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蔵王堂光福寺 久世六斎 『空飛ぶ鉢の正体とは』 


京都市南区 蔵王堂光福寺
八朔祭・・・8月31日


蔵王堂光福寺では毎年8月31日に八朔祭が行われており、久世六斎会の人々によって六斎念仏が奉納されています。

六斎念仏って何?という方はこちらをクリックしてください
。→『京都のお盆は六斎念仏! 阿弥陀寺 嵯峨野六斎 』

八朔って何?という方はこちらをクリックしてください。→ 
『祇園白川 八朔 舞妓さんと芸妓さん 』

蔵王堂光福寺 祇園囃子 
①蔵王堂光福寺に伝わる浄蔵の伝説

平安時代、浄蔵貴所は吉野山大峰山で修行を終えて帰ろうとしていたところ、蔵王権現が現れて「連れて帰ってほしい」とおっしゃったので、浄蔵は蔵王権現を背負って帰りました。
途中、浄蔵は桂川にを落としてしまいました。
その鉢が流れ着いた場所で蔵王権現は動かなくなったので浄蔵はそこに寺を建てました。


この浄蔵がたてた寺が蔵王堂光福寺だと伝わっています。
奈良県吉野山の金峯山寺に蔵王堂があり、蔵王権現を祀っています。
蔵王堂光福寺という寺名はここからつけたのでしょう。

蔵王堂光福寺 獅子

②八(鉢)に縁の深い浄蔵

浄蔵はたいへん8に縁の深い人物でした。

3月8日に、文章博士・三善清行の八男として生まれ、東山の八坂の塔を法力でな直しています。
さらに浄蔵が創建した光福寺で行われている祭は八朔祭です。

また八の音は鉢に通じますが、光福寺の創建説話にもが登場しています。
浄蔵は托鉢のを飛ばして食べ物を集めていたという話もあります。
 
蔵王堂光福寺 六斎念仏2

②鉢=八は頭(ドクロ、首)を意味している?

鉢を飛ばしたという話は奈良の朝護孫子寺に伝わる『信貴山縁起絵巻』にも記されています。
そして頭のことを鉢ということがありますが、蘇我入鹿や平将門、玄昉らの首が飛んだという伝説があります。
浄蔵が鉢を飛ばしたという伝説があるのは、浄蔵が頭・・・髑髏と関係が深いからではないかと私は考えています。

蔵王堂光福寺 六斎念仏 

③吉野は髑髏信仰があった?

浄蔵は吉野山大峰山で修行をしていたということですが、吉野山にある金峯山寺の塔頭に竜王院(脳天大神)があり、頭の神様として信仰されています。
その脳天大神には狛犬ならぬ狛蛙が置かれています。 ↓

龍王院 狛蛙

 吉野の蔵王堂では蛙飛び行事も行われています。↓

 蔵王堂 蛙飛行事3

亀石
 
↑ 飛鳥の亀石は亀ではなく蛙ではないかともいわれていますが、亀や蛙よりももっと妖怪・ぬらりひょんに似ています。
 
妖怪ストリート ぬらりひょん 

↑ 上は京都の大将軍商店街(妖怪ストリート)に置かれてあった妖怪・ぬらりひょんの人形ですが、眉間に皺があるところまで亀石にそっくりです。

飛鳥の亀石は髑髏を象ったものであり、龍王院(脳天大神)に狛蛙が置かれているのは、蛙が人間の頭蓋骨=髑髏に似ているためではないでしょうか。

どうも吉野は髑髏に関する信仰の深い土地だったのではないでしょうか?
そして吉野で修行をした浄蔵は髑髏を用いる呪術を会得して京に戻ったということなのかも?

蔵王堂光福寺 土蜘蛛  


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[2019/08/31 23:02] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)

正法寺 楓 木漏れ日 『鑑真の弟子・智威とは早良親王だった?』 


京都市西京区 正法寺
2019年8月17日 撮影

正法寺 門

①大原寺や狐王社は伏見稲荷大社の元社だった。

正法寺はかつて大原寺があった場所に慧雲律師が空海の真言密教と最澄の天台の教えを合わせた道場を作ったことに始まるとされます。

年表を作ってみました。(正法寺に関係するものはピンク色で表しました。)
754年鑑真 688‐763)、唐より来日する。
鑑真の弟子・智威(ちい/生没年不詳)が、現在正法寺がある場所に隠棲して春日禅坊と名付ける。(春日明神祠の前身)
智威は真言密教と天台の修業を行った。
老翁(稲荷明神)が智威に仕える。老翁には白狐が従う。
最澄(766/767‐822)、智威を師とあおいで止観(瞑想)をする。
784年平城京から長岡京へ遷都。
785年藤原種継暗殺事件。早良親王(750-785)、首謀者とされ乙訓寺に幽閉される。
早良親王、無実を訴えてハンガーストライキを行う。
流刑地・淡路へ向かう途中、憤死。
788年最澄、延暦寺を創建。
789年紀古佐美、征夷大将軍となり阿弖流為率いる蝦夷と戦って大敗する。
この大敗は早良親王の怨霊の祟りとされた。
791年最澄、勅詔をうけて現在正法寺がある場所に大原寺を建立。
794年長岡京から平安京へ遷都
796年東寺創建
797年紀古佐美死亡。早良親王の怨霊の祟りによるものとされた。
804空海、最澄ともに遣唐使として唐へ渡る。
805年最澄帰国
806年空海帰国
811空海、乙訓寺の寺務長となり、頻繁に大原寺を訪れる。
816年ごろ最澄と空海、喧嘩別れする。
空海、紀州で老翁にあう。
智威、93歳になって入定する。
老翁(稲荷明神)の姿消える。
「狐王社」が建てられる。
823年空海、東寺を勅賜される。
老翁、空海にあうため東寺を訪れる。
空海、老翁を伏見稲荷明神として祀る。
狐王社・大原寺は戦乱によって消滅
1601年明忍律師(1576~1610)、戒律が軽視されている現状を嘆いて友尊律師(生没年不明)・慧雲律師(生没年不明)らとともに志をたて、高山寺において受戒する。
慧雲律師、現在正法寺がある場所にやってきて観行に専心する。
老翁があらわれて「わたしは稲荷明神である。ここは昔、高僧の智威と契を交わした地であり、わたしの本拠地である。あなたの戒律復興を助け、興福徳を授けてさしあげよう。」といった。
慧雲律師は明忍律師と友尊律師に会い、槙尾の僧坊を興して住職となる。
1596~1615慧雲律師、現在正法寺がある場所に正法寺を開く。
空海の真言密教と最澄の天台をかねた道場とする。

この由緒によれば、大原寺や狐王社は伏見稲荷大社の元社だということになりますね。
老翁(稲荷明神)に仕える白狐は老翁の神使なのでしょう。
稲荷明神の神使いは狐だし。

正法寺 春日稲荷尊 本殿 
正法寺 春日稲荷尊 かつてここに狐王社があったことにちなんで建てられたのでしょう。

②稲荷神は紀州の神?

伏見稲荷大社がある場所にはもともとは藤森神社がありました。
その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転しました。

伏見稲荷大社 しだれ桜 
伏見稲荷大社

藤森神社 藤森祭 神輿

藤森神社 藤森祭

伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、もともとは紀氏の土地でした。
しかししだいに藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられています。

伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神を祭っています。
柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神々のことだということです。(式内社調査報告)

五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。

 また記紀は、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としています。
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。

正法寺 春日稲荷尊-拝殿 

正法寺 春日稲荷尊 拝殿


そして、和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としています。
都麻都姫命(抓津姫)は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されていますが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明です。

紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。
そして紀州は紀氏の本拠地でした。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。

伏見稲荷大社は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったのではないか、と思えます。

和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれています。

正法寺 春日稲荷尊 
正法寺 春日稲荷尊 拝殿

 ③スサノオは紀氏の祖神

藤森神社の主祭神はスサノオです。
ホツマツタエという書物では、紀氏の祖神はソサノオであるとしています。
紀伊半島の南部を昔ソサといい、ソサで生まれたのでソサノオと名付けられたというのです。

すると藤森神社が紀氏の神社であるということと整合性がとれます。

正法寺 地蔵像 
正法寺 地蔵像

④御霊(怨霊)を祀る神社


藤森神社ではスサノオのほか、次のような神々を祀っています。

本殿(中座)・・・スサノオ・別雷命・日本武命、応神天皇・神功皇后・武内宿祢・仁徳天皇
東殿(東座)・・・天武天皇 崇道尽敬皇帝(舎人親王)
西殿(西座)・・・崇道天皇(早良親王)伊予親王・井上内親王

西殿に祀られているのは御霊(怨霊)と言われている人々です。

怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。

伊予親王について→
飛鳥 光の回廊 川原寺 『伊予親王が幽閉された川原寺は飛鳥の川原寺ではなかった?』  
井上内親王について→
室生寺 石楠花 『龍神の正体』 

正法寺 枯山水の庭 
正法寺 枯山水の庭

⑤早良親王を祀る紀氏

西殿に祀られている早良親王は桓武天皇の同母弟で皇太子でした。
ところが桓武天皇は我が子である安殿親王(のちの平城天皇)を皇太子にしたいと考えていました。
桓武天皇は藤原種継暗殺事件にかかわったとして早良親王を流罪としました。
早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行し、淡路にむかう舟の上で憤死したと伝えられます。

紀氏はこの早良親王と関係があるようで、奈良の紀寺(璉珹寺)のすぐそばにも早良親王をまつる崇道天皇社があります。

璉珹寺 門 茉莉花 
璉珹寺 門 茉莉花

崇道天皇社 
崇道天皇社

⑤早良親王は征夷大将軍ではなかった。

藤森神社には、早良親王についての、こんな伝説が伝えられています。

早良親王が皇太子になった後、蝦夷の反乱がおこった。
早良親王は征夷大将軍となり、藤森神社に戦勝祈願をして出陣しようとしたが、蝦夷はこれを聞いて畏怖し、乱は戦わずして平定された。


これは史実とは思えないです。
皇太子のような位の高い人が征夷大将軍になるとは考えられませんし、ウィキペディアの「歴代征夷大将軍」を見ても早良親王の名前はありません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D

正法寺 石像 
正法寺 石仏

⑦征夷大将軍・紀古佐美、早良親王の怨霊の祟りで死ぬ。


歴代征夷代将軍の中に紀氏の名前があります。
8代目の紀古佐美です。

789年、紀古佐美は征夷大将軍となって阿弖流為率いる蝦夷と戦いますが、大敗しています。
そして、この大敗は早良親王の怨霊の祟りとされました。

さらにこの人は797年に亡くなっていますが、その死もまた早良親王の怨霊の祟りだとされたようです。

そういうわけで紀氏は早良親王の霊を鎮めるため、御霊として祀り、さらには征夷大将軍になって勝利をおさめたという作り話まで作ってしまったということではないでしょうか。

正法寺 遍照塔

正法寺 遍照塔

⑧空海は早良親王の怨霊をを鎮めるために乙訓寺の寺務長となった?


正法寺の東南5kmほどのところに乙訓寺はあります。
①の年表に書いたように、811年、空海は乙訓寺の寺務長となって、頻繁に大原寺(現在の正法寺付近にあった)を訪れていますが、距離は5kmほどですから訪問しやすかったでしょうね。



正法寺は乙訓寺の北西、大原野南春日町あたり。


また、乙訓寺は長岡京跡からほど近い場所にあります。
長岡京は784年、桓武天皇によって平城京から遷された都です。
平城京から長岡京に遷都した理由は、平城京の仏教勢力から逃れるためであると、小学校のとき歴史の授業で習いました。
しかし近年では怨霊にあふれた平城京から逃れるためであるとする説が唱えられて、支持もされています。

ところがせっかく怨霊から逃れて長岡京を建都したにもかかわらず、遷都まもなく長岡京は怨霊にけがされることになってしまうのです。

785年、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件がおきました。
この事件に桓武天皇の同母弟・早良親王が連座したとして皇太子を廃され、ここ乙訓寺に幽閉されたのです。
早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行。
淡路へ配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死しました。

後、桓武天皇の第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)が発病したり、桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死など不幸な事件が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであると考えられました。

長岡京、そして乙訓寺には早良親王の無念がしみついているのですね~。

空海は早良親王の怨霊を鎮めるために乙訓寺の寺務長となったのではないでしょうか。

乙訓寺3 

乙訓寺

⑨智威=早良親王


鑑真の弟子・智威についてですが、彼についてググってみても、正法寺の由緒しかでてきません。
調べたりないのかもしれませんが。

鑑真の弟子・智威とは早良親王のことではないでしょうか。

早良親王は761年に出家して僧になっていました。その後、還俗して桓武天皇の皇太子となっていますが。
ですから、早良親王を鑑真の弟子と表現することもありうるかなと。

早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを行ったということですが、なぜハンガーストライキを行ったのでしょう。
飢餓しようと思ったのでしょうか?
そうではなく、死後腐りにくい体になろうと考えたのではないかと思ったりします。
死後腐りにくい体になるためには断食して脂肪をおとさねばなりません。

人間は死ぬと悪臭を発するそうです。(臭いを嗅いだことはありませんが)
入定しても、失敗して腐ってしまったりもしたことでしょう。
ところが智威が入定した窟からはよい香りが漂ってきたという伝説があります。
智威の体は腐らずに、即身仏となったということでしょう。

そして、その伝説は、ハンガーストライキを行って憤死した早良親王のイメージと重なって見えるような気がしますがトンデモですかね?




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[2019/08/30 14:03] 京都府 | TB(0) | CM(0)

大阪国際空港よりいたみ花火大会を望む 『飛行機の窓から見える小さな日本列島』 

いたみ花火 

伊丹空港から花火をとりたいと思ってでかけたのですが・・・・

大阪国際空港 展望デッキ 

午後4時の時点で展望デッキは ↑ こういう状態。
一番前のみ三脚置くことができますが、すでに埋まっていました。
ほかは三脚禁止だったようで、直前に注意されて場所を変えた人も。

聞いたところによると最近リニュアル工事があって写真のような柵が設置されたんだとか。
望遠レンズ使えば柵はぼかせる?

伊丹空港よりいたみ花火大会を望む3 

三脚置けないので柵のない別の場所から撮影。でもここからだと飛行場や飛行機が映らないwwwww
床がウッドデッキになっているので、揺れるしw

①日本列島の形をした島が浮かぶため池

大阪国際空港から飛行機に乗って2分ほどすると、飛行機の窓から日本列島が見えてきます。
昆陽池の中に人口の島として日本列島の形がつくられているのですね!

昆陽池

あ、でもちょっち方角が変!
なんで方角もきっちりあわせなかったのかなあ?




②行基は建築・土木の神として信仰された?

昆陽池は、奈良時代に僧・行基(668-749)が作ったと伝わるため池です。
ですが私は本当に行基が作ったのかどうかは怪しいと思います。

西遊寺 久修園院 雪 『行基四十九院と家型の四十九院』 
↑ 此方の記事にも書いたのですが
行基は畿内に多くの寺を建てており、それらの寺を総称して行基四十九院と言います。
行基は寺のほかに15のため池、溝と堀を9筋、橋を6橋作ったといわれ、行基が開いたとされる温泉もあります。
また、摂播五泊といって、摂津から播磨にかけて5つの港を整備したともいいます。

いくらなんでも数が多すぎるような気がします・・・・。

行基は建築・土木の神として信仰されていて、その結果、多くの寺院・橋・ため池・港などが行基が作ったといわれるようになったのではないかと思ったりします。

いたみ花火2 
あいかわらずピントずらしはうまくできないしw

③平安末期~鎌倉期にすでに昆陽池は存在していた。

行基没後400年ほどたったころに編纂された「行基年譜/天平13年記」には昆陽上池と下池があったと記されています。
ということは少なくとも平安末期~鎌倉期にはこのため池はあったということになると思います。

江戸時代初め、下池が埋め立てられ、1970年代に上池の3分の1が埋め立てられました。

江戸時代の史料によれば、池の広さは50ヘクタールもあったようです。
現在の池の広さは12.5ヘクタール、その南の貯水池が4.5ヘクタールということです。

いたみ花火3 

飛行機の光の軌跡だけとれたw

④洪水対策にも役立った昆陽池

伊丹の東には猪名川、西には武庫川が流れ、猪名川と武庫川に挟まれたところに伊丹台地があります。
伊丹台地は北の北摂山系から南の大阪湾まで緩やかな傾斜となっています。


伊丹台地の中央部を東西に伊丹断層があり、その伊丹断層の北、昆陽野、猪名野あたりは窪んで低い土地となっています。
これを昆陽池陥没帯または昆陽池地溝帯といいます。
昆陽池はこの昆陽池陥没帯を利用してつくられたため池のようですね。

昆陽池は灌漑用水をためておくほか、洪水の際にはここに水が流れ込み、被害を食い止める役割をも担ったということです。

伊丹空港よりいたみ花火大会を望む2 

りたかった写真のイメージを合成でつくってみたw


⑤昆陽池の島は鳥目線を意識して作られた?

随分以前に昆陽池に行ったことがありますが、地上から見たのでは島が日本列島の形をしていることはわかりません。
ナスカの地上絵や仁徳天皇陵が地上から見てもその形がわからないのと同じです。

私はナスカの地上絵や仁徳天皇陵は鳥の目線を意識して作られたものではないかと考えました。
空高く飛ぶ鳥の目線からなら、その形は容易に認識できるでしょうから。
そして、「死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び立った」とか、「鳥たちがアメノワカヒコの葬儀をおこなった」という話が記紀にはあります。
ここから古の人々は死んだ人の魂は鳥になって天高く昇っていくと考えたのではないかと考えました。

それでは昆陽池の日本列島も、古の人々が死んだ人の霊のためにつくったのか?

というのはトンデモですw。

昆陽池周辺は1972年に公園として整備され、その際に日本列島もつくられたそうです。
昆陽池昆陽池の日本列島の形をした島は昭和になってから作られたもので、古からあったものではないのですw。

①で大阪国際空港(伊丹空港)から2分ほどで窓から昆陽池の島が見えると書きました。

昆陽池の日本列島の形をした島は飛行機の窓から見下ろす視線を意識して作られたのではないでしょうか。

伊丹空港よりいたみ花火大会を望む

⑥日本列島の形をした島は外国人旅行客に日本をアピールするため?

大阪国際空港は1939年(昭和14年)に大阪第二飛行場として開設され、太平洋戦争中は陸軍に使用されました。
敗戦したのち、占領軍が接収して伊丹エアベースと呼ばれました。
やがて接収が解除され、1959年に大阪国際空港と改称されました。

ですがこの大阪国際空港は近隣が住宅街なんですね。
豊中の友人の家の窓から遠くに大阪国際空港に離陸する飛行機が見えていましたが
飛行機がマンションの群れの中に突入していくかのように見えるんですよ。

大阪国際空港近くを歩いても、マンションに重なるように巨大な飛行機が見えます。
そしてゴオオオオーーーという轟音。
飛行機好きにはたまらない快音なんですが、騒音・排気ガスなどの公害問題が生じまして、
1994年に関西国際空港が開港されると国際便は関西国際空港に移されました。
(現在も大阪国際空港に国際便はあるとも聞きましたが)

ですが、かつて大阪国際空港は国際便が頻繁に離発着していたのです。
1970年の大阪万博の際には、大勢の外国の方が飛行機の窓から昆陽池の日本列島の形をした島を見たのではないでしょうか。

昆陽池に日本列島の形をした島をつくったのは外国人旅行客に日本をアピールするためではないでしょうか。

いたみ花火

⑦日本列島の形をした島は行基図にちなむ?


昆陽池に日本列島の形をした島をつくった理由としてもうひとつ考えられるのは行基が行基図をつくったといわれていることにちなむのではないかということです。


ただし行基図に北海道は含まれていませんが。

Gyokizu

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyokizu.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/Gyokizu.jpg よりお借りしました。
村上勘兵衛(Murakami Kanbei) [Public domain]



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[2019/08/28 12:22] 兵庫県 | TB(0) | CM(2)

宇陀松山夢街道 町並みライトアップ 『宇陀松山はなぜ薬の町として栄えたのか』 

宇陀松山夢街道 町並みライトアップ・・・http://udayumekaido.seesaa.net/

①薬の館

宇陀松山は江戸時代に陣屋町として栄えた町で、今も情緒ある街並みが残されています。

宇陀松山 薬の館 

↑ 薬の館(旧細川 家住宅)です。
かつて細川家は薬商を営み、「人参五臓圓」「天寿丸」などを販売していました。
藤沢薬品の創業者・藤沢友吉は細川家の出で、のちに藤沢家の養子となっています。

宇陀松山 薬の館 

唐破風付きの看板がとてもゴーシャスですね~!

②マラリアを治した神様

宇陀松山 薬の館 薬箱

 ↑ 薬の館の内部です。
魔除けの鍾馗(しょうき)さんや薬箱が目をひきます。
唐の玄宗がマラリアを患った際、大鬼が現れて宮中でいたずらをしていた子鬼を食べると玄宗の病は回復したという伝説があります。
この大鬼が鍾馗さんです。

昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が病をわずらい、
「薬屋の鬼瓦にはねかえった悪いものが自宅に入った」として、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ、
病が完治したという話があり、ここから屋根に鍾馗像を置く習慣が生じたと言われます。

よく屋根の上などに魔除けとして鍾馗さんの像が飾ってあるのを見かけるのはこの伝説に基づくものなのでしょう。

薬屋さんにも鍾馗さんを祀る習慣があったんでしょうか?
だとしたら玄宗のマラリアを治した神様ということで鍾馗さんを信仰していたのかも?

宇陀松山-薬の館 へっついさん 

薬の館 へっついさん

③端午の節句に薬猟が行われた地

5月5日の端午の節句に鍾馗さんの絵や像を奉納する習慣もあったそうですが
ここ宇陀松山は端午の節句とも関係の深い土地でした。

古代にはこのあたりは阿騎野と呼ばれていたのですが
推古19年(西暦611 年)5月5日、阿騎野で薬猟(くすりがり)が行われたという記述が日本書記にあります。
また天武・持統天皇代にも阿騎野で薬猟が行われています。

薬猟とはもともとは鹿をとらえて薬となる鹿の角をとることをいっていたようですが、しだいに男性は狩猟を、女性は薬草摘みをする行事へと変化していったようです。

宇陀松山には「薬の館」(旧細川家住宅)のほか、「森野旧薬園」などもあり
江戸時代には薬や吉野葛の商いで栄えていましたが、そのルーツは古代の薬猟にあるのかも?

宇陀松山 万方寺 

万法寺

④宇陀は不老長寿の妙薬(水銀)を産する土地だった。


なぜ阿騎野(宇陀松山)は古代に薬猟が行われたり、江戸時代には薬の町として栄えたのでしょうか。
薬草が豊富に採れたから?
でも、阿騎野が特別薬草の生育に適した土地のようには思われませんし
特産品の薬草があるとも聞きません。(私が知らないだけ?)
しかしどうやら、阿騎野で採れる薬草にはブランドとなりうる特徴があったようです。

『日本書紀』皇極3年に、菟田山で生えていた紫のキノコ(芝草)を食べて不老長寿であったという記事が記されています。
『日本霊異記(りょういき)』には宇陀の山野の野草を食べた女性が天女になったという話が記されています。

宇陀には水銀(丹)の鉱脈があります。
水銀はかつて不老長寿の妙薬とされていました。
『日本書紀』や『日本霊異記』の話は宇陀に水銀の鉱脈があるところから作られたのではないでしょうか。

つまり、宇陀の薬草は不老長寿の妙薬である水銀を含んでいるということでブランド化したのではないかと思うのです。

万法寺 
万法寺

⑤水銀はなぜ不老長寿の妙薬と考えられたのか?

水銀は水俣病の原因になるなど不老長寿どころか健康に悪いのですが
なぜ水銀が不老長寿の妙薬であるなどと考えられたのでしょうか。

高野山 紅葉 『空海と即身仏』 
↑ こちらの記事にも書いたように、は多くの即身仏が残ることで有名な山形県湯殿山は土壌の水銀濃度が高いです。
即身仏になるためには木食といって五穀を絶って木の実や草などを食べる修行を行います。
水銀には防腐作用があります。
土壌の水銀濃度が高いとそこで育った木の実や草の水銀濃度も高くなり、これらを食べることで体内に水銀が蓄積され、その防腐作用で死後腐りにくい体になったと考えられています。

なぜ苦しい修行を行ってまで即身仏になろうとしたのかというと、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れるとき、復活してその聖業に参加するためであったといわれます。
昔の人々は復活するためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えていたのではないでしょうか。

宇陀松山 西口関門 
松山西口関門

宇陀松山きみごろも 
宇陀松山





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[2019/08/26 15:19] 奈良の祭 | TB(0) | CM(0)

YouTubeは表現の自由を侵害している。※拡散希望 


①YouTubeは「安倍」+「反日」というワードの組み合わせを自動的にはじいて表示されなくする。


YouTubeは表現の自由を侵害している。
これは陰謀論などではなく、事実をお話ししています。

事実というのは、「YouTubeが表現の自由を侵害する行為を行っている」ということをさします。

YouTubeは具体的にどのような表現の自由を侵害する行為を行っているのか。

https://www.youtube.com/watch?v=tSEcljqN2No&feature=em-comments
上記動画のコメント欄に伊井大さんとおっしゃる方がコメントをされていますので、それを読んでいただくとおわかりいただけると思います。

YouTubeは「安倍」+「反日」というワードの組み合わせを自動的にはじいて表示されなくするのです。

Shinzo Abe Sept. 8, 2007 full

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinzo_Abe_Sept._8,_2007_full.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/78/Shinzo_Abe_Sept._8%2C_2007_full.jpg よりお借りしました。
White House photo by Eric Draper [Public domain]


②ログインしたら読めるけど、ログアウトすると読めない。つまり自分にしか読めない。


私もログインして同じ動画に「安倍 反日」「安倍首相 反日」と2件のコメントを書き込んでみました。
ログインした状態であれば、それはちゃんと表示されています。
しかし、みなさんには見えていないはずです。
ログインした状態であればそのコメントは表示されていますが、ログアウトした状態ではそのコメントは表示されないのです。

つまり、自分にしか読むことができないコメントになっているわけです。

みなさんもどの動画でもいいのでログインして「安倍 反日」「安倍首相 反日」のようにコメントを書き込んでみてください。
コメントを書き込んだらログアウトして同じ動画のコメント欄で、さきほど書き込んだコメントを探してください。
たぶんさきほど書き込んだコメントは見つからないはずです。

ログインしたら読めるけど、ログアウトすると読めないという状態は「安倍」+「反日」以外でも起こります。
ですから私はコメントを書き込んだら必ずログアウトして表示されているかどうかを確かめるようにしています。

③NG単語を登録し、一致するコメントを保留にする機能

https://www.howtonote.jp/youtube/comment/index5.html
上の記事に、YouTubeでNG単語を登録し、一致するコメントを保留にする機能について説明されています。


コメントを投稿したユーザーの画面ではコメントがすぐに表示されているように見えます。 

ただYouTubeにログインしていない状態など、コメントを投稿したユーザーの画面以外では先ほどのコメントは表示されていません。「ブロックする単語」に登録された単語と一致するコメントなので保留となったためです。


https://www.howtonote.jp/youtube/comment/index5.htmlより引用

④「安倍」+「反日」の組み合わせはほとんどのサイトで表示されない。

③は動画主が意図して行うものですが、「安倍」+「反日」の組み合わせはほとんどのサイトで表示されないようです。
みなさんもいろいろなサイトで試してみてください。

ということは、これは動画主の意志で操作されているというよりも、YouTubeの意志で操作されているとみるべきでしょう。

⑤YouTubeが意図してやっているかどうかは関係がない。実際にそういう現象がおこっていることが問題。

「YouTubeに表現の自由を侵害する意図はない」という意見もありますが、意図のあるなしは関係ありません。
実際に「安倍+反日」の組み合わせが反映されないということが、表現の自由の侵害にあたります。

「安倍+反日」以外にも反映されないワードの組み合わせがあればぜひ教えてください。

⑥ブロック機能は有っても構わないが通知はされるべき。

ブロック機能は有ってもいいと思います。
しかしブロックされたという通知はあってしかるべきと思います。

たとえばokwaveなどでは回答を書き込もうとしたら、『ブロックされています』のように通知がきますし
問題のある表現があって回答が添削・削除されることもありますが、そういう場合でも必ず通知があります。

⑦狂ったコンピューターが支配する世界はもう始まっている?

竹宮恵子さんの漫画「地球へ・・・」は狂ったコンピューターに人間が支配される世界を描いていましたが
そういうSFチックな世界はもう始まっているのかも?







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[2019/08/23 10:51] 未分類 | TB(0) | CM(0)

膏薬の図子 神田明神 『ガマの油は将門の首の油?』 

京都市下京区 膏薬の図子

①膏薬の図子


四条通は祇園祭宵山で大変な人出です。

祇園祭 宵山2  
写真向かって右に写っているのは郭巨山の提灯です。
その左手に「西洞院通り」と記された道標があります。
この西洞院通りを入っていくと・・・

四条通の賑わいが嘘のように静まり返った小路となっています。
こういった小路を京都では図子といっているようです。
ちなみに行き止まりになっている袋小路を路地(関西弁ではロウジと発音)というとされますが、図子と路地の明確な使い分けがされてるわけではなさそうです。

②空也供養道場がなまって膏薬の図子になった?

膏薬図子を南に向かって歩いていくと神田明神元社があります。

神田明神元社

平将門は関東に独立国を作り新皇を名乗りました。
そこで朝廷は940年に将門追討の軍をおくり、将門は流れ矢に当たって死にました。
将門の首は京に持ち帰られて鴨川のほとりに晒されました。
ここから将門の首は飛び上がり、鴨川を超えて膏薬図子に落ちたとも言い伝えられています。
将門の首は事あるごとに近隣住民に祟りました。
そこで空也上人はここに念仏道場を立て、将門の霊を慰めました。
神田明神元社は将門の首が落ちたところとつたわります。
そしてこの小路を膏薬図子というのは、空也供養道場がなまったものだと言われます。

でも私は空也供養道場がなまっては膏薬の図子になったのではないような気がします。
今日はその理由をお話しします。

③蝦蟇はドクロの比喩だった?

神田明神元社とガマの置物

神田明神元社の戸口の前に蝦蟇の置物が置かれていますね。
東京の将門の首塚にも蝦蟇の置物を奉納する習慣があります。

将門の首塚

将門の首塚 写真左手にガマの置物が置かれています。

将門の首はしばらく京都で晒されていましたが、あるとき飛び上がって故郷へ飛びかえり、落ちたところに将門の首塚は建てられたといわれます。
「無事帰る」の語呂合わせで蝦蟇(カエル)の置物を奉納する習慣が生じたといわれています。

でも、私は蝦蟇(カエル)はドクロを比喩したものであり、将門はドクロの神なので、蝦蟇の置物を奉納する習慣が生じたのではないかと考えています。

奈良県吉野の蔵王堂では「蛙飛び行事」が行われていますが、これは飛行するドクロを表したものだと思います。
これについては長くなるので、次の記事をお読みください。↓
金峯山寺 蔵王堂 蓮華会 蛙飛行事 『蛙と空飛ぶドクロ』 

蔵王堂 蛙飛行事3

④『ガマの油』は将門の首の油で作った膏薬?

茨木市に筑波山神社があり、その地は平将門ゆかりの地だといわれています。

ところが、筑波山がなぜ平将門ゆかりの地とされているのかよくわかりません。
ぐぐってみたところ、『平將門伝説』(村上春樹著 汲古書院)の「第三章將門伝説の分布」に「筑波修験 つくば市筑波山 筑波山の修験者一党は、平将門軍に加わって戦い、首領の石念は六十九歳で、壮烈な戦死を遂げたという。」とあるそうですが。

筑波山神社 
筑波山神社

で、この筑波山神社の名物が『ガマの油』です。

みなさんも『ガマの油』の口上を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

春は三月落花の形、比良(ひら)の暮雪は雪降りの形。
このくらい切れる刀でも、差裏差表(さしうらさしおもて)へ、このガマの油を塗るときは、白紙一枚容易に切れない、
引いて切れない、叩(たた)いて切れない。
拭き取るときにはどうかというに、鉄の一寸板でも真っ二つ、ちょっと触ってもこのくらい切れる。
だがお立ち会い、このくらいの傷はなんのぞうさもない。
ガマの膏をちょっとつければ痛みが去って、血がぴたりと止まる、なんとお立ち会い~!


膏薬図子 

ガマの油とは江戸時代に傷薬として用いられていた軟膏です。
大坂の陣に徳川方として参加した筑波山・中禅寺の住職・光誉上人が陣中薬として用いて、薬効があるとして評判になったということです。
口上に「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」とあるところから、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)を主成分としていたのではないかといわれています。

他の説では、蒲黄(ほおう/植物のガマの花粉)、蜈蚣(ごしょう/ムカデを煮詰めたもの)、馬油(馬の皮下脂肪)などが主成分であるともいわれます。

膏薬図子

思い出してください。
平将門の首塚にガマの置物を奉納する習慣があることを。

筑波山神社のガマの油は平将門と関係があるのではないでしょうか?

膏薬とは あぶら・ろうで薬を練り合わせた外用剤のことをいいます。
膏薬には軟膏と硬膏の二つの種類があり、一般的には硬膏のことを膏薬というそうです。

軟膏とは半固形で体温で粘着性を持つ薬、硬膏とは通常固形で、体温で粘着性を持つ薬のことだそうです。

現在販売されているガマの油は軟膏のようですが、もともとは硬膏であったのかもしれません。
また軟膏と硬膏は形状にそんなに大きな違いはなさそうですし、「一般的には硬膏のことを膏薬という」のだとしても、軟膏を膏薬と言ったりもしていたでしょう。

ガマの油とは将門の頭の油でつくった膏薬なのではないでしょうか。

膏薬図子2 
 
⑤西福寺の布袋さんは頭にガマの油を塗っている?

さらに、前回お話しした西福寺の布袋さんと京の盆歌を思い出してください。
西福寺 地獄絵公開 『西福寺の布袋は頭に膏薬を塗っている?』 

京の盆歌とは次のようなものでした。

さのやの糸桜 
盆にはどこもいそがしや 
東のお茶屋のかどぐちに 赤前だれに繻子の帯 
ちょっと寄らんせ はいらんせ
きんちゃくに 金がない 
のうてもだんない はいらんせ 
おう辛気 こう辛気 
よいさっさ よいさっさ 
これから八丁 十八丁 
八丁目のこぐりは こぐりにくいこぐりで 
頭のてっぺん すりむいて 
一貫膏薬 二貫膏薬 
それで治らな 一生の病じゃ


これを私は次のような意味ではないかと考えました。

さのやの糸桜しだれ桜たち(祇園の娼妓のこと)
盆にはどこもいそがしや 盆はどこも忙しい 

東のお茶屋のかどぐちに
東山のお茶屋’(娼妓を呼ぶ店)の門口で
赤前だれに繻子の帯赤前垂れに繻子の帯を締めて呼び込みをしている。
ちょっと寄らんせ はいらんせ娼妓「旦那さん、ちょっと寄っていきなさいよ」
きんちゃくに 金がない 男「巾着にお金がないんだ」
のうてもだんない はいらんせ
おう辛気 こう辛気  
娼妓「お金なくてもいいから入りなさいよ。もう、じれったいなあ。」
よいさっさ よいさっさ それなら、と男は良いさっさと店に入る。
これから八丁 十八丁男「これから八丁、十八丁の道のりを帰ろう。」
八丁目のこぐりは こぐりにくいこぐりで 八丁目の木戸はくぐりにくい木戸で
頭のてっぺん すりむいて 頭のてっぺんをすりむいた
一貫膏薬 二貫膏薬 一貫・二貫と膏薬を塗る。
それで治らな 一生の病じゃそれで治らなかったら、(女遊びは)一生治らない。

西福寺 布袋像

上は西福寺の布袋像ですが、西福寺はお盆に地獄絵を見に来る人、迎え鐘をうつ人でにぎわうお寺です。
京の盆歌の、「頭のてっぺん すりむいて 一貫膏薬 二貫膏薬」すなわち、「頭をすりむいて膏薬を塗る」を表した像ではないかと思います。

西福寺は将門の首が晒された膏薬図子からそう離れてはいません。

このあたりの人々は平将門の怨霊に対する信仰が厚かったにちがいありません。

布袋さんが頭に塗っている膏薬は将門の首の油から作ったガマの油だったりして。

膏薬図子のお店

膏薬図子3



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[2019/08/22 11:25] 京都府 | TB(0) | CM(0)

西福寺 地獄絵公開 『西福寺の布袋は頭に膏薬を塗っている?』 



京都市東山区 西福寺
地獄絵公開・・・8月7日~8月10日(確認をお願いします。)


西福寺 六道の辻 
    
①六道の辻

愛宕おたぎ)の寺もうち過ぎぬ、六道の辻とかや。げに恐ろしやこの道は冥途に通うなるものを心ぼそ鳥辺山・・・(謡曲・熊野より)

古より十字路(辻)は、あの世とこの世が交わる場所だと考えられていました。
中でも特に西福寺・六波羅蜜寺・六道珍皇寺があるあたりの辻は『六道の辻』と呼ばれて畏れられていました。

六道とは仏教において生きとし生けるものが死後永遠に輪廻すると考えられた6つの世界、すなわち地獄道・餓鬼道・鬼畜道・修羅道・人間道・天上道のことです。

かつてこのあたりは鳥辺野の葬送地の入り口に当たり、六道にちなむ6つの寺院-六道珍皇寺・西福寺(地蔵堂)・六波羅蜜寺・愛宕念仏寺・姥堂・閻魔堂-があり、これらの寺では死者に引導を引き渡す役割を担っていたそうです。
愛宕念仏寺は移転、姥堂・閻魔堂は現存せず、現在は六道珍皇寺・西福寺・六波羅蜜寺の三寺があります。 )

8月7日から10日、京都では迎鐘を鳴らしてお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)をお迎えする習慣があり、六道詣と呼ばれています。
六道珍皇寺の迎鐘が有名ですが、西福寺や六波羅蜜寺にも迎鐘があります。

西福寺 迎鐘 

西福寺 迎え鐘

②布袋は弥勒菩薩の化身


西福寺の門前には布袋さんの石像が立ち、参拝する人を出迎えていました。

西福寺 布袋像

西福寺の布袋さんは右手に軍配を持ち、左手を頭の上に載せていました。
布袋像は袋を持っているものが多いですが、西福寺像のように軍配を持つ像もたくさんあります。

布袋は中国に実在した遊行僧で釈契此(しゃくかいし)という名前でした。
大きな袋を背負って各地を遊行し、もらったものは何でもその袋の中にいれていました。
仏教ではご法度の生臭物も、布袋は貰い受けたといいます。

布袋は『弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々』という文を残していて、ここから、布袋は弥勒の化身であると言われるようになったとされます。
弥勒菩薩とは56億7000万年後に復活するといわれる仏様です。

しかし私は布袋が弥勒菩薩の生まれ変わりだとされたのは、死後に復活したからだと思います。
というのは布袋には死後にその姿を目撃されたという話が残されているのですね~。
死後に姿を目撃されたというのは、死んだ布袋が生き返ったというですよね。

西福寺 地獄絵 
西福寺 地獄絵

③布袋の袋の中には髑髏が入っている?

宇治・萬福寺の布袋尊が持つ袋の大きさはちょうど髑髏が入っていそうな大きさです。

復活するのに髑髏はかかせないものだと考えられていたようで、例えば真言立川流では、髑髏に漆や和合水(精液と愛液の混合液)を塗り重ねて髑髏本尊を作るということです。
そしてその髑髏本尊を袋の中に入れ、7年間抱いて寝ることで、8年目に髑髏は命を持つようになると考えられました。

布袋の袋の中には髑髏が入っているのではないでしょうか?

萬福寺 布袋  

萬福寺 布袋尊

④軍配は魂を呼び寄せる呪具

西福寺の布袋は袋を持たず、かわりに軍配を持っていますね。

軍配は正しくは軍配団扇といいます。
現在の団扇は暑い日に扇いで風を起こすためのものですが、古には魂を呼び寄せるための呪具でもあったのです。

この六道の辻あたりは普段は観光客もまばらですが、お盆の時期には六道参りをする人々で賑わいます。

西福寺では地獄絵が公開され、すぐ近くにある六道珍皇寺ではお精霊さん(おしょらいさん/先祖の霊のこと)をお迎えするために迎え鐘をつく人が大勢訪れます。

西福寺の布袋像はお精霊さんの魂を呼び寄せるために軍配団扇を持っているのではないでしょうか。

西福寺 地獄絵4  

西福寺 地獄絵


⑤頭をさする布袋像


布袋像にはいろいろな像があります。

a.頭のてっぺんを指差すもの。
b.子供に頭をさすってもらっているもの。
c.自分で頭をさすっているもの。(西福寺の布袋像はこれですね。)

これらの像は、布袋と髑髏信仰に何か関係があるのではないかと思ってしまいます。

西福寺 地獄絵3   

西福寺 地獄絵

⑥京都の盆歌

bの布袋の頭をさする子供は、もう片方の手に小さな小鉢のようなものを持っていました。
これをふまえて京都の盆歌を味わってみてください。

さのやの糸桜 
盆にはどこもいそがしや 
東のお茶屋のかどぐちに 赤前だれに繻子の帯 
ちょっと寄らんせ はいらんせ
きんちゃくに 金がない 
のうてもだんない はいらんせ 
おう辛気 こう辛気 
よいさっさ よいさっさ 
これから八丁 十八丁 
八丁目のこぐりは こぐりにくいこぐりで 
頭のてっぺん すりむいて 
一貫膏薬 二貫膏薬 
それで治らな 一生の病じゃ


子供が手に持っている小鉢には膏薬が入っているのではないでしょうか。
そして子供は布袋の頭をさすっているのではなく、布袋が頭のてっぺんをすりむいたので膏薬を塗っているのでは?

西福寺の門前にある布袋像は自分の頭をさすっているのではなく、すりむいた頭の傷に膏薬を塗っているのではないかと思います。

ここはあの世とこの世が交わると言われる六道の辻で、お盆の時期に最も賑わいます。
すると西福寺の布袋像は京都の盆歌と関係があると考えるのが自然だと思います。

さのやの糸桜 
盆にはどこもいそがしや 


河内音頭では『さーのよいやーさっさ』と囃すように、『さのや』は囃子言葉だとも考えられています。
しかし私は『さのや』とは(株)植藤造園の経営者・佐野藤右衛門のことではないかと思います。
植藤造園は創業天保3年という老舗で、代々相続者が藤右衛門の名を襲名します。
15代佐野藤右衛門氏は桜の保存に貢献し桜守と呼ばれた人物で、円山公園の祗園枝垂桜は15代佐野藤右衛門によって植えられました。
さのやの糸桜とは祗園枝垂桜のことではないでしょうか。
ところが、お盆の時期には桜は咲いていません。
花街で働くの女性のことを祗園枝垂桜に喩えたのではないでしょうか。

西福寺 熊野歓心十戒図 

西福寺 熊野観心十戒図



東のお茶屋のかどぐちに 赤前だれに繻子の帯 
ちょっと寄らんせ はいらんせ
きんちゃくに 金がない 
のうてもだんない はいらんせ 
おう辛気 こう辛気 
よいさっさ よいさっさ 


現在の花街は芸妓遊びをするところですが、かつての花街には芸妓の他に娼妓もいました。
お茶屋とは団子を食べる店のことではなくて、芸妓や娼妓を呼ぶ店のことです。

『東のお茶屋のかどぐちに』の『東』とは京都の東、つまり祗園や宮川町のことだと思います。
かつて祇園や宮川町では赤前だれに繻子の帯をしめた妓が客の呼び込みをしていたといいます。
妓が『旦那、ちょっと寄っていきなさいよ』と呼び込みをします。
『巾着に金がない』と断ったけれど、『無くてもいいからお入りなさい。』『もう、じれったいなあ、早くお入んなさいよ。』 と 妓はしつこく誘います。

西福寺 壇林皇后九相図 
西福寺 壇林皇后九相図

これから八丁 十八丁 
八丁目のこぐりは こぐりにくいこぐりで 
頭のてっぺん すりむいて 
一貫膏薬 二貫膏薬 
それで治らな 一生の病じゃ

『洛中洛外図屏風』にも描かれているそうですが、京都ではかつて町の四辻には頑丈な木戸(町の門)が設けられていて、夜間には閉門されたそうです。
『八丁 十八丁 八丁目のこぐりは』の『こぐり』とはこの木戸のことでしょう。
宮川町などのお茶屋で遊んだ放蕩息子は夜遅くに帰宅しようとしますが木戸が閉まっています。
そのため番子にお金を握らせて潜り戸を開けさせて、帰宅したといわれます。

八丁目の潜り戸は狭くて通りにくかったので、頭のてっぺんをすりむいたのでしょう。
頭の傷、もしくは女遊びは膏薬を一貫・二貫塗っても治らなければ、一生治らないと。

西福寺 天井画

西福寺 天井画
天井画や壁画は展示されている地獄絵とは真逆の美しいイメージ。


子供が歌うにはちょっとエロいですねw。
子供たちは意味などわからず、歌ってたのでしょう。

私も子供のころ、かごめかごめや通りゃんせなどの唱歌を、意味もわからず歌っていました。
(不思議な歌詞で、実は今もよくわかりませんw。
下駄隠しはちょっとわかる?
なばなの里 プロジェクションマッピング くまモンと熊本 『下駄隠しのナゾ』 

西福寺 壁画 
西福寺 壁画

⑦八は復活を意味する数字

『八丁 十八丁 八丁目のこぐりは』とあって、やたら『八』が出てくるのが気になりますね。

梅原猛さんは数字の八は復活を意味する数字だとおっしゃっています。
八角墳や八角堂は死者の復活を祈って作られたものではないかというのですね~。

確かにそう考えると辻褄の会う言葉がたくさんあります。

『八咫鏡』は天岩戸に籠もった天照大神を岩戸から出すのに用いられた鏡のことです。
死んだ天照大神を復活させた鏡なので、復活を意味する八を用いて『八咫鏡』と言うのではないでしょうか。

『八咫烏』は中国や韓国では太陽の中に描かれることが多いです。
『八咫烏』とは復活した太陽神だと考えると辻褄があう。
『八咫烏』は天孫・神武天皇を道案内した烏ですが、神代には猿田彦という神が天孫・ニニギを葦原中国へ道案内したという話があります。
猿田彦は高天原から葦原中国までを照らす神であると記されています。
それにぴったりくる名前を持つ神がいます。
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)です。
この神が本当の天照大神だという説もあります。
サルタヒコと八咫烏とはどちらも天孫(ニニギ・神武)の道案内をしているので同一神だと考えられます。
つまり八咫烏とは復活した太陽神・ニギハヤヒのことだと、こう導くことができると思います。

西福寺 檀林皇后像 

西福寺 檀林皇后像

⑧真言立川流

さて、このようなエロい歌がなぜ盆歌なのでしょうか。
もしかしたら、それは真言立川流と関係があるかも?

真言立川流では、髑髏に漆や和合水(精液と愛液の混合液)を塗り重ねて髑髏本尊を作ります。
そしてその髑髏本尊を袋の中に入れ、7年間抱いて寝ることで、8年目に髑髏は命を持つようになると考えられました。

そしてお盆には死者の魂が復活してこの世に戻ってくると考えられていました。

木戸を潜りぬけようとしたのは死者の髑髏だったのではないでしょうか?
で、花街で娼妓と交わり、あの世とこの世が交わる辻を潜り抜けることでこの世に蘇ろうとしたんだったりして?


西福寺 

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[2019/08/20 17:41] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

五山送り火 鳥居型 燈籠流し『古の人々は月に平将門の面影を見た?』 

京都市右京区 広沢池
五山送り火・・・8月16日


※西山から五山送り火を見たいと思って、ロケハンにいったのですが、結局どこに行ったら見えるのかわからずじまい。
ご存じの方、教えてください!

広沢池 夕景 
広沢池の夕暮れ。まもなく精霊流し&五山送り火が始まります。

五山送り火 鳥居型2 
①五山送り火

8月16日、五山送り火。
五山の送り火は大文字(如意ヶ岳)・左大文字(左大文字山)・舟形(船山)・妙法(松ヶ崎西山・東山)・鳥居形(曼荼羅山)に火を燃やし、精霊送りする京都のお盆の行事です。

広沢池からは鳥居形を望むことができ、それにあわせて精霊流しが行われています。

②広沢池は月見の景勝地だった。

広沢池は別名を遍照寺池といいます。
989年、寛朝僧正が朝原山の麓に遍照寺を建立しましたが、その際本堂の南に庭池として造られたのが広沢池(遍照寺池)だと伝えられています。
(秦氏がため池として作ったとする説もあります。)

精霊流しの灯篭は参拝者が遍照寺におさめ、回向してもらった上で広沢池に流されます。(ネット予約、申し込みもできるようです。)

広沢池は古には月見の景勝地として有名であったようで、この地で多くの歌が詠まれています。

その中に源頼政の歌もあります。

遍照寺の月を見て

いにしへの 人は((みぎわ))に 影たえて 月のみすめる 広沢の池/源頼政
(古の人は水際で月を愛でたものだが、今は人影もなく、ただ月ばかりが澄んでいる。)


五山送り火 鳥居型 

③古の人は月に平将門の面影を重ねた?

古の人はなぜ広沢池で月見をしたのでしょうか。

「そりゃー、池に月が映ってきれいやからやん」って?
それはそうですが、私は月見にはもっと深い意味があったのではないかと思います。

遍照寺を創建した寛朝僧正は宇多天皇の孫にあたり。939年には朱雀天皇の勅命を受けて下総の国(千葉県)で平将門の乱平定の祈祷を行っています。
そうしたところ直ちに乱は平定され、その地に東国鎮護を目的として成田山新勝寺が建立されました。

981年、円融天皇が病になった際には、寛朝僧正は宮中で病気平癒の祈祷を行いました。
すると不動明王があらわれ、天皇の病は回復したということです。

成田山新勝寺のご本尊は不動明王です。
981年にあらわれた不動明王とは成田山新勝寺のご本尊の不動明王だと考えられます。

そして陰陽道ではあらぶる怨霊は十分に慰霊することで人々にご利益を与えてくださる和魂に転じると考えます。
さらに江戸時代まで、神仏は習合して信仰されていました。

成田山新勝寺の不動明王とは、幾多の怨霊伝説が残る平将門を供養することによって、東国鎮護の仏・不動明王に転じたものではないかと考えます。

つまり、円融天皇の病は平将門の怨霊の祟りであり、寛朝僧正が祈祷によって平将門の怨霊を不動明王に転じさせたので円融天皇の病は回復したということではないでしょうか。

その8年後の989年に遍照寺は創建されています。
ご本尊は十一面観音ですが、不動明王も祀られていて、広沢不動尊とも呼ばれています。

遍照寺の不動明王は平将門のイメージに重ねられているのではないでしょうか。

すると、遍照寺の庭池である広沢池に移る月、それは平将門のイメージであり、古の人々は平将門を供養する意味で月見を行っていたのではないかと思えるのです。

いや、もっと広く、謀反人と月のイメージを重ねたというべきかもしれません。

広沢池 精霊流し

④藤原道長は永遠に欠けることのない月を歌に詠んだ?

これに対して、こんな反論があるかもしれません。

藤原道長がこんな歌読んでいます。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(この世を私の世だと思う。今宵の満月のように欠けているところなど何もないのだ。)


これは月を栄光の象徴として詠んだ歌であって、月は謀反人の象徴だとはいえないのではないかと。

月は満ち欠けをしますね。
道長は満ち欠けをする月ではなく満月の状態を歌に詠んでいるのです。
実際にはありえませんが、明日には欠ける月ではなく、永遠に欠けることのない月を歌に詠んだと言ってもいいかもしれません。

古の人が広沢池で月を愛でたのは望月(満月)であったかもしれません。
ですが、それは道長が詠んだ欠けることのない月ではなく、明日には欠けてしまう月だとみな知っているので哀れみをこめて月を愛でたのではないかと思ったりします。

五山送り火 鳥居型3 


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[2019/08/18 22:24] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

壬生寺 中堂寺六斎『弁慶のモデルは酒呑童子?』 


京都市中京区 壬生寺
中堂寺六斎奉納 8月16日


中堂寺六斎 
 
①橋弁慶


中堂寺六斎では橋弁慶の演目があります。

橋弁慶という能の演目がありますが、それを六斎の演目としてとりいれたのでしょうか。

能の橋弁慶は次のようなストーリーになっています。

弁慶は五条天神に丑の刻詣を行っていたが、従者が「少年が千人斬りをしているので、今日は参詣しないほうがいい」と進言しました。
弁慶は逆に退治しようと出かけました。
弁慶は女装した牛若丸にあい、斬りかかったがどうしてもかなわず、弁慶は牛若丸の家来となりました。


一般によく知られている話では、弁慶が千本の武器を集めるために通行人を襲っており、そこへ通りかかった牛若丸と戦うとなっていますが、能ではその逆で千人斬りをしているのは牛若丸のほうなんですねw

もともとの話はどちらなんでしょう?

名称未設定_パノラマ1


 ②弁慶は複数の比叡山僧兵をモデルに創作された?

弁慶は吾妻鏡1185年11月3日条に源義経の郎党として名前が記されています。
なのでそういう名前の義経の郎党は実在していたとも考えられますが、弁慶の話のほとんどは後世の創作のようですね。

『吾妻鏡』や『玉葉』には次のような話が記されています。

源義経が都落ちしたあと、比叡山の僧兵(悪僧)が義経を庇護した。
その中の俊章(しゅんしょう)が義経を奥州まで案内した。
1188年8月17日、千光房七郎が悪徒浪人を集めて悪行を働いてお尋ね者になる。
1189年1月13日、比叡山の僧兵・千光房七郎(せんこうぼう しちろう)が北条時定に捕らえられた。


これら複数の比叡山僧兵たちがモデルとなって弁慶伝説が作られたとする説もあります。

 名称未設定_パノラマ1


③鬼子として生まれた弁慶

弁慶の父親は熊野別当で、弁しょう(義経記)とか弁心(弁慶物語)という名前だったとされます。
この弁しょう(または弁心)が二位大納言の娘を強奪し、この娘が弁慶を産んだとされます。

弁慶は母親の胎内に
18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いたとか、大変大きな赤ちゃんで生まれたとき3歳児くらいの体つきだったなどといわれます。
生まれたときすでに髪は肩のあたりまであり、奥歯も前歯も生えそろっていたとか。
父は弁慶を鬼子だと考えて殺そうとしましたが、叔母が引き取って鬼若と名付け、京で育てたということです。

中堂寺六斎 棒振り

中堂寺六斎 棒振り 
 
④鬼子

古には親に似ていない子供や異様で姿え生まれた子供、特に歯が生えて生まれた子供のことを鬼子といいました。

歯が生えるのは通常生後4か月~6か月後ですが、1000人に2人くらいの確立で歯が生えてうまれてくることがあるそうでで、新生児歯(魔歯)といいます。

群馬県山田郡では歯が一本はえて生まれた子供は捨てて近所の人に拾ってもらっていたそうです。
二本の場合逆に出世相であるといわれました。

生後10か月で歯の生えた子供は「塔婆」と呼び、三つ辻に捨てて人に頼んで拾ってもらうというようなこともしていたようです。

愛知県田峯では、鬼子が生まれると親子のうちの一方が死ぬと言われ、鬼子が生まれると殺されていたそうです。

屋久島では鬼子の歯を折って、鬼子ではなかったことにしていたのだとか。

中堂寺六斎
 
⑤鬼は生まれたときから歯がはえそろっていた。

鬼といえば酒呑童子が有名ですね。
酒呑童子の伝説は各地で様々に伝わっているようですが、新潟県では越後国の鍛冶屋の息子で、母親の胎内に16か月おり、生まれたとき歯と髪が生えそろっていたといいます。
生まれてすぐ歩き出し、言葉も話せたのだとか。

茨木童子という鬼もいますが、彼も生まれたときから歯が生えそろっていたとされます。

酒呑童子や茨木童子などの鬼は鬼子を誇張して創作されたものなのかもしれませんね。

中堂寺六斎2

⑥弁慶は酒呑童子をモデルに創作された?

弁慶は比叡山の僧兵でしたが、酒呑童子は比叡山の稚児であったという話が伝わります。
弁慶も酒呑童子も生まれながらにして歯が生えそろっていて、体もおおきかったといわれます。
弁慶という人物は実在していたかもしれませんが、弁慶の物語のモデルは酒呑童子だったりして?

中堂寺六斎2 

中堂寺六斎 

中堂寺六斎 

中堂寺六斎 

中堂寺六斎 獅子



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[2019/08/15 21:41] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

淀川花火大会 『枚方の鍵屋は紀氏?』 

 
 
淀川花火大会 

花火大会の「鍵屋」「玉屋」という掛け声の由来

東京の花火大会では「鍵屋~」「玉屋~」と掛け声をかける習慣があるそうですね。
そういえば江戸川花火大会に行ったときに、そういう掛け声を聞いたような気がします。
(関西ではそういう習慣はあまりないです。)

「鍵屋」「玉屋」とは、江戸時代の両国川開きの大花火で花火をあげた2件の花火屋の屋号です。

「鍵屋」は六代目弥兵衛の代から両国川開きの大花火をはじめ、八代目鍵屋の時、番頭の清七がのれん分けしてもらって「玉屋」を開きました。

淀川花火大会

②鍵屋の創業者

「鍵屋」の創業者・鍵屋弥兵衛は奈良県大塔町篠原の木地師集落に生まれ、三男坊であったため五條の火薬工場に奉公に出ました。

幕府は厳しく火薬を取り締まっており、製造場所も五條・三河など特定地域に制限していたようです。
五條で火薬が製造されていたのは、ここを治めていた松倉重政が1616年に島原城主となって以降、五條新町が天領(江戸幕府の直轄地)となったためではないかと思います。

鍵屋弥兵衛は五條新町の火薬工場で火薬の知識を得たのち、1659年に江戸に向かい、花火師となりました。

家康は鍵屋弥兵衛など一部の花火師を保護していたともいわれていますし、上京間もなく幕府御用達の花火師になっていますので、もしかしたら家康に呼ばれて江戸に向かったのかもしれませんね。

 淀川花火大会

鍵屋・玉屋と稲荷信仰

「鍵屋」の鍵と「玉屋」の玉。
ここから伏見稲荷大社の狐の像を思い出します。

伏見稲荷大社 狐 雪2

伏見稲荷大社 狐の像
 
狐の像が鍵と玉をくわえています。

実は、鍵屋・玉屋という屋号は、稲荷信仰からくるといわれています。
なんでも鍵屋は稲荷神を厚く信仰していたのだとか。

現在も伏見稲荷の門前には「玉屋」さんと言う茶店が残っており、昔は「鍵玉屋」と言う茶屋もあったということです。
https://itp.ne.jp/info/264203586300000899/

淀川花火大会

⑤稲荷神は紀氏の神だった?

伏見稲荷大社は秦伊侶具なる人物が創建したと伝わりますが、これはどうやら嘘っぽいです。
もともと伏見稲荷大社がある場所には藤森神社があったのを、空海がここに伏見稲荷大社を建てたため、藤森神社は移転したというのが本当のようです。
藤森大社の祭では、氏子さんたちが神輿を担いで伏見稲荷大社に乗り込んで今でも「土地返せ、土地返せ」というのだとか。
いや、すごいお祭りですね。

また、最古の稲荷社は和歌山県糸我稲荷神社であるとも伝わります。
藤森神社は紀州(和歌山県)を本拠地としていた紀氏の神を祀るともいい、空海は紀氏の土地だけではなく神までも奪ったっぽい?

稲荷神とは紀氏の神なのではないでしょうか?

淀川花火大会

⑥木地師の祖・惟喬親王の母親は紀氏だった。

鍵屋弥兵衛が大塔町篠原の木地師集落の生まれだったということを思い出してください。

木地師の祖は平安時代の惟喬親王だといわれています。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があります。
(実は奈良時代に木製百万塔がろくろを用いて作られているので、事実ではない。)
この方の父親は文徳天皇で、母親が紀静子(紀名虎の娘)なのです。
当時、天皇に入内するのは藤原氏の女性が多かったですから、紀氏の母親を持つ親王は珍しかったのです。

文徳天皇には藤原明子(藤原良房の娘)との間には惟仁親王もありました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えており、これを源信に相談しています。
源信は藤原良房を憚って文徳天皇をいさめ、その結果、惟仁親王が皇太子となっています。(のちの清和天皇)

淀川花火大会

⑦木地師は紀氏の神・稲荷神を信仰していた?

木地師の祖・・・惟喬親王・・・母親が紀静子・・・稲荷神は紀氏の神?

そういうわけで木地師は稲荷神を信仰していた、なんてことはないかな?

淀川花火大会

⑧枚方宿の鍵屋は伏見稲荷を信仰していた?

淀川花火大会は大阪市淀川区十三の淀川で行われていますが、淀川を京都方面へ、東にさかのぼっていくと枚方宿に鍵屋があります。

江戸時代、淀川は京都伏見と大坂を結ぶ水上交通が栄え、三十石舟が往来していました。
また枚方は宿場町でもあり、当時より枚方には多くの旅人が訪れていました。
鍵屋はそういった旅人が利用する料理旅館で平成9年まで営業していました。
現在は資料館となっています。

「鍵屋」は、その創業を天正年間と伝えられ(事実かどうかは不明)、1773年の「御済配書写」の中に、鍵屋当主とみられる「鍵屋太兵衛」の名前が登場します。

江戸時代、苗字を名乗っていいのは公家・武士で、一般的に庶民は苗字を名乗ることができなかったそうです。
ですが、苗字がなかったわけではなく、主人から苗字を賜ったり、地名を苗字として名乗ったりしていたようです。
商人は屋号を苗字のように用いたりしたということなので花火師の鍵屋弥兵衛も宿屋の鍵屋太兵衛も屋号を名乗っていたのではないかと思います。

そして鍵屋と名乗ったのは江戸の花火師の『鍵屋」「玉屋」、伏見の茶店「玉屋」「鍵玉屋」と同様、鍵屋太兵衛が稲荷神を深く信仰していたからかもしれませんね。

枚方には紀氏の荘園もたくさんあったようです。
http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-2222.html

鍵屋太兵衛は紀氏であった可能性もありそう?

枚方宿 鍵屋 菊2 

鍵屋(枚方宿)



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[2019/08/13 23:58] 大阪の祭 | TB(0) | CM(0)