大阪府枚方市 日置天神社 2019年10月20日 撮影
日置天神社の秋祭のはじまり、はじまり~♪①交野ケ原に残る惟喬親王の伝説
前回、天田神社の由緒書に次のように書いてあるということをお話ししました。 「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。 その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」 「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、」とありますが、その宮廷貴族の中に紀有常、在原業平らがいます。 彼らは惟喬(これたか)親王の寵臣であり、惟喬親王のお供をして狩にやってきて、歌会を開いたという話が伊勢物語などに記されています。 大阪府交野市・枚方市あたりはかつては交野ケ原と呼ばれていました。 そして枚方市には惟喬親王の伝説がいくつか残されています。 ↑ 渚の院です。(保育園の隣にあって鐘楼が残っているだけです。) ここで惟喬親王・紀有常・在原業平らは歌会を開きました。 ↑ 上は枚方市茄子作南町にある本尊掛松跡。 1321年、融通念仏宗中興の法明上人が男山八幡(石清水八幡宮)の神よりお告げを受けて、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より男山へ向かっていたところ、ここで、同じ夢告げを受けた八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来画像を授けられたと伝えられます。 この茄子作という地名の由来について、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。 そしてここ、日置天神には次のような伝説が伝えられています。 惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願しました。
 日置天神社には8台ものだんぢりが残されていて、秋祭に公開されています。 そのうち1台は氏子さんたちによって町を引き回されます。 氏子さん方に、いろいろなことを教えていただきました。ありがとうございました。 だんじりの彫刻については、「わからない」ということでした。 引き回されるだんじりの側面に、鷹の彫刻が。惟喬親王の愛鷹にちなむものでしょうか?
正面はこんな感じです。菊の彫刻が惟喬親王を思わせます。 大皇器地祖神社は木地師の祖として惟喬親王を祀っていますが、神紋が十六菊なんですよね。 この彫刻の花びら数えてみたら20弁で、数がちがいますがw
↑ これはひきまわさない別のだんじりですが、巻物を持っているのが、惟喬親王を思わせます。 というのは、惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があるのです。 巻物持っているのは女性ですが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているので! 詳しくは別ブログの次のシリーズをお読みください。 http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html全部読む時間がない方はこちらを読んでいただけると嬉しいです♬ 小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』  さあ、だんじりが出発しますよ~。 ながらくだんじりの引き回しは行われていなかったとのことですが、数年前から復活したそうです。嬉しいね。 ②石清水八幡宮は惟喬親王を祀る神社?天田神社 秋祭 『肩野物部氏の土地が石清水八幡宮の所領だったのはなぜ?』 ↑ こちらの記事にはこんなことを書きました。 a.天田神社あたり(森地区)は石清水八幡宮の所領であった。ことがわかりました。 b.森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされている。 c.石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる?
石清水八幡宮ー応神天皇を祀るーーーーーーーー物部氏が祭祀する神社 交野ケ原(天田神社も交野ケ原にあった)―――肩野物部氏が住んでいた。 しかし、cは間違いである可能性が大であることに気がつきました。(すいません!) 石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる、と書きましたが、 石清水八幡宮は紀氏と関係の深い神社なのでした。 以前の記事に書いているのに、忘れていました(汗) 永観堂(禅林寺) 雪 『惟喬親王のおもかげを映す阿弥陀如来』 ↑こちらの記事に書いたのですが、石清水八幡宮は清和天皇の勅願によって創建されたと伝わります。 そしてその石清水八幡宮の神主は代々紀氏の世襲なのです。 清和天皇と紀氏はあまり折り合いがよさそうには思われません。 実は清和天皇は惟喬親王の異母弟なんですね。 文徳天皇は紀静子との間に惟喬親王を、藤原明子との間に惟仁親王をもうけていました。 文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談をしますが、源信は権力者である藤原明子の父・藤原良房を憚って天皇をいさめたそうです。 こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。 この惟仁親王がのちの清和天皇です。 日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていました。 石清水八幡宮の神主が紀氏なのは、石清水八幡宮が政治的に不遇であった惟喬親王の霊を祭る神社だからではないか、と私は思います。(だから、そう思ってるなら忘れるなって~) ③八幡神は皇位継承の神託を下す神?八幡神とは応神天皇・比咩大神・神功皇后の三柱の総称です。 神功皇后は和風諡号をオキナガタラシヒメといい、タラシ王朝(物部王朝?)の14代仲哀天皇の皇后です。 そして応神天皇の父親は仲哀天皇、母親は神功皇后なのですが イザサワケという気比神社の神と名前を交換したという話などがあり、どうも応神天皇あたりで政権交代してるっぽく感じます。 応神天皇は、その身をひくことで、別の人物の皇位継承をもたらした神なのではないでしょうか。 奈良時代に宇佐八幡宮神託事件があり、「道鏡を皇位につけるべし」とか、「道鏡を皇位につけてはいけない」などと神託を下しています。 相反する神託ですが、皇位継承に関する神託であることは共通しています。 惟喬親王はその身をひくことで、清和天皇に皇位継承をもたらしました。 石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないでしょうか。 すると、物部氏の神を祀る交野市の天田神社付近が紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領であったのはなぜなのか、もういちど原点に戻って考える必要がありそうです。(汗) それについては次回。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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大阪府交野市 天田神社 秋祭 10月第2日曜日(確認をお願いします。)

①天田神社の御祭神、ニギハヤヒから住吉神に変わる?
天田神社の御祭神は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后 です。 これらの神々は大阪市の住吉大社にも祀られており、総称して住吉明神といわれています。 天田神社の由緒書には次のように書いてありました。 「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。 その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」 もともと天田神社の御祭神はニギハヤヒだったのが、平安時代ごろに住吉神に変わったというのです。 ②住吉大神と大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩は同一神
ニギハヤヒは物部氏の祖神で、天田神社からほど近い場所にある磐船神社の御祭神です。 この磐船神社の境内には、大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩像が刻まれています。 この4体のみほとけは「住吉大神」と呼ばれています。 磐船神社 住吉大神みほとけなのに、住吉大神? 仏なのか神なのか、どっちやねん!と思われるかもしれませんが 明治まで神仏は習合されて信仰されてきました。 祖の神仏習合のベースとなったのが本地垂迹説です。 本地垂迹説とは日本古来の神々は、仏教の神々が衆上を救うため、仮に姿を現したものであるとする考え方のことで 御仏の仮の姿である日本古来の神々のことを権現、日本古来の神々のもともとの正体である仏教の神々のことを本地仏といいます。 つまり、住吉大神(底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后)は、大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩が衆上を救うために仮にこの世にあらわしたものであり 住吉大神(底筒男命・中筒男命 ・表筒男命・神功皇后)のもともとの正体は大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩であると考えられたということですね。 住吉大神と大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩は同一神であるといってもいいでしょう。 ③船の神つながり?
御祭神が変わるというのは実はそんなに珍しいことではないように思います。 調べものなどをしていると、よくそういう話がでてきます。 ただ、全く関係のない神様を御祭神にする、というようなことはしないのではないかと思ったりします。 ニギハヤヒと住吉神は関係があるのではないでしょうか。 由緒書では「磐船の神も海に関係があると考えられ」とあります。 住吉神社の総本社・住吉大社は現在は海岸線から随分と離れていますが、かつては神社のすぐ近くまで海であったといわれます。 長い年月の間に大和川が運ぶ土砂が堆積して住吉大社からどんどん海岸線が遠ざかっていったようなんですね。 そして住吉大社は海の神、航海の神として信仰されています。 ③住吉大社はみたらし星の神?
しかし住吉大社は三ツ星の神ではないか、ともいわれています。 住吉大社の社殿のレイアウトがみたらし星(オリオン座の三つ星)に似ているというのです。(みたらし星は上図のように小さい星があって実は星四つで構成されています。) ④住吉神はタラシ王朝の神?住吉大社の第四本宮は14代仲哀天皇の皇后・神功皇后=息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)をお祀りしています。 もしかして、第一本宮、第二本宮、第三本宮に祀られている底筒男命・中筒男命 ・表筒男命とは、12代景行天皇(おお たらしひこおしろわけのすめらみこと)、13代成務天皇(わか たらしひこのみこと)、仲哀天皇( たらしなかつひこのすめらみこと)のことなのではないでしょうか? 景行天皇・成務天皇・仲哀天皇は和風諡号に「たらし」とあるところから、「タラシ王朝」などともよばれます。 (神功皇后も和風諡号を「おきながたらしひめのみこと」といい、「たらし」がつきます。) 住吉神はタラシ王朝の神ではないかと思ったりします。 ⑤タラシ王朝は物部王朝?
前回の記事、 天田神社 秋祭 『肩野物部氏の土地が石清水八幡宮の所領だったのはなぜ?』 に書いたように、 14代仲哀天皇の皇后・神功皇后は物部王朝の人物ではないかと思います。 すると「タラシ王朝」も物部王朝ではないかと考えられます。 神功皇后も仲哀天皇も「タラシ王朝」の人間で結婚したとなれば近親婚ですが、かつて近親婚はあたり前のように行われていたようです。 古代エジプトにおいても同複の兄妹、姉弟で夫婦になるということが行われていました。 その理由としては、血の純潔を守るという意識が強かったからではないかといわれています。 ⑥ニギハヤヒも住吉明神も物部王朝の神そしてニギハヤヒは物部氏の祖神とされます。 つまり、住吉明神もニギハヤヒも物部氏の神なので、同一視されたということかもしれません。 磐船神社 ご神体 天の磐船
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天田神社 秋祭り 10月第2日曜日(確認をお願いいます。) ①星田妙見宮は織女星、天田神社は彦星
以前、星田妙見宮をお参りして以来、天田神社の秋祭にぜったい行きたい、と思っていました♪ 星田妙見宮と天田神社は天の川をはさんで対面しています。 星田妙見宮には織女石(たなばたいし/おりめいし)呼ばれる巨岩があり、七夕伝説の織女星(ベガ)に喩えられます。 そして天田神社は彦星(アルタイル)に喩えられています。 そして、次のように伝えられてます。 このあたりの土地が肥えて作物が豊かにとれるところから甘野、天の川は甘野川、甘野にある田は天田と呼ばれていた。 そして甘田に他の神を祀って甘田宮とした。 七夕信仰から、甘野川は天の川、となり、天田は牽牛が耕す田と考えられた。
牽牛は牛飼いとされますが、昔は田おこしの際には牛を牽いて田を耕していましたから、牽牛は田の神と考えられたんでしょうね。 実はこのあたりにはもう1ペア、織女星&彦星に喩えられた場所があります。 機物神社と中山観音寺跡です。 これについては、次の記事をお読みください。 観音山公園 機物神社 七夕祭 『山上憶良と山之上』 ②石清水八幡宮所領
調べてみたところ、このあたり(森地区)は石清水八幡宮の所領であったことがわかりました。 平安時代の三宅山荘園の遺構も発掘されています。 森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされているそうです。 ③石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる?
天田神社付近が石清水八幡宮の所領であったと聞いて、テンションあがる、あがる! 石清水八幡宮の御祭神は応神天皇ですが、実は私は応神天皇とは物部氏の人物なのではないかと考えているのです。 そして、かつて交野ケ原と呼ばれたこのあたり(大阪府交野市・枚方市付近)は、古には肩野物部氏が住んでいた地域だったのです。 石清水八幡宮ー応神天皇を祀るーーーーーーーー物部氏が祭祀する神社 交野ケ原(天田神社も交野ケ原にあった)―――肩野物部氏が住んでいた。 こうしてみると、物部氏繋がりで、天田神社近付近が石清水八幡宮の所領となったのではないかと思えます。 ※追記 と、書きましたがこれは間違いである可能性大です。すすすすいません!詳しくは、こちらの記事をお読みください。 日置天神社 秋祭 『だんじりの彫刻は惟喬親王の伝説をイメージしたもの?』 はあ~、よっぱらっちゃったよ~③応神天皇は物部氏の人物?私が「応神天皇は物部氏の人物なのではないか」と考えている理由についても、以前の記事に書いたのですが、下にまとめておきます。 い.神武=崇神=応神?石清水八幡宮の御祭神の一、誉田別尊(ほんだわけのみこと)とは、第15代応神天皇のことです。 初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇は同一人物だとする説がありますよ。 a.神武と崇神はどちらも和風諡号が「ハツクニシラス」といいます。 ハツクニシラスがふたりいるのはおかしい。よって、神武=崇神。 b.応神天皇は神功皇后が三韓出兵した際、神功皇后のお腹の中にいました。 神宮皇后は朝鮮から九州の宇美に戻って応神天皇を出産します。 そして九州から畿内へ戻るのですが、そのルートが神武東征のルートと重なるので、神武=応神。 c.神武=崇神(a)かつ 神武=応神(b) ∴神武=崇神=応神 獅子さんもおのみなさいな。ろ・名前を交換することは政権交代を意味している?古事記にこんな話があります。 武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子(応神天皇)と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。 翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。 御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。 イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。これは政権交代を意味する物語ではないでしょうか? 伊奢沙和気大神とは福井県敦賀市の気比神宮に鎮座する神です。 応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされたという話なのでは? そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたということではないでしょうか? ああああ・・・足がもつれる~は・神武天皇以前、畿内には物部王朝があった?応神天皇と同一人物と思われる神武天皇は九州から東征して畿内入りするのですが、畿内には神武天皇よりはやくニギハヤヒという神が天下っていました。 ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武天皇以前、畿内には物部王朝があったという説があります。 ニギハヤヒを神と奉じるナガスネヒコは神武と対峙しますが、ニギハヤヒはナガスネヒコをうらぎって神武につき、ナガスネヒコは神武に殺されたと記紀は記しています。 ここから神武天皇以前、畿内には物部王朝があったとする説があります。 コラー、ひょっとこ!棒で頭つつくな!に.卑弥呼は日女命=倭迹迹日百襲姫命でニギハヤヒの孫籠神社の系図によれば、始祖ニギハヤヒの9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」とあります。 この日女命が魏志倭人伝に登場する卑弥呼ではないかといわれています。 また倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は大きさが魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と同じぐらいです。 箸墓は前方後円墳ですが、魏志倭人伝は、卑弥呼の墓が前方後円墳だとは記していません。 しかし近年の研究でもともと円墳であったものを、前方後円墳に作り直した可能性が浮上しています。 ほ.神功皇后=卑弥呼
日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があります。 39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」 40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」 43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」
http://fushigi-chikara.jp/sonota/6883/ より引用(ありがとうございます!)
我々の先祖は魏志倭人伝を読んでおり、魏志倭人伝に登場する卑弥呼とは神功皇后のことであると考えていたのですね!
私は神宮皇后とは卑弥呼をモデルに創作された人物で、実在していなかったのではないかと思います。 そして10代崇神天皇の叔母で箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だと思うので 卑弥呼=日女命(ニギハヤヒの9代目の孫)=倭迹迹日百襲姫命(籠神社の系図に日女命の別名と記されている)=神功皇后 ということになると思います。
最後は仲良しにw
へ.応神天皇は二人いた?
すると神功皇后とはニギハヤヒの9代目の孫・日女命のことであり、ニギハヤヒは物部氏の祖なので、神功皇后は物部王朝の女王ということになります。 そして神功皇后の御子である応神天皇もまた物部王朝の王であったということになりますが、イザサワケと名前を交換して(政権交代して)しまった?
もともとのイザサワケとは天皇家の人間だったのではないでしょうか。 ところが物部王朝の応神天皇がイザサワケとなり、天皇家のイザサワケが応神天皇とすり替わってしまったのでは?
言い換えれば、物部王朝の応神天皇と、天皇家の応神天皇、ふたりの応神天皇がいたのではないかということです。
と.八幡神は物部王朝の応神天皇?
八幡神は天皇家の応神天皇ではなく、物部王朝の応神天皇だと思います。 八幡宮にはたいてい神功皇后も祀られていますが、彼女も物部王朝の女性だと考えられますので。
また、日本には怨霊信仰がありました。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の祟りで引き起こされると考えられていました。 そこで怨霊が祟らぬように神として祭ったのです。
「天皇は神として祀られているケースが多い」と思っている方が結構いらっしゃいますが その多くは明治以降の国家神道重視の政策の中で創建されたもので、(神武天皇を祀る橿原神宮・天智天皇を祀る近江神宮・桓武天皇を祀る平安神宮など) 古より神として祀られていた天皇はそんなに多くないと思います。
応神天皇は例外で、古くから八幡神として祀られていましたが、それは応神天皇が物部王朝の天皇であり、政治的に不幸な死を迎えた天皇(ニセモノの応神天皇に政権を奪われた)だからではないでしょうか。
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奈良市雑司町 東大寺
東大寺 三月堂 百日紅
①執金剛神の髻、平将門の乱を平定する。
三月堂の不空羂索観音の後ろの厨子に秘仏の執金剛神(しゅこんごうじん)が安置されています。 この執金剛神には次のような伝説があります。
940年、平将門の乱がおこったとき、執金剛神の前で将門誅討の祈祷を行った。 すると執金剛神の髻が大きな蜂となって東方へ飛びさり乱を平定した。 そのため、執金剛神には髻の元結紐の端が決失している。
この伝説にちなみ、今日は成田山不動尊 夕景『将門関連七神社は北斗七星をあらわしていない?』 のつづきを書きたいと思いま~す。
東大寺 三月堂 百日紅
②将門関連七神社=北斗七星説に納得できなかった3つの理由
成田山不動尊 夕景『将門関連七神社は北斗七星をあらわしていない?』 ↑ こちらの記事で、「東京には平将門に関連する神社がたくさんあり、それをつなぐと北斗七星の形になる(将門魔方陣)」と、加門七海さんが指摘しておられるという話をしました。
ですが、私には納得できないことが3点ありました。
a.将門関連七神社というが、東京には将門関連の寺社は11か所あります。
b.私は「江戸城は天の北極、筑波山はカシオペア座、富士山は北斗七星になぞらえられている。」と考えています。 その理由については、次の記事をお読みください。 富士山 夕景色と朝景色 『関東に北極星・カシオペア座・北斗七星が存在していた?』 すると、下図のように、北斗七星がふたつあっておかしなことになってしまいます。 実際の天の北極の近くにはこぐま座がありますが、将門魔方陣はこぐま座とは形がちがうし、位置も異なります。
※現在はポラリスがほぼ天の北極にあって北極星とされていますが、歳差運動の影響で1600年ごろの天の北極は上図のようにポラリスからはやや離れていたと思われます。 c.bは夜空を反転させた形でなぞらえられている。(星が天球にはりついているものとし、天球の上から星をながめると左右反転してみえる。) すると将門関連七神社がつくる北斗七星の形は左右反転していることになる。 (北斗七星と将門魔方陣は左右反転していますね)
⑥将門関連寺社の由緒
これ以上のことは、加門七海氏の著書「将門魔方陣」を読んだり、将門関連11寺社について調べてみないことには結論が出せない!
ということで、さっそく本も読み、将門関連11寺社についても(主にウィキペディアで)調べてみました。
これらの寺社の由緒をざっと表にまとめておきます。 加門氏は七神社を将門サイド(鳥越神社・兜神社・首塚・神田明神・鎧神社・稲荷鬼王神社・筑土神社・日輪寺)、アンチ将門(筑土八幡神社・水稲荷神社・烏森神社)という風にわけておられるので 将門サイドはピンク色文字、アンチ将門は水色文字でわけておきました。 オレンジ色で示したのはウィキペディアには記載がなかったが、加門氏が本に書かれていた内容を記したものです。
●将門関連七神社
鳥越神社 | 景行天皇代に、日本武尊が皇祖二柱の大御神を祀った。 651年、村民が「白鳥明神」として奉祀した。 前九年の役征圧のため源頼義・義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り 大川(隅田川)を渡ることができた。 白鳥明神のご加護として鳥越大明神の社号を奉った。 1620年、江戸幕府は浅草御蔵を造営するため、土地を没収して大明神のある鳥越山を切り崩し埋め立て用に用いた。 三社のうち熱田神社は今戸へ、第六天榊神社は森田町(現・蔵前3丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社
千葉氏という一族が神職を務めている。千葉氏の祖先は平将門の叔父・平良文であるともいう。
将門の首がここを飛び越えたとする説あり | 兜神社 | 境内に兜岩と呼ばれる岩がある。 由来については3つの説がある。 1.後三年の役(西暦1080年代)で、源義家が奥州から凱旋してきたとき、東夷鎮定を祈願して兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作った 2.前九年の役(西暦1050年代)で、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願した 3.承平の乱(西暦935~940年)のころ、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、将門の兜を埋めて塚をつくり供養した。 鎧の渡付近に将門を祀った鎧稲荷や源義家の兜塚があった。
昭和2年現在地へ移転 江戸時代より兜岩は現在地へあった。 | 首塚 | 首塚はかつて盛り土と石室・石郭があり古墳だったとみられる。 将門の首塚、東国の平氏武将の崇敬をうける。 芝崎村住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきた。 1307年、他阿真教が将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立した。 首塚の近くには天台宗寺院日輪寺があったが、時宗芝崎道場に改宗した。 日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという。神田明神別当をつとめる。 江戸時代、日輪寺は浅草に移転するも、今なお神田明神とともに首塚を護持している。 首塚は江戸時代まで酒井雅楽頭の上屋敷の中庭にあったが、関東大震災によって損壊。 周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなったが、大勢の関係者が謎の死をとげ将門の祟りと噂された。 昭和2年(1926年)将門鎮魂碑が建立された。
芝崎には安房神社があり将門は生前同系の神社に太刀などを治めていた関係で、首をここに埋めた。
| 神田明神 | 730年、武蔵国豊島群芝崎村に入植した出雲系氏族が、大己貴命を祖神として祀る。 神田はもと伊勢神宮の御田(神田)があり、神田を鎮める目的で創建され、神田ノ宮と称した。 神田明神の近くに将門の首塚があった。 1309年、平将門が当社の相殿神とされる。 1603年、神田台へ移転。1616年、現在地へ移転。 1874年(明治7年)、明治天皇行幸の際、逆臣である平将門が祀られているのはよくない、として 平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨木県大洗磯前神社から勧請された。 平将門は境内摂社に遷された。 1984年(昭和59年)平将門、本社祭神に復帰した。
| 筑土八幡神社 | 嵯峨天皇代(809-823)、老人の夢に顕れた八幡神の夢告げにより、創建。 850年、円仁、最澄作の阿弥陀如来像を安置。 文明年間(1469-1487)上杉朝興が社殿を建て、土地の鎮守とする。 1616年、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に遷座し、津久戸明神社となる。 江戸城乾の守護として勧請 1945年、第二次世界大戦によって全焼。 津久戸明神社、千代田区九段北に移転して築土神社となる。 八幡神社は現在地に残る。 江戸時代初期、天海僧正が、平将門の足を祀ったとする風説あり。
別の史料によれば、八幡神社に将門が合祀されている。将門は津久戸明神という名前の地主神となっている。 八幡神社は将門の霊域に立つという伝説がほしかったのではないか。 庚申塚あり。 | 水稲荷神社 | 941年、藤原秀郷が冨塚の血に稲荷大神を勧請し「冨塚稲荷」と名付けた。 1702年、 神木の椋の根元より涌きだした霊水が眼病に利くとして「水稲荷神社」と改名された。 1788年、 「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められ、「関東稲荷総領職」を賜る。 1963年、早稲田大学と土地を交換して現在地に遷座。
稲荷神の神託により源経基は将門を滅ぼした。 | 鎧神社 | 醍醐天皇代(898-929)、円照寺創建。鎧神社は円照寺の鬼門鎮護として創建されたと考えられている。 947年、平将門の鎧を埋めたとの伝承あり。
俵藤太が将門の首を埋めたとも。猿の石像あり。 | | ピンク色文字・・・将門サイド 水色文字・・・アンチ将門 オレンジ色文字・・・加門氏による |
鎧神社を加門氏は「将門サイド」としておられますが、「アンチ将門」とするべきだと思います。 というのは鎧神社の別当寺に円照寺があり、円照寺の伝説として、次のように伝わっているからです。
平安時代、薬師如来が祀られていた。 平将門討伐のため藤原秀郷がこの地を訪れたが病に倒れる。 薬師如来のご加護を得て病は治り、将門も討伐することができた。 藤原秀郷はこれに感謝して円照寺を創建した。
ただ、慰霊にせよ、調服にせよ、どの寺社も将門の怨霊を鎮めるという目的を持っているわけで、「将門サイド」「アンチ将門」のように分類することにさほど意味があるとは思われません。
加門氏もあまり「将門サイド」「アンチ将門」の分類にこだわっておられないように思われました。
あと将門関連七神社からもれた4神社についてもまとめておきます。
●将門関連七神社以外
築土神社 | 940年、津久戸村(上平川村、現:千代田区大手町1丁目、将門塚付近)に平将門の首を祀り、塚を築く。 「津久戸明神」として創建された。 室町時代、大田道灌が田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転させ、「田安明神」と呼ばれた。 1616年、江戸城拡張工事のため、筑土八幡神社隣(新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。 1874年、天津彦火邇々杵尊を主祭神として「築土神社」と改称する。 1945年、東京大空襲によって全焼。 1954年、九段中坂の途中にある世継稲荷境内地へ移転。
太田道灌が江戸城乾の守護として勧請(江戸名所図会) 江戸名所図会の詞書に「将門註せられし後、その首級を当国江戸平川の観音堂へ移し、これを斎(いわ)いて 津久戸明神とす。」とある。 | 稲荷鬼王神社 | 平将門の幼名「外都鬼王(げづおにおう)」「鬼王丸」というところから神社名を鬼王にしたともいわれる。
1653年、諏訪神社境内の福瑳稲荷を大久保村に勧請し、氏神として稲荷神社を創建。 1752年、田中清右衛門が病気平癒のため、紀州熊野の鬼王権現を勧請。 1831年、稲荷神と鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社とする。 1894年、古来よりこの地にあった浅間神社を、稲荷鬼王神社に合祀。 昭和5年(1930年)境内社として浅間神社を再興。境内に富士塚を造成 昭和43年(1968年)社殿再建、富士塚を二分する。 | 烏森神社 | 940年、藤原秀郷が武蔵国の稲荷神社に平将門の乱鎮圧を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。 その矢によって速やかに乱を鎮めることができた。 その後、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であると告げた。 秀郷が桜田村にやってきたとき、烏が群がっていたので、そこに神社を創建した。
| 日輪寺 | 徳治年間(1303-1308)この地を訪れた他阿真教が将門の首塚の祟りで疫病が流行しているとおびえる村人のため 塚を修復し供養をしたところ疫病が治まり、村人の勧めもあって日輪寺を時宗に改め念仏道場とした。 1590年以降、移転を繰り返す。1601年柳原へ移転。 1657年の明暦の大火で焼失し、浅草へ移転。
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注意したいのは、日輪寺・首塚・神田明神はもとは同じ場所にあったということです。 その後、神田明神は1603年に神田台へ移転し、さらに1616年、現在地へ移転しています。 日輪寺は1601年に柳原へ移転し、1657年に現在地へ移転しています。
さらに、筑土八幡神社と筑土神社ももとは同じ場所にあったことにも注意してください。
嵯峨天皇代(809-823) 筑土八幡神社創建 1616年、田安明神が筑土八幡神社の隣に遷座し、津久戸明神社となる。 1945年、第二次世界大戦によって全焼。 津久戸明神社、千代田区九段北に移転して築土神社となる。八幡神社は現在地に残る。
神田明神
⑦日輪寺・神田明神・田安神社の1616年の移転は将門魔方陣を作るのが目的だった?
加門氏は、日輪寺・神田明神・田安神社の1616年の移転は、幕府によるもので、江戸に将門魔方陣(北斗七星を象る7つの星)をつくるためだったのではないかとしておられます。
将門の首塚
⑧日光東照宮=北極星、将門魔方陣=北斗七星?
さらに加門氏は ・1616年が徳川家康の死亡年であることを指摘され、家康の死によっ遂行された呪術プロジェクトではないか。 ・天海が家康亡きあとの江戸を安泰にするために江戸に北斗の結界をはり、日光に東照宮を造営したのではないか、 と言っておられます。(日光東照宮の創建は1617年) 日光東照宮 五重塔つまり日光東照宮は北極星で、将門魔方陣(将門関連七神社)は北斗七星、ということですね。 北斗七星の位置にある神社または史跡は兜岩をのぞき、1616年までにその場所にあったことがわかります。 (兜岩は江戸時代からその場所にあったというが、正確な年がわからない。) ⑨稲荷鬼王神社は北斗第六星の補星あと、稲荷鬼王神社について、加門氏は北斗第六星の補星になぞらえたものとされています。 北斗七星の柄の端から2番目の星(水稲荷神社に相当する星)はミザールといい、伴星アルコルがあります。 アラビアではこのアルコルがみえるかどうかで視力検査を行っていたといわれます。 加門氏のいう北斗第六星の補星とはこのアルコルのことでしょうか。 そして、この北斗第六星は魔多羅神=妙見菩薩の化身と解釈する説があるとおっしゃっています。 すると将門関連七神社ではなく、将門関連八神社というべきかもしれませんね。 ⑩烏森神社はなぜ将門魔方陣から外されたのかという疑問が残る~日輪寺は神社でなく寺なので、除外してもいいかもしれません。 でも、940年に創建された鳥森神社が将門魔方陣(将門関連八神社)から除外されているのはなぜかという疑問が残ります。 ⑩「水稲荷で将門の首と胴がきられている」は確認が必要加門氏は「水稲荷で将門の首と胴がきられている。」とも指摘されています。 鳥越神社・・・首 兜神社・・・・首 首塚・・・・・首 筑土八幡(津久戸明神)・・・首 水稲荷・・・将門調服 鎧神社・・・胴 ですが筑土八幡の伝説について、加門氏は首とされていますが、脚を祀ったという風説もあるようで、 もう少し確認してみないと「水稲荷で将門の首と胴がきられている。」とは言い切れないです。 ⑪天の北極=日光東照宮、北斗七星=江戸。カシオペアは磐梯山?
加門氏がおっしゃるように、天の北極=日光東照宮、北斗七星=江戸の将門関連神社とすれば、どこかにカシオペア座になぞられたものがあるのではないでしょうか? 地図を眺めてみると磐梯山があります。 磐梯山の西南にある会津若松市から磐梯山をみると、どんな風に見えるでしょうか。 https://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=10131018590リンク先の写真は「会津若松と磐梯山」というタイトルになっています。 磐梯山は向かって左側の山が高いカシオペアのように見えますね。 http://maropie.blog44.fc2.com/blog-entry-126.html↑ こちらの写真は「会津若松の高速道路から見た磐梯山」のようです。 やはり左側の山が高いカシオペアのように見えます。 磐梯山の南南西にある日光東照宮から磐梯山が見えるとしたら、やはり同じように左側が高いカシオペアの形に見えるはずです。 もしかして、天の北極=日光東照宮、北斗七星=将門魔方陣、カシオペア=磐梯山? 会津若松という文字の向かって右に湖があります。その湖の北あたりが磐梯山です。
天の北極=江戸、北斗七星=富士山、筑波山=カシオペアの組み合わせは、夜空を反転させたものでした。 しかし、天の北極=日光東照宮、北斗七星=将門魔方陣、カシオペア=磐梯山のほうは夜空を反転させていません。
江戸は天の北極になぞらえて作った町でした。 さらに家康の死後、江戸の北に北極星になぞらえて日光東照宮をつくった、ということでしょうか?
皆さまはどうお考えになりますか?
東大寺 大仏殿 百日紅
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奈良市忍辱山町 円成寺 2019年10月6日 撮影
萩が咲いているかなと思って出かけたんですが、萩はもう終わっていました。 そのかわり、もう紅葉が色づき始めていました。
①円成寺を創建したのは虚滝?益信?
前回の喜光寺もそうですが、お寺の創建については複数の縁起を伝えているケースが多々見られますね。 ここ円成寺もふたつの創建縁起を伝えます。
①756年、聖武天皇の勅願を受け、鑑真とともに来日した唐僧・虚滝(ころう)が創建した。(和州忍辱山円成寺縁起)
②延喜年間(901 - 923年)、京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した僧・益信が、大和忍辱山を訪れ、この地に寺を創建した。(忍辱山知恩院縁起)
京都東山鹿ケ谷の円成寺は円城寺ともいいますが、現存しないようです。 大豊神社付近にあったとされ、大豊神社は円成寺の鎮守であったとされます。

大豊神社
②宇多天皇の御悩平癒祈願
京都東山鹿ケ谷にあった円成寺の鎮守・大豊神社は、仁和3年(887年)に尚侍藤原淑子が勅命を受けて創建したとされます。
勅命とは天皇の命令という意味ですから、宇多天皇(867-931/在位887-897)の命令を受けて藤原淑子が大豊神社を創建した、ということでしょう。
大豊神社が創建された887年は宇多天皇が即位された年ですね。 宇多天皇は即位するにあたり、何か心配ごとがあったのでしょうか?

③奈良の円成寺は道真の怨霊鎮めが目的で創建された?
宇多天皇(867-931/在位887-897)は菅原道真を重用していました。 897年、第一皇子の醍醐天皇に譲位しましたが、宇多天皇は醍醐天皇にも道真を重用するようにと申し付けていました。 ところが901年、藤原時平が醍醐天皇に「道真は謀反を企てている。」と讒言し、 醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に流刑としてしまいました。 903年、道真は大宰府で死亡しました。
道真の死後、909年から931年ごろにかけて、京にはおかしな事件が相次いでおき、道真の怨霊のしわざとされました。
春日堂 白山堂
| できごと | 寺社創建 | 887年 | 宇多天皇醍醐天皇に譲位
| 宇多天皇の勅命を受け、藤原淑子が京都円成寺の鎮守・大豊神社を創建 | 901年 | 菅原道真大宰府に左遷となる。 | | 903年 | 菅原道真大宰府で死亡。 | | 909年 | 藤原時平39歳で病死 | 延喜年間(901 - 923年) 京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した僧・益信が、大和忍辱山に円成寺を創建した。 | 913年 | 源光(道真失脚首謀者のひとり)、狩の最中に溺死。 | 923年 | 醍醐天皇の皇太子・保明親王薨去 | 925年 | 醍醐天皇の皇太子・慶頼王卒去 | | 930年 | 清涼殿落雷事件 道真左遷に関与した大勢が死傷する。 醍醐天皇崩御。(道真の怨霊を恐れるあまりノイローゼになって崩御したとも伝わる。) | | 931年 | 宇多上皇崩御 | | 表にしてみるとわかりやすいです。 つまり、京で道真の怨霊が猛威を振るっている最中、京都の円成寺を創建した僧・益信によって奈良の円成寺は創建されたわけです。 奈良の円成寺は道真の怨霊鎮めが目的で創建されたのではないでしょうか? しかも、京都の円成寺の鎮守・大豊神社は「宇多天皇御悩平癒」を目的として、宇多天皇の勅命を受けて創建されていますので、京都の円成寺も勅願寺(天皇・上皇の発願によって創建された寺)であった可能性が高いです。 すると、奈良の円成寺も宇多上皇または醍醐天皇の勅願寺として創建されたのではないでしょうか。 ④宇多上皇は聖武天皇の霊にも悩まされていた?宇多上皇は道真だけでなく、聖武天皇や孝謙天皇の霊も恐れていたのかもしれません。 672年、天智天皇の皇子・大友皇子vs天智天皇の弟・大海人皇子の争いがありました。(壬申の乱) 大海人皇子が勝利して即位し天武天皇となりました。大友皇子は自害して果てました。 その後、奈良時代は、天武系の天皇が続きます。 天武― 持統(天武の皇后・天智の娘)-文武ー 元明ー 元正ー聖武ー 孝謙―淳仁ー 称徳(孝謙と同一人物)※赤文字は女帝称徳天皇は女帝で結婚が許されず子供がありませんでした。 そしてここで天武系の血筋は途切れてしまい、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位しました。 血筋のたえてしまった天武系天皇は、天智系天皇にとっては怨霊のような存在であったことでしょう。 そこで、宇多上皇は京都・円成寺の僧・益信に命じ、天武系最後の男性天皇・聖武天皇の霊を弔うために 奈良の円成寺を創建させたのではないでしょうか。 そして聖武天皇の霊を慰霊すると同時に、都で大暴れする菅原道真の怨霊を鎮めてくださるようにと、聖武天皇の霊に祈願したのかも? 和州忍辱山円成寺縁起に「756年、聖武天皇の勅願を受け、鑑真とともに来日した唐僧・虚滝(ころう)が創建した。」とありますが、756年は聖武天皇が崩御された年です。実際に円成寺が創建されたのは延喜年間ではないかと思います。 聖武天皇が創建したとする縁起は、「聖武天皇の霊を慰霊するために創建した寺」であるところから、創作されたものではないでしょうか? しかし宇多上皇は息子の醍醐天皇が崩御した翌年に崩御してしまわれました。

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