして日の神の子孫の自分たちが日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 より引用

Bのウィキペディアの記事は記紀をもとに記したものだと思います。

白肩津は東大阪市日下町あたりだと考えられています。
胆駒山は生駒山のことです。
孔舎衛坂は大阪府と奈良県の境の坂。現在の暗)峠または善根寺越ではないかといわれています。 
金剛寺は石切劔箭神社から坂を上った東あたりにあります。(地図では生駒山上遊園地の「生」の文字の西あたり)






ここで注意したいのは、古代の地形が現在とはかなり異なっていたということです。
大阪湾は大きく現在の内陸部にまで入り込み、河内湖とよばれていました。
現在の大阪市は上町台地あたりのみが陸地として存在していたのです。
そして現在の東大阪市は海からは遠く離れていますが、古代にはこのあたりまで海が迫ってました。

孔舎衛坂は額田駅と平岡駅の中間あたりから東に向かってのびる道、または日下町の北が善根寺町で、そのあたりから東に延びる道だと考えられています。

金剛寺2

③食い違う伝説

A・Bを読み比べて疑問に思うことがあります。
現在の石切劔箭神社や金剛寺のあたりは長髄彦が支配する土地で、神武はその長髄彦との闘いに負けたのです。
それなのに、長髄彦の土地にある石に腰かけて考える、などという余裕があったのでしょうか?

また、Aの伝説では「(神武は)この地を下り、東側に回られた。」とあります。
石切の東は奈良なので、石切の山をおりて東にある奈良に回ったという意味かと思われます。

ところがBの伝説では「彦火火出見尊(神武)は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。 」となっています。

草香津は白肩津のことだと考えられています。
神武は船で東征したと思われますので、船をつないだ港に戻ったのでしょう。
つまり、奈良のある東にではなく、西にある河内湖の草香津に向かい、そののち、海路南へ向かったということです。

そののち、神武は陸路熊野越えをし、奈良側から西に向かって長髄彦軍と対峙するのです。

このAとBの差はどこから生じたのでしょうか?

石切奥之院弁天瀧 

石切奥之院弁天瀧と書いてあります。

④神武東征はニギハヤヒ東征だった?

神武東征といいますが、実はそれはニギハヤヒの東征ではないかと私は思ったりします。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で、初代神武天皇が日向より東征して畿内入りする以前より、畿内に天下っていたと記紀(古事記・日本書紀)には記されています。
ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。

そして15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートがと神武東征ルートと重なるので、神武と応神は同一人物とする説があります。

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。
ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。
ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思えます。


四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

そしてすでに述べたように応神=神武と考えられるわけですが、応神天皇は渡来人の神の可能性が高い伊奢沙和気大神と名前を交換しています。
神武は本当は対馬海流に乗って朝鮮半島から敦賀にやってきた渡来人の伊奢沙和気大神であったのが、物部氏の神・応神天皇と名前を交換して大和朝廷の支配者になったんだったりして?

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峰に天下ったとされます。
そしてその後大和国(奈良県)に移ったとされます。

ニギハヤヒが天下ったとされるのは大阪府交野市の磐船神社で、石切神社の北にあってそんなに離れた場所ではありません。
そして磐船神社の東は奈良です。

Aの伝説「この地を下り、東側に回られた。」の主語は神武ではなくニギハヤヒとしたほうがぴったりきそうに思えます。

そもそも石切神社の御祭神はニギハヤヒですし、ニギハヤヒが磐船神社から南の石切あたりにやってきて、ここから東の奈良に移ったとも考えられるかもしれません。

磐船神社 天の磐船 

磐船神社 ご神体 天の磐船

⑤ニギハヤヒは九州から畿内へやってきた。

ニギハヤヒは天の磐船を操っていかるがの峯に天下ったとされますが、いったいニギハヤヒはどこからやってきたのでしょうか?

これについて船場俊昭さんは九州・筑紫地方としておられます。
ニギハヤヒは物部氏の祖神ですが
筑紫地方は物部氏が住んでいたところで、北九州筑後平野と大和周辺には酷似した地名が80か所以上もあるとのことです。

築後春日田原山田市上山田玖珠天瀬久留米朝倉加美三輪雲堤筑前高田小田三井池田平群郷野方草ヶ江
大和春日田原山田上山田国栖天ヶ瀬久米朝倉賀美三輪雲梯大和高田織田三井池田平群郷額田日下

そして、九州からやってきた物部氏が故郷の地名を大和につけたのではないかというのです。
しかし、大和の地名が先にあって九州の地名があとについたという可能性もあるので、検証が必要ですね。

石切駅付近より 
石切駅付近より大阪方面を望む。かつてはここから河内湖が見えていたのでしょうね。





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[2019/12/24 17:59] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

千手寺 紅葉 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 



大阪府東大阪市 千手寺


石切神社

石切劔箭神社

①千手寺

新石切駅から石切劔箭神社へ。 石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 
石切劔箭神社から石切参道商店街の緩やかな坂をのぼると・・・石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 

石切大仏があります。

石切大仏 

石切大仏

石切は精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の創業地で、
そのサカンポーの4代目・阪本昌胤さんが石切大仏を建立したそうです。

そういえば石切商店街にこんな ↓ 看板がありました。店自体はありませんでしたが、看板のみ残してあるのでしょう。

石切参道商店街3

石切大仏からさらに登っていくと千手寺があります。

千手寺

千手寺

②維喬親王=惟喬親王、維仁親王=惟仁親王

千手寺について、次のように記されているサイトがありました。

当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、この地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
 また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊とした。
 その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
 いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登場するこの寺の寺伝は一大叙事詩でもある。

[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社



http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage175.htmより引用

ここに維喬親王(これたかしんのう:844~897)とありますが、これは惟喬親王のまちがいでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上記ウィキペディアに惟喬親王について記されていますが、生没年も同じですし、文徳天皇の第1皇子というのも同じです。
また第4皇子を維仁親王(後の清和天皇)としていますが、こちらも惟仁親王のまちがいではないかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
あるいは維喬親王・維仁親王のように記すこともあったのかもしれませんが、ネット上でそういった表記は他に見たことはありません。

もしかしたら千手寺では惟喬親王・惟仁親王ではなく維喬親王・維仁親王と伝えているのかもしれません。

ですが、維喬親王は惟喬親王、維仁親王は惟仁親王と考えて間違いはないでしょう。
ややこしくなるので、以下、維喬親王・維仁親王ではなく惟喬親王、惟仁親王と記します。

惟喬親王像 

惟喬親王像 (木地師の里)

③惟喬親王の乱

②でご紹介した記事に「惟喬親王の乱で、堂宇は灰燼に帰した。」とあります。

私は惟喬親王については大変興味があり、いろいろ調べて記事をたくさん書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-1641.html?q=%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B&charset=utf-8


ですが「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも書いてありませんし、他のサイトでもそういうことがあったと書いてある記事は読んだことがありません。

上の記事でも次のように記しています。

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」


しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思います。

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社 

千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社

④藤原氏vs紀氏のバトル!

「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、もう少し詳しく記しておきます。

文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめました。

こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。

平家物語などに次のように記されています。

藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。

この話は史実ではありません。というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからです。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かでしょう。

千手寺2

⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?

紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣でした。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしています。

これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれています。

しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていました。

私は彼の説を支持します。

たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されています。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


この2首は藤原良房が詠んだ次の歌に対応していると思います。

染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房

(染殿の后の前の花瓶に桜の花がいけてあるのを見て詠んだ。
年をとって年齢は老いてしまった。そうではあるが、花を見れば悩むことはない。)


「染殿の后」とは良房の娘、明子のことです。

娘を入内させて生まれた子供を天皇とし、天皇の外祖父になるというのが、藤原氏の権力掌握の常套手段でした。
藤原良房は娘の明子を桜の花にたとえたのでしょう。
つまり、良房は、「明子がいる限り、わが世は安泰だ」と歌を詠んだわけです。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)


この歌は、「明子がいなければ、春の心はもっとのどかなものだっただろうに」という意味ではないでしょうか。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はめでたいのだ。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)


こちらの歌は「桜が必ず散るように、この世に永遠というものはない。藤原氏も必ず衰退するだろう。」という意味だと思います。

古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていました。
つまり歌は文学などではなく呪術であったと考えられます。

惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないでしょうか。

渚の院 淡墨桜 
渚の院 淡墨桜

⑥なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているの?

また、枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思えます。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

また大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。

なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのでしょうか?
鍛冶屋がつくるものは、現在では包丁などが主ですが、かつては刀や弓矢などの武器をつくっていました。

惟喬親王と在原業平は挙兵するため、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのではないでしょうか。

粟辻神社

粟辻神社

⑦腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?

在原業平腰掛石 

千手寺 在原業平腰掛石

千手寺境内には在原業平腰掛石がありました。

腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもあります。

宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説があります。

道真は藤原時平の讒言により流罪となりました。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。
しかし宇多上皇は留守でした。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ流されていきました。


仁和寺 菅公腰掛石

仁和寺 菅公腰掛石

また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石があります。

道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされます。


このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)


手向け山八幡宮 紅葉

手向山八幡宮

『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かります。

幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣がありました。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけますが、これが幣だと思います。

一言主神社 天狗と幣を撒く人

幣(一言主神社にて)

道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていただと思います。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということでしょう。

菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物でした。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れました。

醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になりました。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進でした。

道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言しました。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟です。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていました。

醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡しました。

大阪天満宮 人形 

大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形

その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられました。

⑦菊野大明神

京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られています。

菊野大明神

菊野大明神


ご神体は深草少将が腰掛けたという石だといいますが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわかりませんでした~。

深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげてもよくってよ」と言われて実行したのですが、99日目の夜に死んでしまったとされます。

深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれています。

すると、官公腰掛石は官公の恨みが籠った石ではないかと思えます。
そして在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないでしょうか?

千手寺 在原業平腰掛石 
千手寺 在原業平腰掛石

千手寺-石切観音 水子地蔵 
千手寺-石切観音 水子地蔵




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[2019/12/23 16:17] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

石切参道商店街 『南極老人星の神はなぜ二神いるの?』 


大阪府東大阪市 石切参道商店街



新石切駅付近




新石切駅から望む山にはまだ紅葉の彩が。

石切神社


石切さん(石切劔箭神社)でお参りしたあとは・・・・


①おどろおどろしく、不思議で、楽しい石切参道商店街

おどろおどろしく、不思議で、楽しいところ。石切参道商店街。
土産物屋、漢方薬屋、占いの店などが雑然と並んでいます。

石切参道商店街13

中でも目をひくのがこの占いの店。↓

石切七福神

中に入ってみると、とにかく雑多ないろんな神様が祀られています。『千と千尋の神隠し』を思い出す?、
二宮金次郎もいるし!(二宮金次郎って神様だったのかw)

石切参道商店街9


石切参道商店街10

②頭部が瓢箪型の福禄寿

福禄寿の像もありました。↓

石切参道商店街 福禄寿

石切七福神 福禄寿

七福神のメンバーは蛭子・大黒・布袋・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人の七柱ですが、このうち福禄寿も寿老人も南老人星を神格化した神とされます。

福禄寿は筒の様な長い頭のお姿であらわされることが多いですが、写真のように頭の上にもうひとつ頭がついたようなお姿であらわされることもあります。
滋賀県の西教寺にもこういう福禄寿が置いてありましたね。
瓢箪のようにも見える?

石切参道商店街 布袋

石切七福神 布袋

③福禄寿はふたつの頭部をもつ神様?

中国に瓢箪にまつわる次のような伝説があります。

二人の兄妹、伏羲と女媧が雷神を助けたところ、雷神がお守りをくれました。
このお守りを土に埋めると芽がでてみるみる内に大きくなり瓢箪の実がなりました。
あるとき大洪水がおこって地上の人類はみな死にましたが、兄妹は瓢箪の中に逃れていたので助かりました。
のちに二人の兄妹は結婚して夫婦となりました。

瓢箪はふたつのふくらみがくっついたような形をしています。
大きいふくらみは伏義を、小さいふくらみは女媧をあらわしているのではないでしょうか。

②でのべたように、福禄寿と寿老人はどちらも南極老人星の神とされます。
南極老人星の神は二柱いるのです。

福禄寿の頭部が瓢箪型をしているのは、福禄寿と寿老人、二柱の神が合体していることをあらわしているのではないでしょうか。

寿老人のほうは頭に長い頭巾のようなものをかぶっていますが、もしかしたら頭巾の下にはもうひとつ頭があるのかもw

石切七福神 ポスター 

石切七福神のポスター(文字は筆者がいれました。)


④南極老人星は南の低い位置に出る。

南極老人星とはカノープス(りゅうこつ座α星)という星のことで、連星でも、見かけ上の連星(北斗七星のミザールとアルコルなど)でもありません。

それなのに、なぜ南極老人星の神は二柱いるのでしょうか。

南極老人星は南の空の非常に低い位置に出ます。

Canopus seen from Tokyo

東京から見たカノープス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Canopus_seen_from_Tokyo.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/55/Canopus_seen_from_Tokyo.jpg よりお借りしました。
Nikm [Public domain
]

赤緯マイナス52度42分に位置するため、南半球では容易に観測できるが、北半球では原理的には北緯37.3(=90-52.7)度以北では南中時でも地平線の下に隠れて見ることができない。
ただし、大気を通るときの屈折があるため、北限はわずかに北上する。
日本では東北地方南部より南の地域でしか見ることはできない。
角度では可能とされる地域であっても、北緯36度の東京の地表では南の地平線近く2度程度、北緯35度の京都でも3度程度の高さにしか上らず、地上からの光害や、大気を通る距離も長いため全天でシリウスに次いで明るいとは思えないほどに減光して赤くなり、見つけることはより困難となる。本州よりは高い位置に観測でき、九州南部の鹿児島では6度程度、沖縄の那覇では10度程度の高さまでのぼる。
南緯37.3度以南、たとえばp-ストラリアのメルボルンでは、年中沈まない周極星になる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%B9より引用

石切参道商店街12

⑤北半球でも南十字星が見えていた時期があった。

現在、北半球から南十字星は見えませんが、地球の歳差運動の影響で、過去に北半球でも南十字星が見えていた時代があったそうです。

天の北極にある星のことを北極星といいますが、時期によって北極星は変わります。
北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためです。
地球の歳差運動の周期は約25800年です。

Gyroscope precession

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyroscope_precession.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Gyroscope_precession.gif よりお借りしました。
LucasVB [Public domain] 

石切参道商店街

⑥キリストは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、十字架は南十字星の比喩?

そしてイエスキリストは十字架にかけられて3日後に復活したとされますね。
これについて、イエスキリストは太陽の比喩、十字架は南十字星の比喩ではないかとする説があります。

冬至にむかって太陽はどんどん南中高度をさげていき、南十字星の位置にまで達する地域があったことでしょう。
「キリストが十字架にかけられた」のは、これを意味しているのではないかというのです。

またキリストは死後3日目に復活していますが、これは冬至から3日目に再び太陽が南中高度をあげていくことをあらわしているのではないかとしています。

 
石切参道商店街5

⑦トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、キリストは冬至から3日後より南中高度をあげていく太陽?

そしてキリストスにはトマスという双子の兄弟がいたという説があります。

トマスとはアラム語の「双子」という意味です。
また「トマス行伝」にはトマスのことを「メシアの双子、至高者の使徒」、
「剣闘者トマスの書」では、トマスはイエスに「私の双子の兄弟」と呼びかけられています。

そしてキリストが十字架にかけられて死んだというが、実は双子のトマスがキリストの身代わりになったのであり
トマスの死後3日後に、キリストがしゃあしゃあと姿を現し、人々はキリストが生き返ったと錯覚したのではないかという説もあります。

これも⑥のような比喩かもしれません。

すると、トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽
キリストは冬至から3日目より南中高度を上げていく太陽
ということになると思います。

石切参道商店街2

⑧南極老人星は南十字星と同じく冬至の太陽の南中高度の低さをあらわす?

南極老人星は南十字星と同じく、南中高度が低くなった太陽の位置の目安とされたのではないでしょうか。
そして福禄寿と寿老人は南極老人星の神というよりは、南中高度が南極老人星に近づいた冬至のころの太陽を擬人化したものだったりして?

つまり福禄寿と寿老人のうち片方は冬至に向かって南中高度をさげ南極老人星に近づいていく太陽、
もう片方は冬至から3日目より南中高度をあげ南極老人星から離れていく太陽を神格化した神ではないかと思うのです。
       

石切参道商店街8       

不安な気持ちになる建物w

⑨鹿は死を、鶴(白鳥)は復活を意味する?

それでは福禄寿と寿老人のうち、どちらが南中高度をさげていく太陽で、どちらが南中高度をあげていく太陽なんでしょうか?

南中高度を下げていく太陽は寿老人で、南中高度をあげていく太陽は福禄寿だと思います。

というのは、寿老人は鹿を、福禄寿は鶴をつれているとされるんですね。

日本書紀に『トガノの鹿』という物語があり、鹿とは謀反人を比喩したものであるとする説があります。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えました。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺しました。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂しました。 (トガノの鹿)


一方、鶴は大空高く舞い上がる動物なので、南中高度をあげていく太陽にふさわしく思えます。

石切参道商店街11


石切参道商店街3


石切参道商店街7

石切駅

商店街を歩いて石切駅までやってきました。

石切参道商店街6





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[2019/12/20 16:40] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

石切劔箭神社 お百度まいりなど 『キリストの弟・イスキリは石切さんだった?』※書き直しました 

大阪府東大阪市 石切劔箭神社

※読み直してみたら、順番がめちゃめちゃになっていて、説明も足りていなかったので書き直しました。
すいませーん。

石切神社絵馬殿

①石切劔箭神社


「石切さん」と親しまれ、いつ訪れてもたくさんの参拝客でにぎわっている石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)。

社家・木積家には、神社の創建について次のように伝わっているそうです。

皇紀2年、生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊(ニギハヤヒ)を奉祀したのが神社の起源。
崇神天皇代、現本社に可美真手命(ウマシマジノミコト)が奉祀された。


しかし進藤治氏は、「石切さんには長髄彦がお祀りされていると伝承されている」とおっしゃっています。

これらの神々について、記紀は次のように伝えています。

ニギハヤヒは初代神武天皇よりも早く天の磐船を操って畿内に天下ったとされる神で
ナガスネヒコはニギハヤヒを神として奉じていました。
ナガスネヒコは妹のトミヤスヒメをニギハヤヒに嫁がせ、二人の間にウマシマジノミコトという御子が生まれました。
ところがそこへ九州から神武が東征してやってきました。
神武はナガスネヒコ軍に敗れ、南から迂回して畿内入りする作戦をとりました。
こうして再び神武とナガスネヒコは対決の時を迎えました。
ナガスネヒコは神武に「あなたは天孫だというが、ニギハヤヒも天孫であり、私は長年ニギハヤヒを神として奉じてきた。天孫は二人もいるのか」といいました。
ニギハヤヒは自分が天孫である証拠に、天の羽羽矢と歩靱(かちゆき)を見せました。
ナガスネヒコはそれでも納得しなかったので、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺しました。


ナガスネヒコは神武にではなく、ニギハヤヒに殺されたとあります。
ということは、ニギハヤヒは神武に服していたとそういうことでしょう。


石切神社 絵馬殿 神像2 

②石切はアイヌ語の長髄彦?

このあたりでは生駒石という硬質の花崗岩が採掘されていました。
そして採石場のことを石切といいました。
なので、石切という神社名は、このあたりの地名からつけられたのではないかとずっと思っていました。

ところが前述の進藤治氏は次のように言っておられるそうです。
「石切」は「 i-si-kir・i 」でアイヌ語で「長髄彦」という意味であると。

大山元氏も「 i-si-kiri 」はアイヌ語で「その・長い・彼の足」という意味だとおっしゃっています。

石切神社 絵馬殿 神像

③アイヌ語と日本語はかなりちがうといわれているけど?

これを聞いてうーん?とうなってしまったのは、アイヌ語と日本語はかなりちがうと聞いたことがあったからです。
琉球語と日本語は似ているんですけどね。
身体語・天体語などの基本的な言葉が日本語とアイヌ語では音韻対応していないのです。

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E%2F%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%AA%E8%AA%9E%E5%BD%99%E3%81%A8%E5%AE%9F%E7%94%A8%E4%BE%8B-1616870

東北地方にもアイヌ語を語源とする地名がありますが
東北地方は地理的に近いこともあってかつてアイヌ人が住んでいた可能性があります。
もしくは交流があったため、アイヌ語の地名が残っているのかもしれません。
しかし近畿地方はアイヌが住んでいた北海道からは遠いです。

ただ、アイヌ語で神社の名前や地名をつけることはあったかもしれません。


石切神社 本殿と渡り廊下 
④キリストの弟・イスキリ

そんなことを考えているうちに「イシキリ」って「イスキリ」に似てるやん、と気がつきました。
イシキリを東北弁でいうとイスキリと訛りそうじゃないですか。

青森の戸来村にキリストの墓があることをご存じの方は多いと思います。
キリストの墓といいますが、丸い塚がふたつあり、ひとつはキリストの墓、もうひとつはキリストの弟・イスキリの墓とされています。

ふたつの塚がある場所は「キリストの里公園」として整備されており、説明版には次のような内容が記されているとのこと。

公園の説明板によると、イエス・キリストは21歳の時に来日し、神学修行を重ねた。33歳の時にユダヤに戻って伝道を行ったが受け入れられず、十字架刑に処されそうになる。だが、弟のイスキリが身代わりとなって死に、キリスト本人はシベリア経由で日本に戻り、現在は新郷村の一部となっている戸来(へらい)村で106歳まで生きた。二つの墓のうち、一つはキリストを埋葬したもので、もう一つはイスキリの遺髪を納めた墓だという。


https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00658/より引用

石切神社-本殿 

イエスに双子の兄弟がいたという話は他にもあります。

ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、ヤコブ、タダイ、シモン、ユダの十二人をイエスの十二弟子といいます。
のちにユダが裏切ってイエスの十二弟子にはマッテヤが加わるのですが。

ここにトマスという人物が登場しますが、トマスとはアラム語の「双子」という意味なんです。

また福音書では、兄弟がいる場合は、アンデレをペトロの兄弟、ヨハネをヤコブの兄弟というように、兄弟の名前を記しているのですが、トマスの兄弟は記されていません。

そして「トマス行伝」にはトマスのことを「メシアの双子、至高者の使徒」、
「剣闘者トマスの書」では、トマスはイエスに「私の双子の兄弟」と呼びかけられているということです。

イエスは十字架に磔になって死にましたが、その3日後に生き返ったとされます。
しかし一度死んだ人間が生き返るというのは普通では考えられないことだし、生き返ったのは双子のトリックだと考えると納得できる部分があります。

しかし、戸来村の伝承では、キリストの双子の兄弟はトマスではなく、イスキリになっています。
トマスとイスキリは似ても似つかない全く違う名前です。
なぜ戸来村の伝説ではキリストの双子の兄弟の名前をイスキリとしているのでしょうか。

もしかして、石切がなまってイスキリとなったんだったりして??


石切神社 千羽鶴 
⑥北半球でも南十字星が見えていた時期があった。

現在、北半球から南十字星は見えませんが、地球の歳差運動の影響で、過去に北半球でも南十字星が見えていた時代があったそうです。

天の北極にある星のことを北極星といいますが、時期によって北極星は変わります。
北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためです。
地球の歳差運動の周期は約25800年です。

Gyroscope precession

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyroscope_precession.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Gyroscope_precession.gif
LucasVB [Public domain] 


⑦キリストは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、十字架は南十字星の比喩?

そしてイエスキリストは十字架にかけられて3日後に復活したとされますね。
これについて、イエスキリストは太陽の比喩、十字架は南十字星の比喩ではないかとする説があります。

冬至にむかって太陽はどんどん南中高度をさげていき、南十字星の位置にまで達する地域があったことでしょう。
「キリストが十字架にかけられた」のは、これを意味しているのではないかというのです。

またキリストは死後3日目に復活していますが、これは冬至から3日目に再び太陽が南中高度をあげていくことをあらわしているのではないかとしています。

石切神社 亀2

⑧トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽、キリストは冬至から3日後より南中高度をあげていく太陽?

そしてキリストスにはトマスという双子の兄弟がいたという説があります。

トマスとはアラム語の「双子」という意味です。
また「トマス行伝」にはトマスのことを「メシアの双子、至高者の使徒」、
「剣闘者トマスの書」では、トマスはイエスに「私の双子の兄弟」と呼びかけられています。

そしてキリストが十字架にかけられて死んだというが、実は双子のトマスがキリストの身代わりになったのであり
トマスの死後3日後に、キリストがしゃあしゃあと姿を現し、人々はキリストが生き返ったと錯覚したのではないかというんですね。

しかし、これも⑥のような比喩かもしれません。

すると、トマスは冬至に向かって南中高度を下げていく太陽
キリストは冬至から3日目より南中高度を上げていく太陽
ということになると思います。


 石切神社 亀

亀のお腹に願い事を書いて奉納します。

⑨雄略天皇はイスキリ、一言主大神はキリストだった?

そう考えると、日本の雄略天皇と一言主大神の伝説が気になってきます。

雄略天皇が葛城山に登る時、向かいの山の尾根伝いに山に登る人たちがありました。
その一行は天皇の一行とまったく同じいでたちをしていました。
雄略が『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と問うと、
向かいの山の方から、『大和の国に私のほかに大君はないのに、今誰が私と同じ様子で行くのか』と同じ言葉が返ってきました。


雄略天皇と全く同じ言葉を返す一言主大神とは木霊(山彦)の神ではないでしょうか。

一言主大神は葛城山の中腹にある一言主神社に祀られていますが、
この葛城山から金剛山にいたるダイヤモンドトレールと呼ばれる道では木霊(山彦)がよく聞こえるそうなので
このような話が作られたのだと思います。

石切神社 山茶花と狸の像

雄略天皇と一言主大神の話には続きがあります。

雄略が『そちらの名を名乗れ。そしてそれぞれが自分の名を名乗って矢を放とう。』と言うと、
『私が先に問われた。だから私が先に名乗ろう。私は悪いことも一言、良いことも一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神である。』と返事が返ってきました。
これを聞いた雄略は畏まり、『おそれおおいことです。わが大神よ。現実の方であろうとはわかりませんでした。』
と言い、自分の刀や弓矢、お供の着ている衣服も脱がせて拝んで献上しました。
一言主大神は、手を打ってそれを受け取り、雄略が帰る時、一言主大神一行が雄略を長谷の入口まで送りました。 


古代には、名前を問われたほうが先に名乗る、というようなしきたりがあったのかもしれませんね。

一言主大神は雄略天皇を長谷まで送っています。
これは一般に、一言主大神と雄略天皇が仲良くなったことを表すものととらえられているようです。
でも、私はそういうことではないと思います。

長谷の枕言葉は『隠国(こもりく)の』ですが、『隠国の』は『志多備』の枕詞でもあります。
『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
『隠国』とは『志多備国』『黄泉の国』のことで『長谷』は死の国なのではないでしょうか。

長谷という地名は葬送の地を意味していると聞いたこともあります。
今でも長谷寺の奥の院あたりにはたくさんのお墓があります。

つまり「名前を問われたほうが先に名乗る」というようなしきたりがあったのに、
雄略天皇がうっかり「それぞれが自分の名を名乗って矢を放とう」と言ったので
木霊(山彦)である一言主大神はまず自分が名を名乗る必要が生じたため、
実体のある神となって名を名乗り、雄略天皇を矢で射た。
そして一言主大神は死んだ雄略天皇を黄泉の国へ連れて行ったという話ではないかと思います。

で、この一言主大神と雄略天皇を祀る一言主神社には御神木の大イチョウがあります。
そして一言主神社では冬至の日に一陽来復祭を行っています。
たぶん、一陽とイチョウをかけてあるのでしょう。
すなわち、一言主大神と雄略天皇は太陽神ということだと思います。

ただし、雄略天皇は冬至にむかって勢力が衰えていく太陽(一言主大神に殺されたと思われるので)、一言主大神は冬至から勢力を伸ばしていく太陽でしょう。

そして、雄略天皇と一言主大神は全く同じいでたちをしているので、双子の兄弟であるとも考えられます。

雄略天皇は日本版トマス、一言主大神は日本版キリストということにならないでしょうか。

また太陽神・天照大神は天皇家の祖神ですから、冬至の話になぞって政権交代をあらわした物語であるようにも思えます。

石切神社 蛙の像 

⑩ニギハヤヒは天照大神だった?

ここで石切神社の御祭神・ニギハヤヒに登場していただきましょう。

先代旧事本紀ではニギハヤヒは天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命と表記されています。
また天岩戸に籠った天照大神はアメノウズメのストリップダンスに興味を持って出てきたという風にも読めますが

「女神のストリップダンスに興味を持つのは男神だ、よって天照大神は男神で、天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命である」とする説があります。

石切さん=ニギハヤヒ=天照大神=太陽神

しかし、ニギハヤヒは神武に政権を譲った太陽神ではないので、キリストではなく、キリストの身代わりになったトマスのイメージにかさなります。

そして、キリストの墓・イスキリの墓がある青森県は物部氏やナガスネヒコと関係が深い土地です。

ナガスネヒコにはアビヒコという兄がおり、記紀ではナガスネヒコは殺されたことになっていますが、
ナガスネヒコとアビヒコは青森の弘前まで逃れたなどという伝説があるのです。

 キリストの弟・イスキリは石切さんからとったもののようにも思えますが、やっぱりトンデモ説かなw

石切神社 お百度ひも 

お百度ひも。
一周まわるごとに一本折り曲げて数をカウントします。


石切神社 お百度まいり



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[2019/12/18 19:48] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

甚風呂(銭湯跡歴史資料館) 仕事の道具 『算盤で16進法の計算はできるか?』 

 甚風呂には仕事の道具もたくさん展示されていました。

足踏み脱穀機

足踏み脱穀機
自転車のスポークにあたったもみが飛び散るのを見て発明されました。
踏み板を足で踏んで上下に動かすと、ドラムが回ります。
そこへ稲束を乗せて手で押さえると、やまがたの針金にひっかかってもみが落ちるというわけです。


田圃の草取り器

田の草取り器

貯蔵器 殺虫剤 

向かって左から、唐箕(とうみ)・貯蔵器 貯蔵器の上にのっているハンドルのついた筒状のものは殺虫剤

唐箕はもみ殻を外したあと、風をおこして穀物を 籾殻・玄米・塵などに選別するための道具です。
中国の17世紀の書物に「風扇車」という名前登場し、中国で発明されたと考えられています。
日本で唐箕について記された最も古い文献は1684年の会津農書(佐瀬与次郎衛門)です。
円柱形の中に四枚羽の板が仕込まれており、ハンドルを回すと連動して板が回転し、風がおきます。
そこへ唐箕の上部の漏斗から少しづつ穀物を落下させると、藁屑や実のない籾などは吹き飛ばされて向かって左側の出口から出てきます。
実の詰まった重い穀粒は吹き飛ばされないので、手前(向かって右)の出口からでてきます。


墨壺

墨壺
大工さんが木材にまっすぐに線を引くための道具です。
車輪部分には糸が巻いてあります。 向かって右のくぼみは墨壺でここに墨を含ませた綿をいれます。
糸を引き出すと糸に墨がつきます。
この糸をピンと張ってはじくとまっすぐな線がひけるのです。

城南宮 釿始式 墨壺の糸をはじいて線

城南宮 ちょうな始式 
墨壺を用いて線をひく様子。向かって右の人は墨壺から引き出した糸をピンとはる役。向かって左の人は糸をはじいて印をつける役。

鞴

ふいご

風をおくる道具です。
風をおくるしくみは下の図を見れば一目瞭然ですね。

File:Bellows 2 (PSF) generalized.png

ウィキペディアよりお借りした鞴(たたら)の図です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bellows_2_(PSF)_generalized.png?uselang=ja
作者は
Pearson Scott Foresmanさんです。

何に使ったふいごなんでしょうね?
煮炊きや風呂焚きに用いたのでしょうか?

鞴2

↑ 形は全然違いますが、これも鞴(箱鞴)で鍛冶屋さんなどでよく使われていました。
箱の中に板が仕込まれており、これをひいたり出したりすることで空気を送ります。
http://www7.plala.or.jp/daikazoku/kajiya/fuigo/index.html
↑こちらの記事のイラスト、説明がわかりやすいです。

霧笛

霧笛
これも鞴かと思ったのですが、よく見ると、送風口にラッパがついています。
霧笛とよばれる船の汽笛です。
大きな音がしますよ。

糸車 綿繰り 
糸車 綿繰り

型紙

型紙
日本のステンシルですね。柄の細かさに見とれてしまいます。
文字のもオモシロイ♪

薬研 
薬研(やげん)
薬草をすりつぶす道具
 
菓子型

菓子型
和菓子屋さんで使っていたのでしょう。欧米のバターモールドににていますね。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89&aq=-1&ai=lCtAiCQMRq25Hxh1LMEfCA&ts=10964&ei=UTF-8&mfb=P031&fr=top_ga1_sa
(バターモールド画像)

醤油瓶

醤油瓶 
醤油をつくる道具はこちらにも多数掲載しています。↓
湯浅の街並みと角長醤油資料館 『醤油搾り機と搾油器が似ているのは偶然?』 


映写機 幻灯機

幻灯機 映写機

クラッシックカメラ

クラッシックカメラ

竜吐水

家事のときに活躍する道具
とびぐちは木材などを運搬したり、建物を解体する道具ですが、火事の際には延焼をふせぐため、建物を破壊する目的でも用いられました。
竜吐水は消火するため水をくみ上げて放水するポンプです。

防災頭巾

防火頭巾

昔の紙幣

昔の紙幣

江戸時代の藩札

藩札

船箪笥 行灯 帳場箪笥

向かって左から船箪笥 行灯 帳場箪笥 
船箪笥は廻船(貨物や旅客を乗せて港をめぐる船)に積み込んだ箪笥。
難破したときには木材が膨らんで隙間が埋まります。また水に浮くように作られていました。
帳場は帳場(支払いをしたり、帳をつけたりする場所)におかれていた箪笥。

 レジスター

レジスター

抽選機 

抽選機
現在はガラガラとハンドルをまわして色つきの玉を出すのが多いですが、昔はおみくじ形だったんですね。

スタンプ台

スタンプ立
おしゃれすぎる❤

スタンプ 
スタンプ

 ちぎ     
千木
二貫目(7.5kg)以上の物を鉤の部分にひっかけて計量する秤を千木といいました。
長い棒状の千木の先端よりやや下にひもがついています。このひもを高所などにかけます。
上部の先端に釣り針のような鉤がついていますね。ここに重さを計測するものをかけます。
千木の下方にコップを逆にしたようなものがありますが、これを千木のもう片側にかけて、計測物とバランスのとれる位置にうごかします。
バランスがとれたところで、千木の目盛りをよみとります。
細長い扇形をしたものは折り畳み式千木かな?扇形をしているのは千木のケースだと思います。

天秤はかり 

天秤ばかり

 
 算盤 矢立    
算盤と矢立
矢立はボールペンや万年筆がなかった時代の携帯用筆記用具。
上部の四角いくぼみに墨をしみこませた綿を、長細い部分には筆をいれます。

前回もご紹介した算盤は上二珠下五珠のもの。
もともとの算盤はこの形で、のちに上一珠下五珠、上一珠下四珠のものが作られるようになりました。

なぜ算盤は上二珠下五珠で作られたのでしょうか?
算盤は中国で作られましたが、民の時代、目方の単位は1斤が16両だったので、1桁に15までおける五珠が作られたといわれています。

一瞬、なるほど、と思いましたが、実際にやってみると面倒です。

13両+14両の計算をやってみます。

まず、13両をおきます。↓

A  

斤(十の位)両(一の位)


これに14両を足すにはどうすればいいでしょうか。
10進法なら十の位に1を、一の位に4を置けばいいのですが、十六進法なのでそれはできません。
いろんな置き方があると思いますが、とりあえず、次のようにやってみましょう。
下に2珠残っているので、14のうちの2を置きます。(赤字部分)

斤(十の位)両(一の位)


16で一けた繰り上がるので一の位に一珠置いたと考えて十の位に①を置き、一の位をクリアーします。
そのうえで、14-2-1=11なので、一の位の上に二珠(10)、一の位の下に一珠置きます

あるいは十の位に1をおき、16-14=2なので、Aの一の位から2珠はじいてもⅭのようになります。

斤(十の位)両(一の位)


13両+14両=27両
27両―16両(1斤)=11両
∴13両+14両=1斤11両

とこのように暗算したほうが断然早くないですか?

これはまだ2桁だからいいんですが、桁が多くなってくると、もうわけわかめになってしまいそう~。

上二珠下五珠の算盤は16進法の計算をするため、というのがかなり疑問に思えてきたのですが、どうでしょう?

「いや、こういう風にやるんだよ」という方がおられましたら、ぜひ教えてください!






  
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[2019/12/17 13:27] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

甚風呂(銭湯跡歴史資料館) レトロな暮らしの道具たち『煙草を吸ってもガンにならないは間違いだった?』 


甚風呂(銭湯跡歴史資料館) 『三助はなぜご祝儀を受け取っていたのか?』 
↑ こちらの記事で大正・昭和時代のレトロな銭湯の写真をご紹介しました。

銭湯の裏側と2階は住居スペースになっておりまして、レトロ&アンティークな雑貨がたくさん展示されていました。
欲しくなってしまう物がたくさん!(画質の悪いのもありますがご容赦ください。汗~)

ブラウン管テレビ

ブラウン管テレビ

わかりにくいかもしれませんが、白黒テレビのブラウン管に透明な下敷きのようなカバー(フィルム)がつけられています。
画面を拡大してみるためのカバーと、カラーっぽく見えるカバーの2種類があったそうです。
 
ラジオ レコードプレイヤー

レコードプレイヤーとラジオ

ちゃぶ台 学習ノート

ちゃぶ台と学習ノート イラストがとてもかわいいですね♪

扇風機

扇風機 曲線のデザインが美しくてみとれてしまいます。 コードもおしゃれ!

火鉢

火鉢

照明道具

照明の道具 
和ろうそくの絵付けの細かさにしびれます。
和ろうそくはハゼの木からとれる木蝋(もくろう)など植物性の蝋を用い、芯は紙・燈芯草・真綿などを巻いてつくります。
芯が太いので明るいのですが、芯が炭化して残ってしまうので、ときどき芯切バサミなどで芯を切って使っていました。

炭化した芯を残したまま燃え進んでいくとかなり炎が大きくなります。

龕灯(がんどう)は江戸時代に発明された携帯用ランプです。
その作り方について工学に詳しい友人に教えてもらいました。
大小ふたつの鉄環をつくります。次に大きい鉄環の中に小さい鉄環をいれ、ひんじでつなぎます。
内側の鉄輪の中央におもりをつけ、その上に蝋燭を固定します。
龕灯をふりまわしても、内側の鉄環は重力で下を向くので、その上に固定した蝋燭は常に上をむくというわけです。

電話

電話機

電話2 

電話機の前面についているコップ状のものは送話器で、ここに向かって話をします。
向かって左側面のラッパ上のものは受話器で、これを耳にあてて相手の話を聞きます。
上の写真ではひとつ、下の写真ではふたつ丸いものがついていますが、これはベルで、電話がかかってきたらなります。

電話機の向かって右にハンドル(発電機)がついていたようです。(写真ではわかりませんが)
すると電話交換手が出るので、「〇〇番につないでください」と伝えてつないでもらいます。
受話器を置くと交換手から電話があり、通話料を伝えてくれるというとのことです。

ポップアップトースター

ポップアップトースター すごくかわいいデザインですね。最近の家電にはこういうのはありませんね。

調理道具など

炊飯器 ハンドミキサー アイスクリームメーカー 電気ポット

ホットカーラー マッサージ機など

電気コンロ ホットカーラー マッサージ機

アイロン 
アイロン
木製のケースまでおしゃれですね。 向かって右から二つ目のは炭を入れて使うんだと思います。
「字形の煙突のようなものは煙抜きだと思います。

 針箱

針箱 
向かって左側の小さいものは何かわかりません?


手回しミシン

手回しミシン
  
へら

布に記しをつけるためのヘラ。 
その下にある唐子を描いたものはなんでしょう? ご存じの方、教えてください! 


硯箱 算盤 インク壺

硯箱 算盤
現存する日本最古の算盤は1592年ごろ使用されたもので、上二珠下五珠の算盤だったそうです。


箱枕 鏡台

鏡台と箱枕

甚風呂 便所 
 便所

手水(手洗器)
 
手水(手洗い器)
容器の中に水を入れておき、下部の棒をてのひらで押すとシャワーのように水が出てくる仕組みになっています。
昔の便所にはよくこういう手洗い器が置かれていました。
こないだ石切さんの商店街にいったら売ってましたね。

 甚風呂 井戸

井戸

マッチ箱のラベル

マッチ箱のラベル

喫煙具 

喫煙具

向かって右のは紙巻煙草を巻く道具でしょうか?




  
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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




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[2019/12/15 00:32] 和歌山 | TB(0) | CM(0)