ですが「惟喬親王の乱」というのはウィキペディアにも書いてありませんし、他のサイトでもそういうことがあったと書いてある記事は読んだことがありません。
上の記事でも次のように記しています。
「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。」しかし、私は「惟喬親王の乱」がなかったとはいいきれないと思います。
千手寺 在原業平 菅原道真を祀る社④藤原氏vs紀氏のバトル!
「惟喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の惟仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかった」について、もう少し詳しく記しておきます。
文徳天皇は紀静子(紀名虎の娘)との間に第一皇子の惟喬親王、藤原明子(藤原良房の娘)との間に第四皇子の惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたいと考えて源信に相談しましたが、源信は時の権力者・藤原良房を憚って天皇をいさめました。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。
平家物語などに次のように記されています。
藤原良房と紀名虎はいずれの孫(惟仁親王vs惟喬親王)を立太子させるかでもめ、高僧による祈祷合戦、相撲などによるバトルを繰り返した末、藤原良房が勝利し、惟仁親王が立太子した。この話は史実ではありません。というのは惟仁親王が生まれたとき、紀名虎はすでに亡くなっていたからです。
しかし藤原氏と紀氏に確執があったことは確かでしょう。
⑤惟喬親王の歌会はのろいの会だった?紀名虎の子で紀静子の兄(つまり惟喬親王の叔父)・紀有常、在原業平は惟喬親王の寵臣でした。
世継争いに敗れた惟喬親王は紀有常や在原業平をお供として交野ケ原(現在の交野市・枚方市付近)に狩をしにやってきて、渚の院(枚方市)で桜をめでつつ歌会を催すなどしています。
これについて、世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は文学の世界に情熱を傾けたのだろう、と一般にはいわれています。
しかし、そうではなく、彼らは歌会と称して藤原氏をのろっていたのではないかというような意味のことを高田祟史さんがおっしゃっていました。
私は彼の説を支持します。
たとえば伊勢物語「渚の院」の段ににこんな歌が掲載されています。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき ※この歌を詠んだのは右馬頭ではない別の人だと記されているだけで、名前は記されていません。
(散るからこそ、桜はすばらしいのです。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)この2首は藤原良房が詠んだ次の歌に対応していると思います。
染殿の后のおまへに花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる
年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし/藤原良房
(染殿の后の前の花瓶に桜の花がいけてあるのを見て詠んだ。
年をとって年齢は老いてしまった。そうではあるが、花を見れば悩むことはない。)
「染殿の后」とは良房の娘、明子のことです。
娘を入内させて生まれた子供を天皇とし、天皇の外祖父になるというのが、藤原氏の権力掌握の常套手段でした。
藤原良房は娘の明子を桜の花にたとえたのでしょう。
つまり、良房は、「明子がいる限り、わが世は安泰だ」と歌を詠んだわけです。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし /右馬頭(在原業平)
(世の中に桜がなかったなら、春の心はもっとのどかなものだっただろうに。)
この歌は、「明子がいなければ、春の心はもっとのどかなものだっただろうに」という意味ではないでしょうか。
散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
(散るからこそ、桜はめでたいのだ。憂世に永遠に存在するものなんてあるでしょうか。)
こちらの歌は「桜が必ず散るように、この世に永遠というものはない。藤原氏も必ず衰退するだろう。」という意味だと思います。
古の日本では言霊信仰といって、口に出した言葉には実現させる力があると信じられていました。
つまり歌は文学などではなく呪術であったと考えられます。
惟喬親王は歌会と称して藤原氏を呪っていたのではないでしょうか。
渚の院 淡墨桜
⑥なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているの?
また、枚方市には茄子作という地名がありここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。
惟喬親王は鉄鋼鋳造と関係が深そうに思えます。
本尊掛松(枚方市茄子作)
また大阪府三島郡島本町広瀬には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。
なぜ惟喬親王と在原業平は鍛冶屋の祖とされているのでしょうか?
鍛冶屋がつくるものは、現在では包丁などが主ですが、かつては刀や弓矢などの武器をつくっていました。
惟喬親王と在原業平は挙兵するため、武器を製造していたため、鍛冶屋の祖神として祀られているのではないでしょうか。

粟辻神社
⑦腰掛石は怨霊の執念がしみついた石?
千手寺 在原業平腰掛石
千手寺境内には在原業平腰掛石がありました。
腰掛石と呼ばれるものはほかの寺にもあります。
宇多天皇が創建した京都の仁和寺には菅公腰掛石があり、次のような伝説があります。
道真は藤原時平の讒言により流罪となりました。
道真は大宰府に向かう途中、仁和寺に立ち寄り、冤罪であることを宇多上皇に訴えようとしました。
しかし宇多上皇は留守でした。
仕方なく道真は石に座って帰りを待っていましたが、会うことができないまま大宰府へ流されていきました。

仁和寺 菅公腰掛石
また奈良の手向山八幡宮にも菅公腰掛石があります。
道真は宇多天皇の行幸に付き従って手向山八幡宮へやってきてこんな歌を詠んだとされます。
このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに/菅家(菅原道真)
(今回の旅は急な旅で幣も用意することができませんでした。かわりに紅葉の錦を捧げます。どうぞ神の御心のままお受け取りください。)

手向山八幡宮
『このたびは』の『たび』は『度』と『旅』に掛かります。
幣とは神への捧げ物のことで、絹や紙を細かく切ったものを道祖神の前で撒き散らす習慣がありました。
今でも、神事のときに神主さんが細かく切った紙をまき散らしているのを見かけますが、これが幣だと思います。

幣(一言主神社にて)
道真が手向山八幡へやってきたとき、風がふいて紅葉がはらはらと散っていただと思います。
それで、道真は紅葉を幣のかわりにしたということでしょう。
菅原道真は宇多天皇にひきたてられて昇進した人物でした。
897年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した。
このとき宇多天皇は『ひきつづき藤原時平と菅原道真を重用するように』と醍醐天皇に申し入れました。
醍醐天皇の御代、菅原道真は右大臣、藤原時平は左大臣になりました。
当時の官職や位は家の格によって最高位が定まっており、道真の右大臣という地位は菅原氏としては破格の昇進でした。
道真の能力を恐れた藤原時平は醍醐天皇に次のように讒言しました。
『道真は斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀っている』と。
斉世親王は宇多天皇の第3皇子で、醍醐天皇の異母弟です。
そして斉世親王は道真の娘を妻としていました。
醍醐天皇は時平の讒言を聞き入れ、901年、道真を大宰府に流罪とした。
そして903年、道真は失意のうちに大宰府で死亡しました。
大阪天満宮に展示されている雷神となって祟る菅原道真の怨霊の人形
その後、都では疫病が流行り、天変地異が相次ぎ、これらは菅原道真の怨霊の仕業だと考えられました。
⑦菊野大明神
京都市中京区に法雲寺という寺があり、境内に菊野大明神が祀られています。
菊野大明神
ご神体は深草少将が腰掛けたという石だといいますが、柵で囲まれているので御神体の石がどこにあるのかわかりませんでした~。
深草少将は小野小町に「百夜通したならば100日目に会ってあげてもよくってよ」と言われて実行したのですが、99日目の夜に死んでしまったとされます。
深草少将腰掛石にはその恨み籠もっているので男女の仲を裂くといわれています。
すると、官公腰掛石は官公の恨みが籠った石ではないかと思えます。
そして在原業平腰掛石もまた、業平の恨みが籠った石なのではないでしょうか?
千手寺 在原業平腰掛石
千手寺-石切観音 水子地蔵
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村