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日置天神社 秋祭 湯立神楽 『物部氏と紀氏の関係は?』 

大阪府枚方市 日置天神社
2019年10月20日 撮影
 

日置天神社 巫女 神楽 

①天田神社と石清水八幡宮は物部氏でつながる?

大阪府交野市にある天田神社があったあたりは、かつて石清水八幡宮の所領でした。
なぜ天田神社付近は石清水八幡宮の所領だったのでしょうか。

それについて、私はいったん、次のように考えました。

天田神社があったあたりはかつて交野ケ原(大阪府交野市・枚方市)と呼ばれ、肩野物部氏の本拠地でした。
そして天田神社はもともとは物部氏の祖神・ニギハヤヒを祀っていましたが、物部氏が衰えたことから住吉大神(上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后)を祀るようになったとされます。

そして石清水八幡宮の御祭神は応神天皇・神功皇后(応神天皇の母)・ひめ神ですが、私はこれらの神々は物部王朝の王ではないかと考えています。

ニギハヤヒと八幡神(応神天皇)は、どちらも物部氏なので、同一神と考えられた結果、天田神社付近の土地は石清水八幡宮の所領になったのではにないかと。

日置天神社 巫女 神楽

②八幡神は物部王朝の神?

その理由について詳しいことは、下記記事をお読みいただきたいのですが
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-1594.html
簡単に述べておきます。(といっても、結構長いかw)

い.神武=崇神=応神?

初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇は同一人物だとする説がある。

a.神武と崇神はどちらも和風諡号が「ハツクニシラス」という。神武=崇神。

b.応神天皇は神功皇后が三韓出兵した際、神功皇后のお腹の中にいた。
神宮皇后は朝鮮から九州の宇美に戻って応神天皇を出産し、九州から畿内へ戻る。
このルートが神武東征のルートと重なる。神武=応神。

c.神武=崇神(a)かつ 神武=応神(b) ∴神武=崇神=応神

ろ・神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?

応神天皇と同一人物と思われる神武天皇は九州から東征して畿内入りするが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていた。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説がある。

は・卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫

籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とある。
魏志倭人伝に登場する卑弥呼は日女命(ひめのみこと)に別の漢字をあてたものではないかとする説がある。
日女命は物部氏の祖神・ニギハヤヒの9代目の孫なので、物部王朝の女王ということになる。

に.神功皇后=卑弥呼

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があり、
日本書紀の筆者は「卑弥呼=神功皇后」と言いたいようである。
神宮皇后=卑弥呼ということは、神功皇后は物部氏の女性だということになる。
そして神功皇后を母親に持つ応神天皇もまた物部氏の王ということになります。

ほ.名前を交換することは政権交代を意味している?

古事記に伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換するという話がある。

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思える。
これは政権交代を意味する物語ではないか。

もともとの伊奢沙和気大神とは天皇家の人間だったのではないか。
ところが物部王朝の応神天皇が伊奢沙和気大神となり、天皇家の伊奢沙和気大神が応神天皇とすり替わってしまったのでは?

言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということである。

日置天神 湯立神楽

石清水八幡宮の御祭神は紀氏の神?

②の「八幡神は物部王朝の神」はいまのところ、正しいと考えています。
しかし、①の「天田神社と石清水八幡宮は物部氏でつながる?」という考えのは間違いである可能性が高いことに気が付きました。(すいません~)

石清水八幡宮は物部氏ではなく、紀氏が祭祀する神社です。
日本では先祖の例はその子孫が祭祀するべきとの考え方があります。
石清水八幡宮の御祭神はもともとは物部氏の神であったと思いますが、紀氏の神とイメージが重ねられた可能性が高いからです。

石清水八幡宮は清和天皇が創建したとされますが、清和天皇が立太子する際、世継争いがありました。

文徳天皇は紀静子との間に惟喬親王を、藤原明子との間に惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談をしますが、源信は権力者である藤原明子の父・藤原良房を憚って天皇をいさめたそうです。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。
この惟仁親王がのちの清和天皇です。

日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていました。
石清水八幡宮の神主が紀氏なのは、石清水八幡宮が政治的に不遇であった惟喬親王の霊を祭る神社だからではないか、と私は思います。

日置天神 湯立神楽2

④八幡神は皇位継承の神託を下す神?

②で述べたように、八幡神=応神天皇は、イザサワケという気比神社の神と名前を交換したという話があり
どうも応神天皇あたりで政権交代してるっぽく感じます。
応神天皇は、その身をひくことで、別の人物の皇位継承をもたらした神なのではないでしょうか。

奈良時代に宇佐八幡宮神託事件があり、「道鏡を皇位につけるべし」とか、「道鏡を皇位につけてはいけない」などと神託を下しています。
相反する神託ですが、皇位継承に関する神託であることは共通しています。

惟喬親王はその身をひくことで、清和天皇に皇位継承をもたらしました。

石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないでしょうか。

日置天神社 巫女 神楽

⑤玉津島明神=小野小町=惟喬親王?

それではなぜ天田神社付近の土地は石清水八幡宮の所領となったのでしょうか。

そしてここ日置天神や渚の院、茄子作などは、いずれも古に交野ケ原と呼ばれた場所にありますが
紀氏の母親を持つ惟喬親王の伝説がいくつか残されています。
ここ日置天神社にもこんな伝説が残されています。
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願しました。

いつのまにか、物部氏の土地は紀氏の土地になってしまったんでしょうか?

日置天神 湯立神楽3

玉津島明神が気になります。

天田神社の摂社・川東神社の御祭神は玉津島明神・厳島明神・八幡明神・戎神・八坂大神です。
このうちの玉津島明神は住吉大神・柿本人麻呂とともに和歌三神として信仰されている神です。

住吉大神の御祭神は神功皇后・底筒男命・中筒男命 ・表筒男命で、②に書いたように神功皇后は物部王朝の神だと考えられます。

玉津島明神は和歌山県の和歌の浦に祀られている神で、衣通姫と同一視されています。

和歌山は紀伊の国、惟喬親王と縁の深い紀氏の本拠地でした。
そして、古今和歌集仮名序には「小野小町は衣通姫の流なり」と記されています。

私は小野小町とは小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えています。

日置天神 湯立神楽 

詳しくは別ブログの次のシリーズ
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html

特に、下記記事を詳しく書いていますが、
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 
小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  

ざっとまとめておくと次のような理由があげられます。

a.古今和歌集には男が女の身になって詠んだ歌が多数ある。
b.古今和歌集仮名序はやけに小町が女であることを強調しているが、これは小町が男だからではないか。
c.小野小町は穴のない体で性的に不能であったともいわれているが、穴がない体なのは小町が男だからではないか。
d.『古今和歌集』に登場する女性歌人に三国町、三条町、がいる。
三国町は一般には継体天皇の母系氏族・三国氏出身の女性だと考えられているが、
  『古今和歌集目録』は三国町を紀名虎の娘で仁明天皇の更衣としている。
  紀名虎の娘で仁明天皇の更衣とは紀種子のことである。
  また三条町は紀名虎の娘で文徳天皇の更衣だった紀静子のことである。
  三国町が紀種子とすれば、三条町=紀静子なので、三国町と三条町は姉妹だということになる。
  そして紀静子は惟喬親王の母親だった。。
  惟喬親王は三国町の甥であり、三条町の息子なので、三国町・三条町とは一代世代が若くなる。
  そういうことで小町なのではないだろうか。
e.花のいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに
この歌は縁語や掛詞を用いて二重の意味をもたせた技巧的な歌だとされる。
・花の色はすっかり褪せてしまったなあ。春の長い雨のせいで。
・私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。恋の物思いにふけっている間に。
※『色』・・・『視覚的な色(英語のColor)』『容色』
※『世』・・・『世の中』と『男女関係』
※『ながめ』・・・『物思いにふける』『長雨』
しかし、もうひとつ違う意味が隠されているように思える。
・はねずの梅の鮮やかな色はあせ、(「はねず」は移るの掛詞なので、花ははねずの梅ととる)私の御代に(「わが御代に 下(ふ)る」とよむ。)長い天下(「ながめ」→「長雨」→「長天」と変化する。さらに「下(ふ)る」を合わせて「天下」という言葉を導く)がやってきたようだ。

『御代』とは『天皇の治世』、『我が御代に』とは『私の治世に』という意味である。

この小野小町が「衣通姫の流」ということは、衣通姫=玉津島姫なので、玉津島姫は小野小町=惟喬親王だということになります。

玉津島神宮は紀氏の本拠地・紀州が本宮ですし。

この考察が正しければ、天田神社の摂社・川東神社の御祭神の中に紀氏の神がいるということになります。

日置天神 湯立神楽 

⑥紀氏と物部氏は血縁関係がある?

紀氏と物部氏は血縁関係があるのかもしれません。
そういえば、惟喬親王の妻ってどなただったでしょうか?

兼覧王(かねみおう866~932年)という方がいて、惟喬親王の子だとされていますが、母親がわかりません。

うーーーん?

ということで、結局、天田神社ちかくの土地が石清水八幡宮の所領であった理由についてはわかりませんでした~。

でも自分用のメモとして残しておきます。(汗~)



日置天神 湯立神楽3 

日置天神社 



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[2019/10/29 14:55] 大阪の祭 | TB(0) | CM(0)