天田神社 秋祭り
10月第2日曜日(確認をお願いいます。)
①星田妙見宮は織女星、天田神社は彦星
以前、星田妙見宮をお参りして以来、天田神社の秋祭にぜったい行きたい、と思っていました♪
星田妙見宮と天田神社は天の川をはさんで対面しています。
星田妙見宮には織女石(たなばたいし/おりめいし)呼ばれる巨岩があり、七夕伝説の織女星(ベガ)に喩えられます。
そして天田神社は彦星(アルタイル)に喩えられています。
そして、次のように伝えられてます。
このあたりの土地が肥えて作物が豊かにとれるところから甘野、天の川は甘野川、甘野にある田は天田と呼ばれていた。
そして甘田に他の神を祀って甘田宮とした。
七夕信仰から、甘野川は天の川、となり、天田は牽牛が耕す田と考えられた。
牽牛は牛飼いとされますが、昔は田おこしの際には牛を牽いて田を耕していましたから、牽牛は田の神と考えられたんでしょうね。
実はこのあたりにはもう1ペア、織女星&彦星に喩えられた場所があります。
機物神社と中山観音寺跡です。
これについては、次の記事をお読みください。
観音山公園 機物神社 七夕祭 『山上憶良と山之上』
②石清水八幡宮所領
調べてみたところ、このあたり(森地区)は石清水八幡宮の所領であったことがわかりました。
平安時代の三宅山荘園の遺構も発掘されています。
森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされているそうです。
③石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる?
天田神社付近が石清水八幡宮の所領であったと聞いて、テンションあがる、あがる!
石清水八幡宮の御祭神は応神天皇ですが、実は私は応神天皇とは物部氏の人物なのではないかと考えているのです。
そして、かつて交野ケ原と呼ばれたこのあたり(大阪府交野市・枚方市付近)は、古には肩野物部氏が住んでいた地域だったのです。
石清水八幡宮ー応神天皇を祀るーーーーーーーー物部氏が祭祀する神社
交野ケ原(天田神社も交野ケ原にあった)―――肩野物部氏が住んでいた。
こうしてみると、物部氏繋がりで、天田神社近付近が石清水八幡宮の所領となったのではないかと思えます。
※追記
と、書きましたがこれは間違いである可能性大です。すすすすいません!詳しくは、こちらの記事をお読みください。
日置天神社 秋祭 『だんじりの彫刻は惟喬親王の伝説をイメージしたもの?』
はあ~、よっぱらっちゃったよ~③応神天皇は物部氏の人物?私が「応神天皇は物部氏の人物なのではないか」と考えている理由についても、以前の記事に書いたのですが、下にまとめておきます。
い.神武=崇神=応神?石清水八幡宮の御祭神の一、誉田別尊(ほんだわけのみこと)とは、第15代応神天皇のことです。
初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇は同一人物だとする説がありますよ。
a.神武と崇神はどちらも和風諡号が「ハツクニシラス」といいます。
ハツクニシラスがふたりいるのはおかしい。よって、神武=崇神。
b.応神天皇は神功皇后が三韓出兵した際、神功皇后のお腹の中にいました。
神宮皇后は朝鮮から九州の宇美に戻って応神天皇を出産します。
そして九州から畿内へ戻るのですが、そのルートが神武東征のルートと重なるので、神武=応神。
c.神武=崇神(a)かつ 神武=応神(b) ∴神武=崇神=応神
獅子さんもおのみなさいな。ろ・名前を交換することは政権交代を意味している?古事記にこんな話があります。
武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子(応神天皇)と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。
翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。
御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。
イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。これは政権交代を意味する物語ではないでしょうか?
伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。
応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのでは?
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか?
ああああ・・・足がもつれる~は・神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?応神天皇と同一人物と思われる神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。
ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。
ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。
コラー、ひょっとこ!棒で頭つつくな!に.卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。
この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。
また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。
箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。
しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。
ほ.神功皇后=卑弥呼
日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。
39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」
40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」
43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」
http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)
我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!
私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。
そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので
卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后
ということになると思います。
最後は仲良しにw
へ.応神天皇は二人いた?
すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。
そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?
もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。
ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?
言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。
と.八幡神は物部王朝の応神天皇?
八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。
八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。
また、日本には怨霊信仰がありました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。
そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。
「天皇は神として祀られているケースが多い」と思っている方が結構いらっしゃいますが
その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など)
古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。
応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないでしょうか。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村