大阪市中央区 空堀商店街あたりとても素敵な町なので、写真どどーんと18枚アップしますよ~ん。
①坂の町・空堀大阪メトロ谷町6丁目駅付近は、谷町筋から西に下り坂となっているところが多いです。
坂になっている空堀商店街空堀商店街があるあたりは、かつて大坂城三の丸の外堀・南惣構堀(みなみそうがまえぼり)があったとされます。
江戸時代、ここで瓦用の土を採っていたとされ、そのせいで低い土地ができたのかもしれません。
また谷町筋あたりは上町台地の背骨にあたり、それで坂が生じているのかも?
ちょっと詳しいことはわかりません。
②観音坂
観音坂 階段のある道ってレトロ感があっていいですね。
自転車やバイクなどがあまりなかった時代に作られたのではないでしょうか。観音坂も空堀にある坂のひとつです。
観音坂と呼ばれるのは、かつてこの坂を上ったところに和勝院というお寺があり、藤の棚観音をお祀りしていたことにちなみます。
残念ながら現在は坂を登ってもお寺はないんですが。
和勝院は大阪三十三所第16番で、曾根崎心中のヒロインお初が大阪三十三所めぐりをするシーンにもでてきます。
漏りて 裳裾がはらはらはら。はっと翻(かへ)るを うち掻き合はせ。ゆるみし帯を引き締め。引き締め。締めてまつはれ藤の棚。
(漏れて 裳裾がはらはらはら。はっと翻るのをうちかきあわせ、緩んだ帯を引き締め、引き締め、締めて巻き付け、藤の棚。)お初天神 節分祭 『曾根崎心中・大阪三十三所観音巡りの言葉遊びがオモシロイ!』
この坂を裳裾を翻して歩くお初の姿が目に浮かんでくるようです。
また『好色一代女』では次のような歌が詠まれているのだとか。(読んでみたいです。)
観音の庭に咲きたる 藤の花 とりもなおさず 花の瓔珞(ようらく)
お寺にあった藤は、池で溺死した子どもを弔うために、子供が好きだった藤を池のほとりに植えたものと伝わります。

③藤棚観音ゆかりの浄円寺天部立像浄円寺(大阪市淀川区新北野3)の木造天部立像はもともとはこの和勝院にあったものだとされます。
現在は観音像として祀られていますが、着甲像なので天部像(帝釈天か?帝釈天像は襠衣を着するものが多い。)として造られたものだと考えられています。
するとこの浄円寺像が観音坂の由来になった像なのか、と思うかもしれませんが、それはないと思います。
浄円寺のご本尊は千手観音だったとされるからです。
和勝院は文久3年(1863)に焼失し、西区新町に移転したとされます。
この1863年の火災の際に千手観音も焼失してしまったのかもしれません。
長年信仰されてきた観音様であったので、焼け残った帝釈天像を観音として祀り続けたのではないでしょうか。
その後、この像は箕面市の宝積院に移り、近年になって淀川区の浄円寺に移ったということです。
https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008862.html↑ こちらのページに浄円寺木造天部立像の写真が掲載されています。
④和勝院は大坂城内に建立された?かつて観音坂を上り詰めたところにあったという和勝院は天台宗のお寺で山号は清涼山といったそうです。
天正年間豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦勝祈念のため建立したと伝わります。
秀吉の朝鮮出兵は文禄・慶長の役と呼ばれています。
文禄の役は1592~1593年、慶長の役や1597~1598年です。
大阪城が築城されたのは1583年なので、文禄・慶長の役がおこったころ、すでに大坂城はありました。
そして空堀という地名はここに大坂城の南惣構堀(空堀)があったことにちなむ、ということは
和勝寺は大坂城内に作られていた可能性が極めて高いです。
⑤死んだ子供が愛した藤の木とは?そこで、豊臣秀吉の別名を思い出してください。
豊臣秀吉の別名は羽柴秀吉とかたくさんありますが、その中に木下藤吉郎というのがあります。
和勝院が藤棚観音と呼ばれる由来となった伝説に登場する池で溺れ死んだ子供とは豊臣秀吉の子の秀頼のことであり
子供が好きだった藤とは秀頼の父親、豊臣秀吉=木下藤吉郎のことではないでしょうか。
秀吉の朝鮮出兵は失敗し、秀吉は1598年に死亡しました。
その後、秀吉の子の秀頼が大坂城主となりましたが
1614年、大坂の冬の陣で徳川家康と対立。
講和の条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却することになりました。
このとき南惣構堀(空堀)も埋められてしまったのです。
1615年、惣構が埋め立てられ防御能力を失った大坂城は大坂夏の陣で落城、秀頼は自害して果てました。
藤の木観音とは秀吉のイメージを映した観音様だったのかもしれませんね。
↑ 坂の町ならではの玄関

↑ 共同の井戸。井戸端会議の声が聞こえてきそう。
↑ 此方の井戸も共同だったのかな?
↑↓ うだつのある家
↑ 土管もいい雰囲気出してる。
↑ すごい急階段ですね!※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
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大阪市中央区 空堀商店街あたり
大阪市南区は平成元年に東区と統合され中央区となりました。
①空堀にはかつて大坂城の南惣構堀があった。昭和の時代にタイムスリップしたかのような空堀界隈。
レトロなものにあふれた宝箱のような町。
このあたりにはかつて大坂城三の丸の外堀・南惣構堀(みなみそうがまえぼり)があったとされます。
南惣構堀は水のない堀だったので、空堀と呼ばれ、それが地名になったといわれています。
②現在よりも一回り広かったかつての大坂城上の地図をみていただくとおわかりいただけるように、現在の大坂城公園はすごく広いですが、かつての大坂城はもっと広かったのです。
北は淀川が天然の堀の役割をはたしていました。
現在、淀川(大川)にかかる天満橋の長さは151mです。
船も頻繁に航行しているので水深もそこそこあるのでしょう。
かつての淀川の川幅や水深がどの程度あったかわかりませんが。
商店街は長い坂になっています。東は大和川が天然の堀の役割を担っていました。
現在の大和川は大阪市の南部を流れていますが、かつては大坂城の東北あたりから南へ向かって流れていたのですね。
江戸時代に付け替え工事が行われ、現在のような流れになったそうです。
旧大和川がどのあたりを流れていたのかがわかれば、かつての大坂城の東の範囲が推定できますが
調べてみましたがよくわかりませんでした。
和風の窓にシャンデリアがミスマッチ!西は東横堀川。
東横堀川は大坂城の西総構堀として開削されたものです。
東横堀川にかかる高麗橋から大坂城公園西まで
900mほどあります。
南は南惣構堀=空堀があったところなので、空堀商店街があるあたりまでが大阪城の敷地だったということになりますね。
空堀商店街から大坂城公園南西角からまでの距離は
1.24kmほどもあります。
さらに南の外濠が天王寺付近にあったのでは、ともいわれています。
温泉の自動販売機③空堀のメリット堀には水のない空堀と、水をためた水堀があります。
甲冑を着ていると水堀を泳ぎ切るのは大変ですが、空堀にもメリットはあります。
十分深くしておけば、堀に降りるのも、堀から出るのも大変です。
そこであえて堀に敵を誘い込み、逃げ場を失った敵を攻撃するということが可能になりますね。
武士が掘に落下した場合、水があると水が緩衝材の役割を果たしますが、硬い地面だと死にいたるでしょう。
実際、大坂冬の陣で徳川方は南惣構堀=空堀に苦しみ、大阪城を落とすことができませんでした。
そこで徳川家康は豊臣秀頼と和議を行い、秀頼の身の安全と本領の安堵とひきかえに、二の丸・三の丸の破壊、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めさせたのです。
こうして南惣構堀=空堀は埋められたので、現存していません。
ところが徳川家康は再び大坂城をせめ(大阪夏の陣)、堀をうめて防御能力のなくなった大坂城は落城してしまったのです。
④城郭都市比較城壁・堀・土塁などの防御施設で囲んだ都市のことを城郭都市といいます。
ヨーロッパなどに見られる市街地まで城壁で囲んだ城壁都市や、大阪城・江戸城・名古屋城などの城下町まで堀で囲んだ都市も城郭都市です。
城壁は見た目立派ですが、大砲で簡単に破壊できるため、大砲の出現によって城郭都市は作られなくなったと聞いたことがあります。
その点、堀を産めるのは大変で、防御能力は掘の方が優れているかもしれません。
また城壁は視界を遮ってしまうので、攻撃に不利な点もあったのではないかと思います。
さて、②で大坂城の広さについて見ましたが、ヨーロッパの城郭都市と比較するとどうでしょうか?
ヴェネツィア(市と隣接諸島) | 約600ha |
ミラノ(15世紀のヴィスコンティの城壁内) | 580ha |
ガン(14世紀の城壁内) | 570ha |
ケルン(1180年の城壁内) | 560ha |
フィレンツェ(1284年の城壁内) | 480ha |
パドヴァ(15世紀のヴェネツィア人の城壁内) | 450ha |
パリ(シャルル5世の1370年の城壁内) | 440ha |
ブリュッセル(1357年の城壁内) | 415ha |
ボローニャ(13世紀の城壁内) | 400ha |
ルーヴァン(1357年の城壁内) | 395ha |
ヴェローナ(14世紀のスカリジェーリの城壁内) | 380ha |
ブリュージュ(1297年の城壁内) | 360ha |
ピアチェンツァ(14世紀の城壁内) | 290ha |
ティーネン(14世紀の城壁内) | 250ha |
ナポリ(15世紀のアラゴンの城壁内) | 200ha |
ピサ(12世紀の城壁内) | 200ha |
バルセロナ(1350年の城壁内) | 200ha |
シエナ(14世紀の城壁内) | 180ha |
リューベック(13世紀の城壁内) | 180ha |
ロンドン(中世に修復された古代ローマの城壁内) | 160ha |
ニュールンベルク(1320年の城壁内) | 160ha |
メケレン(14世紀の城壁内) | 160ha |
フランクフルト・アム・マイン(14世紀の城壁内) | 150ha |
アヴィニョン(1356年の城壁内) | 140ha |
http://www.ku-rpg.org/column/population.htmlより引用
※中世後期の主要都市について、「外側の」城壁内面積を表にしたもの。実際の居住区である市域よりは数値が大きくなるとのこと。
大阪城の大きさについては、こちらに記述がありました。→
https://shirobito.jp/article/650大阪城:約106ha(大坂城公園)となっています。
106haは大坂城公園の面積ですから、かつての大坂城はもう少し広かったでしょう。
1.5倍の広さがあったとすると、160haとなります。

⑤江戸城はヨーロッパにひけをとらない大きさだった。上のサイトには他の城の面積についても記されています。
熊本城:約20ha
姫路城:約23ha
名古屋城:約35ha
仙台城:約44ha
江戸城::約230ha(皇居+皇居外苑)
大阪城は上表のヨーロッパの城壁都市よりは狭かったかもしれません。
しかし江戸城はヨーロッパの城壁都市に匹敵する大きさをもっていたといえるでしょう。
江戸城は(皇居+皇居外苑)となっていますが、その範囲は次の地図のとおりです。
https://shirobito.jp/article/650上記サイトの3枚目の図の内郭と記されている赤で表示されている部分が皇居+皇居外苑です。
そしてそのまわりの青で表示されているのが外郭です。
どのあたりまで外郭だったのか不明とのことですが、外郭を含めると最低でも内郭の4倍はありそうです。
そうすると230ha×4=920haとなり、ヨーロッパの城壁都市に負けない広さを持つ城郭都市だったといえそうです。
⑥何を勘違いしたのか?次のような記事がありました。
日本のお城は実に奇妙である。なにしろ城がとても小さく、どんなに大きな名古屋城、熊本城なども1000人も住めないぐらいの大きさだ。そ
れに対して、外国の城というとまったく規模が違う。中国では北京城、南京城、トルコのイスタンブールの城、フランスのパリの城壁・・・
どれもこれも威風堂々として、城の中に数万人から数10万人の市民を全部、収容できる。
なんで日本の城は世界でももっとも小さいのだろうか?
外国の城には市民が住んでいたが、日本のお城には不思議なことに殿様一家しか住んでいなかった?!
簡単に言うと、外国の戦争は「領土獲得より、奴隷獲得」であり、日本の戦争は「領土獲得だけ」だったからだ。http://takedanet.com/archives/1013802913.html より引用

申し訳ないですが、この文章は全く意味がありません。
というのは、話の前提である「日本の城は世界でももっとも小さい」の時点で勘違いされているからです。
なぜ勘違いしたのでしょうか。
a.外国の城郭都市と、日本の城郭都市の中の一部分にすぎない天守閣を比較している。
b.日本では空襲を受けて多くの建物が破壊されたり、町が近代化する中で、城郭都市が古の姿をとどめているケースが少ない。
c.日本でも戦争に負けると領民が奴隷にされることがあったことを武田さんはご存じないか、無視されている。
参照/
大阪城 紅葉 『日本の城郭都市と乱取り』
狭い路地のあちこちに神様や仏様が祀られていました。昔の日本人は神仏に見守られて生活していたんですね。
※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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