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山田寺跡 白藤 赤い楓 『興福寺はなぜ山田寺の仏像を欲したのか?』 

 

奈良県桜井市 山田寺跡
撮影 10年以上前!


山田寺 白藤

①蘇我倉山田石川麻呂

蘇我倉山田石川麻呂(? - 649年)は蘇我馬子の孫で蘇我倉麻呂の子として生まれました。
蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿は従妹です。

      蘇我蝦夷ー蘇我入鹿
蘇我馬子<
      蘇我倉麻呂ー蘇我倉山田石川麻呂
            蘇我日向(倉山田石川麻呂の異母弟)


同族ですが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏本宗家の蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子と対立していたようです。

蘇我倉山田石川麻呂、乙巳の変のメンバーに。

626年、蘇我馬子が死亡し、子の蝦夷が大臣となりました。
蘇我蝦夷・入鹿親子は権力を増大させ、豪族達は朝廷ではなく蘇我家に出仕する有様でした。

642年、蘇我蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓築造のために公民を動員しています。
聖徳太子の一族の領民も動員され、聖徳太子の娘の大娘姫王が抗議していますね。

643年、蘇我蝦夷は朝廷の許可をえず蘇我入鹿を大臣とし、次男を物部の大臣としました。

こうした蘇我氏の専横に対し、中臣鎌足&中大兄皇子らは蘇我入鹿殺害を計画します。
この蘇我入鹿殺害計画のメンバーに、蘇我倉山田石川麻呂もはいっていました。
蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の后になるなど、姻戚関係も結んでいます。

645年、蘇我入鹿は中大兄皇子に斬られて没し、その翌日、蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺しました。
こうして蘇我本宗家は滅びました。

皇極天皇は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子が皇太子となりました。
皇太子となった中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任命しました。

多武峰縁起絵巻 複製(談山神社) 
多武峰縁起絵巻 複製(談山神社)中大兄皇子に首を斬られた蘇我入鹿。入鹿の首は皇極天皇の御簾にくらいついたと伝えられます。

③蘇我倉山田石川麻呂、冤罪で自害。

右大臣の地位を手に入れた蘇我倉山田石川麻呂。
しかし彼の栄華は異母弟の蘇我日向によって打ち壊されてしまいます。

649年、蘇我日向は、「蘇我倉山田石川麻呂は謀反を企てている」と中大兄皇子に密告しました。
蘇我倉山田石川麻呂のもとへ孝徳天皇の軍がさし向けられ、蘇我倉山田石川麻呂は一族とともに山田寺仏殿前で自害してしまったのです。

この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされます。

④蘇我倉山田石川麻呂の死後も続けられた山田寺建立。

山田寺は641年に整地工事が始まり、643年には金堂の建立が始まっています。
648年には僧が住むようになっていたようです。

この翌年の649年に蘇我倉山田石川麻呂が自害してしまったため、山田寺造営は中断してしまいましたが
663年(天智天皇2年)に塔建立が始まり、676年8天武天皇5年)に塔が完成したとみられます。
678年(天武天皇7年)丈六仏像鋳造が始まり、685年(天武天皇14年)丈六仏像が開眼され、天武天皇が山田寺に行幸しています。

※丈六/仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分。

山田寺 赤い楓

天智天皇と持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れた?

②にも記したように、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘は中大兄皇子〈天智天皇)の妻となり、健皇子・大田皇女・ 鸕野皇女を産んでいます。
鸕野皇女は天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御後、持統天皇として即位しています。

蘇我倉山田石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、持統天皇・天武天皇の力添えがあったのではないかと考えられています。

また天智天皇(中大兄皇子)やその娘の持統天皇が、蘇我倉山田石川麻呂の怨霊を恐れたということもあって、山田寺の建立は続けられたのではないかと思ったりします。

蘇我倉山田石川麻呂が自殺においやられたのは中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀なのでしたね。
また、『末代まで祟ってやる』などというように、怨霊は憎い本人だけでなく、その子孫にも祟ると考えられていたようです。

奈良時代には長屋王が謀反を企てていると讒言され、厳しい取り調べを受けて自殺に追い込まれていますね。
長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀だと考えられています。
その後、天然痘が流行り、藤原四兄弟は相次いで死亡してしまったのですが、これは長屋王の怨霊のしわざだと噂されました。

 飛鳥時代にもこれと同じような怨霊信仰があったのではないかと思うのです。

つまり、山田寺の丈六仏像は蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの象ではないかと思うわけです。

⑥興福寺の僧兵、山田寺講堂本尊を強奪!

『玉葉』(九条兼実の日記)に次のような内容が記されています。

「1187年、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊とした」と。
この山田寺講堂本尊の薬師三尊像の中尊の薬師如来は685年(天武天皇14年)に開眼された丈六仏像だと考えられています。

1180年、興福寺は平重衡の兵火によって炎上しています。
このとき、興福寺・東金堂の本尊も焼失してしまったのでしょうか。

興福寺 夕景 
興福寺

興福寺は藤原氏の氏寺ですが、藤原氏の祖は中臣鎌足です。
中臣鎌足は死の間際に天智天皇(中大兄皇子)より藤原姓を賜ったとされます。
この藤原鎌足(中臣鎌足)の次男が藤原不比等ですが、藤原不比等は天智天皇の後胤とする説があります。

藤原鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、この時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっており、これが藤原不比等であったと、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに記されています。

すると、藤原氏にとって蘇我倉山田石川麻呂は先祖(天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘の間に生まれたのが持統天皇なので)ということになります。

          鏡王女
           |――藤原不比等(興福寺縁起などによる。一般に藤原不比等は中臣鎌足の次男とされる。)
          天智天皇
           |――持統天皇
蘇我倉山田石川麻呂―遠智娘


興福寺は山田寺に対して、次のような理由を申し立てて仏像を強奪したのではないでしょうか。
a.藤原氏は天智天皇の後胤である。
b蘇我倉山田石川麻呂の死後,山田寺に塔が建立されたのは天智天皇の資金援助を得たためである。(④を参照)

また陰陽道では荒ぶる怨霊(荒魂)は十分に慰霊するとご利益を与えてくださる和魂に転じるという考え方がありました。
さらに、明治まで神仏は習合して信仰されていました。

藤原氏の祖・天智天皇にとって蘇我倉山田石川麻呂は恐ろしい怨霊であるが、十分に慰霊・供養すれば和魂に転じる。
そういうわけで蘇我倉山田石川麻呂の怨霊封じ込めの像である山田寺の丈六仏像を興福寺は欲したのかも?

1411年、興福寺東金堂で火災が発生し、丈六仏像も焼けてしまったようです。
その際、頭部が落ちて焼け残り、その後新しく造られた本尊像の台座内にしまいこまれたようです。
昭和12年(1937年)に発見され、現在は国宝館に安置されています。

Buddha Head Yamadadera

山田寺仏頭(
興福寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Buddha_Head_Yamadadera.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Buddha_Head_Yamadadera.JPG よりお借りしました。
匿名Unknown author [Public domain]





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[2019/05/05 00:52] 奈良県 | TB(0) | CM(0)