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谷瀬の吊り橋 野猿 紅葉 『なぜ橋ではなく野猿を作ったの?』 

 
奈良県吉野郡十津川村 谷瀬のつり橋 野猿
2019年11月20日 撮影


土津川 トンネル  
①谷瀬の吊り橋

何度か訪れたことのある城下町五條。
この道を右に入れば城下町五條新町。左へ入れば金剛寺。この坂をのぼっていくと吉祥寺。
でも今日は道を曲がらずにもっと先へ先へと向かいます。
賀名生梅林が見えてきました。
でもまだまだ先へ向かいます。
山はどんどん深くなってきて秘境の雰囲気が漂います。

谷瀬の吊り橋 
谷瀬のつり橋にやってきました。

ものすごく高いところにかけられていて、しかも長いです。
川面からの高さ54m、長さ297.7 mということです。

しかも、この日は強風!
怖いので、写真を撮るだけにしましたが、私と同じような怖がりの方が橋のたもとに何人かいて、連れの方が戻ってくるのをまっておられました。(待っているのは男の方が多かったですw。)

長らくここには橋がなく、1954年、地元の方が1軒当たり20-30万円を出し合い、村の協力を得て建設したということです。
ウィキペディア等によると、当時、教員の初任給が7800円、米10キログラムが765円だったということで、20-30万円というのは大金です。
土津川の人々は、それだけの大金を出しても橋をかけようという気概のある方々であったということかもしれません。

水路橋 
水路橋 風屋ダムより十津川第一発電所に水力発電用の水を送る水路橋。

②土津川郷士

というのは、十津川は陸の孤島的な場所にあり、さらに地形が農耕に適さないということもあって、古より独立した村落共同体として存続してきたのです。

農耕に適さない十津川の人々は、税金を免除してもらうため、戦争に出兵するということを、672年の壬申の乱から幕末まで行っており、十津川郷士と呼ばれていました。

1160年には平治の乱に出兵、南北朝時代には南朝側について減税免税措置をうけています。
室町時代にも守護の支配下に入らず独立をたもち、秀吉の太閤検地でも免税されています。
1614~1615年の大坂の陣では、徳川方についたため、天領となって免租されました。

また、陸の孤島ともいえる険しい山々は、逃走者が身を隠すのに適した土地であり、南朝・源義経らが土津川に身を隠したといわれています。

水路橋4 
水路橋 風屋ダムより十津川第一発電所に水力発電用の水を送る水路橋。

③野猿

↓ 野猿です。
手動式ロープウェイといってもいいかも。
かつてこの付近にはいくつかこのような野猿があったということです。

谷瀬のつり橋は怖くて渡れなかったのですが、野猿には乗ってみました。
乗ってみると思ったより怖くなかったです。
ちょっと力はいりますが、橋のたもとで友人がロープをひっぱるのを手伝ってくれたので、そんなに大変ではありませんでしたよ。

野猿

④なぜ橋ではなく野猿をかけていたの?

ここで疑問。
なぜ十津川村では川に橋ではなく、野猿をかけていたのでしょうか?

五箇山に野猿に似た似た「籠の渡し」があるそうですが、五箇山に行った際、地元の方に聞いたら「雪の日は屋内にしまってあるので見ることができない」ということでした。

実は友人に「あー、籠の渡し、見たかったなあ~」と愚痴ったところ、友人が「十津川に野猿あるから見に行こう」と誘ってくれたのでした。

写真はリンク先にありました。→ 
https://tripnote.jp/toyama/gokayama

五箇山に籠の渡しがあるのは、かつてここは流刑地であり、流刑者の逃亡を防ぐため、橋をかけることが禁止されていたからということです。

五箇山 田向 流刑小屋 

五箇山 田向 流刑小屋(復元) 小屋の壁に空いた小さな穴から食事などを差し入れます。


十津川は壬申の乱の時代から戦争に出兵していたのでしたね。
戦争には軍事機密はつきものです。
また、南朝や源義経らが身を隠した土地だということは、十津川の人々は彼らをかくまうことによっても免税などの利権を得ようとしていたのではないでしょうか。

そしてそういう目的があるため、あえて簡単に行き来できないようにと橋ではなく野猿をかけたのではないでしょうか。
橋ならあっという間に渡れるでしょうが、野猿だと渡るのにすごく時間がかかります。
追手などがやってきても、野猿でまごついている間にやっつけてしまえると思います。

あと、土津川の人々は話しかたが東京式アクセントだったり、蛇を「ぐちなわ」語尾に(のら「~ね」の意味)」を付けるなど、言語も独特のようです。

こういうのも、山深く周囲から隔絶された土地ならではかもしれませんね。

十津川 
十津川の水はとてもきれいな水色でした。石灰が混ざってこんな色に見えるそうです。




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[2019/11/29 23:42] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

あらぎ島 蔵王橋 紅葉 『あらぎ島の地名の由来はイチイの古名アララギ?』 

和歌山県有田町 あらぎ島
2019年11月24日 撮影

あらき島3 
①蘭(あらぎ)島


この不思議な棚田は正式には嶋新田といいますが、通称の蘭(あらぎ)島のほうがよく知られていますね。
あらぎ島というと、島なのかと思いますが、実は川がΩ字形となって水の中に浮かぶ半島のように見えているのです。
そこに棚田がつくられ、幾何学的な模様を作り出していて何とも不思議な風景です。

1655年、地元の庄屋・笠松左太夫が資金を提供し、地元の農民らが約3km南にある湯子川から灌漑用水をひく水路が作られ、水田開墾が行われた結果、このような不思議かつ美しい景観が生まれました。

あらき島2 

②あらぎ島の地名の由来、3つの説


「あらぎ島」という地名の由来については3つの説があります。

①新しく開墾した土地を「新墾(あらき)」というところから。
②イチイの古名をアララギというところから。
野蒜の古名をアララギというところから。

あらぎ島は1655年に開墾した土地じゃん、そりゃー、「①新しく開墾した土地を「新墾(あらき)」というところから。」だろ?

と最初はそう思ったんですが、よく考えてみるとどうもそうともいえない。

というのは、1810年の『山保田続風土記』に、「蘭」と記され、「アララギ」とふりがなが振られているのです。
『山保田続風土記』が正しければ、もとは「あららぎ島」であったのが、時代を経る中で「あらぎ島」に変化した可能性があります。

あらき島 
③あらぎ島はイチイの実の形に似ているところから名前がつけられた?


開墾される以前、「あらぎ島」にはイチイまたは野蒜が茂っていたのでしょうか?
私はそうではなく、あらぎ島はイチイの実に形が似ているところから地名がつけられたのではないかと想像します。

下のイチイの写真を見てください。

Taxus cuspidata IMG 4635

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Taxus_cuspidata_IMG_4635.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/57/Taxus_cuspidata_IMG_4635.jpg
あおもりくま,(Aomorikuma) [CC BY-SA 4.0 (
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]

赤くて丸いコップの中にタネが入っているかのように見えますね。

もう一度、あらぎ島の写真を見てみましょう。

あらき島3 
あらぎ島を取り囲んでいるのは川なんですが、まるで池の中に丸い島が浮かんでいるかのように見え、イチイの実に似ているように思えるのですが、どうでしょう?


④野蒜



ついでに野蒜の写真も見てみましょう。
野蒜はネギに似た植物で食べると辛みがあるとのことです。(食べたことがありませんw)
根元は写真の様に球形になっていて、すこしあらぎ島の形に似ているようにも思えます。

ファイル:野蒜 鱗茎.jpg


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%87%8E%E8%92%9C_%E9%B1%97%E8%8C%8E.jpg#file
 よりお借りしました。

⑤イチイと野蒜の古名がどちらも「あららぎ」なのはなぜ?

イチイと野蒜の古名がどちらも「あららぎ」というのはなぜでしょうか?
もしかして、ぷくっと丸い形のことを「あららぎ」と言っていたのでしょうか?

「あららぎ」は漢字では蘭と書きます。

蘭という植物がありますね。その仲間にアツモリソウがあります。

写真の貼り方がわからないので、下記リンク先の写真をご覧ください。(すいません~)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Klump.ziedas1.jpg

唇弁というようですが、イチイの実ににたコップ状の部分があります。
もしかして、こういうコップ状の形態のものを「あららぎ」と言っていたんでしょうか?
だけど、野蒜の根元は丸いだけでコップはありませんね。

あと漢和辞典で「蘭」をひくと「ふじばかま」とありましたが、ふじばかまとイチイ・野蒜に共通点はあるかな?

水尾 藤袴とアサギマダラ4

藤袴の里

つぼみは丸くて似てると言えば似てるかもだけど、開化したものは、 全く似てないようなw

木蓮は本来は木蘭と記します。

常林寺 地蔵堂 木蓮

常林寺 白木蘭

木蘭はコップ咲です。もしかしてコップ咲のような形状のものを蘭と言ったのでしょうか?


あらぎ島付近 
あらぎ島付近

蔵王橋2 
蔵王橋 ↑ ↓

蔵王橋

分け入っても、分け入っても紅葉w の旅でした!






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[2019/11/28 11:18] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

串柿の里 串柿 『柿の実を串さしにして柿の神をおどす?』 


和歌山県かつらぎ町 串柿の里
2019年11月24日 撮影


串柿の里5
 
①四郷の串柿

東谷、平、滝、広口の四つの村は四郷(しごう)と総称され、400年も昔から串柿を作っています。

串柿とは1本の串に10個(または五個)の柿の実を刺して干したものです。

串柿の起源としては、約700年前、岐阜県蜂屋村の干柿を後鳥羽天皇に献上したという記録があるそうです。
戦国時代、武田信玄や淺野長政が柿栽培・干柿製造を奨励を推奨し、長政が安芸国(現在の広島県の西部)に転封となったので安芸国においても柿栽培、干柿製造が広まったといわれます。

四郷の串柿は約400年前、徳川某公が、四郷村の特産物として串柿製造を推奨したといわれています。
また、豊臣秀吉が根来衆を攻め落としたとき、四郷の人々が秀吉に串柿を献上したともいわれます。



②鏡餅と串柿

串柿は、正月に飾る鏡餅にそえて飾られます。

鏡餅の飾り方は、下のサイトにイラストが掲載されています。
http://www.gishi.co.jp/home/faq_03a.htm

昆布・裏白の上に紙を置き、その上に鏡餅を二段に載せていますね。
二段の鏡餅の間には紅白の紙垂をはさみ、鏡餅の上に串柿、橙を置いてあるようです。

橙は玉、串柿は剣、餅は鏡で、三種の神器をあらわしているなどともいわれます。

三種の神器とは、天孫降臨の際、天照大神が天孫・ニニギに授けた三種類の宝のことで、
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ 別名/草薙剣・八咫鏡のことをいいます。

串柿の里6

③柿の数が10個または5個の理由

柿の数が10個または5個である理由は次のように説明されます。

10個・・・にこにこ(二個二個)中睦まじく(中六つ)
5個・・・・ひとりひとり(1個1個)が、皆(3個)しあわせに

うまいっ!座布団2枚!

ですが、これ比較的最近になってこじつけたもののように思えなくもないです。
「にこにこ」という言葉が最近の言葉のように思えるんですが、どうでしょう?

「にこやかなり」という言葉は「和やかなり」「柔やかなり」と表記し、平安時代の源氏物語にもそういう表記がでてきます。

また「にこにこ」をネットの古語辞典で検索してみると「にふぶに」と出てきます。
そして万葉集の歌が例に引かれていますので、万葉集の時代には「にこにこ」は「にぶぶに」と言っていたということになります。
https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%AB%E3%81%B5%E3%81%B6%E3%81%AB

そして、秀吉や徳川幕府の時代に「にこにこ」という言葉が用いられていたのならば、古語辞典にも「にこにこの意味は微笑む状態をあらわす」のように出てくると思うのですが、「にぶぶに」の意味が「にこにこ」としか出てきません。

「にこにこ」という言葉はいつから使われているのでしょうか?
ご存じの方、ぜひコメントお願いします。

串柿の里7

④霊木を「伐るぞ」とおどす成木責め

成木責めと呼ばれる行事があります。
なんだか、水責め、木馬責め、塩責めなどの拷問を思わせるような言葉ですねw。

成木責めとは、小正月に果樹の豊作を願う行事です。
家長が手斧で柿の木を伐りつけるまねをして「なるか、ならぬか」と問いかけます。
これに対して柿の木役の家人が「なります、なります」と答えます。

つまり、家長は「実をつけないと、伐っちゃうぞ」と柿の木をおどすことで、たくさんの実をつけさせようというおまじないのようなものです。

その一方で柿の木は
霊木としても信仰されており、お精霊さん(おしょらいさん/死んだ人の魂)は柿の木におりてくるとか、幽霊が出るなどともいわれていたようです。

そのような霊木を手斧でおどすって、とんでもない行為のようにも思えます。

しかし、そういう感覚はどうやら現代人の感覚のようで、古の人は神聖なものをおどしたりけなしたりということも当たり前にやっていたように思えます。

たとえば、広隆寺の牛祭では見物者が魔多羅神に対してヤジ罵声を投げかけるということです。


残念ながらこの牛祭、最近はあまり行われていないのですが、ユーチューブに動画があったのでお借りしました。
※動画でヤジの説明はありませんが、「広隆寺 ヤジ」でぐぐるとたくさん出てきます。





⑤柿の実を串刺しにして柿の神をおどす?

節分の柊鰯ってあるじゃないですか。
節分の日、鰯の頭を柊の木とともに玄関口に飾るという習慣のことです。
なんでも、鬼は生臭いのが苦手なので、こうしておくと鬼が逃げていくというのです。

鰯の頭だけを飾るというのが、さらし首を思い出させます。
鰯の頭とは鬼の首の比喩で、鬼は自分の首が晒されているように思って逃げていくのではないかと思ったりもします。

そして、節分は二十四節気の立春の前日=暦法・二十四節気における大晦日であり
もともと節分の追儺式は旧暦の大晦日に行われる行事であったとされます。
延暦寺では現在でも大晦日に追儺式を行っています。

すると正月の串柿も、柿の実を串刺しにして柿の神をおどすための呪いではないかと思えてきます。

串柿の里4 
串柿の里3

串柿の里 


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[2019/11/26 16:14] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

岩倉神社 紅葉 『スサノオは朱砂の男?』 


和歌山県有田郡有田川町 岩倉神社
2019年11月24日 撮影

岩倉神社 ご神体 
ご神体の磐座。向かって左の橋と比べるとその大きさがわかりますね。

①ワクムスビの頭に蚕と桑、へそに五穀が生じた。

岩倉神社の御祭神は丹生津比咩命・稚産霊神・埴山姫神・彌都波能賣神です。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00063987&TYPE=HTML_FILE&POS=1
↑ こちらの記事によると、水銀鉱床のある土地に丹生明神が祀られていることが多く、かつて丹生明神は埴と同じく土の神と考えられていましたが、辰砂(水銀)の神ではないかということです。

丹生津比咩命は水銀の神で、かつてこのあたりでは辰砂が産出されていたのではないかと思われます。

稚産霊神はワクムスビとよみ、日本書紀・第二の一書に次のような神話が記されています。

イザナミは火の神・カグツチを生み、死ぬ前に土の神・埴山姫(ハニヤマヒメ)と水の神・彌都波能賣神(ミズハノメ)を生んだ。
カグツチがハニヤマヒメを娶り、ワクムスビが生まれた。
ワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、へその中に五穀が生じた。


岩倉神社の御祭神のうち、稚産霊神・埴山姫神・彌都波能賣神はこの話に登場する神々であったのですね。

ワクムスビについてですが、

伝説に「ワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、へその中に五穀が生じた。」とありますが同様の話は、オオゲツヒメや保食神などにもあります。

岩倉神社付近  
岩倉神社の前を流れる川に人工的な構造物が?

②オオゲツヒメの死体から蚕・五穀が生じた。

まずはオオゲツヒメの話から。

高天原を追放されたスサノオはオオゲツヒメに食べ物をお止めた。オオゲツヒメは様々な食物をスサノオに与えた。
スサノオがキッチンをのぞいてみると、オオゲツヒメは鼻・口・尻から食材を取り出して料理していた。
スサノオは汚らわしいと怒り、オオゲツヒメを切り殺した。
オオゲツヒメの頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれた。
カミムスビがこれらを回収した。


岩倉神社付近 橋の構造物? 
かつて境内に天照大神社 八幡神社 櫻木熊野神社があったそうですが、昭和28年大水害により流失したそうです。
友人いわく、「橋があったのではないか」とのことなので、昭和28年の水害で壊れた橋の残骸なのかも?


③保食神の死体から牛馬・蚕・五穀が生じた。

次に保食神の話です。

天照大神は葦原中国の保食神のもとへ月夜見尊を派遣した。
保食神は陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした
月夜見尊は「汚らわしい」と怒り、保食神を斬った。
天照大神は怒り、月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになった。
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。
保食神の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。


岩倉神社付近2 

④ハイヌウェレ型神話


オオゲツヒメや保食神の神話はハイヌウェレ型神話と言われます。

ハイヌウェレ型神話とは、殺された神の死体から作物が生まれるというストーリーの神話のことで、世界各地にみられるとのことです。

ハイヌウェレとはインドネシア・セラム島のヴェマーレ族の神話に登場する女神です。

ココヤシの花から生まれた女神・ハイヌウェレは大便として宝物を出し、村人たちに配ったが、村人たちは気味悪がってハイヌウェレを生き埋めにした。
ハイヌウェレの父親は、彼女の死体を掘り出して切り刻んで、あちこちに埋めた。

彼女の死体からは様々な種類の芋が発生した。

ワクムスビの伝説は、ワクムスビが死ぬという話がないのですが、ハイヌウェレ型神話の一部が残ったものと考えられています。

岩倉神社付近-ダム

④スサノオは朱砂の男?

私は記紀にあるスサノオの伝説を思い出します。

スサノオは天照大神の田の畔を踏みつぶし、溝を埋め、大嘗祭を行う神殿に大便をした。
しかし天照大神は「大便のように見えるのは酒に酔ってはいてしまったのだろう。畔をこわし、溝をうめたのは、土地を再生させようとしたのだろう。」とおっしゃった。

結局、その後スサノオは機矢にさかはぎにした馬を投げ込んで、天照大神は天岩戸に隠れてしまい、スサノオは高天原を追放されるのですが。

ところでハイヌウェレは大便として宝物を出すのでしたね。
スサノオの大便というのは、何か宝物のように貴重なものの比喩ではないでしょうか。

硫化水銀の鉱物を辰砂’(しんしゃ)といいますが、辰砂は別名を朱砂(すさ)といいます。
スサノオは一般には須佐之男命、素戔男尊などのように表記されますが、朱砂の男(朱砂乃男)という意味だったりしないでしょうか?

そこで、辰砂を画像検索してみると、大便っぽく見える画像がいくつかw
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%BE%B0%E7%A0%82&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8&mfb=P012

https://kenscrystal.thebase.in/items/6527689
↑ これなんか、かなりそれっぽいようなw

すると田の畔をこわし、溝をうめたというのは、辰砂を採掘するためであったのでは、と想像が膨らみます。





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[2019/11/25 16:48] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

勝林寺 紅葉 『大原問答を聞いていた聴衆って誰?』 

京都府左京区 勝林寺
2019年11月16日 撮影

勝林院 
①天台声明

勝林院は835年、円仁が創建し、唐で学んだ声明を伝えたとされます。

その後すたれますが、1013年、寂源によって復興され、声明研鑽の地となりました。
大原の声明は「天台声明」「魚山声明」と呼ばれました。

声明とは仏典に節をつけた仏教音楽のことです。

【天台声明】



↑ なに言ってるのかわからないけど、美しいですね。
本堂の中にあるボタンを押すと声明が流れるようなシステムになっていて、声明聞きながら参拝することができますよ。

この天台声明、浄土宗や浄土真宗などの声明の原型なのだそうです。

【浄土声明】



②大原問答


1186年、顕真は法然を勝林寺に招きました。そして僧らは法然に12の難問を投げかけました。(大原問答)

法然が「念仏すれば誰でも極楽浄土にいける」と説いたとき、本尊の阿弥陀如来が光を放ち、法然の正しさを証明しました。
かねてより、この阿弥陀如来は光を放って正しさを証明するため「証拠の阿弥陀」と呼ばれていたのです。

聴衆は「念仏すれば誰でも極楽浄土にいける」ことを知って大喜びし、三日三晩、念仏を唱え続けたということです。

勝林院 本堂 
11月夕方に本堂の扉開けると西日でご本尊が光放っているように見えます。

③三日三晩、念仏を唱え続けた聴衆って誰?

三日三晩、念仏を唱え続けた聴衆って誰?

「そりゃー、勝林院の僧侶だろ?」
「いや 『誰でも極楽浄土にいける』ことで喜んだってんだから、村人じゃないのか?坊さんは修行してるから極楽浄土にいけるだろう?」

私は、大原問答を聞いていたのは壇ノ浦の戦いで海に沈んだ平家の亡霊ではないかと思います。

1185年、源氏vs平家の壇ノ浦の戦いがありました。この戦いで平家は敗れ、次々に海に身をなげて亡くなったのです。
建礼門院は安徳天皇を抱いて海に身を投じましたが、とらえられてしまいました。
建礼門院は出家し、大原の寂光院に隠棲して平家一門の菩提を弔いつづけました。
寂光院は勝林院のすぐ近くです。

で、大原問答は壇ノ浦の戦いの翌年の1186年です。

勝林院 鐘楼

④耳なし法一の説話が物語る平家への怨霊信仰

耳なし芳一の話を思い出してください。
大勢の平家の亡霊が成仏できずに、芳一が弾き語る「平家物語」を聞いていたのでしたね。

耳なし芳一は小泉八雲の「怪談」にある話ですが、八雲は1782年の一夕散人(いっせきさんじん)著『臥遊奇談』第二巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」を参考にしたと考えられています。

1782年は1185年の壇ノ浦の戦いから600年ほどのちですが、それ以前から平家の亡霊は人々におそれられていたであろうと想像します。

平安時代には、菅原道真や平将門などの怨霊が恐れられていました。
怨霊とは政治的に不幸な死を迎えたもののことで、天災や疫病の流行は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていたのです。
壇ノ浦の戦いで多くの平家の人間が入水自殺し、大量に怨霊が生まれてしまったわけです。
平家の大量死はそれは恐れられたことでしょう。

勝林院2 
⑤平将門を慰霊した時宗の僧侶たち

また、「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にいける」という考え方は時宗にもありましたが、時宗の僧侶たちは平将門の慰霊に情熱を注いでいるように見えます。
これについては長くなるので、次の記事をお読みください。
土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち 

法然が開いた浄土宗も時宗同様、怨霊を慰霊するという目的をもっていたのかも?

【おまけ・・・勝林院付近のスナップ】

勝林院付近2 
勝林院付近 
勝林院  
実光院 


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[2019/11/22 22:22] 京都府 | TB(0) | CM(0)

室生寺  紅葉 ライトアップ『埴も丹もあかつち』 

奈良県宇陀市 室生寺
2019年11月17日 撮影

室生寺 本坊

①室生寺付近は水銀鉱山だった。


興味深い記事を見つけました。

タイトルは「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 鉱産物(03-139)/大阪毎日新聞 1937.3.12 (昭和12)/意外な広大さから国史学界に波紋/京大田久保助教授、興味の調査/丹生の字義に新解釈?南大和の水銀鉱」

となっています。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00063987&TYPE=HTML_FILE&POS=1

内容をまとめます。

①京大理学部地質鉱物学助教授田久保実太郎氏は南大和の水銀鉱調査し、有望な露頭鉱床を発見した。
②その結果、宇太町附近の駒帰・稲戸・下芳野などの既知の水銀鉱山の他、多武峰・下居・大東・金剛山附近などいたるところ水銀の露頭鉱床を見出した。(広大な南大和水銀鉱)
③平安朝以来雨の神として信仰されている丹生明神がこの地方に多い。吉野には丹生川上神社もある。
④丹生明神の荷は埴と同じく『土』の意味だと考えられてきた。
⑤しかし、広大な南大和水銀鉱の存在を考えると、朱の原料・辰砂を産するところという意味ではないか。
⑥丹生明神は辰砂を産する山を神格化したもので雨の神ではないのではないか。
⑦古墳等に使われている朱(硫化水銀)は今日まで漠然と支那伝来のものと考えられていた。
⑧しかし、南大和では辰砂の採掘、朱の製造が行われていたのではないか。
⑨弘法大師は丹生明神に率いられて高野山を開いたといわれるが、これは大師が支那の新知識によって辰砂の採掘、朱の製造を行ったということではないか。
⑩大師を開基とする大和室生寺附近は田久保助教授によって水銀鉱山であることが証明されている。
⑪大阪鉱山監督局 菅野鉱業課長は次のように話している。
「宇陀郡宇太町は昭和十年度には五、〇八九キログラムの水銀を産出している。
その他水銀鉱区として多武峰・葛城・吐田郷にも水銀の鉱区がある。
三重県飯南郡丹生村の附近にも伊勢水銀の鉱区があり昭和十年には水銀鉱十一キロトンを産している。

室生寺付近は水銀鉱山だったのですね。

室生寺 橋

②仏隆寺で入定した堅恵

室生寺の東南、直線距離2kmほどのところ、宇陀 市榛原赤埴に仏隆寺というお寺があります。








仏隆寺には開祖堅恵入定石室と呼ばれるものがあります。
仏隆寺の開祖・堅恵上人は即身仏となるべく、この石室に入定したのでしょう。


仏隆寺 入定石窟


『弘法大師如意宝珠納札銘』に『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とあります。

『宇一山』は正確には『宀一山(べんいつさん/ういつさん)』で『宀一』は『室生』の二字のそれぞれ上下を採ったもの。
『竹目々』は『竹木目』で『箱』の字を分解したもの。 
『土心水師』は堅恵法師の部首を採った略とされます。

すると、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は『室生山精進峯の箱の底が堅恵法師の道場である』という意味になると思います。
即身仏となるとき、生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせたりしたようです。
つまり、『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』とは、『堅恵は室生山精進峯に入定した』という意味なのかもしれません。

仏隆寺 彼岸花 『謎々です。『宇一山精進峯竹目々底土心水師道場』は何と読む?』  

室生寺 仁王門4 
③水銀の防腐効果

即身仏となるためには、木食といって五穀をたち、木の皮や木の実のみを食べる修業をします。
即身仏のメッカといえば山形の湯殿山ですが、湯殿山は水銀土壌なんだそうで、木食をすることで体内に水銀がたまり
水銀の防腐効果で腐りにくい体になると聞いたことがあります。

空海が高野山を欲したのも、高野山には水銀の鉱脈があったからだといわれます。
水銀は空海の懐を潤したかもしれませんが、それだけでなく、空海は即身仏となる際の水銀の防腐効果にも期待していたのではないかと思います。

すると堅恵が室生寺近くにある仏隆寺に入定したのも、水銀土壌であったからではないかと思ったりします。

室尾寺 五重塔

④赤埴という地名の由来


仏隆寺のある場所は地名を赤埴というんですね。

『奈良縣宇陀郡史料』に次のように記されているそうです。

「(赤埴)氏は本姓大神にして大物主神の後大神君大友主より出ず、上古大国主神嫡后須勢理姫と共に宇陀の室生岩窟に入り五百引の石を以って之を塞ぎ赤土を以って其口を塗る、赤埴の称ここに起り其岩窟は即ち今の室生龍穴社なりと云う」

赤埴氏の本姓は大神氏で、オオモノヌシの後、大神君大友主から出た。
昔、オオクニヌシが后のスセリヒメと共に宇陀の室生岩窟に入り、引っ張るのに五百人必要なほど大きな石で岩窟を塞ぎ、その口に赤土を塗った。
赤埴という名前(地名?)はここからくる。
その岩窟は室生龍穴神社である。


みたいな意味でしょうか。(違っていたら教えてくださいね!)

室尾寺 五重塔2

⑤埴も丹も「あかつち」


埴とは黄赤色の粘土のことで、陶器などが作られました。ねばつち、あかつち、へな等とも言いました。


ですが、「丹」「辰砂」のことも「あかつち」「あかに」などと言いました。
(丹、辰砂は水銀)

岩窟をふさいだ石に塗った「あかつち」とは埴ではなく、丹だったりしないでしょうか?

室生寺 本堂 

⑥一富士・二鷹・三茄子の謎


古知谷阿弥陀寺 紅葉 『即身仏と油』 
上の記事に、古知谷阿弥陀寺には即身仏が安置されている、ということを書きました。
ただし、非公開で拝観することができないのですが。

この古知谷阿弥陀寺のそばを高野川が流れています。

高野川って、空海が入定した高野山と同じ名前ですね。

「一富士・二鷹・三茄子」といいますが、私はこれは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。
栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。

鷹は鷹の爪のことでしょう。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。

藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。

そして、高野山には水銀の鉱脈がありました。
すると高野川付近にも水銀の鉱脈があったので?と思えます。

室生寺 仁王門3 

⑦高野川の古名は埴川だった。

「日本後紀」によると、高野川は平安時代には埴川と呼ばれていたようです。
「雍州府志」には高野村を通ることが高野川の名前の由来だとあります。

しかし、高=水銀(丹)と、埴は混同されていたようにも思えて興味深いです。

室生寺 仁王門2


室生寺 仁王門 
室尾寺 橋2 


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[2019/11/21 14:05] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

山部赤人の墓 額井岳 紅葉 『言霊の使い手&戒場=開成?』 



奈良県宇陀市榛原山辺三 山部赤人の墓
奈良県宇陀市榛原戒場 戒長寺
2019年11月17日 撮影


山部赤人の墓 
山部赤人の墓

①言霊の使い手

額井岳のふもとに山部赤人の墓はありました。
山部赤人は奈良時代の人で古すぎるゆえ、本当にここが山部赤人の墓なのかどうかわかりませんが
この付近の人々は、ここを山部赤人の墓だと信じ続けてきたのです。

なぜここに山部赤人の墓があるのか。あるいは、なぜここが山部赤人の墓だと信じられたのか。
ネットをぐぐってみると「宇陀市榛原山辺」という地名で、山部赤人は山辺赤人とも記されることがあったため、と記された記事がありました。

そういうこともあるでしょうが、私はやっぱり、有名なこの歌にちなんでのことではないかと思います。

田児の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける/山部赤人

実はさきほど山部赤人の墓は額井岳のふもとにあると書きましたが、額井岳は大和富士と呼ばれているのです。

「田児の浦」は駿河湾の西付近を指します。
当然、この歌も田児の裏で詠まれたものでしょう。

しかし山部赤人は死んで大和富士と呼ばれる額井岳のふもとに葬られたので、「山部赤人の歌には言霊があった。」と人々は考えたのかもしれません。

言霊とは言葉の力によって口から発した言葉を実現させてしまう力のことです。

つまり、山部赤人は「田児の浦ゆ」の歌を詠んだので、その言霊の力によって大和富士のふもとに葬られたと人々は考えたのではないかということです。

この墓が本当に山部赤人の墓でなくてもいいんです。(もしかしたら本当に山部赤人の墓かもしれないですが)
人々が山部赤人の墓であると信じたということが重要なんです。

額井岳 
額井岳

②赤人は殺されて塩が振られている?

また雪は謀反人に降る塩を思い出させます。

というのは摂津風土記にこんな話があるのです。

雄鹿は背に雪が降り、薄が生える夢をみました。
雌鹿は偽った夢占いをして「薄はささった弓矢。雪は殺されて塩がふられているのです。出かけるとあなたは殺されてしまうでしょう。」
しかし雄鹿は淡路島にすむ妾の鹿に会いにでかけてしまい、夢占いとおりに舟人に射られて死んでしまいました。

もしかしたら山部赤人もまた殺されて、塩が振られたのかもしれません。
とすれば「田児の浦ゆ」の歌は、殺されることを予知した夢であると考えられた可能性もでてきます。

戒長寺 遠望 

戒長寺 遠望 (戒場山)

③戒場は開成?

山部赤人の墓の正面に立つと、山が見えます。そしてその山の中腹に大イチョウが見えます。
戒長寺の御神木・お葉つきイチョウです。

その山の名前を聞いて、テンションあがる、あがる!

戒場山。
かいばやま、と読むんでしょうか。
でも、戒場と書いて、「かいじょう」とも読めますね。

そして戒成皇子、海上皇子、開成皇子と呼ばれる皇子が、各地の寺社の創建説話に登場しています。
志貴皇子の子にも、海上王(本朝皇胤紹運録)または海上女王(続日本紀)という名前が記録されています。
神峯山寺大阪府高槻市開成皇子光仁天皇に命じられ神峯山寺を開く役行者が開基し、774年に開成皇子が創建した。
勝尾寺大阪府箕面市開成光仁天皇の皇子・桓武天皇の異母兄
白山神社静岡県磐田市海上皇子(戒成皇子)桓武天皇の第四皇子裸足で大地を踏んだので病になった。
白山神社愛知県新城市開成皇子後醍醐天皇の第3皇子裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。
海上王(本朝皇胤紹運録)
または海上女王(続日本紀)
志貴皇子の子志貴皇子または志貴皇子の子の春日王がハンセン病になった。
(奈良豆比古神社伝説)


奈良豆比古神社には志貴皇子がハンセン病を患ったという伝説があります。
そして愛知県新城市の白山神社には、「開成皇子は裸足で大地を踏んだのでハンセン病になった。」という伝説があります。

もしかして山部赤人もハンセン病を患ったのでしょうか?

612年、百済から渡来したものの中に体に白斑を持つ者がおり、海中の島に置き去りにしようとした。
白斑の男はこう言って抵抗した。
「白斑が悪いというのなら、私と同じように白斑のある牛馬は飼えないではないか。
私は築山を作るのが得意で、この国のお役にたつことができます。私を海中の島に捨てるのは日本のためになりません。」
そこでこの男に須弥山の形と呉風の橋を御所の庭に築かせた。(日本書紀)

 
ハンセン病患者の症状はさまざまですが、白い斑点ができるものがあります。
鹿はこの百済から渡来した者がいうように、白斑があります。

次のような発想で謀反人と鹿やハンセン病患者は結び付けられたのではないでしょうか。

謀反人→死体に塩を振る→鹿の白斑を思わせる→ハンセン病患者を思わせる。

山部赤人と開成皇子は関係がありそうに思えます。
もう少し調べてみます。

戒長寺 本堂

戒長寺 本堂

戒長寺 鐘楼 
戒長寺 鐘楼



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[2019/11/19 17:24] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

古知谷阿弥陀寺 紅葉 『即身仏と油』 

京都市左京区 小知谷阿弥陀寺
2019年11月16日 撮影

古知谷阿弥陀寺 門2

①体質を樹脂質化する?

三千院の北に小知谷阿弥陀寺があります。
紅葉シーズン、三千院あたりはたいへんな人出ですが、古知谷阿弥陀寺は観光客もまばらで静寂につつまれています。
穴場ですよっ。

そんな静かな古知谷阿弥陀寺には、開基・弾誓の即身仏が安置されています。

ウィキペディアによると「弾誓は1613年に62歳で示寂した」とあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E5%8C%BA)
ということは、1613年に入定したということなんですかね?

堂内にあった説明板には次のように記されていました。
「開基弾誓上人は穀絶ち塩絶ちのすえ、松の実 松の皮を食べ 体質を樹脂質化した後 念仏三昧をもって生きながら石窟の二重になった石棺の中に入り・・・。」

樹脂とはアカマツ・カラマツなどの樹木から分泌される粘り気のある液体、またはそれが空気に触れて酸化して固まったもののことで、
例としては松脂や琥珀などがあげられます。

「体質を樹脂質化する」というのがどういう状態のことを言っているのか、よくわかりませんが
松の実や松の皮を食べていたということなので、当然松脂も体内に摂取したことでしょう。
それを「体質を樹脂質化する」と言っているのかもしれませんね。

是非お姿を拝んでみたい!しかし石室に安置されていて、お姿を拝むことはできません。

古知谷阿弥陀寺 門

即身仏になるために防腐剤が用いられていた?

即身仏となるためには木食といって、五穀を断ち、木の皮や木の実のみを食べる修業を行いました。
こうして体から脂肪を落とし、死後腐りにくい体をつくるというのです。

弾誓上人が松の実や皮を食べたのは木食修行だったんですね。

即身仏のメッカといえば山形の湯殿山ですが、湯殿山は水銀土壌だそうで、ここで育つ木の皮や実は水銀濃度が高いと言われます。
水銀には防腐作用があり、そのため即身仏が数多く残ったのではないかと言われます。
もちろん、寒冷な気候も影響したでしょうね。

また入定する前に漆のお茶を飲むということもされていたようです。
こうすることによって、胃の中のものを吐き出し、また漆の防腐作用で腐りにくくなったといわれます。

古知谷阿弥陀寺 枯山水

③樹脂は防腐剤だった?

調べてみると古代エジプトのミイラで防腐剤が使用されていたということがわかりました。

英ヨーク大学の考古学者スティーブン・バックレー博士によると
現在、イタリア・トリノのエジプト博物館に保管されている古代エジプトのミイラは次のようなレシピから作られる防腐剤を使用されているということです。。

●植物性油:おそらくゴマ
●植物か根からの「バルサム(樹脂の一種)のような」抽出液:ガマ属の植物由来とみられる
●植物性ののり:アカシアから抽出されたとみられる糖
●針葉樹の樹脂:おそらく松ヤニ

樹脂を油と混ぜると殺菌特性が備わり、遺体を腐敗から守ってくれる。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-45204722

京都大原は平安京があったあたりに比べるとかなり寒冷な気候だと思います。
紅葉も早いですし、雪も結構降るみたいですね。
しかし、山形とはくらべものにならないでしょう。
やはり太原は温暖な気候で、即身仏となるには不向きな気候だと思います。

それなのに、即身仏が残っているとされるのは、樹脂と油をまぜた防腐剤が用いられていたのかもしれませんね。


古知谷阿弥陀寺 茶室

④長木を発明した神官の正体とは?

ここ大原には惟喬親王が隠棲したとも伝わります。(隠棲地は別の場所だとする説もありますが。)
そして惟隆親王は、嵐山の法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。

また宇治に喜撰法師が籠ったという喜撰洞がありますが、喜撰法師とは紀名虎または紀有常のことだとする説があります。
(私は喜撰法師とは紀名虎の娘で、紀有常の妹の紀静子を母親に持つ惟喬親王の事である可能性もあるかなと思っていますが)
喜撰洞とは喜撰法師が入定した洞窟ではないかと私は考えています。
喜撰というのはお茶の隠語としても用いられていますが、それは喜撰法師が漆のお茶を飲んで入定したことから隠語として用いられているのではないかと思ったりもします。

と、このように考えてみたとき、離宮八幡宮に伝わる次のような伝説を思い出してしまいます。

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになった。

長木の図

離宮八幡宮 説明板より


離宮八幡宮の神官が長木を発明したのは859~877年ということですが、惟喬親王の生没年は844~897年です。
また、惟喬親王は木地師の祖とされ、巻物が転がるのを見て木地師が用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があります。

惟喬親王が木地師の祖とされるのは、彼が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説からくるのかもしれません。
木地師が作ったお椀には漆を塗って仕上げますので。

そしてこの木地師が用いる轆轤は、棒に綱を巻き付けて用いる点が油を搾る長木に構造がよく似ています。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館にて 女性が轆轤の棒を回転させ、男性が棒の先端に取り付けた刃物で器を削っています。

また離宮八幡宮はもともと石清水八幡宮があった場所であり、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲です。
日本では先祖の霊は子孫が祭祀擦るべきという考え方がありました。
つまり、石清水八幡宮や離宮八幡宮は紀氏の血の濃い惟喬親王の霊を慰霊する神社ではないかと思うのです。

そういったことから、私は伝説に登場する長木という搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと考えています。


これが正しいと仮定して、なぜ惟喬親王は搾油器を発明したなどという伝説があるのか考えてみてください。

惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説も残りますが、これは入定する際、漆のお茶を飲むことと関係がありそうに思えます。

すると、搾油器を発明したという伝説は、その油と松脂などの樹脂をまぜて防腐剤として用いたことから生じた伝説なのかも、と思えます。

https://karaage.info/2016/03/23/195251/

↑ こちらのブログには廃油が防腐剤がわりになる、との旨が記されています。

また油は樹脂化するとの記事もネット上にたくさん見つかります。

古知谷阿弥陀寺 茶室2 



古知谷阿弥陀寺 渡り廊下 
古知谷阿弥陀寺  

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[2019/11/18 22:06] 京都府 | TB(0) | CM(0)

清涼寺 紅葉 源融『光源氏のモデルは誰?』 


京都市右京区 清凉寺
2012年11月25日
2017年11月18日 撮影


清凉寺

①源融の別荘地

清凉寺がある場所には、かつて嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822 - 895)の別荘・栖霞観(せいかかん)がありました。
源融没後896年に、源融の子息が阿弥陀三尊像を安置して棲霞寺としました。
945年、重明親王(醍醐天皇第4皇子)妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置しました。
51代平城天皇
50代桓武天皇52代嵯峨天皇54代仁明天皇55代文徳天皇56代清和天皇57代陽成天皇
源融58代光孝天皇59代宇多天皇60代醍醐天皇61代朱雀天皇
53代淳和天皇62代村上天皇63代冷泉天皇
重明親王
源高明

 
985年、東大寺の僧・奝然(“ちょうねん”938-1016)は宋へ渡航中の、台州の開元寺で現地の仏師に釈迦如来像を作らせました。
古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせた霊像を模刻したものといわれ、
インド - 中国 - 日本と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれていますよ。

987年、奝然は京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立する計画を建てました。
しかし延暦寺の反対によって実現せず、1016年に奝然は没しました。
のち、奝然の弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に五台山清凉寺を創建しました。

清涼寺 門


②源融は光源氏のモデル?

源融は光源氏のモデルではないかともいわれています。

源融(822 - 895)は嵯峨天皇の皇子として生まれましたが、嵯峨天皇は多くの子女があり財政を圧迫したため、仁明天皇をのぞいてほとんどの皇子を臣籍降下させました。

源融は順調に昇進して左大臣にまで上り詰めましたが、藤原基経が摂政になったため、融は職を辞しました。

884年、陽成天皇が譲位する際、融は「自分も皇胤なので天皇候補にはいる」と主張しましたが、藤原基経は「臣籍降下した者が皇位についた例はない」と退けたというエピソードが残ります。

光孝天皇即位後、融は政務に復帰しています。
光孝天皇が崩御した後、藤原基経は臣籍降下していた源定省を皇籍に復帰させて即位させました。(宇多天皇)

891年、関白太政大臣・藤原基経が没すると、融は再び太政官のトップに立ち、895年に薨去しました。

なぜ源融は光源氏のモデルだと考えられているのでしょうか。
その理由は主に次の2点のようです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。
b...源氏物語の舞台は、源融ゆかりの地
源氏物語の中で、紫の上が源氏四十の賀を記念して薬師仏供養を行った場所が、「嵯峨野の御堂」ですが、嵯峨野の御堂とは清凉寺のことだといわれています。
また、源氏物語に登場する光源氏の住まい「六条院」や、夕顔の段に登場する「某の院」のモデルは六条河原院(現在の渉成園)だと考えられているとのことです。

清凉寺 聖徳太子殿 

③光源氏のモデルは源高明?

光源氏のモデルは源高明(914~983)だとする説もあります。

源高明は醍醐天皇の第10皇子で、母親は源周子です。
920年、7歳のときに臣籍降下しました。

源高明は藤原師輔の三女を妻としていましたが亡くなってしまい、次に藤原師輔の五女を妻としました。
こういったことから、藤原師輔との関係が良好で、師輔の姉・中宮安子(村上天皇の中宮)にも重用されました。
高明は自分の娘を安子が生んだ為平親王の妃とし、ますます関係を深めました。
968年安子がうんだ憲平親王が即位して冷泉天皇となり、高明は左大臣となりました。

冷泉天皇の皇太子の有力候補は同母弟・為平親王でしたが、為平の弟・守平親王(のちの円融天皇)が立てられました。
これは源高明が権力を握ることを恐れた藤原氏の策謀であったとされます。
師輔は960年に、安子は964年に亡くなっており、高明は二人の後押しを得ることができない状態におかれていたのです。

969年、源満中と藤原善時が橘繁延と源連の
謀反を密告しました。
右大臣藤原師尹( もろただ)は関係者を逮捕しましたが、この中に高明の従者・藤原千晴(藤原秀郷の子)がいました。
そのため、高明も謀反に連座したとして大宰府へ流罪となりました。(安和の変)

972年、高明は罪を許されて帰京しますが、政界に復帰することは無く葛野に隠棲し、
982年、69歳で薨去しました。

高明が光源氏のモデルとされている理由は次のようなものです。

a.天皇の子で兄妹が帝となっているのに、自らは臣籍降下した。

b.源氏物語に朱雀帝・冷泉帝が登場するが、朱雀天皇は源高明の異母弟、冷泉天皇は源高明の異母兄。

清涼寺 門2 

③せめて物語の中で幸福な人生を送れるように

私は光源氏は、源融、源高明ら、政治的に不幸であった複数の源氏たちをモデルに創作された人物ではないかと思います。

光源氏は一度は須磨に流罪となっていますが、のち自分の子の冷泉帝が即位し、冷泉帝より准太上天皇の位を送られています。
(冷泉帝は桐壺帝の子で、光源氏とは異母兄弟ということになっていますが、実は光源氏と藤壺の間にできた不義の子なんですね~。それで父親を臣下とすることに悩んだ冷泉帝が准太上天皇の位を送ったのです。)

それに対して源融は天皇になる資格があると主張したにもかかわらず認められず、源孝明は大宰府に流罪となり、幸福な人生を送ったとはいいがたいです。

そのため、せめて物語の中で幸福な人生を送れるようにと記された物語なのではないでしょうか。

清涼寺 本堂


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[2019/11/15 22:26] 京都府 | TB(0) | CM(0)

石山寺 紅葉 『源氏物語の作者は男だった?』 


※紅葉まとめはこちらをご覧ください。↓
和歌山・滋賀・兵庫・その他の紅葉 まとめ 
大阪の紅葉 まとめ 
奈良の紅葉 まとめ 
京都の紅葉 まとめ 


滋賀県大津市 石山寺
2009年11月23日 撮影

石山寺-多宝塔2

①紫式部が源氏物語を書いたので、日本は男女平等だった?

紫式部は石山寺に参篭して、源氏物語を書くアイデアを思いついたという伝説がありますよ。
そういうわけで、石山寺本堂には紫式部の像が置かれています。

石山寺-紫式部像 

ある人がよくこんなことをおっしゃっています。
「紫式部が女性として世界で初めて小説を書いたことは、日本が男女平等社会であったことの証拠である。」

「なるほど、そのとおりだよ!」と思う人もいらっしゃると思います。
でも、私なんかは「へ?」と思ってしまいます。

次の点について、考えていただきたいと思います。

石山寺 三十八所権現社本殿 
a.小説を書くことと男女平等はどのようにして結びつくのか。その説明がない。

b.紫式部は貴族の娘だが、当時、日本人の多くは農民などの庶民だった。
一部の貴族の例をもちだして、日本全体を語っていいのか?

c.男女差別が問題視されるようになったのは、近年になって多くの人が企業に就職するようになってからといわれている。
それより以前の社会では男女差別より身分差別が問題だった。

d.紫式部が源氏物語を書いたという一例だけで、日本は男女平等だったと断じてしまっていいのか?


わかりやすい例をあげましょう。

ある男女共学の学校で、ひとりの女子学生が小説を書き、芥川賞をとったとしますね。
そのことをもって、男女平等な学校だと断定してもいいでしょうか。
実はその学校では受験テストで、男子の合格ラインは60点、女子の合格ラインは90点としているとしたら?
実際、そんな大学があって、女性差別だと問題になりましたねw

石山寺 本堂

②紫式部が源氏物語の作者だと考えられているワケ

そもそも紫式部が源氏物語を書いたという例は、男女平等を語るのにふさわしくないです。
というのは、源氏物語の作者は男ではないかとする説があるからです。

紫式部という女性は、一条天皇の中宮・藤原彰子(藤原道長の娘)の女房として実在していたことはほぼ事実とみてよいと思います。

ただ、源氏物語には作者名が記されていないんですね。

石山寺2

紫式部が源氏物語の作者だと考えられている理由は次のようなもののようです。

a.『紫式部日記』に次のような記述がある。

・宮中の宴で、藤原公任が「若紫はおいでですか」と紫式部に訊ねたが、
 紫式部は「光源氏のような方もいないのに紫の上がいるはずない」と思って聞いていた。
 
・一条天皇が 「源氏物語の作者は日本紀を読んでいるのだろう。才能のある人のようだね。」とおっしゃったのを聞て左衛門の内侍が「紫式部は才能をひけらかしている」などと殿上人に言いふらし、「日本紀
の御局」というあだ名をつけているのは滑稽なことだ。

・娘・中宮彰子が源氏物語を読んでいるのを知った道長が、そばにあった梅の枝が置かれている色紙を取り、歌を書いて紫式部をからかった。
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
(梅は酸き物ですが、あなたは好き者として評判ですから、梅の枝を折らないで過ぎていく男なんていないでしょうねえ)

これに対して紫式部は次のように歌を返しました。
人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ
(梅の枝はまだ折られていませんが、誰が好き者などと言うのでしょうか)


これらの記述は、紫式部が源氏物語の作者であると断定できるものではありませんね。
紫式部が源氏物語の作者でなくとも、上のような会話は十分なりたちそうに思えます。

石山寺 滝蔵権現社

b.『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』に次のように記されている。
上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾
(上東門院の女房 歌人 紫式部はこれなり。 源氏物語の作者、ある本には藤原雅正の娘うんぬん、藤原為時の妹うんぬんとある。御堂関白道長の妾)

石山寺-心経堂 

③源氏物語の著者は男だった?

さて、それでは源氏物語の著者は男だったとする説の根拠についてみてみましょう。

a.源氏物語は臣籍降下した源氏が藤原氏との政争や恋愛に打ち勝つというもの。(現実は藤原氏が勝利している。)
そういう物語を藤原氏の紫式部が書くだろうかという疑問。

b.源氏物語の妊娠・出産の記述では子供を産んだ経験のある女性が書いたとは思えない矛盾がある。(紫式部は20代後半に藤原宣孝と結婚し娘を出産している。結婚3年後に宣孝は死亡。)

c.作中に婦人語がない。

d.紫式部の父親の役職は式部大丞であり、そこから彼女は紫式部と呼ばれていたと思われる。
作中に登場する「藤式部丞」は紫式部の父親がモデルと考えられるが、愚かな人物として描かれており、紫式部が書いたとするには不自然。

石山寺 三十八所権現社-鳥居 

源氏物語の作者は紫式部なのか、どうかについては、これからじっくり考えてみたいと思います。

ただ、男が書いた説もあるので、「日本は男女平等だった」の証拠としてあげるにはふさわしくないですね。
また、源氏物語を書いたのが紫式部でまちがいないとしても、さきほども述べたようにたった一例だけをあげて「日本は男女平等だった」というのはあまりにお粗末です。

ですから、紫式部以外の例を4~5個程度はあげて戴きたいと思います。

石山寺 

石山寺 紅葉

石山寺 東大門

石山寺-多宝塔 


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毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




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[2019/11/11 17:11] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)