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清涼寺 紅葉 源融『光源氏のモデルは誰?』 


京都市右京区 清凉寺
2012年11月25日
2017年11月18日 撮影


清凉寺

①源融の別荘地

清凉寺がある場所には、かつて嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822 - 895)の別荘・栖霞観(せいかかん)がありました。
源融没後896年に、源融の子息が阿弥陀三尊像を安置して棲霞寺としました。
945年、重明親王(醍醐天皇第4皇子)妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置しました。
51代平城天皇
50代桓武天皇52代嵯峨天皇54代仁明天皇55代文徳天皇56代清和天皇57代陽成天皇
源融58代光孝天皇59代宇多天皇60代醍醐天皇61代朱雀天皇
53代淳和天皇62代村上天皇63代冷泉天皇
重明親王
源高明

 
985年、東大寺の僧・奝然(“ちょうねん”938-1016)は宋へ渡航中の、台州の開元寺で現地の仏師に釈迦如来像を作らせました。
古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせた霊像を模刻したものといわれ、
インド - 中国 - 日本と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれていますよ。

987年、奝然は京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立する計画を建てました。
しかし延暦寺の反対によって実現せず、1016年に奝然は没しました。
のち、奝然の弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に五台山清凉寺を創建しました。

清涼寺 門


②源融は光源氏のモデル?

源融は光源氏のモデルではないかともいわれています。

源融(822 - 895)は嵯峨天皇の皇子として生まれましたが、嵯峨天皇は多くの子女があり財政を圧迫したため、仁明天皇をのぞいてほとんどの皇子を臣籍降下させました。

源融は順調に昇進して左大臣にまで上り詰めましたが、藤原基経が摂政になったため、融は職を辞しました。

884年、陽成天皇が譲位する際、融は「自分も皇胤なので天皇候補にはいる」と主張しましたが、藤原基経は「臣籍降下した者が皇位についた例はない」と退けたというエピソードが残ります。

光孝天皇即位後、融は政務に復帰しています。
光孝天皇が崩御した後、藤原基経は臣籍降下していた源定省を皇籍に復帰させて即位させました。(宇多天皇)

891年、関白太政大臣・藤原基経が没すると、融は再び太政官のトップに立ち、895年に薨去しました。

なぜ源融は光源氏のモデルだと考えられているのでしょうか。
その理由は主に次の2点のようです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。
b...源氏物語の舞台は、源融ゆかりの地
源氏物語の中で、紫の上が源氏四十の賀を記念して薬師仏供養を行った場所が、「嵯峨野の御堂」ですが、嵯峨野の御堂とは清凉寺のことだといわれています。
また、源氏物語に登場する光源氏の住まい「六条院」や、夕顔の段に登場する「某の院」のモデルは六条河原院(現在の渉成園)だと考えられているとのことです。

清凉寺 聖徳太子殿 

③光源氏のモデルは源高明?

光源氏のモデルは源高明(914~983)だとする説もあります。

源高明は醍醐天皇の第10皇子で、母親は源周子です。
920年、7歳のときに臣籍降下しました。

源高明は藤原師輔の三女を妻としていましたが亡くなってしまい、次に藤原師輔の五女を妻としました。
こういったことから、藤原師輔との関係が良好で、師輔の姉・中宮安子(村上天皇の中宮)にも重用されました。
高明は自分の娘を安子が生んだ為平親王の妃とし、ますます関係を深めました。
968年安子がうんだ憲平親王が即位して冷泉天皇となり、高明は左大臣となりました。

冷泉天皇の皇太子の有力候補は同母弟・為平親王でしたが、為平の弟・守平親王(のちの円融天皇)が立てられました。
これは源高明が権力を握ることを恐れた藤原氏の策謀であったとされます。
師輔は960年に、安子は964年に亡くなっており、高明は二人の後押しを得ることができない状態におかれていたのです。

969年、源満中と藤原善時が橘繁延と源連の
謀反を密告しました。
右大臣藤原師尹( もろただ)は関係者を逮捕しましたが、この中に高明の従者・藤原千晴(藤原秀郷の子)がいました。
そのため、高明も謀反に連座したとして大宰府へ流罪となりました。(安和の変)

972年、高明は罪を許されて帰京しますが、政界に復帰することは無く葛野に隠棲し、
982年、69歳で薨去しました。

高明が光源氏のモデルとされている理由は次のようなものです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。

b.源氏物語に朱雀帝・冷泉帝が登場するが、朱雀天皇は源高明の異母弟、冷泉天皇は源高明の異母兄。

清涼寺 門2 

③せめて物語の中で幸福な人生を送れるように

私は光源氏は、源融、源高明ら、政治的に不幸であった複数の源氏たちをモデルに創作された人物ではないかと思います。

光源氏は一度は須磨に流罪となっていますが、のち自分の子の冷泉帝が即位し、冷泉帝より准太上天皇の位を送られています。
(冷泉帝は桐壺帝の子で、光源氏とは異母兄弟ということになっていますが、実は光源氏と藤壺の間にできた不義の子なんですね~。それで父親を臣下とすることに悩んだ冷泉帝が准太上天皇の位を送ったのです。)

それに対して源融は天皇になる資格があると主張したにもかかわらず認められず、源孝明は大宰府に流罪となり、幸福な人生を送ったとはいいがたいです。

そのため、せめて物語の中で幸福な人生を送れるようにと記された物語なのではないでしょうか。

清涼寺 本堂


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[2019/11/15 22:26] 京都府 | TB(0) | CM(0)