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三千院 紅葉 『惟喬親王はなぜ鍛冶屋の祖として信仰されているの?』 

 

京都市左京区 三千院
2014年11月8日 撮影

三千院-往生極楽院2

①大原は惟喬親王が隠棲した小野の里?

8世紀、比叡山に円融房が建立されました。
その後、円融房は移転を繰り返したのち、1871年(明治4年)に大原後に移転、三千院と称しました。

三千院の境内には阿弥陀三尊像を安置する往生極楽院(旧称・極楽院)があります。
脇侍の観音菩薩・勢到菩薩が大和座りをしていることで有名な美しい像です。

http://www.sanzenin.or.jp/guide/index.html

極楽は ここにこそあらめ みほとけの やまとずわりの もろひざの上/土岐善麿

うまいこと詠みますね!

三千院-往生極楽院

この往生極楽院は1871年に三千院が移転してくるよりはるか以前、平安末期よりここにあったとされます。
三千院と極楽往生院はもともとは別の寺院だったのですね。

三千院が移転してくる以前の大原は隠棲の地として有名で、このブログにもよく登場する惟喬親王が病を患って出家し、隠棲した小野の里は大原であるともいわれています。
ただし小野の里は大原のほか、近江との説もあります。

三千院の近くに惟喬親王の墓があるそうですが、参拝したことがありません。
木地師の里などにも惟喬親王の墓はあり、こちらの方は参拝したことがあるのですが。

惟喬親王-墓2 
金龍寺高松御所の隣にある惟喬親王の墓

惟喬親王-墓

筒井峠にある惟喬親王の墓

②惟喬親王は木地師・漆・鍛冶屋搾油器(?)の祖

さて、この惟喬親王ですが、いろいろなものの祖として信仰されています。

有名なのは木地師の祖としての信仰ですね。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て、ろくろを発見したというのです。
 

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた巻物

また、京都の法輪寺には惟喬親王が籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が伝わり
惟喬親王は漆の祖としても信仰されています。

粟辻神社では鍛冶屋の祖として惟喬親王と在原業平を祀っています。

京都の大山崎にある離宮八幡宮はある神官が搾油器を発明したと伝わり、油の祖としてあがめられていますが
搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと私は考えています。

その理由は次のとおり。

a.搾油器の構造はろくろに似ている。

b.離宮八幡宮は石清水八幡宮と関係が深い神社だが、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲だった。
日本では先祖の霊は子孫が祀るべきと考えられており、惟喬親王の母親は紀静子だった。

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

 ③惟喬親王は虚空蔵菩薩のイメージと重ねられた?

なぜ惟喬親王はいろいろなものの祖であると信仰されているんでしょうか?

おそらく惟喬親王は虚空蔵菩薩とイメージが重ねられているのだと思います。

虚空蔵菩薩は知恵の神として信仰されていて、空海が虚空蔵求聞持法を修して記憶力抜群になったというのは有名な話。
だから、漆とかろくろ(搾油器も?)を発明したなどという伝説が作られたのではないでしょうか。

三千院4 
④惟喬親王と鍛冶の関係

惟喬親王が鍛冶師の祖というのは、粟辻神社を参拝して初めて聞きました。
ですが大阪府枚方市に残る惟喬親王の伝説からも、惟喬親王と鍛冶の関係を思わせます。

枚方市の茄子作という地名は、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子といいますね。
徳川家ゆかりの駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)など様々な説がありますが
私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えています。

栃木県那須町の近くには足尾銅山があります。
愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山があります。
銅は茄子色をしています。
そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないでしょうか。
つまり、茄子は銅を表す隠語ではないかと思うわけです。

鷹は鷹の爪のことでしょう。
鷹の爪の赤い色は水銀を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすをやはり坑道に見立てたのではないでしょうか。

藤は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのだと思います。
藤の花が房になって咲くようすもやはり坑道に喩えられたのだと思います。

大阪府枚方市には茄子作のほかに藤田川(とうだがわ)・高田(こうだ)・という地名があり、一富士・二鷹・三茄子が揃っているんです。

鈴は金属のスズを表しているのかもしれませんし、愛鷹は鷹の爪=水銀を表しているようにも思えます。

三千院3 

④水銀は不老不死寿の妙薬だった。

高野山には水銀の鉱脈があるそうで、それで高野山(高は「たか」とよむ。)という地名がつけられたとする説もあります。

水銀はかつて不老不死の妙薬と考えられていました。
実際には水銀を体内に大量に摂取すると水俣病になったりして不老不死どころか体に悪いのですが~。

空海が高野山を欲したのは水銀の鉱脈があったからだとする説もあります。
空海は高野山の奥の院に入定しました。
入定とは即身仏となるべく、石室などに籠ることをいいます。
入定する際には五穀をたち、木の皮や木の実のみを食べる木食という修行を行います。
脂肪を減らして死後腐りにくい体にすることを目的としていますが、水銀濃度の高い土壌で育った木や木の実には多くの水銀が含まれるということです。
そして水銀の防腐作用で、さらに腐りにくい体になるといわれます。

即身仏のメッカといえば湯殿山ですが、湯殿山の土壌の水銀濃度は高いということです。

古の人は腐らない体を不老不死と考えたのではないでしょうか。
多くのみほとけが金色に彩色されているのは、みほとけは腐らない金属の体を持っているということではないかと思います。

三千院-朱雀門 
⑤漆のお茶

私は惟喬親王も即身仏になるべく入定したのではないかと考えています。
さきほど、惟喬親王は虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があることをお話ししましたが
入定する際には漆のお茶をのむというのです。
こうすることによって胃の中に残ったものをはき、さらに漆の防腐作用で死後腐りにくい体になるのだとか。

惟喬親王が鍛冶屋の祖としても信仰されているのは、彼が腐らない金属の体になったと考えられたんだったりして?
 
三千院2

三千院-弁財天 

三千院の弁財天像の足元に小さな祠が。中をのぞいてみると・・・

三千院-玄武? 

亀と蛇の像がありました。玄武?

そういえば惟喬親王は玄武神社の御祭神でもありました。

玄武神社 やすらい祭 『胴体がなく、首の長い神様』 

この亀と蛇の像は惟喬親王をイメージして作られたものなのかも?

三千院 
 


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[2019/11/08 13:35] 京都府 | TB(0) | CM(0)

施福寺  紅葉 『施福寺を創建したのは行満大明神?』 

大阪市和泉市 施福寺
2013年11月23日 撮影

施福寺 紅葉7 
①僧・行満

槇尾山施福寺は飛鳥時代、欽明天皇(509-571年)の勅願によって行満が創建したと伝わります。
日本への仏教伝来は552年または538年とされ、百済の聖王より伝えられたと考えられています。
そして施福寺は仏教伝来後、まもない時期に創建されたということになりますね。

行満でぐぐっても、僧侶の名前としてはあまりヒットしません。
そのかわり、大行満・行満大明神などがでてきます。

施福寺 紅葉4

②大行満は千日回峰行をした人

大行満とは密教・修験道で、千日回峰行をした人に与えられる称号です。

千日回峰行とは千日間かけて霊山を巡拝行することで、比叡山の相応和尚によって始められました。

回峰行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠を被り、白装束をまといます。
千日回峰行は一度始めたら途中でやめることができないとされ、行半ばで挫折した場合には自ら命を絶つものとされています。
白装束をまとうのはそのためであると言われます。

施福寺 紅葉6

千日回峰行に要する期間は7年間。
1年目から3年目までは、毎年100日間、1日に30キロ歩いて260箇所を礼拝します。
4年目と5年目は、同じく30キロを200日礼拝します。
その後、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけるとのこと。
6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復を加えて、1日約60キロの行程を100日。
7年目の前半は比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼する84キロを100日。
最後の100日間は、1年目と同じく1日30キロをめぐり満行となります。

施福寺 紅葉2

施福寺は天台宗で、天台宗の総本山は比叡山延暦寺です。
延暦寺の創建は788年で、施福寺は延暦寺よりも創建が古いです。
(欽明天皇の勅願によって創建された寺なので、仏教伝来の538年から欽明天皇が崩御した571年の間に創建されたと考えられますね。)
日本の寺院は宗派を途中で変えることがしばしばありますので、施福寺が天台宗であっても不思議はないです。

施福寺 紅葉3 
③行満大明神

行満大明神を祀っているのは三重県鈴鹿市山本町の椿大神社です。参拝したことはないのですが~。

椿大神社の主祭神は猿田彦大神、相殿に皇孫・瓊々杵尊、幡千々姫命を、配祀に天之鈿女命、木花咲耶姫命を、前座に行満大明神を祀っています。

行満大明神は猿田彦の神裔で、修験神道の元祖。役行者を導いた神ということです。

大行満とは密教・修験道で、千日回峰行をした人に与えられる称号でしたね。
すると、施福寺を創建した僧・行満とは修験道の祖・行満大明神のことであるのかも?

施福寺 紅葉 

施福寺 紅葉8 



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[2019/11/06 18:39] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

11月の祭 まとめ 


日時はご確認の上、おでかけくださいね。(もう終わったのも多いですね。すすすすいません~)



京都市上京区 護王神社
亥の子祭・・・11月1日


護王神社 亥子祭

護王神社 亥子祭 行列

護王神社 亥子祭 『天子さまは二人いた。』 



京都市伏見区  城南宮
白拍子の舞・・・11月3日


城南宮 白拍子

城南宮 白拍子の舞 『北海道に旅立った義経と錫』 

京都市伏見区  城南宮
曲水の宴・・・11月3日


城南宮 曲水の宴 行列

城南宮 曲水の宴 童と歌姫

城南宮 曲水の宴 『羽觴は死者の魂の乗り物、遣水はあの世へ向かう川? 』 


大阪市中央区 難波宮跡
四天王寺ワッソ・・・2019年は11月3日
 
http://wasso.net/news/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%AF%E3%83%83%E3%82%BD2019%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0/

四天王寺ワッソ 2

四天王寺ワッソ 4

難波宮跡 四天王寺ワッソinなにわの宮 『日本語のルーツは古代韓国語ではないと思う。


京都御所 秋の一般公開
現在は通年公開となっています。


京都御所 碁

京都御所 采女

京都御所 蹴鞠

京都御所 一般公開 『大内裏が再建されなかった理由とは』 


京都市中京区 空也堂
空也忌・・・11月第2日曜日

空也堂 歓喜踊躍念仏

空也堂 千本六斎 六斎念仏2
 
空也堂 空也忌 『空也が愛した鹿とは平将門のことだった?』 


嵐山渡月橋一帯
嵐山紅葉祭・・・11月第2日曜日


嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛


嵐山 もみじ祭 夕霧大夫道中2

嵐山 紅葉祭 夕霧太夫道中 『難波太夫として復活した夕霧太夫』 

京都府東山区 法住寺 身代わり不動尊大祭
11月15日
 

法住寺 身代わり不動尊大祭 鬼


法住寺 身代わり不動尊大祭 護摩

法住寺 身代わり不動尊大祭 『後白河法皇の身代わりになった明雲』 


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[2019/11/04 14:55] まとめ | TB(0) | CM(0)

彦根城 紅葉 ライトアップ 『人柱になったお菊の正体とは?』 


滋賀県彦根市 彦根城
2014年11月23日 玄宮園より撮影


彦根城 ライトアップ2

①彦根城の人柱伝説

彦根城に次のような伝説があります。

1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となりました。
関ヶ原の合戦で功のあった井伊直政の息子・直継(直勝)が彦根の地を賜り、彦根城を築城することとなりました。
しかし工事ははかどらず、直継は「人柱をたてよ」と命じました。
ある藩士の娘・菊が「自分が人柱になる」と名乗り出、菊は生き埋めになりました。
その後、工事は順調に進みましたが、それ以来、彦根城に菊の花を植えてもすぐに枯れてしまうようになりました。

彦根城 ライトアップ

②伊井直政は徳川家康とBLの仲だった?

変態BL好きの私なんかは菊といえば男色を思い出してしまいます。
井伊直政は徳川家康と菊の契りをかわしていたとする説があるんですよね―❤

井伊直政は徳川家康の小姓で万千代と名乗っていましたが、小姓は男色の相手とされることが多かったのです。
また、『甲陽軍鑑』には「万千代、近年家康の御座を直す」と記されています。
「御座を直す」というのは菊の契りをかわすという意味ではないかといわれています。

彦根城 ライトアップ3 

③井伊直正、家康の小姓になって出世する。

井伊直政の父・直親は直政が2歳のときに謀反の嫌いをかけられて今川氏真に殺されました。
そこで直親の従妹の井伊直虎(大河ドラマで有名ですね。)という女性が中継ぎとして井伊氏の当主となりましたが、所領を失ってしまいます。

このように直政は不幸な幼年期を過ごしたのですが、家康の小姓になって以降、直正の人生はどんどん開けていきました。
直政は井伊氏の旧領を与えられ、井伊家は復活を遂げるのです。

直政は武田氏との戦いで戦功をあげ、旗本先手役となります。
本能寺の変では、家康の伊賀越えに従いました。
その後、井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となっています。
ひこにゃんが被っている兜は井伊直政が用いていたもので、鬼の角のような前立物から「井伊の赤鬼」と称されました。

伊吹山と伊井直正

直政は関ヶ原の戦いで家康本軍に随行し数々の手柄をあげますが、銃弾を右腕(または右肩)に受けて大けがをしてしまいました。

戦後も精力的に戦後処理などに尽力しましたが、鉄砲傷に破傷風を生じ、1602年に死亡しました。享年41歳でした。
その後、直政の息子・直継が彦根城の築城し、彦根藩(35万石)が置かれました。
彦根藩は明治まで井伊氏の藩として栄えることになるのですが、それは直政の功績と、直政が家康より寵愛を受けたことによるところが大きかったりして?


人柱になった娘・菊とは直政を女性に見立てて創作された物語なのではないでしょうか。
直政は関ヶ原の戦いで功労があったにもかかわらず、そのとき受けた怪我がもとで亡くなってしまったことを「人柱」と表現しているのかも~。
菊という名前にしたのは、直政が家康と菊の契りを結んでいたためだったりして?

彦根城 ライトアップ4 

彦根城 玄宮園2 
彦根城 玄宮園 


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[2019/11/04 00:16] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』 


京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮
2017年11月23日 撮影


離宮八幡宮 外観 
①天王山は女山?


平安時代、清和天皇は夢の中で、「九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へご遷座せよ」というお告げを聞きました。
清和天皇は夢告げに従い、僧・行教に、八幡神の遷座を命じました。
早速行教は宇佐に向かい八幡神を奉じて帰京する途中、山崎の津で夜の山(神降山)に霊光が光るのを見ました。
その地を掘ると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました
こうして859年に「石清水八幡宮」が創祀されました。

その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の地の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになりました。

http://rikyuhachiman.org/sinryouezu.html
↑ こちらに江戸時代に描かれた離宮八幡宮の絵が掲載されています。
神殿の背後に小高い山が描かれていますが、これが神降山なのでしょう。

現在、離宮八幡宮の北にJR山崎駅があります。
そのさらに北に天王山がありますが、この天王山が神降山なんでしょうか?
天王山の中腹に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ/元山崎天王社)があって、オオヤマツミ・スサノオを祀っていますが
元々の祭神は山崎神・酒解神ということです。

離宮八幡宮の御祭神は、本殿=応神天皇、左殿=酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿=比売三神ということで、自玉手祭来酒解神社と御祭神がかぶっていますので
この天王山が神降山なのかも?(間違っていたら教えてくださーい!)

姫路城は姫山・鷺山に築かれているとのことですが、姫路城の隣には男山があるんですよ。
これと同じように、石清水八幡宮が鎮座しているのは男山ですが、これに対して女山みたいなのがあるのではないかと私は常々思っていました。

もしかして、天王山は女山?



②油祖

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わります。
全国にこの製油技術が広まると、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜り、油の専売特許を得ました。
油を商うためには、離宮八幡宮の許状が必要であったそうです。

離宮八幡宮 油祖像 
③油を搾るしくみ
長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾るんですね。
長木 模型

離宮八幡宮 説明板より

写真向かって右の縦についている長い棒は、縄を巻き付ける道具だと思います。
この棒を前後させることによって縄を巻き付けている短い棒を回転させるのでしょう。
工学に詳しい友人に聞いたところ、逆回転防止の歯車がとりつけられているのではないか、とのこと。
長木 説明 
④搾油器とろくろ


この搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ています。

ろくろ 

木地師の里 ろくろ

どちらも棒にロープが巻き付けられていますね。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。

山崎 油売り 

離宮八幡宮 説明板より

⑤「長木」を発明したのは惟喬親王?

上の絵は木地師資料館に展示されていた掛け軸で、「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されていますね。

惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説があります。

しかしこの伝説は事実ではありません。
奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからですw

ですが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないでしょう。

そして、先ほどものべたように、離宮八幡宮の神官が発明した搾油器の構造はろくろに似ています。

ずばり、搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないでしょうか。
惟喬親王はろくろを発明したのと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのでは?

というのは、石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王は異母兄弟なんですよ。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子です。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかったのです。
しかし、時の権力者は藤原良房。源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めました。
こうして清和天皇が皇太子についたわけで、二人の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるんです。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑥八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

宇佐八幡宮は奈良時代には「道鏡を天皇とするべし」とか「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下しています。
どうやって信託を下したんでしょうね?
巫女に託宣するのかな?

それはわかりませんが、とにかく二つの皇位継承に関する神託をくだしたわけです。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣がありました。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのでしょう。

で、八幡宮の主祭神である応神天皇は、伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換したという話があります。(古事記)

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思えます。
これは政権交代を意味する物語ではないでしょうか。

離宮八幡宮 門

初代神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前に物部王朝があったという説があります。

また応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートが神武東征ルートと重なるので、同一人物ではないかとする説もあります。

記紀は神武は天皇家の人間で九州から東征してやってきたとしていますが、九州から東征してやってきたのは物部氏だったのかもしれません。

実際の天皇家は九州からではなく福井県敦賀あたりからやってきたのだったりして?

すると応神天皇が皇位継承の神として信仰されているのは、
彼が物部王朝の王であったが、彼が身を引いたため、イザサワケが皇位について政権交代したため、
だとも考えられますね。

そして惟喬親王も身をひくことで、清和天皇の即位をもたらしたと考えられたのではないかと思います。

清和天皇の生没年は850~881年です。
石清水八幡宮が創建された859年、清和天皇はまだ9歳です。
石清水八幡宮の創建には清和天皇の外祖父・藤原良房が関わっていると考えるのが妥当だと思います。

そして藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭ったということではないでしょうか。

日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方がありました。
石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲です。
このことも、「藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭った」という説を裏付けると思います。

離宮八幡宮 神馬 

⑥惟喬親王の水無瀬の離宮

また近所には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。

そして伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されていますよ。

惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。

水無瀬は惟喬親王ゆかりの地なんですね。
そして、水無瀬は離宮八幡宮から近いです。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたといいますが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたんだったりして?

 粟辻神社


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[2019/11/01 23:36] 京都府 | TB(0) | CM(0)