京都府長岡京市 乙訓寺
2010年4月下旬 撮影
①乙訓寺は牡丹の寺ではなく松並木の寺だった。乙訓寺の牡丹は昭和15年ごろに奈良県桜井市の長谷寺から献木されたものだそうです。
牡丹寺としての歴史はまだそんなに長くはないんですね。
牡丹の寺として有名になる前は、表門から本堂にかけて松の並木が続いていたそうです。
②松は聖徳太子のシンボルツリー?松の並木といえば、私は法隆寺の参道を思い出します。
入口から南大門まで100mほど、参道の両脇に緑の松並木が続いているのです。
(なんと、しゃしゃしゃしゃしんがない~!)
法隆寺には参道のほかにも、境内のいたるところ松や檜が植えられています。
落葉樹はあまりありません。
何本か桜と楓の木がありますが、まだ若い木で、最近になって植えられたもののように思われます。
松や檜の1年中青々とした葉は、おそらく永遠の命とか不老不死を象徴するものとして法隆寺に植えられているのだと思います。
法隆寺は聖徳太子が創建したと伝わりますが、乙訓寺もまた聖徳太子が創建したと伝わっています。
松は聖徳太子のシンボルツリーなのかも?
③広隆寺の弥勒菩薩は「待つ」の語呂合わせで赤松で作られた?聖徳太子が秦河勝に授けたという広隆寺の弥勒菩薩像は赤松を刻んで作られています。
広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Maitreya_Koryuji.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Maitreya_Koryuji.JPG よりお借りしました。
日本語: 小川晴暘 上野直昭English: OGAWA SEIYOU and UENO NAOAKI [Public domain]
弥勒菩薩は56億7000万年後に復活するとされています。
未来に復活するといういことは、弥勒菩薩は永遠の命を持ったみほとけであるといえるかもしれません。
また、松は『待つ』の掛詞になります。
弥勒菩薩は56億7000万年もの長い間、待ち続けているみほとけであるともいえるのではないでしょうか。
赤松で刻まれた仏像は大変めずらしく、赤松で刻まれた仏像は日本では広隆寺の弥勒菩薩像だけだそうです。
そもそも松は松脂が出てたいへん彫刻しにくいということです。
そんな赤松わざわざを使って弥勒菩薩像がつくられたのは、松が永遠の命を象徴するものであり、またその音が「待つ」に通じるからなのかもしれませんね。
④言い伝えを信じ、しきたりを重んじていた昭和15年ごろの日本人奈良の白毫寺には萩が植えられています。
白毫寺は奈良時代に志貴皇子の邸宅が有った場所であり、笠金村が詠んだ志貴皇子挽歌にちなんで萩が植えられているものと考えられます。
笠金村が詠んだ志貴皇子挽歌とは次のような歌です。
高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに

白毫寺乙訓寺の牡丹もまた、百毫寺の萩のように、何か意味があって長谷寺から献木されたのではないでしょうか。
長谷寺が乙訓寺に牡丹を献木したのは昭和15年ごろです。
このころの日本人は今の日本人よりも、伝説や言い伝えを信じ、またしきたりを重んじる人々が多かったのではないかと思います。
昭和10年ごろ生まれた親戚の叔母さんは、私が子供のころ、「夜笛を吹くと蛇がくる」とか「新しい靴は夜おろしてはいけない」「夜爪を切ると親の死に目にあえない」「死んだ猫をかわいそうだと思ったら、魂を猫につれていかれる」などのような迷信を、真顔でよく言っていましたw。
このような時代に、何の意味もなく長谷寺から乙訓寺に牡丹の献木をしたりするかなあ?

白毫寺
⑤牡丹は猪の隠語猪鍋のことを牡丹鍋といいますね。
猪鍋は猪の肉を牡丹の花のように並べるところから、牡丹鍋と呼ばれるようになったともいわれています。
肉食を禁じる仏教の影響を受け、日本では長い間、肉食が禁止されていました。
しかし、こっそりと肉食は行われ、ごまかすために、動物の肉に植物の名前をつけたといわれます。
つまり、牡丹鍋というのは隠語なんですね~。
猪を牡丹というほか、鹿肉は紅葉、馬肉は桜、鶏肉は柏といわれました。
⑥神使は怨霊のシンボルだった?
摩利支尊天(建仁寺 塔頭)狛猪猪は摩利支天の、鹿は春日明神の神使いとされます。
また、兎[住吉大社)、猿(日吉大社)、鶏(伊勢神宮)、蛇(大神神社)、牛(天満宮)など、多くの動物は神使として信仰されてきました。
そして、鹿には次のような伝説があります。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢を見た」と言った。
雌鹿は「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて全身に塩が振られているのです」と言った。
翌日、雄鹿は漁師に打たれて死んだ。
(日本書紀/トガノの鹿)

昔、謀反の罪で死んだ人は死体に塩を振られることがあり、鹿とは謀反人を比喩的に表現したものではないかとする説があります。
謀反の罪で死んだ人は死後、怨霊となったことでしょう。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、昔の人々は疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えていたのです。
そして陰陽道では荒ぶる神は十分に祀ればご利益を与えてくださる神に転じると考えました。
春日明神の神使・鹿とは、怨霊となった人の霊が慰霊されて神になった、その神の使いなんでしょうね。
とすれば猪もまたもともとは怨霊であった人が、慰霊されて神になった、その神の使いなのではないでしょうか。
そして牡丹は猪肉をあらわすのみならず、神使である猪の隠語でもあったのではないでしょうか?
⑦早良親王、怨霊になる。乙訓寺は長岡京跡からほど近い場所にあります。
長岡京は784年、桓武天皇によって平城京から遷された都です。
平城京から長岡京に遷都した理由は、平城京の仏教勢力から逃れるためであると、小学校のとき歴史の授業で習いました。
しかし近年では怨霊にあふれた平城京から逃れるためであるとする説が唱えられて、支持もされています。
ところがせっかく怨霊から逃れて長岡京を建都したにもかかわらず、遷都まもなく長岡京は怨霊にけがされることになってしまうのです。
785年、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件がおきました。
この事件に桓武天皇の同母弟・早良親王が連座したとして皇太子を廃され、ここ乙訓寺に幽閉されたのです。
早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行。
淡路へ配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死しました。
後、桓武天皇の第1皇子・安殿親王(後の平城天皇)が発病したり、桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死など不幸な事件が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであると考えられました。
長岡京、そして乙訓寺には早良親王の無念がしみついているのですね~。
早良天皇の怨霊に悩まされた桓武天皇に和気清麻呂が進言をしました。
「怨霊で穢れた長岡京を捨て、平安京に遷都しましょう」と。
794年、桓武天皇は建都後わずか10年しかたっていない長岡京を捨て、平安京に遷都しました。
早良親王の神使は猪であり、牡丹は早良親王=猪をあらわすものなのではないでしょうか。
そして乙訓寺に牡丹が植えられるようになったのは、早良親王を偲んでのことなのではないのかなあと思ったりします。
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