三重県伊賀市 伊賀鉄道 2019年6月23日 撮影
①目力半端ない!忍者列車。メーテル?それともスターシャ? いや、よく見ると「くノ一(くのいち)」でした。 一目で松本零士さんのデザインとわかりますね! ものすごい目力で、インパクト大です。 今度は駐車場に車を預けて一駅だけでも乗ってみたいです。 というのは中もなかなか凝ってるようなんですよ!→ https://www.igatetsu.co.jp/cat75/痺れますね! ②くノ一とは女の忍者ではなく女をさす隠語だった。「女の忍者」のことを「くノ一」といいます。 「女」という字は「く」「ノ」「一」と書くので、「女の忍者」のことを「くノ一」と言うのだと説明されます。 しかし、本来「くノ一」とは「女の忍者」のことではなく、「女」を意味する隠語であったそうです。 山田風太郎さんの『忍法帖シリーズ』の『忍法八犬伝(1964年)に「八人の女忍者、いわゆる服部くノ 一衆もまじっていた。 」と記されていて、こういったことから「くノ一=女忍者」と捉えられるようになったと考えられているそうです。 くノ一と呼ばれてはいませんでしたが女性の忍者もいたようです。 ただし、忍装束を着用し、忍の術を使ったりするのではなく、女中などに扮して諜報活動を行ったりしていたようです。 また男では潜入しにくいケースなどに女性を潜入させることを「くノ一の術」と言っていたようですね。 ③忍者のルーツは秦氏?飛鳥時代、聖徳太子が大伴細人を志能備(しのび)として用いたと伝わります。 聖徳太子のブレーンとして渡来人の秦河勝が有名ですね。 で、伊賀忍者といえば有名なのが服部半蔵ですが、服部氏は秦氏だとされます。 忍者と秦氏は何か関係があるのかも? 1962年に伊賀上野の旧家で発見された「上嶋家文書」には次のように記されていました。 伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が能楽者の観阿弥で、母は楠正成の姉妹であると。 観阿弥の子の世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していたということです。 そして能楽の始祖は秦河勝とされているのです。 能楽と忍者にも何か関係がありそうです。
能楽とは芸能のひとつです。 芸能とは現在では娯楽ですが、かつては神事だったと思います。 そして忍者の仕事の中には諜報活動も含まれていると考えられます。
芸能・神事・諜報活動といえば非人を思い浮かべます。 中世、京都の清水坂には祇園社(現在の八坂神社)に隷属する犬神人(「いぬじにん」「つるめそ」とも)と呼ばれる非人が住んでいました。 彼らは弓の弦を売る権利を得て「弦召そ」と言いながら町を歩いていたため「つるめそ」と呼ばれるようになったとされます。 しかし、それだけではなく死体の処理、清掃などにも携わっていたようです。
祇園祭 綾傘鉾の棒振り。 犬神人はこんな覆面をした姿で絵巻などに描かれています。 棒振りはもともとは犬神人によって行われていたのではないでしょうか。
清水坂から近い六波羅に平清盛は邸宅を構え、禿とよばれる少年を諜報部員(スパイ)として用いていたといわれますが 禿とは犬神人ではないかとする説があります。
犬神人は結髪がゆるされず童形(結髪しない髪型)であったとされますが、禿はおかっぱ頭であったとされます。
犬神人が芸能に携わったかどうかは勉強不足ゆえよくわからないのですが 興福寺に隷属する非人が住んでいたとされる奈良坂には奈良豆比古神社があり、毎年能のルーツともいわれる「翁舞」を奉納しています。
奈良豆比古神社 翁舞
芸能(神事)と諜報活動は非人と関係が深いのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%99 上記ウィキペディアの「夙」の項目を見ると、「大体、夙の分布は畿内の外、紀伊・伊賀・近江・伊勢・丹波・播磨・淡路に広がっており、」とあり、伊賀に非人が住んでいたとはいえそうです。
すると秦氏は非人なのか、と思えますが、秦氏は造(みやつこ)という姓(かばね。古代日本における氏族の称号。臣(おみ)・連 (むらじ) ,君 (きみ) ,首 (おびと) など三十種近くある。)でした。 この造(みやつこ)とは御奴からくるのではないかとする説があります。
奴は奴隷を意味する漢字です。

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https://www.youtube.com/watch?v=pngtiXpYFmI&feature=emb_logo上の動画、04:50あたりで次のように発言されています。 日本を作った神様、イザナギ・イザナミ、夫婦ですが、きわめて仲睦まじい。 イザナミという妻がまちがって火傷して死んじゃうんですけど、それを何とかして生き返らせようとして 黄泉の国、地獄、あの世まで行って助け出してくるのが夫のイザナギなんですよね。 非常に仲睦まじいわけですよ。 全然対立関係とか、どっちが上かとか、平等かなんて概念がないんです。よく知られた話ですが、イザナギ&イザナミの話はこのような内容の物語ではありませんね。 イザナミが火傷を負って死んでしまうのはそのとおりですが、間違って火傷を負うのではありません。 火の神・カグツチを産んだので、ホトに火傷を負って死んでしまったのでした。 まあ、それは細かいことなのでいいとします。 間違っているのは、「イザナギがイザナミを黄泉の国から助け出してくる」という点です。 イザナギがイザナミを迎えに黄泉の国に行ったのは確かです。 しかし、イザナギはイザナミを黄泉の国から助け出してくるというような話はありません。 イザナギは妻・イザナミに会うため、黄泉の国へ行きました。 そしてイザナギはイザナミに「愛しい妻よ、帰ってきておくれ」と訴えます。 イザナミは「黄泉の大王に相談してくるので、その間決して私の姿を見ないでくださいね」と言いました。 しかし、イザナギは我慢できなくなって振り返り、イザナミの姿を見てしまいます。 イザナミの体は腐り、ウジが湧いていました。 恐ろしくなったイザナギは慌てて逃げ帰ろうとしました。(サイテー!) イザナミは怒り(当たり前やん~)黄泉醜女(よもつしこめ)に追いかけさせました。 イザナギが髪につけていた黒いカズラ(蔓=ツル植物)を取って投げると、みるみるうちに成長して山ブドウの実がなりました。 黄泉醜女たちは山ぶどうを食べはじめ、その間にイザナギは逃げました。 しかしまたしても黄泉醜女たちが追いかけてきたので、イザナギが右のミズラ(角髪)に挿していた櫛の歯を折って投げると、筍が生えてきました。 黄泉醜女たちは筍を食べ始め、イザナギは黄泉平坂まで逃げました。坂をふさいだ大きな岩は、ヨミドノオオカミ(黄泉戸大神)といいます。 「黄泉比良坂」は、今の出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか=島根県八束群東出雲町揖屋)という坂です。 http://www15.plala.or.jp/kojiki/izanagi_izanami_05.html↑ 此方のサイトにも同様の話が記されています。 イザナギはイザナミを助け出したのではなく、二人はいさかいをおこし、別れたというのが正しいのです。 古事記や日本書紀には別伝もあります。 もし別伝に武田さんのおっしゃるような話があるというのであれば教えてください。  奈良県川上村 不動窟鍾乳洞
鍾乳洞を流れる川は三途の川のイメージ!
「イザナギが黒い蔓を投げつけると山ぶどうになった」とありますが、山ぶどうとはケイブパールを比喩的に言ったものだと思います。(不動窟鍾乳洞にはケイブパールはありませんでした。)
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます。
また、「イザナギが櫛の歯を折って投げると筍が生えてきた」とありますが、筍とは石筍のことではないでしょうか。↓
参照/不動窟鍾乳洞 『似ている?ギリシャ神話と日本神話。』
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三重県伊賀市上林 水車 2019年6月27日
①今も現役!灌漑用水車。メナード青山リゾートへ行く途中、カタコトと動く水車を発見しました。 水車といえば、蕎麦屋さんとか観光施設などに設置されているのをよく見かけます。 それはそれで雰囲気があっていいのですが 伊賀市上林の水車はインテリア用とか観光用ではなく、田圃への灌漑用として現役で動いているところが素晴らしい! 水路の水が水車の羽根にあたることで水車が回転します。 水車の羽根には容器がとりつけられていて、羽根が水路に水没すると容器に水が入ります。 水がはいった容器は水車の回転する力によって水上にくみ上げられ、田圃に水を流します。 こうした仕組みを考え出した先人の知恵はすごいですね。 ②現在、灌漑はどのようにして行っているのか?現在ではほとんど灌漑用の水車はみかけませんが、どのようにして田圃に水を入れているのか、調べてみました。 ため池の水門をあけると開渠 (かいきょ/上部を開け放した水路) を水が流れます。 開渠を流れる水はポンプなどでくみ上げるとのこと。 https://ameblo.jp/inosisi-sisisi/entry-11545686840.html地下にパイプラインをひき、蛇口をひねって田圃に水を入れるというシステムもあるようです。 http://www.shironegou.jp/rengou/works.html水をに水をためておき、くみ上げ、田圃に水を流すのですね。 ③諸国に灌漑用水車を作った良岑安世829年、良岑安世が諸国に灌漑用水車を作らせたとされます。 良岑安世は六歌仙の一、遍照の父親です。 遍照は百人一首にある「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」という歌を詠んだ人です。 遍照というのは出家して名乗った戒名であり、俗名は良岑宗貞といいます。 良岑安世は桓武天皇の皇子でしたが、臣籍降下しています。おそらく母親の身分が低かったためでしょう。 子供は遍照のほかにも大勢いました。 木蓮( いたび)・・・越前守 長松・・・・・・・・山城権守 清風・・・・・・・・近江権守 高行・・・・・・・・陸奥守 川の流れは皇位継承の血筋、水車でくみあげた水はその皇位継承に血筋から外れて、安世の子たちが地方官になったということを比喩的に行ったものだったりして? 川の流れが皇位継承の血筋を表しているのではないかと思われる歌はいくつかあります。 それについては別ブログの次の記事を参照してください。 私流 トンデモ百人一首 77番 瀬をはやみ・・・ 『藤原聖子を震え上がらせた歌?』 私流 トンデモ百人一首 13番 筑波嶺の・・・ 『龍田川だったらよかったのに・・・・』 私流 トンデモ百人一首 ⑰ちはやぶる・・・ 『陽成天皇の父親は在原業平だった?』 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。 歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました! にほんブログ村
滋賀県長浜市 長浜城模擬天守(長浜歴史博物館)
琵琶湖に浮かぶ竹生島へ向かう船の上から撮影
①河川からの堆積物で埋め立てられて湖の寿命は尽きる。
ウィキペディアの「古代湖』の項目に次のように記されています。 古代湖(こだいこ、英語:ancient lake)とはおよそ10万年以上存続している湖の呼び名。 一般的に湖の寿命は数千年から数万年と言われている。 これは、流入する河川からの堆積物で湖が埋め立てられるためである。 しかし一部の湖は10万年以上の年齢をもち、なかには数百万年から2000万年以上の寿命を有する湖が存在する。 このような湖を古代湖と呼ぶ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%B9%96 より引用 琵琶湖は約400万年前にできたとされる古い湖です。 琵琶湖はなぜ約400万年もの間、堆積物で埋まって消滅しなかったのでしょうか? ②琵琶湖は地震で大きくなる。
https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1270833_38851.html上記記事にこんなことが記されていました。 琵琶湖博物館学芸員の里口さんによると、 琵琶湖に流れ込んでいる100以上の河川が運んでくる土砂が湖の縁を埋めるのが原因で琵琶湖は年々小さくなっているそうです。 これはどんな湖でも起こる現象です。 しかし、琵琶湖の西側にある断層が、数百年~数千年に一度の周期で地震を起こすことが原因で、 琵琶湖の湖底が下がって深くなり、湖岸線の位置が広がって湖の面積が広くなっていくということです。 ③琵琶湖は北へ移動している。
琵琶湖ははじめは現在の三重県の山田村あたりにでき、地殻変動によって北へ移動し、現在地に至ったと考えられています。 https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1270833_38851.html上記6枚目の図に、琵琶湖の変遷がわかりやすく記されています。 一番左の図は琵琶湖ができたばかりのころの図ですが、現在の琵琶湖に比べるとかなり小さな湖ですね。 左から2枚目の図では琵琶湖はかなり大きくなっています。 左から3枚目の図には湖はなく、川・沼を含む湿地が広範囲に広がっています。かなり堆積物が積もったため、湖は沼になったということでしょうか? 一番右側の図では、沼地の西側に湖ができています。 通常ならば堆積物で湖は消滅してしまうところ、②でのべたように地震が起きて湖底がさがり、その結果、安定した湖が出来たということでしょうか? ウィキペディアの「琵琶湖」の項目には次のように記されています。 「琵琶湖が形成された時期は、約400万年~600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった。(大山田湖)。 湖は次第に北へ移動し、現在から約100 - 40万年前、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。 大山田湖以前、現在の琵琶湖の位置には山(古琵琶湖山脈)があり、鈴鹿山脈は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩である。 また、琵琶湖に流入する最大の川で、東南に位置する野洲川は、当時西方ではなく、東方へ流れていたという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96より引用  ④長浜水中遺跡 1枚目の長浜城の写真は琵琶湖に浮かぶ竹生島へ向かう船の上から撮影したものです。 長浜城は琵琶湖のほとりに建てられていたのですね。 そして長浜城の近くに長浜水中遺跡があります。 2015年、沖合100メートル、水深1・8メートルの湖底で木製の柱8本(最大直径19.5センチ、最長65.7センチ)などが発見されました。 建物は東西2.1メートル、南北1.8メートルで、祠跡と考えられています。 放射性炭素年代測定法によれば、建物が作られたのは江戸時代後期の1801年~1818年ということです。 1819年に湖東地域を震源に起きたマグニチュード7.2前後の文政近江地震による地盤沈下で水没したのではないかと考えられています。
琵琶湖には長浜水中遺跡のほかにも水中遺跡が多数あります。 地震による地すべりが原因と記された記事もありました。 地すべりでできたと思われる湖底の小山が確認されているというのです。 しかし地すべりだけでなく、地震によって湖底がさがり、湖岸線の位置が広がったことが原因で水没した建物や村などもあるのではないでしょうか。

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大阪市鶴見区 花博記念公園 鶴見緑地 韓国庭園 2019年6月9日 撮影
①オトギリソウの斑点は切り殺された晴頼の弟の血だった。鶴見緑地の韓国庭園に黄色い花が咲いていました。 花の名前、ヒベリカムであってます?間違ってたら教えてくださいね。 ヒペリカムでぐぐってみますと「オトギリソウ属」とでます。 オトギリソウは漢字では弟切草と書くそうです。 江戸時代の「和漢三才図会」に弟切草という名前の由来になった伝説が記されているとのこと。 平安時代、鷹匠の晴頼(せいらい)は鷹の傷に効く薬草を秘薬として、その薬草が何であるかを決して他人に話しませんでした。 しかし、晴頼の弟がそれを恋人に話してしまったので、晴頼は弟を切り殺しました。 晴頼の弟の血が薬草にかかったので、薬草に斑点が生じるようになりました。ヒベリカムには斑点はないと思います。 しかし、オトギリソウの葉には黒い斑点が、花には黒い斑点や筋があります。 こちらの写真がわかりやすいと思います。→ https://matsue-hana.com/hana/otogirisou.html ②オトギリソウの薬効オトギリソウは別名を鷹の傷薬、盆花、青薬(アオクスリ)などともいいます。 晩夏から初秋、果実が成熟する頃に全草を採取し、日干しにしたものが生薬の「小連翹(ショウレンギョウ)」です。 煎じ液は止血、月経不順、鎮痛等の効果があるとされます。 しかしオトギリソウの斑点はヒペリシンという光作用性物質で、摂取した後に日光に当たると皮膚炎や浮腫を生じるということです。 ③お盆の時期に咲く花は何でも盆花?
弟切草の別名のひとつに盆花というのもありました。 盆花とは盂蘭盆に盆棚に飾る花のことですが、弟切草の他、桔梗・百日紅・彼岸花・女郎花・千日紅などの別称でもあります。 お盆の時期に咲く花はなんでも盆花といったのかもしれません。 関西ではヒベリカムの花は6月ごろによく見かけますが、弟切草の花期は7月~8月だそうです。 桔梗、女郎花、百日紅も7月~8月。千日紅は6月~10月。 彼岸花はその名前のとおり秋の彼岸ごろ、9月ごろが花期なので少しずれますが。 晴明神社 桔梗④古代、黄色のことを「あお」と言った。
日本では 古より「しろ」「くろ」「あか」「あお」など色を表す言葉がありました。 このうちの「あお」は非常に広範囲の色をさし、青・緑・紫なども「あお」と言っていたようです。 また『大日本方言辞典』によれば、青森・新潟・岐阜・福岡・沖縄といった地方では、黄のことも青と言っていたとあるようです。
https://www.wikiwand.com/ja/%E9%9D%92
弟切草の花の色は黄色なので、黄=青 ということで、弟切草のことを青薬と言っていたのかもしれません。
⑤鷹匠は鉱山技術士?
オトギリソウの別名のひとつに「鷹の傷薬」がありますが、鷹といえば「一富士・二鷹・三茄子」を思い出します。
玉雲宮 百日紅 『一富士・二鷹・三茄子の謎、そして殺生石はなぜ高田の地に飛散したのか』
↑ こちらの記事に次のようなことを書きました。
い.初夢で見ると縁起がいいとされるものとして、一富士・二鷹・三茄子という。 ろ.私は、一富士・二鷹・三茄子とは鉱山または鉱物の隠語ではないかと考えている。 は.栃木県那須町の近くには足尾銅山がある。愛媛県新居浜市のなすび平の近くには銅山川が流れ、別子銅山がある。 銅は茄子色をしている。そして茄子が鈴なりになっている状態を坑道に見立てたのではないか。 に.鷹は鷹の爪ではないか。 鷹の爪の赤い色は辰砂(丹/水銀)を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。 ほ.富士は不死の意味で、輝きを失わない金を意味しているのではないか。 富士はまた藤をも意味し、藤の花が房になって咲くようすが坑道に喩えられたのではないか。
弟切草の伝説に登場する鷹匠の晴頼とは、鉱山技術士を喩えていったものではないでしょうか? また、鉱山に関係するもののことを鷹の傷薬と言っているのかも?
白毫寺 藤
⑥鉱山の神=毘沙門天=むかで=虎=弟切草?
とすると、鉱山に弟切草が必要? というわけではなく、弟切草とは何かの隠語ではないでしょうか。
奈良の朝護孫子寺にはムカデのレリーフがいたるところにありますが
坑道をムカデ穴ともいい、ムカデは鉱山の神として信仰されています。 坑道をムカデ穴というのは、坑道がいくつもに枝分かれして伸びている様子をムカデの脚にたとえたのでしょう。
そして、朝護孫氏寺ではムカデのほかに、虎もシンボルとされています。
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&id=35AC4ABA8B676669EEF9F4C43DF6838C19E26D88&thid=OIP.E1w4glA6f8VCoQltgIorzgAAAA&mediaurl=http%3A%2F%2Fphotocdn.sohu.com%2F20131105%2FImg389552006.jpg&exph=266&expw=400&q=%e8%99%8e%e7%9a%ae&selectedindex=4&ajaxhist=0&vt=0&eim=0,1,6&ccid=E1w4glA6&simid=608037788860878405
上記リンク先を見ていただくと一目瞭然なのですが、虎の縞模様は背中の中心線(首から尻を結ぶ線)から伸びています。 この縞模様もムカデの脚と同じく坑道に見立てられたのでしょう。
↓ こちらは京都の鞍馬寺で展示されていたムカデの茶碗です。
、。
↓ 鞍馬寺には狛虎もあります。
朝護孫子寺と鞍馬寺はどちらも毘沙門天を祀っています。 ムカデと虎は毘沙門天の使いということなんでしょうね。
毘沙門天はもともとはクベーラという地下の財宝を司る神であったとされます。 地下の財宝とは、鉱物のことでしょう。 毘沙門天は鉱物や鉱山の神だと考えられると思います。

鞍馬寺 毘沙門天立像 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kuramadera_Monastery_Bishamon_(308).jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1b/Kuramadera_Monastery_Bishamon_%28308%29.jpg よりお借りしました。 mperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition [Public domain]
そして弟切草の花をもう一度見てください。 https://matsue-hana.com/hana/otogirisou.html
黄色に黒い筋はなんとなく虎を思い出させませんか?

⑦鷹のストライプ模様も坑道を表している?
また、鷹もまた腹部から見るとムカデの脚のようなストライプ模様になっています。
https://www.taharakankou.gr.jp/spot/000344.html
↓ こっちの鷹の腹部はストライプではなく斑点ですが~。ただし羽根の部分はストライプになっています。 https://gimon-sukkiri.jp/hawk-eagle-kite-falcon/
いずれにせよ、鷹のストライプも坑道を表しているのかもしれません。
⑧鷹につける薬=アマルガム法?
鷹につける薬=弟切草とは、アマルガム法の隠語ではないかと思います。
「⑤-に」に私は次のように書きました。
に.鷹は鷹の爪ではないか。 鷹の爪の赤い色は辰砂(丹/水銀)を、また鷹の爪の実が鈴なりになるようすを坑道に見立てたのではないか。
鷹は辰砂(丹/水銀)の隠語と考えられるのではないか、と思います。
水銀を用いた技術としてアマルガム法があります。
アマルガム法とは、金・銀の精錬法のひとつです。 鉱石を水銀とともに粉砕してアマルガムを形成させます。 アマルガムとは水銀と他の金属との合金のことです。
このアマルガムを銅板上に流し、水銀を蒸留でのぞいて金・銀を取り出します。

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京都府長岡京市 楊谷寺 2019年6月16日 撮影
①愛染明王楊谷寺の奥の院・眼力稲荷。その向かって右に愛染堂があります。 愛染堂にはもちろん愛染明王が祀られています。 愛染明王は下の写真のような像容をされています。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AizenMyoo.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/AizenMyoo.jpg よりお借りしました。 永厳 [Public domain]
愛染明王(『図像抄』〈十巻抄〉より)
●一面(顔がひとつ) ●三目(目が三つ/額に目がある。) ●五鈷杵のついた獅子の冠をかぶる。 ●体は赤色 ●宝瓶の上にある紅蓮の蓮華座に、日輪を背にして座る。 ●持物 (じもつ) 左・・・第一手/は拳 (こぶし)、第二手/五鈷杵、第三手/金剛弓 右・・・第一手/蓮華 (れんげ)、第二手/五鈷杵、第三手は金剛箭(矢)。 ②金剛杵は光り輝く聖仙・ダディーチャの骨から作った武器愛染明王ってやたら五鈷杵が好きだなあ~w。 ところで五鈷杵って何なのでしょうか。 五鈷杵は金剛杵の一種で、インド神話のインドラ(帝釈天)の武器です。 金剛杵には五鈷杵のほかにもさまざまな種類があります。 独鈷杵(とっこしょ、どっこしょ) 槍状の刃が柄の上下に一つずつ付いたもの。三鈷杵(さんこしょ)刃がフォークのように三本に分かれたもの。 五鈷杵(ごこしょ)中央の刃の周囲に四本の刃を付けたもの。七鈷杵(ななこしょ)中央の刃の周囲に六本の刃を付けたもの。九鈷杵(きゅうこしょ、くこしょ)中央の刃の周囲に八本の刃を付けたもの。宝珠杵(ほうじゅしょ)柄の上下に刃ではなく如意宝珠を付けたもの。宝塔杵(ほうとうしょ)柄の上下に刃ではなく宝塔を付けたもの。鬼面金剛杵柄に鬼の顔の飾りがついたもの。金錍(こんべい)独鈷杵の両端に宝珠が付いたもの。羯磨(かつま)二つの金剛杵を十字に組み合わせた形のもの。類似した物に車輪の様な輪にスポークの様に刃が付いた「輪鈷杵(りんこしょ)」も存在し、これもスポーク型の刃の数で種類がある。金剛鈴(こんごうれい)片側に刃のかわりに鈴が付いたもの。衆法の時に神仏と一体化するために鳴らす。先端の形によって、五鈷鈴・三鈷鈴・独鈷鈴・宝珠鈴・塔鈴に分けられる。割五鈷杵(わりごこしょ)縦に二分割できる五鈷杵で、その中心に仏舎利を入れることを目的とするもの。また、分割した際にそれぞれが人形(ひとがた)にも見えることから、真言立川流においては「人形杵」(にんぎょうしょ)とも呼ばれた。現在は、一般に使用することはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E6%9D%B5より引用
ヴリトラ(蛇の形をした悪魔の首領)を倒そうと考えるインドラ(帝釈天)に、ブラフマー(梵天)は次のように告げました。 「ダディーチャという聖仙に骨を下さいと頼めば、ダディーチャは身を捨てて自らの骨を与えてくれる。 その骨でヴァジュラ(金剛杵)を造るとよい。」 インドラが早速ダディーチャに会いに行ったところ、ダディーチャは太陽のように光り輝いていました。 そしてインドラの話を聞くと「身を捨てます」と言って息をひきとりました。 インドラはダディーチャの骨を取り出し、トゥヴァシュトリ(工巧神)にヴァジュラ(金剛杵)を造らせた。 インドラはそのヴァジュラ(金剛杵)をつかんでヴリトラ(蛇の形をした悪魔の首領)を粉砕しました。
金剛杵って光り輝く聖仙・ダディーチャの骨から作ったものだったのですね。
③金剛はオリハルコン?
金剛杵の金剛とは堅い金属のことで、一説にはダイヤモンドではないかといわれます。 アトランティスにあったオリハルコンのことだったりしてw。 オリハルコンと聞くと「海のトリトン」が「オリハルコーン」と叫んだり 「百億の昼と千億の夜」でオリオナエが持っていたのを思い出しますが、 オリハルコンとは古代ギリシャ・ローマの文献に登場するアトランティスに存在したとされる幻の金属です。
それはともかく、光り輝く聖仙ダディーチャとは硬い金属またはダイヤモンドの体を持っていたのでしょう。
④愛染明王は仏教版キューピット?
愛染明王は愛欲などの迷いがあってこそ、悟りにつながることを示す仏教の神で、縁結び・夫婦円満などのご利益があると考えられています。
そこで気になるのが、持物の弓と矢です。 さきほど金剛杵の金剛とは硬い金属のことで、アトランティスのオリハルコンを思わせると書きましたが 弓矢を持つといえば、ギリシャ神話のエロスやローマ神話のキューピットを思い出しますね。
エロスもキューピットも愛の神で、エロスとキューピットは同一視されています。 エロスやキューピットが持つ黄金で出来た矢に射られると激しい愛情にとりつかれ、鉛の矢で射られると恋を嫌悪するようになるといわれます。
⑤ギリシャ・インド・日本の神話はつながっている?
ギリシャとインドの神話は関係があるんじゃないでしょうか?
また日本神話とギリシャ神話にはとてもよくにたものがあります。
それについては過去記事にもいくつか書いたので、お読みいただけると嬉しいです♪
不動窟鍾乳洞 『似ている?ギリシャ神話と日本神話。』 八坂神社 石見神楽 天神 『道真は天神?雷神?天満って何?』 長慶寺 紫陽花 『千手千眼観音は孔雀の神?』 中之島薔薇園 『薔薇はなぜアフロディーテーの象徴なの?』 千早赤阪村 水仙の丘『ナルキッソスはエーコーに殺された?』 宝泉院 花菖蒲 『あの世とこの世を繋ぐ橋』 山田池公園 花菖蒲 夕景 『なぜアイリスは虹と結び付けられたのか?』
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⑥18禁画像w (閲覧注意)
性的映像が嫌な方はここから下は見ないでくださいね。
愛染堂と記した石板の下にあるのは、肩甲骨とお尻のように見えます。 気になって前を見てみたら、あららw 写真そのまま載せていいものかどうかと迷ったのですが ダビデ像、春画の写真を見てもぼかし等入っていないので、そのまま掲載しますw。 ↓
誰がデザインされたんでしょう?超カワイイんですけど!①雨粒は豚まんの形をしている。ぴちょんくんは湿気なんだそうですが、ティア―ドロップ(擬宝珠を長くしたみたいな形)の形をしていますね。(下の写真を参照してください。) これから梅雨で雨が多くなってきますが、雨粒もティア―ドロップの形をしていると思っていました。 ところが、そうではなく、雨粒って豚まんの形をしているそうです。 空気の抵抗でドロップの下側がつぶれたような形になるんだとか。 友人に教えてもらいました。 運転してみたい?②梅雨(つゆ)という言葉が使われるようになったのは、江戸時代以降。ところで梅雨という言葉は、中国由来の表記のようですね。 「なんでも梅学」というサイトに次のように記されていました。 「梅雨」とは、6月~7月中旬、中国の長江下流域から朝鮮半島、 日本列島(北海道を除く)に見られる雨期のこと。 それほど雨足の強くない雨が、長期に亘って続くのが特徴。 現在、中国では「梅雨(メイユー)」、韓国では「長霖(チャンマ)」と呼ぶ。
~略~
「梅雨」という言葉は、江戸時代に日本へ伝わり、 その頃から、日本でも「梅雨(つゆ)」と呼ばれるようになった。
~略~
「梅雨」という言葉が伝わる以前は「五月雨(さみだれ)」といった。 「さ」は陰暦の5月(現在の6月)、「みだれ」は「水垂れ」を意味する。
https://minabe.net/gaku/kurashi/tsuyu.htmlより引用
梅雨(つゆ)という言葉が使われるようになったのは江戸時代だったんですね。 もっと昔からある言葉だと思っていました。(汗)
③「五月雨(さみだれ)」の「さ」は接頭語の「さ」?
上のサイトでは「さ」は「陰暦五月」をさすとしています。 しかし、ウィクショナリーで「さ」を調べると次のように記されています。
接頭辞 - 【小、狭】 語調を整える。実質的な意味はないが、時に美化して言う。
- さゆり(小百合)
- さぎり(狭霧)
- 狭衣(狭衣)
- 狭山(狭山)
- 田植えの時期に関係のあることを表す。
- さぬだれ(五月雨)
- さおとめ(五月女、早乙女)
- さなえ(早苗)
- 【早】早い時期のものを表す。
- 強調する
- 時間を表す語について、その先のものを表す
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%95 より引用 飛鳥 勧請綱と田植え ④陰暦5月は神聖な月だった?上のウィクショナリーの説明で、「2.田植えの時期に関係があることを表す」とありますね。 田植えは神聖なものなので「1.時に美化していう」を適用して、五月雨・早乙女・早苗などと言うのかもしれません。 しかし陰暦5月自体が神聖なものであった可能性もあるかも? というのは、5月5日は磐船神社の祭礼日なのです。 磐船神社 十種祭 『端午の節句はニギハヤヒの節句?』 詳しいことは、上の記事に書いたのでお読みいただけると嬉しいです。 磐船神社の御祭神はニギハヤヒです。 記紀によれば、この神は、初代神武天皇よりも早く畿内に天下っていたとされる神で、物部氏の祖神とされます。 そういったことから、畿内には神武以前、物部王朝があったとする説もあります。 そこへ日向から神武が東征してやってきて、物部王朝→天皇家王朝と政権交代がおきたと。 記紀にはそう書いてあるように思えます。 政権を奪われたニギハヤヒは怨霊になったことでしょう。 怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、疫病や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていたのです。 磐船神社 十種祭そしてニギハヤヒの怨霊のせいで、陰暦5月は悪月になったと考えられたのではないでしょうか? 陰暦5月は梅雨の長雨で湿度が高く(ぴちょん君が活躍する時期ですね)、食べ物にカビが生えたり、伝染病が流行ったり、害虫の害があったりするので悪月と呼ばれていたのです。 日本では田植えをする前に早乙女が「五月忌」をする習慣がありました。 若い娘たちが田の神のために仮小屋や神社に籠って穢れを祓い浄めたのだといわれています。 田の神とは5月に祭礼を行う怨霊ニギハヤヒのことで娘たちはニギハヤヒの為に穢れを祓っていたのかも? (かつて怨霊と神は同義語であったといわれます。怨霊が祟らないように神として祀ったなどといわれます。) そういえば磐船神社では大きな岩石が積み重なった穴を潜り抜ける岩窟めぐりをすることができるんですが 神聖な場所であるとして、上の写真のような白衣着用が義務付けられています。(事務所で貸してくれます。) 下でバーチャル岩窟めぐり体験ができますよ。ぜひお試しを! http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/gankutu.htmlただし、陰暦を用いていた時代、磐船神社の祭礼日がいつだったのか、確認する必用がありますが。 現在磐船神社の祭礼日は太陽暦5月5日です。 陰暦を用いていた時代、陰暦5月5日画祭礼日だったので、太陽暦を用いるようになってからも5月5日を太陽暦としたのか。 あるいは、陰暦4月の祭礼であったのを、季節をあわせるために月遅れの5月に祭礼を行うようになったのかもしれません。 鏡作神社 おんだ祭 早乙女さんたち
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大阪市天王寺区 四天王寺 2019年6月9日 撮影(紫陽花・ハルカス・猫の門のみ)
①経文を鼠から守る猫おや、『太子殿 猫の門』と書いてありますね。 門を見上げてみると、蟇股(幕の上あたり)に猫の彫刻がありました。 谷町筋から石の鳥居ごしに境内をながめると、五重塔と金堂が見えます。 五重塔・金堂・講堂は塀で囲まれていて中心伽藍を形成しています。 その中心伽藍の後方(東)に太子殿・奥殿からなる聖霊院があり、塀で囲われています。 その入り口として虎の門、猫の門などがあるのですが、猫の門は開かずの門だということです。 虎ノ門の写真は撮り忘れまして~(汗~) リンク先の写真をご覧くださいませ! https://ja.foursquare.com/v/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA-%E8%99%8E%E3%81%AE%E9%96%80/537738e211d22e39cbcd5727猫は聖霊院・経堂に納められた経文を鼠から守っていると言われます。 ②大阪大空襲から逃げられなかった猫
また四天王寺の猫は鼠をとらず、夜な夜な花街へ出かけていたので、寺は困って金網を巡らせたなんて伝説も。 四天王寺は1934年の室戸台風で五重塔が倒壊するなどの被害を受け、1940年に五重塔が再建されました。 しかし1945年に大阪大空襲があり、堂塔はことごとく焼失してしまいました。 猫の門もこのとき焼失してしまったのですが、金網がめぐらされていたため、猫は逃げることが出来なかったなどともいわれています。 1963年、伽藍が再建されました。 1979年には聖霊院奥殿・絵堂・経堂が再建されました。 このとき、猫の門も再建されました。これが現在の猫の門です。 ③日光東照宮と四天王寺の眠り猫同じような猫を見たことがあります。 そう、日光東照宮の東回廊奥・坂下門の蟇股にある眠り猫です。 四天王寺は大坂の陣で焼失し、のち徳川幕府によって再建されました。 このとき、日光東照宮の眠り猫を政策した左甚五郎が四天王寺にも猫の彫刻を作ったといわれています。 日光東照宮の眠り猫と四天王寺の眠り猫は、大晦日と元旦に鳴きあったなんていう伝説も伝えられています。 ③皇居の虎ノ門は白虎にちなむ?四天王寺聖霊院の『猫の門』の南に『虎の門』があります。 『猫の門』は開かずの門なので、聖霊院へは『虎の門』より入ることになります。 皇居東京の江戸城(現在の皇居)にもかつて虎ノ門がありました。 この門の名前は東西南北を守護する聖獣・四神(玄武・朱雀・白虎・青龍)のひとつ、白虎からくるといわれます。 玄武は北、朱雀は南、白虎は西、青龍は東の守護神とされています。 そして玄武は丘陵に、朱雀は湖沼に、白虎は大道に、青龍は清流に棲むといわれ、 北に丘陵(玄武が棲む)、南に湖沼(朱雀が棲む)、西に大道(白虎が棲む)、東に清流(青龍)がある地を「四神相応の地」といいます。 そして江戸の町は江戸城(現在の皇居)を中心に四神相応の地に作られたなどといわれます。 平安京は、北に船岡山、南に巨椋池(現存せず)、西に山陰道、東に鴨川があり、四神相応の地につくられたといえます。 ですが、江戸の町は四神相応の地につくられたとはいえないです。 江戸の北に富士山・南に江戸湊・東に平川・西に東海道があるので四神相応の地だというのですが、富士山は江戸の北ではなく西南西ですw。 東京都庁展望台より富士山を望む。富士山は東京の西南西にあり、富士山の後ろに夕焼け雲が広がっています。江戸の町は四神相応の地に作られたのではなく、富士山を北斗七星、筑波山をカシオペア座に見立て、北斗七星とカシオペア座の中心にある北極星に藻して作られた町だと私は考えています。 江戸城の堀は「のの字」を描くように作られていますが、これは夜空の回転を意味していると思います。 回転方向が逆だといわれるかもですが、天空に星がはりついているとみなし、天空の上から星の回転を眺めれば、「のの字」、すなわち右回転に見えるはずです。 詳しくはこちらの記事をお読みください。↓ 富士山 夕景色と朝景色 『関東に北極星・カシオペア座・北斗七星が存在していた?』 まあ、それはともかく、江戸城の虎ノ門は江戸城の西にあったということなので、虎ノ門という名前が西の守護神・白虎にちなんでつけられたとは考えられます。 ④四天王寺の虎ノ門は毘沙門天にちなむ?ところが! 四天王寺の虎ノ門は四天王寺境内の西ではなく、東にある聖霊院の門です。 さらに聖霊院の西の門は猫の門であり、虎ノ門は聖霊院の南の門なのです。 江戸城の虎ノ門はともかく、四天王寺の虎ノ門は四神の白虎にちなむとはいいがたいです・・・。 四天王寺は聖徳太子が創建した寺ですが、聖徳太子ゆかりの寺として朝護孫子寺があります。 587年、排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがありました。 聖徳太子も蘇我氏側に参戦していました。 結果は崇仏派が勝利したのですが、崇仏派が勝利することができたのは、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻、毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、そのご加護を受けたためであるとして、594年に朝護孫子寺は創建されたと伝わります。
587年、排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがあった587年は未年です。 十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥ですね。 すると、寅年は583年となります。
聖徳太子が生まれたのは574年なので、聖徳太子が13歳のときに毘沙門天があらわれ、17歳のときに排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがおきて、これに勝利したということになりますね。
寅の刻とは午前3時から午前5時くらいに相当します。
23時~1時 | 1時~3時 | 3時~5時 | 5時~7時 | 7時~9時 | 9時~11時 | 11時~13時 | 13時~15時 | 15時~17時 | 17時~19時 | 19時~21時 | 21時~23時 | 子 | 丑 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 |
また、虎は毘沙門天の使いともされています。
四天王寺の虎ノ門は毘沙門天の神使である虎にちなむと考えたほうがいいかもしれません。
ただし、毘沙門天は四天王の一であり、北方守護の神とされており、境内の東、聖霊院の南に虎ノ門があるのは矛盾していますがw。
朝護孫子寺 張り子の虎⑤四天王寺の眠り猫は日想観を修している?春分・秋分の日には四天王寺の石門ごしに夕日が望めるということで、日想観の行事が行われています。 日想観とは西に沈む太陽を見て、西方浄土に思いをよせる修業だといえるかもしれません。 特に四天王寺から夕日を望んで日想観を行う習慣が生じました。 法然や藤原家隆なども四天王寺の近くに庵を結んで日想観を行ったようです。 どなたの説なのか存じ上げませんが、四天王寺の眠り猫は夕日を拝んでいる(日想観を修している)とする説があります。 猫の門は石門から中心伽藍を挟んで、ほぼ真東に位置しています。 中心伽藍には五重塔・金堂がありますが、猫の門の正面からはずれているので、春分・秋分の日にはここから下の写真のような感じで夕陽が見えるのではないでしょうか? 四天王寺五重塔と金堂(合成)四天王寺の眠り猫は日想観を修しているという説、なるほどと思います。 ⑥猫の門は聖徳太子の怨霊を封じ込める門?私は猫の門が開かずの門だということが気になります。 梅原猛さんは法隆寺の中門の真ん中に柱があるのは、聖徳太子の怨霊を封じ込めるための呪術的仕掛けであると説かれました。 それと同時に開かずの門である猫の門は聖徳太子の怨霊を封じ込めるための仕掛けなのかも? ↑ 法隆寺 中門 門が四間で中央に柱がありますが、通常の門は奇数間のため中央に柱がくることはありません。 ↑ 喜光寺の門。三間で中央に柱はありません。聖霊院の奥院は法隆寺夢殿を思わせる八角堂だし。 法隆寺 夢殿そして虎=聖徳太子の怨霊であり、凶暴な虎をおとなしい猫に転じ、さらに日想観を行わせて西方浄土へ向かわせることで聖徳太子の怨霊を封じようとしたのか? ⑦牢屋のような厩に閉じ込められた聖徳太子像さらに気になるのは聖霊院内の奥殿の東に守屋祠があることです。 聖徳太子は崇仏派蘇我氏vs廃仏派物部氏の戦いで蘇我氏側で参戦しました。 戦いは蘇我氏側が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を用いてたてたのが四天王寺なのです。 上の写真は2011年に撮影したもので、記憶があいまいなんですが、柳の下に見えている赤い瑞垣が守屋祠だと思います。 守屋祠をの横側が写っているんだと思います。 そして向かって左手に厩がありますね。 厩の中には馬をひく聖徳太子像が置かれていますが、まるで聖徳太子は牢屋にとじこめられているように見えるではありませんか。 蘇我氏との闘いに敗れて戦死した物部守屋は死後怨霊になったことでしょう。 そして梅原猛さんは聖徳太子は怨霊であると説かれました。 聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって死んでしまったので、聖徳太子は怨霊になったというのです。 聖徳太子の怨霊を牢屋のような厩に閉じ込め、聖徳太子の怨霊に物部守屋の怨霊を見張らせている? さらに開かずの門で守屋と聖徳太子の怨霊を封じ込めている? 猫は聖徳太子、猫が見張っている鼠とは物部守屋? 眠り猫に日想観を行わせて守屋と聖徳太子の怨霊を成仏させようとしている? 四天王寺五重塔とハルカス
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大阪市鶴見区 鶴見緑地 2019年6月9日 撮影
①アポロンに恋してマリーゴールドになったクリスティ
マリーゴールドの伝説を探してみると、ネットにこういうのがありました。たぶんギリシャ神話をベースにしたものだと思います。
水の神クリスティは太陽神アポロンが好きでしたが、アポロンには王女レウトコエという恋人がいました。 嫉妬したクリスティは王女レウトコエの父王に「レウトコエ、アポロンと付き合ってるわよ」と告げ口しました。 王はレウトコエがアポロンとつきあっていることをしらず、彼女の結婚相手を探していました。 そのため王は怒ってしまい、レウトコエを生き埋めにしました。 クリスティは自分のしたことでレウトコエが殺されてしまったことを悔い、地面に座ったままアポロンを見つめていました。 9日後、クリスティはマリーゴールドの花になってしまいました。
②アポロンに恋してヒマワリになったクリュティエ ところが、ネットには同様の話で、クリュティエという水の精がヒマワリになったという話もありました。 クリュティエとクリスティはたぶん言語のちがいによるもので、同一神だと思います。 以前の記事、 佐用町 ひまわり畑 『ひまわりは太陽にそっぽを向く花だった?』 にも同様の神話を書いたのですが、 もう少し話の詳細がわかったので、記しておきます。 水の精クリュティエと太陽神アポロンはしばらくつきあっていましたが、アポロンはすぐに飽きてしまい、別の美女を求めて空を駆けていってしまいました。 アポロンはペルシャのオルカモス王と絶世の美女エウリュノメ妃との間に生まれたレウコトエが好きになりました。 早くレウコトエに会いたいと日の出の時間より早く東の空に昇ってしまったり、レウコトエに見とれて西の空に沈むのを忘れたり。 レウトコエの姿が見つからないと日蝕をおこしたりする有様w。
一日の仕事をおえたアポロンは、西のはての空の下の牧場に、太陽神馬を放ちました。 こうして夜となり、馬たちはこの牧場で一日の疲れを癒すのです。
そしてアポロンはこの夜の間に、レウトコエの母親に化けて糸つむぎをするレウコトエの部屋に忍び込みました。 アポロンは男神の姿に戻ってレウトコエに求愛し、二人は結ばれました。
これを知ったクリュティエは嫉妬し、ペルシャ王オルカモスに「二人が密会している」と言いつけました。 オルカモスは、自分が定めた男以外の者と契るなど、けしからん! と怒り、レウトコエの頭から下を土に埋めてしまいました。
アポロンはレウトコエを助け出そうとしましたが、レウコトエは土の重みで衰弱していきました。 アポロンがレウコトエに神酒ネクタルを注ぐと、レウトコエの体は乳香の木に変わってしまいました。
アポロンは、クリュティエをますます嫌い、クリュティエから離れていってしまいました。 クリュティエは9日間、地面に立ちつくしました。 するとクリュティエの体は土に吸われ、ヒマワリの花に変わってしまいました。
花がマリーゴールドかヒマワリかという違いはありますが、ふたつの神話はほとんど同じですね。 佐用町 ひまわり③クリュティエはキンセンカに姿を変えた?佐用町 ひまわり畑 『ひまわりは太陽にそっぽを向く花だった?』 ↑ こちらの記事にも書いたのですが、本来、ギリシャ神話にひまわりってありえないです。 ひまわりの原産地は北アメリカ大陸西部で、インディアンが食用にしていたとされています。 1510年にスペイン人がひまわりの種を持ち帰り、17世紀ごろフランスやロシアに伝わったそうです。 古代ギリシャにひまわりがあったとは思えないです。 古代ローマの詩人・オウィディウスの『変身物語』では、クリュティエはヘリオトロープに変身したと記されているそうです。。 ヘリオトロープは紫色の花で、heliostropeとはギリシャ語で「太陽に向かう(heliosが太陽、陽)+(tropeが向く)」という意味なのだとか。 でもこれもおかしいんですよね~。 ヘリオトロープはペルー原産で、1757年にフランスの園芸家がパリに種を送ってから、世界各国で栽培されるようになったとされているからですw。 マリーゴールドはどうでしょうか? マリーゴールドはメキシコ原産ということです。 メキシコは北アメリカにある国です。 いつごろヨーロッパに伝わったのかはわかりませんでしたが、1492年のコロンブスアメリカ大陸到達以降だと思われますので、 ギリシャ神話にマリーゴールドもありえない、といえそうです。 別名をカレンデュラ、ポットマリーゴールドというキンセンカ(キク科)は原産地が地中海沿岸です。 クリュティエが姿を変えたのはキンセンカではないでしょうか。 のちにヒマワリやマリーゴールドなどがヨーロッパに伝わり、栽培されるようになって、本来キンセンカであった物語がヒマワリやマリーゴールドに置き換えられたのではないかと思えます。 鶴見緑地 大池④キンセンカは太陽の花?
さて、なぜ太陽神に恋したクリュティエはキンセンカ(?)に姿を変えたという物語が作られたのでしょうか。 それはキンセンカの黄色い色が太陽を思わせるからではないでしょうか。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Calendula_officinalis1.jpg日本では太陽は赤で描かれることが多いですが、本来太陽は黄色の天体で、外国では黄色で描かれることが多いとのことです。 またキトラ古墳の壁画では、太陽は金箔、月は銀箔が用いられています。 金色=黄色と考えることもできますね。 おそらく古代の日本人は太陽は赤ではなく黄色と言う認識があったのでしょう。 鶴見緑地 命の塔⑤菊の御紋は太陽を表している?するとここで菊の御紋が気になってきますね! キンセンカと菊は色や形がとてもよく似ているのです。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Imperial_Seal_of_Japan.svg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Imperial_Seal_of_Japan.svg よりお借りしました。 User:Philip Nilsson [Public domain]天皇家は太陽神・天照大神の子孫とされます。 (それなのになぜ天皇という北極星を意味する称号を用いているのか不思議ですが) 十六八重表菊は皇室の紋とされていますが、なぜ菊なのかというと、菊が太陽を表すものだからではないでしょうか? 城南宮 菊
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