Author:佳音
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本殿(中座)・・・スサノオ・別雷命・日本武命、応神天皇・神功皇后・武内宿祢・仁徳天皇東殿(東座)・・・天武天皇 崇道尽敬皇帝(舎人親王)西殿(西座)・・・崇道天皇(早良親王)伊予親王・井上内親王西殿に祀られているのは御霊(怨霊)と言われている人々です。怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていました。伊予親王について→飛鳥 光の回廊 川原寺 『伊予親王が幽閉された川原寺は飛鳥の川原寺ではなかった?』 井上内親王について→室生寺 石楠花 『龍神の正体』 正法寺 枯山水の庭⑤早良親王を祀る紀氏西殿に祀られている早良親王は桓武天皇の同母弟で皇太子でした。ところが桓武天皇は我が子である安殿親王(のちの平城天皇)を皇太子にしたいと考えていました。桓武天皇は藤原種継暗殺事件にかかわったとして早良親王を流罪としました。早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行し、淡路にむかう舟の上で憤死したと伝えられます。紀氏はこの早良親王と関係があるようで、奈良の紀寺(璉珹寺)のすぐそばにも早良親王をまつる崇道天皇社があります。 璉珹寺 門 茉莉花 崇道天皇社⑤早良親王は征夷大将軍ではなかった。藤森神社には、早良親王についての、こんな伝説が伝えられています。早良親王が皇太子になった後、蝦夷の反乱がおこった。早良親王は征夷大将軍となり、藤森神社に戦勝祈願をして出陣しようとしたが、蝦夷はこれを聞いて畏怖し、乱は戦わずして平定された。これは史実とは思えないです。皇太子のような位の高い人が征夷大将軍になるとは考えられませんし、ウィキペディアの「歴代征夷大将軍」を見ても早良親王の名前はありません。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D 正法寺 石仏⑦征夷大将軍・紀古佐美、早良親王の怨霊の祟りで死ぬ。歴代征夷代将軍の中に紀氏の名前があります。8代目の紀古佐美です。789年、紀古佐美は征夷大将軍となって阿弖流為率いる蝦夷と戦いますが、大敗しています。そして、この大敗は早良親王の怨霊の祟りとされました。さらにこの人は797年に亡くなっていますが、その死もまた早良親王の怨霊の祟りだとされたようです。そういうわけで紀氏は早良親王の霊を鎮めるため、御霊として祀り、さらには征夷大将軍になって勝利をおさめたという作り話まで作ってしまったということではないでしょうか。
京都市右京区 広沢池五山送り火・・・8月16日※西山から五山送り火を見たいと思って、ロケハンにいったのですが、結局どこに行ったら見えるのかわからずじまい。ご存じの方、教えてください! 広沢池の夕暮れ。まもなく精霊流し&五山送り火が始まります。 ①五山送り火8月16日、五山送り火。五山の送り火は大文字(如意ヶ岳)・左大文字(左大文字山)・舟形(船山)・妙法(松ヶ崎西山・東山)・鳥居形(曼荼羅山)に火を燃やし、精霊送りする京都のお盆の行事です。広沢池からは鳥居形を望むことができ、それにあわせて精霊流しが行われています。②広沢池は月見の景勝地だった。広沢池は別名を遍照寺池といいます。989年、寛朝僧正が朝原山の麓に遍照寺を建立しましたが、その際本堂の南に庭池として造られたのが広沢池(遍照寺池)だと伝えられています。(秦氏がため池として作ったとする説もあります。)精霊流しの灯篭は参拝者が遍照寺におさめ、回向してもらった上で広沢池に流されます。(ネット予約、申し込みもできるようです。)広沢池は古には月見の景勝地として有名であったようで、この地で多くの歌が詠まれています。その中に源頼政の歌もあります。遍照寺の月を見て
いにしへの 人は汀((みぎわ))に 影たえて 月のみすめる 広沢の池/源頼政(古の人は水際で月を愛でたものだが、今は人影もなく、ただ月ばかりが澄んでいる。) ③古の人は月に平将門の面影を重ねた?古の人はなぜ広沢池で月見をしたのでしょうか。「そりゃー、池に月が映ってきれいやからやん」って?それはそうですが、私は月見にはもっと深い意味があったのではないかと思います。遍照寺を創建した寛朝僧正は宇多天皇の孫にあたり。939年には朱雀天皇の勅命を受けて下総の国(千葉県)で平将門の乱平定の祈祷を行っています。そうしたところ直ちに乱は平定され、その地に東国鎮護を目的として成田山新勝寺が建立されました。981年、円融天皇が病になった際には、寛朝僧正は宮中で病気平癒の祈祷を行いました。すると不動明王があらわれ、天皇の病は回復したということです。成田山新勝寺のご本尊は不動明王です。981年にあらわれた不動明王とは成田山新勝寺のご本尊の不動明王だと考えられます。そして陰陽道ではあらぶる怨霊は十分に慰霊することで人々にご利益を与えてくださる和魂に転じると考えます。さらに江戸時代まで、神仏は習合して信仰されていました。成田山新勝寺の不動明王とは、幾多の怨霊伝説が残る平将門を供養することによって、東国鎮護の仏・不動明王に転じたものではないかと考えます。つまり、円融天皇の病は平将門の怨霊の祟りであり、寛朝僧正が祈祷によって平将門の怨霊を不動明王に転じさせたので円融天皇の病は回復したということではないでしょうか。その8年後の989年に遍照寺は創建されています。ご本尊は十一面観音ですが、不動明王も祀られていて、広沢不動尊とも呼ばれています。遍照寺の不動明王は平将門のイメージに重ねられているのではないでしょうか。すると、遍照寺の庭池である広沢池に移る月、それは平将門のイメージであり、古の人々は平将門を供養する意味で月見を行っていたのではないかと思えるのです。いや、もっと広く、謀反人と月のイメージを重ねたというべきかもしれません。④藤原道長は永遠に欠けることのない月を歌に詠んだ?これに対して、こんな反論があるかもしれません。藤原道長がこんな歌読んでいます。この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(この世を私の世だと思う。今宵の満月のように欠けているところなど何もないのだ。)これは月を栄光の象徴として詠んだ歌であって、月は謀反人の象徴だとはいえないのではないかと。月は満ち欠けをしますね。道長は満ち欠けをする月ではなく満月の状態を歌に詠んでいるのです。実際にはありえませんが、明日には欠ける月ではなく、永遠に欠けることのない月を歌に詠んだと言ってもいいかもしれません。古の人が広沢池で月を愛でたのは望月(満月)であったかもしれません。ですが、それは道長が詠んだ欠けることのない月ではなく、明日には欠けてしまう月だとみな知っているので哀れみをこめて月を愛でたのではないかと思ったりします。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
鬼といえば酒呑童子が有名ですね。酒呑童子の伝説は各地で様々に伝わっているようですが、新潟県では越後国の鍛冶屋の息子で、母親の胎内に16か月おり、生まれたとき歯と髪が生えそろっていたといいます。生まれてすぐ歩き出し、言葉も話せたのだとか。茨木童子という鬼もいますが、彼も生まれたときから歯が生えそろっていたとされます。酒呑童子や茨木童子などの鬼は鬼子を誇張して創作されたものなのかもしれませんね。⑥弁慶は酒呑童子をモデルに創作された?弁慶は比叡山の僧兵でしたが、酒呑童子は比叡山の稚児であったという話が伝わります。弁慶も酒呑童子も生まれながらにして歯が生えそろっていて、体もおおきかったといわれます。弁慶という人物は実在していたかもしれませんが、弁慶の物語のモデルは酒呑童子だったりして? p p pp ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
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